第9章 6.忘れられた記憶の始まり
引っ越し作業は、思ったより順調だった。
もちろん、「思ったより」という前置きがつく。
玉座が回転して勝手に玉座自撮りを始めたり、巻物が主張の激しい歌を歌い出したり、擬態スライムがティティの荷物に紛れ込んで“もふもふのマフラー”として認識されたり――いろいろあった。
が、最終的にはグレンの圧とライクの根気、そしてティティの「ですの!」砲によって収まり、倉庫2区画ぶんの荷物を全て箱詰めすることができた。
「ふぅ……本当に終わったんですのね……」
ティティが髪をくくり直しながら息をつく。
「このスライム、帰ったら洗濯できるかな?」
「それもうスライムじゃなくてペットじゃん……」
ルーンがしっぽで荷札を貼っているとき、ふとある疑問が浮かんだ。
「なぁ……この荷物、持ち主の名前ってどれにも書かれてないのな」
「ん? ルグロス様の?」
「いや、それもだけど……ほら、ここ」
ルーンが古びた本の裏表紙を見せる。
そこにはかすれた文字が残っていたが――
“◯◯と対峙した夜。あれが運命の――”
「……“誰と”ってとこが、読めない」
ティティも別の巻物を開く。
そこにも、“光の戦士”や“剣の閃き”といった記述はあるのに、名前がどれも抜け落ちていた。
「ねえ、おにーさま。ここに、あなたの名前があってもおかしくないんじゃありませんの?」
ライクは、しばらく黙ってから答えた。
「……そうだな。少なくとも、“かつて戦った”相手の記録には、何か残ってていいはずだ」
ルグロスが、後ろから静かに言葉を継いだ。
「私も……誰かと戦ったという記憶は、あるのです。
その人物の顔も、声も、剣の重さも、ほんのわずかに手のひらに残っているような感覚だけが……けれど――」
ルグロスは目を伏せた。
「“誰だったか”が、まったく思い出せないのです」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
「もしかして……勇者だけじゃなく、“魔王”の名前も、世界から少しずつ――」
ティティが口にしかけたとき。
――カラン。
何かが床に落ちる音がした。
それは一冊の古い手帳。搬出の際、棚の奥から落ちてきたものだった。
ライクが拾い、そっと開く。
表紙には、文字がひとつだけ書かれていた。
「記録に残らない者たち」
そしてその1ページ目には、こう記されていた。
「我々はすでに、“語られない側”になった。
だが――誰かが覚えている限り、存在は消えない」
「……これ、誰が書いたんでしょうね?」
ミーナの問いに、ライクは小さく答えた。
「……わからない。けど……これが、俺たちの仕事の意味かもしれない」
ティティがしっぽマフラーをぎゅっと握った。
「じゃあ、ちゃんと届けましょう。この荷物も、この名前も。
忘れられないように、ちゃんと、“運びきる”のが、わたくしたちの仕事ですのよ!」
「……ああ」
元・勇者とその仲間たちは、
誰も知らない名前と、誰かが忘れた記憶を――
今日も引っ越しという名の手段で、確かに運び続けていた。




