第一章:雷が落ちた日
雷は嫌いだ。
子どものころからずっと、理由もなく怖かった。空が割れる音も、地面に響く振動も、心臓を直接掴まれるようで息ができなくなる。
その日も、天気予報は外れた。
夕方の空は急に暗くなり、駅前のアスファルトに大粒の雨が叩きつけられた。私は改札を出たところで立ち止まり、バッグの中を探ってから、傘を忘れたことに気づいた。
最悪。
スマートフォンの画面には、雷注意報。
空の奥で、低く唸る音がした。
「……早く帰らなきゃ」
そう思った瞬間、雷鳴が落ちた。
音というより、衝撃だった。胸の奥が一瞬で冷え、呼吸が止まる。私は思わずその場にしゃがみ込みそうになった。
「大丈夫ですか?」
声がした。
顔を上げると、知らない男性が立っていた。透明なビニール傘を一本、私の方に少し傾けている。
「よかったら、途中まで一緒にどうですか」
一瞬、言葉が出なかった。
知らない人。警戒すべき状況。なのに、不思議と怖くなかった。
「……ありがとうございます」
そう答えた自分に、少し驚いた。
傘の下は、思ったより狭かった。
肩と肩が触れそうで触れない距離。雨音がすべてを包み込み、外の世界が遠くなる。
「雷、苦手ですか?」
「はい。たぶん、一生慣れません」
彼は小さく笑った。
「じゃあ、鳴ったら少し話しましょう。気が紛れます」
その言い方が、やけに自然で。
優しいのに、踏み込みすぎない距離感が心地よかった。
名前も、年齢も、仕事も聞かなかった。
ただ、今日あった小さな出来事や、雨の日に嫌いなこと、好きな飲み物の話をした。それだけなのに、心臓の鼓動がいつもより早かった。
雷が鳴るたび、彼の声が少しだけ大きくなる。
まるで私を守るみたいに。
「ここで大丈夫です」
別れ際、私はそう言った。
本当は、もう少し一緒に歩きたかったくせに。
「また、雨の日に会えたらいいですね」
彼はそう言って、軽く手を振った。
歩き出して数歩。
背中に、強烈な雷鳴が落ちた。
怖いはずなのに――
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
振り返ると、彼はもう人混みに紛れて見えなかった。
なのに、心の中に残った感覚だけは、消えなかった。
これはきっと、ただの出会いじゃない。
理由も根拠もないのに、そう確信していた。
雷のように突然で、
抗う間もなく、心に落ちたもの。
私はその日、自分の心が鳴る音を初めて聞いた。
――それが、すべての始まりだった。




