外は薄暗く
外は薄暗くなってきていた。
急ぎ足で帰路に着くと、家の前の道路でめぐみに会った。めぐみは、ジャージを履き、スポーティな格好をしていた。首にはタオルを巻いていて、髪が少し乱れていた。
「あっ、ちーちゃんだ!」
僕に気が付くと、めぐみは無邪気に手を振った。僕は軽く手を上げて、それに返した。飛びついてくるかと思って身構えたが、めぐみは自重した。
「えへへ、今汗臭いし」
「偉いよね」
「そんなことないよ~、ちーちゃんだってバイトしてるし、えらい!」
めぐみは地域の清掃ボランティアに参加していた。毎週、土日に河川や街路樹のゴミ拾いをする活動を行う地域コミュニティの団体だ。構成員は高齢者が多く、十代の少女はほとんどいないらしいが、めぐみは馴染んでいた。家に帰ると、いつも楽しそうに活動のことを話していた。
「自分のためだから」
「めぐもあたしのためだよ。同じさ」
ボランティアを始めたのは、先生の勧めだった。先生と出会う前のめぐみは、荒れた生活をしていて、生活習慣が壊れていた。
一二歳で家出しためぐみはそれからずっと住所不定だった。中卒のまま高校にも通わず、男の人の家を転々としていた。薬物を始めたきっかけは、ストリートで出会った友人の紹介だというが、「深く考えていなかったからよく覚えていない」と自嘲するくらいに、めぐみは浅慮だった。
「なんだか最近調子いーんだー」
「適度な運動と健全なコミュニケーションのおかげ」
めぐみは先生を慕っていた。中卒の薬物依存症で何も持ってなかっためぐみはある日、マンションのゴミ捨て場で震えていたことがあった。その時は資金が尽きていて、安物の吸入型脱法ドラッグを使った後、バッドトリップによって、被害妄想に取り憑かれていたのだった。めぐみは言い知れない恐怖感に怯えて、安全な場所を探して街を徘徊し、人気のないゴミ捨て場に行きついていた。そこは琴音先生が住んでいた高級マンションだった。
「えへへ、みんな優しいからちーちゃんも一回来てみてよ」
「大変そう」
「簡単だよ~、あたしみたいな暇人は一日やるけど、午前、午後二回あって、どっちかしか出ない人が大半だし、少しだけでもいーんだよ」
「腰痛くなりそう」
「だいじょーぶ。ほんとにできる範囲でいいんだよ。大事なのはね、みんなで街を綺麗にするってゆーことなんだ」
「協調性ないし」
「へーきだよ。あたしといっしょだもん」
乱れた生活を改善するために、日の光の下で適度な運動をして、健全なコミュニティに所属して、善意の活動をする。先生に提示された内容を、めぐみは律儀に実施していた。実際、めぐみは肌つやがよくてとても健康的だった。
「楽しいの? ゴミ拾って」
「うん! みんなでいいことをするのはね、楽しいよ。掃除してたら、おじさんとか、子供とか、知らない人が声ををかけてくれたり、ジュース差し入れてくれたり、なんかね、あたしじゃないみたいなんだ」
めぐみの人生も大概だ。その半生は真っ当とは言えない。「なんか嬉しいんだけど、戸惑っちゃうよね、えへへ」というめぐみの気持ちはよくわかった。普通の人みたいな日常を送っていると、そこにいてはいけない気がしてくるのだ。場違いな気がするのは、僕も同じだった。それでも頑張っているめぐみを愛おしいと思うし、自分のことのように感じた。
「えらいえらい」
僕はめぐみを褒めてあげようと思った。めぐみは社会と向き合って、自分の居場所を作ろうと頑張っているのだ。鬱陶しく思うこともあるめぐみの笑顔も、その瞬間はとても愛おしく思えた。
「じゃあなでなでして」
「今は無理」
僕はイライラしていた。
今すぐ部屋に帰って爆発しないといけなかった。めぐみと触れあうのは耐えられそうになかった。
「なでなで~」
「無理」
僕はいつもの調子で言った。どうしてわかったのかはわからないが、僕の様子に気づいためぐみは急に真面目なトーンで言った。
「なにかあった?」
「あった」
「また……、記者?」
「そう。よくわかったね」
「前も同じ顔してた」
「見えないでしょ」
「わかるよ。だって家族だもん」
恥ずかしげもなくそんなことを言えるめぐみをすごいと思った。
「ただいま~!」
僕たちは家に入った。めぐみは大きな声でそう言うと、乱雑に靴を脱ぎ捨ててリビングに向かった。めぐみの太陽みたいな性格はどこから来るのか、僕には分からないが、純粋な人だからボランティアでも愛されているのだろうと容易に想像がついた。
「ちーちゃん、なにじっとしてるの~?」
僕が玄関に直立していると、めぐみがかけ足で戻ってきた。忙しい人だ。太陽というよりも嵐みたいだ。「いや、別に」
「とにかく、こーゆー時は話すのが一番だからね」
「話すの苦手」
「そーゆーことじゃないの」
めぐみは呆れたような怒ったような顔をして、僕の手を乱雑にとった。僕はイライラしていた。めぐみであっても、恵那であっても、あおいであっても、今は無理だった。
「離して」
「話すのはちーちゃん」
「そっちじゃなくて」
「……? とにかくお風呂でゆっくりお話ししよ」
「入らない」
「だめ! 家族なんだから一緒にお風呂入るの」
「家族は風呂に入らない」
「それはちーちゃんちの話でしょ。先生のおうちは違うの」
「ここも同じだ」
めぐみは、家族に憧れを抱いている。めぐみが持っている理想の家族の憧憬は僕には見えないが、日々接しているからなんとなく想像はついていた。その家族は、性別も年齢も関係なく仲良しで、同じ布団で一緒に眠り、家族で朝ご飯をつくって、みんなでお出かけをする。常に手を繋いでいて、時には抱きしめ合って、かなり頻繁にキスをする。随分と原始的で本能的な関係だ。
「いいから離して。もう限界だから」
めぐみは僕の手を引っ張って浴室へ連れていこうとしていた。僕はまだ靴を脱いでいないし、玄関に立ったままだ。めぐみは僕の精神状況を察していたように思うが、僕の言うことは聞かなかった。
「お風呂入るの」
「おかしいだろ」
「だって家族だもん」
「堂々めぐり」
めぐみは言葉を受け容れず、僕の手を掴んだまま、浴室へ歩き始めた。僕はめぐみの腕力には敵わないから、引きずられるように歩を進めた。めぐみの肌感覚が、手触りから伝わってくるし、お風呂、というキーワードから余計に体のことを想像してしまい、全身がざわついた。それはとてもむず痒くて気持ちが悪い感覚だ。
「僕には風呂とか無理だし、大体、一緒にお風呂とかおかしい」
「でも家族はそうするの。ずっと一緒なんだから」
「ほんとに無理!」
めぐみが繋がりに拘るのは分かった。めぐみは家族との関わりが薄いし、これまでの半生で、誰かと濃密な人間関係を作ったことがなかった。めぐみはずっと孤独だったから、人一倍、家族というものに憧れを抱いていたし、膨れあがった歪な理想を叶えようと必死だった。
僕もめぐみのそういう気持ちは理解ができた。ただ、物事には順序があるし、今はまだちょっとめぐみについて行くのは無理だった。
「まじで無理だから」
僕はめぐみの手を強引に払いのけた。そして二階の部屋に急ぎ足で登っていった。
「ちーちゃんの悪い子ー!」
「意味不明」
めぐみの声が聞こえたが関係なかった。早く一人になって、発散しないと耐えられそうになかった。
二階には三部屋あった。それぞれを里子が使っていた。僕の部屋は、階段を上がってすぐ右手側にあった。ドアには手製の名札がかけてあった。クリアファイルとハンガーフックを上手に組み合わせてめぐみが作った。めぐみは器用だった。材料は全て百均で購入した。僕は不器用だから、そういうのは不得意なので、素直に羨ましいと思った。
《ちひろ》と書かれたそれを見ると、病院を思い出した。病院は完全個室で、部屋の前には部屋番号と名前がつけられていた。
《230号室》《優木千尋》という札が重なって見えた。めぐみが作った可愛らしいそれとは違って、無機質なものだった。国立児童精神病院の入院病棟は四階建てで、一階は大浴場やレクリエーション施設などの共有スペース、二階から四階が病室になっていた。ワンフロア30床あって、全てトイレと洗面台がついた個室だった。
僕はドアを開けて部屋に入った。病院のドアは引き戸だったが、琴音先生の家にある部屋は、普通の開き戸だった。
扉横のスイッチを押した。白色LEDライトが照らした。僕は現実に戻った。室内は殺風景だ。勉強机と椅子、小さな本棚が一つ。フローリングの床に畳んだ布団が一セット。窓には青いカーテンが一枚。机には文房具と書籍が少し置いてあって、中央にはノートパソコンがあった。床に布団があるのはベッドだと眠れないからだった。お母さんがおかしくなってきたころ、僕は檻に閉じこめられていたから、床で寝ていたのだ。未だにベッドは慣れなかった。
「ちーちゃーん! ご飯は――」
「いらない」
階段を駆け上がってくるめぐみの声がした。僕はドアに鍵をかけた。
――ガチャガチャ……、ドンドンッ。
「ちーちゃん!」
「うるさい」
「わがままちーちゃんは悪い子だ」
「それはめぐみだろ」
めぐみのお節介に嫌気がさした。僕は僕なりに考えているのだ。破壊衝動は今のところ治せないから、それと上手く付き合っていこうと努力していた。暴走しないように我慢をして、誰も傷つけない場所で発散するのはいい方法に思えた。
「ちーちゃん! 一人で抱え込まないで」
「分かったようなことを言うな」
「だってみてられないよ」
「見ないでいいんだよ」
「でもそのままじゃまたいつか……」
扉越しにめぐみの不安が伝わった。めぐみの心配はもっともなことだった。僕はこの家に来る前からずっと我慢をしてきた。誰もいないところで発散するのはいい方法に思えるけれど、そんなに都合よくはいかなかった。抱えたものが大きくなりすぎると、抑えつけていた鎖が千切れて、場所を選ばずに大暴れしてしまうことがあった。それでめぐみや先生を傷つけたことは何回もあった。恵那やあおいもそんな僕のことをよく知っていた。リビングの椅子を壊したのもつい半年くらい前の僕だった。その時も我慢しようとしていたけれど、耐えられなくてみんながいるところで暴れてしまった。
「我慢しないでめぐたちに話してよ」
「話しても変わらない」
「暴れてもいーから」
「だめだろ」
「いーよ。殴ってよ」
「恵那みたいだ」
「ちーちゃんの痛み、受けとめるから」
「痛みは愛?」
「そーだよ。家族だよ。痛みはみんななのものなんだ」
「そうは思わない。痛みは苦痛だ」
めぐみの気持ちは有り難いことだった。だけどめぐみを傷つけたいとは思えないし、それをめぐみが許してくれたところで、僕は受け容れられなかった。
僕は誰のことも傷つけたくない。痛いのは辛いことなのだ。僕は痛い思いをたくさんした。その積み重ねが、こういう症状になって表れているのは明白だった。
「虐待された子供が親になると、子供を虐待してしまうことがある。それを世代間連鎖というのだけれど、原因はたくさん考えられる」
昔、先生に聞いたことだ。
虐待事件のニュースをテレビ見ていた時だ。虐待した犯人は、子供時代、親に虐待されていたとアナウンサーが言っていた。
「虐待されて育ったから、育て方を他に知らないので、また虐待してしまう。これがまず一つ」
「閉鎖的な社会だし」
「そうそう。地域社会の崩壊、そして法は家庭に入らずともいうし、親が、親としての在り方を学ぶ場がないの。結果、自己流になり、自分の実体験しか参考にできない」
「それ以外は」
「親もPTSDになっていることがある」
「虐待のことで?」
「そう。親が子供と接しているときに、PTSDの症状を発症し、過去を再現してしまった」
「虐待の記憶」
「傷を再現するのは心の治療プロセス。ただし関係が変わっているから、子供への虐待になってしまうのね」
「嫌なことをされたら誰かに同じことをする」
「それで救われることもあるわよ」
「他には」
「転移や投影が挙げられる」
「成り変わるってこと?」
「色んな意味があるけど、簡単に言えばそう。虐待されて育った人が親になると、我が子へ、自分の子供時代を投影することがある」
「その子が、自分の子供時代になるってこと?」
「そう。同一視する。子供は、我が子でもあり、自分の子供時代にもなる。だから親に優しくされると、満たされなかった欲求が満たされたりもする。まあ親も、自分なんだけれど」
「自作自演みたい」
「そうね。そして今度は、親への逆転移という現象が起きる」
「やばそう」
「親を、自分の親に見立てるということは、虐待していた親を投影するということになる」
「親は自分なのに」
「知らず知らずなのが恐いところよ。我が子との親子関係を、自分の親との関係に見立ててしまったら、いつのまにか虐待していたということがある」
「自分の親は毒親だもんね」
「そう。そして自分も毒親になった。子供を虐待してしまっていた」
「愛してたのに」
先生にそういう話しを聞かされて合点がいった。
僕が暴れてしまうのは、体に触れてきた相手へ母を投影しているからだった。
例えば瀬尾に触れられて暴れたくなったのは、瀬尾を母と同一視したからだ。瀬尾と僕は、その時、母と僕になったのだ。
その解釈をとれば僕はあらゆる人間に母を重ねてみていることになった。監禁されていた僕は母以外の人と接しなかったから、人間とは「母」になっていたのかもしれない、と考えれば、筋は通った。
PTSDも原因と考えられた。PTSDは発症すればパニックになり過去が再現される。PTSDには三大症状と呼ばれる「再体験」「回避」「過覚醒」があり、過去を何度も追体験しやすかった。
それは「心の治療プロセス」だと先生は言うが、治っている実感はない。
――とんとん。
「……ちーちゃん終わった?」
「うん」
「入ってもいい?」
「いいよ」
ガチャリ……、と鍵が開く音がした。各部屋は施錠できるが、合鍵は常に一階にあるから、完全な密室にはならなかった。めぐみはいつでも部屋に入ることができたが、自重していた。わがままで天衣無縫のように思えるめぐみも、遠慮があったのだ。それだけ僕を大切にしてくれているのだとわからないわけではなかった。僕もめぐみのことは大切だった。だから尚更、傷つけたくなかった。
「ちーちゃん」
正対しためぐみは肩を丸めていた。
萎んだ声で言った。優しかった。
「ぎゅってしてい?」
「だめだよ」
「そっか」
肩を落としためぐみは辺りを見渡した。つられて僕も見渡した。フローリング一面に書籍やノートが散らばっていた。本棚と椅子は倒れ、布団には鮮血が散っていた。石膏ボードの壁に穴が何カ所か開いていた。窓ガラスが割れ、川風がひゅひゅーと冷たかった。
「僕は、みんなのこと好きだよ。めぐみのことも大切に思ってる。でも、愛してたのに、気が付いたら苦しめてた、なんてことになったら、すごく嫌なんだ」
我に返って右手を見たら、血だらけだった。どこが傷口なのかわからないくらい、まっかっかだった。
こうして知らないうちに、めぐみを痛めつけちゃうのは、嫌だった。先生も、奏も、あおいも……。
「時々思うんだよ。お母さんをこうやって殺したのかもしれない、って」
「ちーちゃんはいいこだよ」
「悪い子でしょ」
「ううん。ちーちゃんは優しいいい子だよ」
めぐみの声はしおらしかった。ストレスを発散したはずなのに、僕の気持ちは今日の天気と同じだった。水分をふくんだ風は傷に染みた。また壊してしまった。みんなに迷惑をかけたくないのに、結局、かけてしまった。ここにいたら僕は、迷惑にしかならない。大切な物を傷つけるだけだ。
――ぎゅっ。
「――っ」
陰気な気持ちで壊れた窓を見ていた。すると背後でめぐみの体温を感じた。大きな毛布みたいな感触だった。手足が長くて僕よりずっと大きいめぐみは、とても温かかった。
「嫌だ?」
「うん」
「でもめぐもやだ」
「うん」
「めぐはこーしたいからこーする」
「うん」
ぬくもりというのはこういう感情なんだろうなと思った。めぐみの想いみたいなものが染みてきた。それはいいものなんだと思った。それでもやっぱり、肌の上をぞわぞわする感覚がして、お腹の下で虫が這いずり回る感じが消えなかった。