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第三章:失う前提の恋

直人の過去を知ったのは、雨でも雷でもない、静かな夜だった。


仕事帰り、いつものカフェ。

窓の外は曇っているだけで、嵐の気配はなかった。


「……少し、話してもいいですか」


彼がそう切り出したとき、胸の奥がざわついた。

今まで一度も、自分から深い話をしようとしたことがなかったから。


「はい」


私が答えると、直人は視線をカップの縁に落とした。


「昔、付き合っていた人がいました」


それだけで、空気が変わった。


「すごく、好きでした。たぶん、今までで一番」


言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。


「でも……うまく守れなかった」


守れなかった。

その表現が、胸に刺さった。


「仕事が忙しいとか、疲れてるとか、

あとで埋め合わせすればいいとか……

そうやって、後回しにして」


彼は苦笑した。


「気づいたら、彼女はいなくなってました。

理由も、責める言葉も残さず」


「……別れただけ、ですか?」


直人は首を横に振った。


「もう、連絡が取れません。

生きているかどうかも、わからない」


それは、死別でも不倫でもない。

でも、心に残るには十分すぎる喪失だった。


「それ以来、誰かを本気で好きになるのが怖くなりました」


私は、何も言えなかった。

慰めの言葉も、正解も見つからなかった。


「美咲さんといると……

その怖さを忘れそうになる」


その言葉が、嬉しくて、同時に怖かった。


「忘れちゃだめなんですか?」


思わず、そう聞いてしまった。


直人は少し考えてから、答えた。


「忘れたら、同じことを繰り返しそうで」


ああ、この人は。

誰かを失った痛みを、まだ抱えたまま生きている。


「私は……」


言いかけて、言葉を飲み込んだ。

“それでも一緒にいたい”と言えば、彼を縛る気がした。


それから、私たちの関係は、少し変わった。


距離は近いのに、踏み込まない。

手が触れそうで、触れない。

好意は確かにあるのに、形にならない。


恋人未満という言葉では、足りなかった。

これは、失うことを前提にした恋だった。


雷のない夜でも、胸はざわついた。

幸せなはずの時間が、いつ終わるかわからないから。


「このままでいいんですか?」


ある日、私は聞いた。


直人は、答えなかった。

その沈黙が、答えだった。


分かっていた。

彼はまだ、過去にいる。


そして私は、

いつか来る別れを知りながら、

それでも彼の隣を選んでいる。


雷雲は、もうすぐそこまで来ていた。

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