咲かぬ花、咲かせる知
空気はきゅっと引き締まり、吐いた息が白くほどけていく。
通りの端に積もった氷の結晶が朝日にきらりと光り、
魔導灯はまだ眠気を残したように、ふわりと淡く揺れていた。
ここは、知識を尊び、理を友とする国
――魔導国家アルトリシア。
冬の白霜に包まれることから「白霜の王国」、
そびえ立つ研究塔を指して「知識の尖塔」とも呼ばれる。
そのはじまりは、数人の賢者だった。
世界の理に魅せられた彼のそばに、同じ志を抱く者たちが集まり、
やがてその小さな集いは、国家として形を成し、世界の理の探究を国是とした。
北方に位置するアルトリシアの冬は長く厳しい。
けれど、白銀の大地に陽が差し込む瞬間、
世界が静かに目覚めるようで、この国の人々はその光景を誇りに思っている。
首都ルーメンベルグの中心には、国家の頭脳とも呼ばれる巨大学術機関
――マグノリア魔導学院がそびえる。
歴史は古く、学院は国の誕生とともにあり続けてきた。
今では研究・教育・技術開発を担い、国の柱として揺るぎない存在だ。
学院の者がまとうローブには、
“知識の純白”と“冬を越える生命力”を象徴する花と雪結晶の紋章が刺繍されている。
その色と装飾は、着る者の立場を示す――生徒、研究生、そして教師。
高い教育水準と“知識への敬意”が文化として息づくこの国で、
理術師と呼ばれる魔法使いたちは、
皆どこか誇らしげで、どこか忙しそうだ。
そんな学院の研究棟。
朝の静けさがまだ残る一室で、
ひとりの研究生が、今日もまたノートを広げていた。
ーーー
「……こんなものかな。あとは、シリルの方が終わるのを待たないと」
研究生エリオット・シラーは、机に並んだレポートや資料の山から身を離し、湯を沸かしに立った。
研究室には紙の匂いと乾いたインクの香りが満ち、乱れた紙束が静かに影を落としている。
紅茶を淹れながら、彼は小さく息を吐く。
「何から手を付けようか……」
今回の研究テーマは《純粋魔法》。
存在すら仮説段階であり、全てが手探りの研究だった。
とりあえず、昨日の発表会で得た走り書きと、自分が考えていた実験案をノートにまとめ終えたところだ。
「……まあ、ここまではいいか」
シリルとの口約束を破る気はなかった。
彼女と組めば、研究は何倍も速く進む。それはエリオット自身がよく知っている。
だからこそ、ひとりでできる準備は先に進めておきたかった。
「今年のノルマはもう足りてるし、焦る必要もない」
――ノルマ、それは研究生に課される義務。
研究発表やレポート、教師の補助などで得られる単位の総称だ。
年間十単位以上の取得が求められ、期限内に満たせなければ退学もあり得る。
今は一年の折り返し。
昨年からの繰り越しを含め、エリオットはすでに十一単位を所持していた。
(ひとりで進められる部分の最優先は……素材と機材の準備だな)
「……素材の仕入れは早い方がいいか」
学院周辺で手に入る素材も多いが、純粋魔法の研究に使う素材には、アルトリシア近郊では採れないものも含まれる予定だ。
早めに仕入れの依頼を出しておくに越したことはない。
シリルが戻るのは数カ月後――それならちょうどいい。
ーーー
素材リストを作り始めてしばらく。
扉を叩く軽い音が響く。
「鍵は開いているよ。どうぞ」
「失礼します。今、お時間大丈夫ですか?」
顔をのぞかせたのはフラムだった。
研究生を示す黄色のライン入りローブに、肩まで伸ばしたローズピンクの髪。
その髪を留める小さなピンが、光を受けて揺れた。
「ちょうど区切りがついたところだよ」
ペンを置き、エリオットは彼女に向き直る。
「それで、どうしたの?」
「実験についてアドバイスをいただきたくて……火蝶花の育成実験なんですけど」
火蝶花――赤い蝶を思わせる左右対称の花弁を持つ、小さな砂漠の花。
乾燥すると花弁は紙のように薄く脆くなり、指先で触れればひびが入る。
それを弱火で煮詰めれば、淡い甘さを含んだ香りとともに赤い蒸気が立ち上り、
蒸気を密閉して凝縮すれば、体温維持に使える粉末が得られる。
冬の長いアルトリシアでは重宝される魔法植物だ。
フラムはその育成方法を研究しているようだ。
「同じ条件で育てたのに、どうしても芽を出さない鉢があって。
掘り起こしても腐ってなくて、生きてはいるっぽいんですが……」
エリオットは少し考えて答える。
「……ひょっとして、木製のプランター使った?」
「あ、はい。どっちも備品のプランターで育ててましたけど……」
「なるほど。ひとつ心当たりがあるかもしれない」
エリオットはノートを閉じ、ローブを羽織る。
扉を開ければ、冬の研究棟特有の冷気が頬を撫でた。
廊下の高窓から射す光が、霜の張った硝子に反射して白く輝く。
「……相変わらず冷えるな」
「ですね。でも、この空気、好きです」
フラムは両手をこすりながら、嬉しそうに笑う。
「あ、そうだ。火蝶花の加工のことなんですけど――」
そんな会話を交わしながら、二人は研究棟の奥へと歩みを進めた。
ーーー
雑談を交わしながら歩いていると、渡り廊下の先に別棟の扉が見えてきた。
扉の上には「第2研究棟」と刻まれた真鍮のプレートが輝いている。
フラムの研究室は、その奥の植物素材区画の一角にあった。
扉を開けると、ふわりと火蝶花の甘い匂いが鼻をくすぐる。
壁には乾燥棚が並び、吊るされた草花が微かな風に揺れていた。
薄紅色の花弁、黒褐色の樹皮、大小の植木鉢――
どこか温室めいた、独特の温かさと湿り気を帯びた部屋だ。
「この子達なんですけど……」
フラムは錆色の木製プランターを二つ、そっと机に並べた。
片方には、燃えるような赤い花弁を広げた火蝶花。
もう片方は、土が静かに沈むだけの、寂しいほどの鉢だった。
「ちょっと見せて」
エリオットは身を屈め、プランターの縁や底材を指で確かめる。
数秒後、軽く笑った。
「ああ、やっぱりこれか」
「原因、分かったんですか?」
「うん。見た目はほとんど同じだけど……
育たなかった方のプランターは“黒血樹”、育った方は“紅芯木”だね」
フラムは目を瞬かせた。
「“黒血樹”……ですか?」
「黒血樹は、皮が黒くて心材が血みたいに赤い木だよ。
熱を加えると油を滲ませるんだけど――」
エリオットは指先に小さな火を灯し、プランターの縁に少し近づける。
じわり――と油が滲み、苦味を含んだ樹脂の匂いが立ちのぼる。
「その油には、周囲の生物の成長を阻害する性質がある。
だから除草剤や防腐剤として使われることもあるくらいだ。」
「あ……」
「火蝶花の種は、水を吸うと《蒸気》を噴出させて温度が一瞬上がるだろ?」
「はい」
「その熱で黒血樹の油が滲んだんだ。
で、発芽に必要な芽を即座に弱らせた。多分それが原因だと思う」
フラムはプランターを見つめ、深くうなずいた。
「プランターの素材にまで気が回ってませんでした……。助かりました!」
「たまたま、身に覚えのある問題で良かったよ。去年、俺も同じ現象で悩んだからね」
「先輩も……?」
「学院の備品は、紅芯木と黒血樹が混ざってることがあるんだ。
見た目が似てるし、魔法植物以外は基本的に影響が出ない」
エリオットは肩をすくめながら笑った。
「だから、魔法植物を育てるときだけ注意が必要なんだよ」
フラムは少し安心したように微笑んだ。
「……なるほど。勉強になります」
研究室に、火蝶花の甘い香りがふんわりと漂った。




