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栞と渚

きっと、また会える

作者: takenoko
掲載日:2026/04/18

「ねえ、天国ってあると思う?」

 唐突だった。

 二人でソファに並んで、特に何をするでもなくだらだらしていた午後だった。カーテンの隙間から日差しが入ってきていて、室内はぬるく、眠くなるような温度だった。朝霧栞はさっきまで本を読んでいたはずで、冬野渚は横目でそれを確認していた。どんな内容なのか、それは面白いのか、そういったことを特に気にせず、自分もぼんやりと天井を眺めていた。

 それがいきなりそんなことを言うから、渚は飲みかけのお茶を持ったまま、少し固まった。

「……突然だね」

「突然だけど、どう思う?」

 栞は、本を持ったまま、渚の方を向いていた。冗談を言っている顔ではなかった。本気で聞いている顔だった。

「ない」

「即答だ」

「だって、あると思う根拠がない」

 栞は本を閉じて、膝の上に置き、天井を見た。渚が今まで見ていた天井と、同じ天井だった。

「私はあると思う」

「根拠は?」

「ない」

 渚は少し呆れた。

「根拠ないのにあると思うの?」

「うん。ないと証明もできないし」

「……それはそうだけど」

 反論しようとして、できなかった。論理としては正しいのだ。ないと言い切るためには、ないと証明しなければならない。でもそれは誰にもできない。


「栞って、なんで急に天国の話したの」

 少し間があってから、渚は聞いた。栞が急にそんなことを考え始めた理由が、気になったから。

「なんとなく考えてたから」

「なんとなく、ね」

「うん。さっきスマホ見てたら、昔の写真が出てきて」

「写真?」

「昔飼ってた猫の」

 渚は、少し黙った。

 栞が猫を飼っていたことは知っていた。もう随分前に死んだということも。白くてふわふわした子だったと、以前写真を見せてもらったことがある。

「何かあった?」

「ないけど。ただ、見てたら思い出しちゃって。元気かな、って」

「天国にいると思う? その子が」

「いると思う」

 栞はあっさり言った。少しも迷わなかった。

「ぐーすか寝てると思う。あの子、寝るの大好きだったから。日当たりのいいところ見つけるのが得意で、いつもそこで丸くなってた」

「……根拠のある天国だ」

「でしょ」

 栞は少し笑った。

「あの子が天国にいるなら、きっといい場所だと思う。日当たりよくて、ご飯が美味しくて、好きなだけ眠れる」

「……猫にとって最高だね」

「そう。だから天国、あると思う」

「渚はさ、天国ないと思うなら、死んだらどうなると思ってるの」

 栞が、また聞いた。今度は少し、真剣な顔をしていた。

「無になる」

「・・・無」

「意識がなくなるだけ。それだけ」

 栞はしばらく考えた。膝の上で本のページをペラペラとめくり、それから止めた。

「それって、怖くない?」

「怖いかどうか考えても変わらないから、あまり考えない」

「渚らしい」

「そう?」

「うん。でも私は怖い」

 栞は言った。

「……無になるの、嫌だな。いなくなっちゃう感じがして。今ここにいるのに、ある日ぷつっと、全部なくなるなんて」

「まあ、いなくなるんだけど」

「そこは同意しなくていいよ」

「ごめん」

 渚は少し反省した。事実を言っただけだったけれど、今それを言う場面ではなかった。栞の表情が、一瞬だけ曇ったのを見た。

「……怖いよね、そう思うのは」

「うん」

 栞は言った。

「渚は怖くないの、本当に」

「考えても変わらないから」

「そうやってすぐ切り替えられるの、すごいと思う。私にはできない」

「栞は考えすぎだよ」

「そうかも」

 栞は苦笑した。そして、目を閉じる。

「飼い猫のこととか、いなくなった人のこととか、どこに行ったんだろうって、ずっと考えちゃう」

 渚は何も言わなかった。言えなかったのではなくて、言わなくていいと思った。栞が「ずっと考えちゃう」と言うとき、答えを求めているわけではないことを、知っていたから。

 しばらく、テレビの音だけが流れた。

 二人とも見ていないのに、なんとなくつけたままにしていた。バラエティ番組らしい笑い声が、遠いところから聞こえてくるみたいだった。日差しが少し傾いて、ソファの上の光の形が変わった。栞が膝を抱えて、少し小さくなった。

「ねえ」と栞が言った。

「うん」

「天国でまた会えるって考えたほうが、寂しくなくていいでしょ」

 渚は、お茶を一口飲んだ。

 温かかった。さっきより少し、冷めていたけれど。

「……会えるの?天国で」

「会えると思う」

「根拠は」

「ない」

 渚はしばらく、その言葉を転がした。天国がある根拠はない。死後に意識が続く根拠もない。再会できる根拠なんて、もっとない。

 でも。

 飼っていた猫が、日当たりのいいところで丸くなっている。そのイメージを、栞はずっと持ち続けている。それが嘘だとも、間違いだとも、言えなかった。言えないし、言いたくもなかった。

「……まあ、そう考えた方が、寂しくないか」

「でしょ」

「そういう考え方もあるか、と思っただけだけど」

「知ってる」栞は笑った。「でも否定しなかった」

「否定するほどのことでもないから」

「それが、渚の優しさだよね」

「優しさじゃないけど」

「優しさだよ」

 栞は断言した。渚はこれ以上反論しなかった。こういうとき、栞は引かない。

「渚が死んだら、天国で待っててよ」

 またも唐突だった。

「なんで私が先に死ぬ前提なの」

「どっちが先かわからないし」

「まあ、そうだけど」

「どっちが先でも、待っててね」

 渚は少し考えた。天国がある根拠はやっぱりない。でも、ない根拠もない。そして栞がそこにいると思った方が、たしかに少し、寂しくない。

 猫が丸くなっていて、栞が隣にいる場所。

 悪くない、と思った。

「……まあ、待ってる」

「やった」

「天国があれば、の話だけど」

「あるよ」

「根拠は」

「渚が待っててくれるから」

 渚は何も言えなかった。

 言い返せなかったのではなくて、言い返す必要がなかった。なんとなく、それでいい気がした。根拠のない話が、根拠のない話のまま、ちゃんと温かかった。

 夕方になって、栞は帰った。

 玄関で靴を履きながら、「また来るね」と栞は言った。渚は「うん」と言った。それだけだった。それだけで、十分だった。

 ドアが閉まって、足音が廊下から遠ざかって、静かになった。

 渚はソファに戻って、一人で座った。お茶の残りを飲んだ。すっかりぬるくなっていた。さっきより、もっと冷めていた。

「・・・天国、か。」

 あるかどうかは、やっぱりわからない。でも今日よりは少し、あってもいいかなという気持ちになっていた。

 渚が待っててくれるから、と言った栞の顔を思い出した。あの言い方はずるい、と思った。  

 でも、嫌いじゃなかった。

 むしろ少し、好きだった。

 テレビがまだついていた。笑い声が流れていた。渚はリモコンを手に取って、少し迷って、そのままにした。

 静かすぎるより、少しくらい音があった方がいいかもれない。

 朝霧栞がいなくなった部屋で、冬野渚は、もう少しだけそこにいた。


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