きっと、また会える
「ねえ、天国ってあると思う?」
唐突だった。
二人でソファに並んで、特に何をするでもなくだらだらしていた午後だった。カーテンの隙間から日差しが入ってきていて、室内はぬるく、眠くなるような温度だった。朝霧栞はさっきまで本を読んでいたはずで、冬野渚は横目でそれを確認していた。どんな内容なのか、それは面白いのか、そういったことを特に気にせず、自分もぼんやりと天井を眺めていた。
それがいきなりそんなことを言うから、渚は飲みかけのお茶を持ったまま、少し固まった。
「……突然だね」
「突然だけど、どう思う?」
栞は、本を持ったまま、渚の方を向いていた。冗談を言っている顔ではなかった。本気で聞いている顔だった。
「ない」
「即答だ」
「だって、あると思う根拠がない」
栞は本を閉じて、膝の上に置き、天井を見た。渚が今まで見ていた天井と、同じ天井だった。
「私はあると思う」
「根拠は?」
「ない」
渚は少し呆れた。
「根拠ないのにあると思うの?」
「うん。ないと証明もできないし」
「……それはそうだけど」
反論しようとして、できなかった。論理としては正しいのだ。ないと言い切るためには、ないと証明しなければならない。でもそれは誰にもできない。
「栞って、なんで急に天国の話したの」
少し間があってから、渚は聞いた。栞が急にそんなことを考え始めた理由が、気になったから。
「なんとなく考えてたから」
「なんとなく、ね」
「うん。さっきスマホ見てたら、昔の写真が出てきて」
「写真?」
「昔飼ってた猫の」
渚は、少し黙った。
栞が猫を飼っていたことは知っていた。もう随分前に死んだということも。白くてふわふわした子だったと、以前写真を見せてもらったことがある。
「何かあった?」
「ないけど。ただ、見てたら思い出しちゃって。元気かな、って」
「天国にいると思う? その子が」
「いると思う」
栞はあっさり言った。少しも迷わなかった。
「ぐーすか寝てると思う。あの子、寝るの大好きだったから。日当たりのいいところ見つけるのが得意で、いつもそこで丸くなってた」
「……根拠のある天国だ」
「でしょ」
栞は少し笑った。
「あの子が天国にいるなら、きっといい場所だと思う。日当たりよくて、ご飯が美味しくて、好きなだけ眠れる」
「……猫にとって最高だね」
「そう。だから天国、あると思う」
「渚はさ、天国ないと思うなら、死んだらどうなると思ってるの」
栞が、また聞いた。今度は少し、真剣な顔をしていた。
「無になる」
「・・・無」
「意識がなくなるだけ。それだけ」
栞はしばらく考えた。膝の上で本のページをペラペラとめくり、それから止めた。
「それって、怖くない?」
「怖いかどうか考えても変わらないから、あまり考えない」
「渚らしい」
「そう?」
「うん。でも私は怖い」
栞は言った。
「……無になるの、嫌だな。いなくなっちゃう感じがして。今ここにいるのに、ある日ぷつっと、全部なくなるなんて」
「まあ、いなくなるんだけど」
「そこは同意しなくていいよ」
「ごめん」
渚は少し反省した。事実を言っただけだったけれど、今それを言う場面ではなかった。栞の表情が、一瞬だけ曇ったのを見た。
「……怖いよね、そう思うのは」
「うん」
栞は言った。
「渚は怖くないの、本当に」
「考えても変わらないから」
「そうやってすぐ切り替えられるの、すごいと思う。私にはできない」
「栞は考えすぎだよ」
「そうかも」
栞は苦笑した。そして、目を閉じる。
「飼い猫のこととか、いなくなった人のこととか、どこに行ったんだろうって、ずっと考えちゃう」
渚は何も言わなかった。言えなかったのではなくて、言わなくていいと思った。栞が「ずっと考えちゃう」と言うとき、答えを求めているわけではないことを、知っていたから。
しばらく、テレビの音だけが流れた。
二人とも見ていないのに、なんとなくつけたままにしていた。バラエティ番組らしい笑い声が、遠いところから聞こえてくるみたいだった。日差しが少し傾いて、ソファの上の光の形が変わった。栞が膝を抱えて、少し小さくなった。
「ねえ」と栞が言った。
「うん」
「天国でまた会えるって考えたほうが、寂しくなくていいでしょ」
渚は、お茶を一口飲んだ。
温かかった。さっきより少し、冷めていたけれど。
「……会えるの?天国で」
「会えると思う」
「根拠は」
「ない」
渚はしばらく、その言葉を転がした。天国がある根拠はない。死後に意識が続く根拠もない。再会できる根拠なんて、もっとない。
でも。
飼っていた猫が、日当たりのいいところで丸くなっている。そのイメージを、栞はずっと持ち続けている。それが嘘だとも、間違いだとも、言えなかった。言えないし、言いたくもなかった。
「……まあ、そう考えた方が、寂しくないか」
「でしょ」
「そういう考え方もあるか、と思っただけだけど」
「知ってる」栞は笑った。「でも否定しなかった」
「否定するほどのことでもないから」
「それが、渚の優しさだよね」
「優しさじゃないけど」
「優しさだよ」
栞は断言した。渚はこれ以上反論しなかった。こういうとき、栞は引かない。
「渚が死んだら、天国で待っててよ」
またも唐突だった。
「なんで私が先に死ぬ前提なの」
「どっちが先かわからないし」
「まあ、そうだけど」
「どっちが先でも、待っててね」
渚は少し考えた。天国がある根拠はやっぱりない。でも、ない根拠もない。そして栞がそこにいると思った方が、たしかに少し、寂しくない。
猫が丸くなっていて、栞が隣にいる場所。
悪くない、と思った。
「……まあ、待ってる」
「やった」
「天国があれば、の話だけど」
「あるよ」
「根拠は」
「渚が待っててくれるから」
渚は何も言えなかった。
言い返せなかったのではなくて、言い返す必要がなかった。なんとなく、それでいい気がした。根拠のない話が、根拠のない話のまま、ちゃんと温かかった。
夕方になって、栞は帰った。
玄関で靴を履きながら、「また来るね」と栞は言った。渚は「うん」と言った。それだけだった。それだけで、十分だった。
ドアが閉まって、足音が廊下から遠ざかって、静かになった。
渚はソファに戻って、一人で座った。お茶の残りを飲んだ。すっかりぬるくなっていた。さっきより、もっと冷めていた。
「・・・天国、か。」
あるかどうかは、やっぱりわからない。でも今日よりは少し、あってもいいかなという気持ちになっていた。
渚が待っててくれるから、と言った栞の顔を思い出した。あの言い方はずるい、と思った。
でも、嫌いじゃなかった。
むしろ少し、好きだった。
テレビがまだついていた。笑い声が流れていた。渚はリモコンを手に取って、少し迷って、そのままにした。
静かすぎるより、少しくらい音があった方がいいかもれない。
朝霧栞がいなくなった部屋で、冬野渚は、もう少しだけそこにいた。




