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外傷  作者: 葵栞
8/9

雨降って

「雨降ってきちゃいましたね」

 視界の外から声がして向き直ると、張りついた笑顔の中年男性がいた。細身の顔立ちにメガネをかけている彼は、何度も会釈をしながら体を丸めていた。その顔にむっとした僕は無視して自宅への歩を早めたが、男は後を着いてきた。

「帰りですか? 学校? それともお買い物か何かですか?」

 快活な話し方は僕には到底真似できない代物だった。敵を作らない笑顔で、僕へ質問を浴びせる彼は、大手週刊誌の記者だった。

 僕は過去に彼に会ったことがある。何度も彼と会い、時にはしっかりと質疑応答をしたこともあった。

「最近は天気が悪いですねぇ。しばらく雨が続くそうで」

 これは世間話というやつだ。世の中を知らない僕でもこういう話題に意味がないことはもうわかっていた。男の名前は瀬尾誠というのだが、瀬尾は天気に興味はないのだ。僕の事件ついて知りたいのだろう。

「ちょっとだけでいいので、お時間いただけません? あ、歩きながらでもいいので」

 背の低い僕の目線に合わせて、手を擦り合わせた。目線を合わせるのはコミュニケーションの基本だ。目線が相手より高いと、威圧しているように感じられてしまって、印象が悪くなるから、例えば小さい子供や女性と会話するときは、目線を下げるようにするといい、とネットに書いてあった。彼もそれを実践しているのだ。

「お願いしますよ~、その後どうです? 体調は? 今も、思い出したりしますか?」

「あまり考えたくないので」

「あぁ、すいませんね。思い出させてしまって」

「はい。なので答えたくないです」

「あぁ~、そうなんですか~、とはいえ、犬小屋事件のその後はですね、皆知りたがってると思うんですよ。被害者の子供が、その後どうなったかっていうのはね。優木さんはね、ある意味では現代社会の象徴的な存在だと思うのです。ほら、毒親とか親ガチャとかねぇ、色々話題じゃないですか?」

 瀬尾は聞きやすい声でまくし立てた。話慣れているのが、見て取れた。僕に煙たがられているのは分かっているはずだが、調子を落とすそぶりはなかった。それどころが、僕が気になる話題を振って、言葉を引き出そうとしていた。僕は人と接するのが苦手だから、周りを観察して勉強しようとしていた。おかげで、ちょっとした様子の変化とか、気持ちとか、あるいは会話の技術とかを推測するのが癖になっていた。だからといって、上手くコミュニケーションがとれるわけではなかったけれど、何も考えないよりはマシだった。

「優木さんは、なんていうかねぇ、親ガチャ大外れの典型だと思うのですけど、今そういうことが話題になってるのとかってどう思いますか?」

「いや、僕にきかれても」

 少しむっとした。過去のことを受容したつもりだけど、他人にズケズケと踏みこまれると、感情が高ぶった。

「母親に監禁されるっていうのはねぇ、本当に酷いと思いますけどね、どういう気持ちでした?」

「もう答えましたよ」

「それは去年のことでしょう? 少し時間が経って、今はどう思います?」

「変わらないですよ」

「やっぱり恨みとかあるんですか?」

「ありますよ」

「あぁ、そうなんですか。やっぱり、生まれてこなければよかったとか、そういうこと思いますか?」

「……まあ」

「優木さんの人生は、お母様にめちゃくちゃにされたじゃないですか。それってどういう気持ちなんでしょうか」

「答えられない」

「お母様に対して今はどういうことを思います? なんであんなことをしたんだろうとか、もし今会えたらどんな言葉をかけるでしょうか」

「答えたくない」

「うーん、でもあると思うんですよ。だって優木さんは今も病気を抱えていらっしゃって、病院にも通っていますよね? 通信制の高校に通っていて、中々、大変でいらっしゃると思いますから」

「もう、いいでしょう」

「いやぁ、もう少しお話ししましょうよ。雨もなんだか強くなってきましたしね。少し雨宿りというか……、あ、よければ、どこか喫茶店とかでお話しできれば、何か食べたい物とかありますか?」

 瀬尾が自然な流れで二者択一法を使ったのがわかった。相手に提案を拒否されにくくする会話のテクニックだ。例えば「ご飯を食べに行きましょう」ではなく、「ラーメンか、寿司か、どちらが食べたい?」と誘えば、相手は、そのどちらかを選ぶ可能性が高くなる。はい、か、いいえ、で答えられない質問をするのがポイントだ。

 瀬尾はさらに同時に、言い訳を作らせる、というテクニックも使った。雨宿りのついでに、という理由をつけることで、僕に、「瀬尾と会話をするためではない」という言い訳を作らせるのだ。これは異性をデートなどに誘うときにも常用されるテクニックで、しばしば、男性でも女性でも、プライドが邪魔することを避けるために用いられる方法だった。

「食べたいものありますか、あぁ、そうだ私だったら是非是非、駅前にあるラーメン屋とか行きたいなぁって思ったりするんですけどねぇ。入ったことありますか?」

 めぐみが蜂蜜を持ち込んで怒られたことがあるお店だ。瀬尾に取材を受けた時は、僕はまだ人と接するのが今よりも苦手で、めぐみたちのことは、ほとんど話さなかった。もっぱら母親と暮らしたあのころのことを重点的に質問されて、僕は僕なりに答えた。僕の事件は誰がつけたのか「犬小屋事件」という名前がついていて、ネットで検索すれば、無数にヒットするような有名事件だから、昔から、こういう記者がふらりと現れた。もう忘れたいと思うけれど、トラウマを感じる度に、亡霊のように蘇るあのころのことを、こういう人たちに掘り起こされて、嫌な思いをしてきた。

 一回、向き合って全てを答えたらもう付きまとわない、と約束をしてもらったから、去年、時間をかけて話したのに、それからも定期的に瀬尾はやってきた。結局は、彼らにとっての僕は、記事を書くためのネタでしかないということが、その頃になって分かってきた。恵那のところで世の中のことを少しでも勉強したおかげだ。

「私食べたいんですよねぇ、中々忙しくて食事も取る時間なくてですねぇ、ちょっと気温も低いですし、温まりがてら行きませんか? もちろん取材料ってことで食べもの代はお支払いしますので、ねぇ」

 というと瀬尾は僕の肩に軽く手を触れた。相手との距離を縮めるには、スキンシップが有効だというのは、よく知られたことだが、今回はそういう意味ではないだろうというのは、すぐに分かった。

「やめて……」

「あぁ、失礼しました。人に触れられるのが苦手っていうのは、まだ治っていないんですね」

「もう帰ります」

「ごめんなさい、なんだか以前よりは調子がよさそうだから、もう治ったのかと思いましてねぇ、ふふふ」

「治らないです」

「謝罪として、ラーメンでも是非」

「食べたくない」

 僕は歩をさらに早めた。もう関わりたくないと思った。我慢はできるようになったけれど、程度には差があった。ある程度、受け容れた相手ならそれなりに耐えられるけれど、それ以外の人に長くは持たなかった。瀬尾が触れた瞬間から、全身がムズムズする感覚が酷かった

「帰ります、さよなら」

 ぶっきらぼうに言って、逃げだそうと思った。家に着けば、さすがに中までは入ってこないのだ。

 瀬尾もそれを感じたのか、僕の足をとめる言葉を言った。

「絆の会の方とお知り合いですよね?」

「……え」

「川澄あおいさんでしたっけ? 絆の会の主要幹部の娘さんですよね? 後、相生恵那さんのことも……、まあ世間的には秘密になっているようなことですけれどね、彼女とも仲がいいとか」

 ぴた、っと足が止まった。瀬尾の目を見ることはできないが、雰囲気から笑顔なのは読み取れた。

「お二人とも、三上医師の患者さんだったとか。優木さんも一緒に入院をされていて、今も交流があるそうですね」

 僕は何を答えればいいのか分からなかった。否定した方がいいのか、それとも、情報源を聞き出すために揺さぶった方がいいのか、判断が追いつかなかった。

 絆の会の事件のことは、公にはされていないことだった。当時、九歳だった恵那は、絆の会の村、飯能リアンというところで暮らしていた。山の奥に広大な敷地を囲った閉鎖的な環境で育った恵那の、歪んだ価値観を否定する人はおらず、ある日、殺人事件を犯した。死者二十名。恵那は絆の会の創始者を含めた幹部多数を殺害した。そのことがきっかけになり、警察組織が深く介入することになり、会は混乱の一途を極め、リーダー格が死去した損失も大きく、空中分解し、瞬く間に、実体を失っていった。

 九歳の少女による大量殺人事件は、世間への影響力が多すぎると判断され、超法規的処置によって、公表は控えられた。ネット上には多少の色がついた噂として広まってはいるが、恵那の名前がヒットすることはないし、事実とは異なった内容ばかりだから、瀬尾の言葉に驚いた。

「相生さんは、今は会社経営をされているとか、いやぁ、若いのに立派ですよねぇ。しかも美形ですし、才能に溢れていらっしゃる」

 殺人事件のことを知るのは、ごく僅かだと聞いた。入院した後、恵那を引き取った絆の会からの更生支援施設の人たちも、詳しい事情を知っているのは、限られていたと聞いた。

「しかし、お三方の関係性っていうのは、独特でとても興味深いですねぇ。親ガチャというか、出生ガチャというかねぇ、特殊な環境の三人が、病院で出会って、以降も支えあいながら生きている、なんてねぇ、物語性があって、すごく面白いと思いますねぇ」

 病院を出てからも、僕らの交流はずっとあった。虐待支援施設に引き取られた僕は、定期的に川越の祖母の家に行ったあおいと会っていたし、情報交換のようなことをしていた。辛いときに慰めてもらったこともあった。絆の会の更生支援施設に行った恵那は、しばらくすると家出をして音信不通になったけれど、ある日ふらりと僕のところに現れて、近況を報告した。夜を転々としながら暮らしてたころも、恵那は僕やあおいにだけは連絡をくれた。

 血の繋がりはないし、共通点も限られたものしかないけれど、僕はあおいと恵那に対して特別な気持ちを持っていた。家族というにはちょっと重たいし気恥ずかしいけれど、友達というには軽すぎた。複雑な気持ちだが、自分のことのように大切なのは間違いなかった。あおいも、恵那も、きっと同じような思いを持っていた。だから僕は、その時、二人を守らないといけない、というような気持ちになったのかもしれない。

「二人は僕とは関係ないです」

「うーん、そうなんですか? でも、川澄さんとは同じ高校に通っていらっしゃいますよね? 仲が良さそうにしていらっしゃいますが」

「僕の事件とは関係ない」

「とはいえ、お三方の関係っていうのはねぇ、内容によってはねぇ、テレビ番組が作れそうなくらいですよ」

「拒否します」

「へへへ、まあそれはその時に、って感じですけどねぇ、ちょっと詳しく聞かせて貰えませんかねぇ?」

「なんで」

「それは今、お話ししたと思いますけどねぇ」

 瀬尾の声が憎たらしく思えた。色々と観察をしていれば、推測できることはあるけれど、結局のところ僕にはそれを活かす会話術はないのだ。自分が情けなく思えるが、上手に言いかえす術を持たず歯がゆかった。

「絆の会かぁ……、今もあそこ出身の子供がトラウマに悩まされているっていうのは問題になってますよねぇ? 知ってます? リアンチルドレンって言葉なんですけどねぇ」

『犬小屋事件』はネットで検索すれば多数のヒットがある事件だ。だが、それ以上の知名度が絆の会にはあった。定義によってはいわゆるカルト団体にも分類される絆の会は、事実と虚構が混ざり合ってある種の都市伝説のようになっていた。

 例えばリアンの中で出生した少女は十歳になる前には全員非処女だったとか、幹部には十名以上の嫁がいてその半数が未成年だったとか、毎夜毎晩に渡り強姦が繰り返されていた、というような性的な内容。

 例えばむしゃくしゃして目についた人間をなんとなく暴行したら、された側は手を叩いて喜んでいたとか、人間関係に行き詰まった男がリアンで殺人を犯して捕まったが、その家族が笑っていたとかいうような暴力的な内容。

 全国にあったリアンと呼ばれる村は、多少の差異はあれど、似たり寄ったりの世界だった。そこで育った子供たちは、心を病み、未だ過去に苛まれていた。

 彼らの一部は声を上げた。リアンのことをテレビや雑誌ネットで言葉にして伝えた。カルト二世問題や、親ガチャ、毒親等の問題に紐付けられた彼らはリアンチルドレン等と呼称される社会問題のひとつだった。

「まあどこまで事実か分かりませんけどねぇ。知ってます? 子供ってねぇ、思い込みによって過去のトラウマをねつ造するらしいですからねぇ? 作られた記憶、とかいうらしいですけどね」

 それは琴音先生に聞いたことがあった。とあるケースを例に取ると、ある日、成人女性がカウンセリングにやってきた。彼女は鬱に悩まされていると言った。ゆくゆく話しを聞いていくと、彼女は小さいころに父親にレイプされたと言った。そのことがきっかけになり男性恐怖症になり、人間関係に不和が生じてきた。大人になっても不安が付きまとい、夜も眠れなくなると言った。

 担当医師は対話を行い、それからも定期的なカウンセリングと投薬治療を行ったが、ある日、偶然にも過去のカルテに彼女の父親の資料を発見した。 父親は酷いEDに悩まされており、勃起障害によってカウンセリングを受けていたことが分かった。父親へコンタクトを取り話しを聞くと、彼女には小学校高学年になるまで夜尿症があったことがわかった。対策として就前にオムツを着用して床についていた。父親は医師から提案された治療方法の一貫として、汚染したオムツを夜間に取り替えていた。すると起床した際にオムツが汚染していないため、本人は「失禁しなかった」と勘違いするのである。夜尿症の主原因として不安があると考えられているから、そうした思い込みによって治療するという方法を用いたのだ。

 やがて夜尿症は克服した彼女だったが、そうした手段を用いたことは告げられなかった。彼女は夜間に父が下腹部をまさぐっていた行為に強い恐怖を感じ、やがてそれが父親にレイプされたという思い込みに発展した。また父親はしばしば彼の妻へ怒声を浴びせることがあり、娘であった彼女は以前から父親に対して警戒心を強めていた。

「絆の会のことは本当ですよ」

「へぇ、さすがお詳しいですねぇ、是非、川澄さんや相生さんにも取材をしたいのですけど、紹介していただけませんか?」

 あおいたちを紹介するわけにはいかなかった。あおいは、何も気にせず堂々としているだろうし、恵那は得意の社交性を活かして上手くやるだろうと思った。ただ、二人を売るような感じがして嫌だったのだ。

「できません」

「じゃあお三方一緒にですねぇ、あぁほら、最近話題の男性四人組アイドルグループのチケットとかどうですか? 入手困難ですけどねぇ、それと交換とかどうですか?」

「知りません」

「とはいってもですね、お二人はお好きかもしれない。ちょっときいてみてくれませんかねぇ?」

「いりません」

「そう言わず、ね、ね」

 馴れ馴れしい感じで瀬尾は僕の肩や背中を何度か触った。やたらと体に触れるのは僕を挑発するためだ。僕を怒らせて、本音を引き出そうとしているのだ。

「やめてください」

 僕は瀬尾の手を払いのけた。瀬尾は、おっ、というような顔をしたがすぐに笑顔に戻った。

「傷ついた少年少女の物語――、犬小屋とリアンチルドレン、なんてタイトルどうですかねぇ?」

「最低です」

「へへへ、じゃあ優木さんだったらなんてつけますかねぇ?」

「つけない」

「考えてくださいよぉ~。私はねぇ、あなたちのことをとても可哀想だって思ってるんですよ? もう少し、心を開いてくれてもいいと思ってるんですけどねぇ」

 開けるわけがないと思った。いい人なのか悪い人なのかはわからないけど、少なくとも理解者ではないと思った。僕たちのことをネタにして、お金を儲けたいだけに思えた。あおいや、恵那のことをどこまで知っているのかは話からはわからなかったけど、他に交渉材料が出てこないのだから、ほとんど知らないと思った。だから鎌をかけてみる、という行為をしてみようと思った。人生で初めてのかまかけだ。

「じゃあ教えてください」

「うん? なにをですかねぇ、私のほうが教えてほしいところなんですけどねぇ」

「僕も、あおいたちのことを知りたいんですよ。だけど、どこまでが本当なのかわからなくて、困ってるんです。瀬尾さんだったら、詳しく知ってるんじゃないですか?」

 嘘だった。それどころか、僕は誰よりもあおいや恵那のことを知っていた。あおいが、絆の会で神子と呼ばれ畏敬の念を集めていて、それにあやかるために集会で儀式行事をさせられていたこと。恵那が偉いひとを殺してみたくなった、という動悸で大量殺人を行ったこと。恵那には脳内物質の過剰分泌という脳障害があり、薬物依存のような状態になっていること。理性によるブレーキが効かず、常日頃から万能感と多幸感に溢れたいわゆるハイになっていること。九歳の少女という身体的に未熟でありながら、大人を大量殺人できたのは、脳内物質の過剰分泌によって、痛みや疲労をあまり感じず、身体能力のリミッターが解除されていたからということ。恵那にとっての痛みは、快楽であり、愛であるということ。

「ふぅん、どうなんですかねぇ。まあ、あまり詳しくは知りませんよぉ」

「あぁ、絆の会で殺人事件があったって噂あるじゃないですか。恵那たちに聞いたら、そんなことはなかったっていうんですけど」

「はいはい、それねぇ。まあ噂はありますけどねぇ。そもそも、あそこの人たちはおかしい人たちばかりでねぇ、突拍子もないことばかり言うので取材も難しくてねぇ。だって優木さんねぇ? 天使の翼が生えた少女がいたらしくてねぇ、慈悲深い天使は、人間の欲望を抑えるために、その聖血を分け与えていたというのです。刃物で腕を切り裂いて、零れた血液を直接吸うんですね。すると、洗礼されるというのです。狂った話ですよ」

 瀬尾はやれやれという感じで溜息を吐いた。

「それは本当なんですか」

「さあねぇ。分かりませんよ。天使はいないでしょうけど、天使とか悪魔なんてそれこそオカルトでしょう? あそこの人たちはねぇ、言っていることがむちゃくちゃでねぇ、会話にならないのですよ。信じるか信じないかはあなた次第という感じですねぇ」

 瀬尾は空を見あげて呆れるように首を横に振った。やはり、絆の会のことはそれなりに調べてはいるようだが、噂のような域は出ないようだった。僕は少し安心した。瀬尾が嘘をついている可能性もあるが、どうにもそうじゃないように思えた。

 なぜなら、さっき瀬尾が言っていた天使の話というのは、あおいのことだったからだ。もしもあおいのことだと分かって話すのなら、もう少し言い含めた言い方をすると思った。でも、噂話をするような感じで、なんだか他人事のように言っていたから、違うような気がした。

「まぁ、さすがにそれは、ですか」

「狂った連中ですよ。優木さんのお母様と一緒ですねぇ」

「僕も同じですよ」

 瀬尾はなんでも知っているというような態度をとるが、それが相手に対しての優位性を保つテクニックだというのはわかっていた。僕は心理学とか人心掌握術とかの本やネットをたくさん見たから、知識だけはあった。本当は何も知らなくても、知っているような態度をとりながら、相手の話しを促し、誰にでも当てはまるような内容を告げていくことで、何でも分かると相手に錯覚させるせるテクニックをコールドリーディングという。

「僕殺人犯です」

「はい?」

「人殺しです」

「ははは、なんですかそれは。冗談か何かですか?」

「違います。モンスターなんです」

 瀬尾は発作のことは知らなかった。嫌悪感を感じる彼が体に何度も触れたから、僕は再び爆発しそうになっていた。

「モンスターねぇ? へへへ、それは怪物が棲んでるみたいな感じの話ですかねぇ?」

「抑えられなくなる」

「そうなるとどうなるんですかねぇ?」

「壊したくなる」

「へぇ、それも病気のひとつなんですかねぇ?」

「さあ。知らない」

「見て見たいですねぇ」

 瀬尾は嬉しそうに笑っていた。

 瀬尾が見たいのは、こういう僕の生々しい部分なのだ。

「触って」

「体に?」

「うん。ただじゃ済まないと思うけど」

 暴れたら、色々と迷惑がかかりそうだった。でも、そうしてやりたい気分だった。あおいや恵那を守れると思った。暴力は根源的な恐怖だ。痛いのは嫌なことだ。気持ちいいわけがない。愛情でもない。普段の僕じゃ、瀬尾を殴ることはできないけど、発作的に暴れている時だったら、何も考えないで瀬尾を痛めつけることができると思った。傷つけたら先生が悲しむし、怒られると思った。警察沙汰になったら、里親の先生に迷惑がかかる。もしかしたら、里親の資格を失うかもしれない。法律のことは詳しく分からないけど、里子が事件を起こすということは監督不行き届きみたいなものだ。でも、なんだか抑えられる気がしなかったのだ。

「それは脅しですかねぇ?」

「違います」

「なんというか、優木さんねぇ、雰囲気が変わりましたねぇ」

「一緒です」

「いやぁ、なんだか恐いですねぇ。へへへ、怖がっていたら記者なんてできないですけどねぇ」

 瀬尾は怖がるような様子がなかった。不敵に笑っていて、動じている感じはなかった。

 傘に打ち付ける雨が強くなった。小降りが本降りに。

 空模様を感じたのは、沈黙したからだった。気づくと、靴が濡れていた。コンバースのスニーカー。23㎝。服は濡れない。体が小さいから、大人用の傘を使うと全身が隠れた。

 瀬尾は濡れていた。薄手のコートの肩口が染みていた。

 少しの間。

「まあ」

 瀬尾は口を開いた。なんだか語気が弱かった。「お忙しいようなので、今日は……」別に忙しくはないのだが、断りの常套句だった。「お暇いたしますかねぇ」お暇しなくてもよかった。僕は前から瀬尾が嫌いだったし、痛めつけたいと思ったから、逃げないで欲しいと思った。

「じゃあ、さよなら」

 僕はぶっきらぼうに言った。僕はこういう人間だった。感情を表現する行動というのが、苦手だった。思ったことを、形にできなかった。恐いという気持ちもあるが、あおいたちのためにも頑張ろうという想いの方が大きかったのに、手が出せなかった。「その方がいい」とあおいは言ってくれるかもしれないし、「それじゃだめだ」と恵那は言うかも知れないし、「あたしがやる」とめぐみは言うかもしれない。考え方は人それぞれあるから、何が正解かなんて、決められないとも思った。ただそれを決めるのは、誰なのだろうか。僕か、先生か、それとも、結果論か。

「へへへ、また来ますねぇ」

 僕はもう坂を下っていた。後ろから声がしたが、振り返らなかった。早く帰りたい。雨が傘に打ち付ける。ぶすり、ぶすりと、針を刺すようだった。

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