毎週末はアルバイト
毎週末はアルバイトの日だった。大抵、八時くらいまでには家を出た。アルバイトは週一回、土曜日か日曜日に、数時間、働いていた。お金には困っていないが、働くことには意味があった。僕は普通を学びたかった。普通になりたいと憧れを抱いていたが、それがどういうことなのかよくわかっていなかったから、勉強する必要があった。
「何かを成すには、まずは知ること。勉強することが大切」と琴音先生に言われたことを実践していた。
十月の初週。その日の天気は悪かった。曇り時々雨、僕は黒い傘を持って家を出た。アルバイトに行くときは、一人だった。たまにあおいやめぐみが同行する日があった。その日も、家を出る直前、「ちーちゃん一人じゃ誘拐されないか心配」とめぐみは眉をハの字にしていた。「されるわけないだろ」と僕が言っても、あまり納得していなかったが、押し切って一人で家を出た。
河川敷を歩き、橋を渡り、丘の上の駅に行った。水分をふくんだ風が、どうにも胸をざわつかせた。十分くらい列車に乗って、大きな駅舎がある駅で下車した。人混みを掻き分けてテナントビルに入った。そこが僕がアルバイトをしている会社の事務所だった。
「やあひろくん」
「お世話になります社長」
「変な言い方はやめてよー。そういうの嫌いなの知ってるでしょ」
「でも社長だし」
「殴るよ」
「パワハラだ」
「関係ない」
ビルの四階を有限会社ボンドが貸し切っていた。ボンドは人材貸し出しサービスを主とする会社だった。顧客が名簿からレンタルする人物を選び、時間/円で貸し出しをする。レンタル彼氏やレンタル彼女のようなサービスと似た業務形態だったが、ボンドは貸し出し用途を特に定めていなかった。おかげで幅広いニーズに対応することに成功していた。
「殴る!」
パソコン一台と大きなソファがある事務所の一室で、社長は僕のお腹を殴った。拳が石のようだった。痛みに悶えながら二発目のために身構えたが、それはこなかった。
「えへへ、痛い? 怒った?」
「いや……」
「ひろくんは嘘つきだね」
そう言って無邪気な顔をしたのは相生恵那だった。恵那は十七歳にして会社を経営し、一定の成功を得ていた。
「痛いんだから、我慢しなくていいのに」
そう言って、恵那は部屋の鍵を閉めた。そこは社長室だった。経営実務は数名の部下が行い、恵那は内外のトラブル解決や営業面を仕事にしていた。恵那は人心掌握術に長け、人を惹きつける魅力に溢れていた。
「ほら、これで誰も来ない。二人だけの空間だよ」
「監禁……」
「えへへ、嫌いでしょ監禁。だったら恵那を殴って、ここから逃げださなきゃね」
「そんな必要ない」
「ひろくんは我慢ばっかりしすぎるから、調子が悪くなるんだよ。その体の問題も、きっとそのせいなんだ」
恵那は背比べのポーズをした。僕の容姿コンプレックスを知っている恵那にからかわれたのだ。
「我慢しすぎて、男性ホルモンが出なくなったんだ。知ってる? 怒りとか暴力とかのエネルギーって、男性ホルモンから来るんだよ」
「じゃあ恵那は男だ」
「えへへ、うん! ひろくんより大きいもんね~。へへっ、あっ、色んなところが、ね」
と恵那は自分の胸を掴んで揺らしてみせた。恵那は僕よりも少しだけ背が高いが、女性だから特別に小さいわけでもなかったし、むしろ発育という面では恵まれていた。女性らしい丸みはしっかりあったし、胸も大きかった。ルックスも優れていて、屈託のないピュアネスな笑みは男性を惑わす色気があった。
「ひろくん」
「なに」
「今えっちなこと考えた?」
「全然」
「え~、だめじゃんっ。それじゃ大きくならないよ」
「だから、下ネタは嫌いなんだって」
「下ネタ? 違う違う。男性ホルモンの話」
「どっちも同じだ」
恵那との付き合いは長い。九歳の時、病院で出会ってから、共に歳を重ねてきた。あのころ、僕たち三人はそれぞれを姉ちゃん、妹ちゃん、弟ちゃんと呼んでいた。先生は、認知行動療法の一貫として、擬似的な家族を作った。僕たち三人は歪な家庭環境を原因とする心の問題を抱えていた。僕は、母に監禁され、愛情表現の一環として、暴行を強要されていた。恵那は絆の会という共助団体育った。欲望は我慢してはならない、解放しなければならない。外界と隔離された村の中で、父も母も欲に乱れていた。しかしそれは正しいことだった。その狭い世界の中では、我慢はいけないことだった。したいことを我慢するから、心が壊れてしまうのだ。例えば本能のままに生きる野生動物は、うつ病になるだろうか。サバンナのライオンは、他のライオンとの付き合いを気にして、不眠症になるだろうか。否。理性は悪だ。人間は、社会性を大切にしすぎた。一度、原始に帰るべきなのだ。
成否はどうあれ、そうした思想に賛同する人々は一定数いた。恵那が育ったのは埼玉北部山中にあった村だった。村の名前は、Le lien。フランス語で絆を意味した。
僕は事務所から自転車で顧客の家に行った。予約は基本的にインターネットか電話で申し受けていた。レンタル相手は会社ホームページの名簿から選べた。インターネット環境がない人向けに紙の名簿も配っていたが、それは恵那の発案だった。僕の情報は、
【名前】ちひろ、【年齢】十六、【職業】高校生、【性格】人見知り、素直、【趣味】インターネット、アニメ、ゲーム、読書、【アピールポイント】かわいいです! 可愛がってください!
と記載されていた。
身長体重の他、写真が何枚か観覧出来た。顔がアップの写真と、全身がわかるもの。僕をレンタルする人は、僕の容姿とアピールポイントに書かれたコメントを見て、興味を持つ人が大半だった。そのコメントは会社が勝手に書いたものだから、僕は意図していなかった。ただ、そのほうが仕事が回ってくるのなら、僕にも利があったから変更はしなかった。名簿に登録されている人は三五十人以上は居たけど、指名制だから仕事がない人もたくさんいた。僕は安定してレンタルされていたから、どちらかといえば売れている方だった。
十分くらい漕いだ。空模様は、変わらず悪い。厚い曇が太陽を隠していた。風が冷たかった。雨はまだ降らない。僕はマンションの一室に着いた。十階建てビルの最上階だ。インターホンを押した。
「あぁ、優木くんー? 今出るよ」
面倒見のよさそうな男の人だった。彼の名前は織田陽介といい、僕と同い年の高校二年生だった。すぐにドアが開いた。
「あぁ、ありがとう。今日もよろしくな」
「……はい」
僕の仕事は彼と話すことではなかった。僕は奥の部屋に行き、和室の襖を開いた。高齢女性が介護用のシングルベッドで端座位になっていた。僕が軽く会釈をすると、彼女は和やかな笑みを返した。
「じゃあ、今日もよろしくな。俺は予備校があるから」
と言うと慌ただしい様子で織田くんは外に出ていった。僕をレンタルしたのは彼だが、目的はこの老婆の世話をさせることだった。とはいえ、僕は介護の知識も経験もないので、難しいことはできないから、もっぱら会話をすることが仕事だった。織田くんに言わせれば、「お年寄りは若い子と話すだけで嬉しい」とのことで、僕は定期的にレンタルされていた。彼や彼の友人と話せばいいのではとも思うが、「色んな人と話した方が認知症予防になる」と言っていた。僕以外にも日替わりで何人かレンタルしていたが、特に僕は気に入られていた。理由を聞くと「子供っぽい感じが好きっておばあちゃんが言ってた」とのことだった。
レンタル時間は三時間。僕の仕事は、午後までここにいて、他愛のない会話を老婆とするだけだ。僕は世の中のことは詳しく知らないし、アルバイトをこれしかしたことがないから、想像の域は出ないけれど、恐らくは簡単な部類に入る仕事だと思っていた。それでも僕は、人と接するのが苦手だし、お年寄りとはいっても、相手は人間だから、毎回、全身がこわばっていた。愛想笑いをしたり、お世辞を言ってみたりすることもできないし、笑顔だってままならないのだ。あおいとは違って、いつでも無表情というわけでもないのだけど、感情表現は苦手だ。人との付き合い方というのが、僕はよくわからないから、戸惑ってしまって、表情も硬くなった。
「最近はどうなの? 例の子とは上手くいってるかしら」
織田慶子さんは、九十代とは思えないほどに元気だった。短い距離なら歩く事が出来て、認知症もなかった。とても穏やかな性格だが俗な話が好きだった。何度もここに来てるから、僕のことも結構知っていて、あおいやめぐみたちのことについて、楽しそうに聞いてきた。
「どうって……、いや……、上手くいってると思います」
「そう! それはよかったわ!」
人間というのはどうにも、一生に渡り恋や性の話が好きなようだ。年老いても、異性への好きや嫌いに大変に興味を抱いていた。織田さんだけではなくて、僕はこうしてお年寄りにレンタルされることが多くあった。ボンドは介護事業所や地域の包括支援センターなどに営業に出向いて、名前を売っていた。ボンドは介護事業所ではないけれど、認定されていない業者が介護関係の仕事をしてはいけないという法律はないから、こうした《話し相手》や《付き添い》のようなことだったら、経験のない僕のような人間でもできた。実際に、この織田さんのように、若い人と話したいというお年寄りのニーズは一定数あり、ボンドの事業の中核を担っていた。前に恵那とこの話をした時に、「恵那は賢いから、全て計算の上だよ」と誇らしげだった。
恵那は、僕とは違い、世の中のことを詳しく知っていた。五年前、退院した後、恵那は一度、絆の会の支援団体に引き取られた。会から抜けだした人や、恵那のように誤った教育を受けた子供たちを支援する自助団体だ。殺人を犯した恵那には好奇の目を向ける人もいたようだが、全体的には同情的な視線を集め、手厚く支援された。恵那が殺人を犯したのは、絆の会の狂った環境のせいだ。恵那は悪くない。と、恵那は守られていた。実際に「団体の人たちは優しかった」と恵那は言うのだが、「だけど居心地は悪かった。最悪だった」と晴れやかな笑顔で脱走したときのことも語っていた。恵那は団体には長く居着かず、逃げだすように街へ出て来て、家から家を転々としながら夜を生き抜いた。僕がひきこもっていたころ、恵那は世界のことを身をもって学んでいたから、きっと僕よりも精神年齢は上だ。だからこうして、若くして会社を興せたことも、納得できた。恵那は夜を生き抜きながら、出会った相手と交友を深め人脈を作った。事業を始めるときの支度金を用意してくれた支援者は、恵那のお願いは何でも聞いてくれるのだと聞いた。
恵那は頭がよくて、狡猾だった。容姿にも恵まれている。「私はカリスマ性があるから、なんだって叶えられる」と、恵那は自信満々だけど、実際、僕もそう思った。恵那はなんだかどんな道でも笑いながら突き進んでいきそうな、雰囲気を感じた。
「あぁ、もうこんな時間ね。ありがとうね。今日もお話をしてくれて」
「……いえ」
「よかったら千尋くんもお食事をしていってね」
「え……、いや」
「もうすぐ陽介も帰ってくるから」
九時から始まったサービスは瞬く間に三時間を経過した。僕は、織田さんとどんな話をしたのか、あまり覚えていなかった。人の話を覚えるのは苦手だし、緊張していると、内容が頭に入ってこなかった。僕は、言葉にならない返答を繰り返しているだけだし、最悪の話し相手だと思うのだが、織田さんはいつもニコニコとしていた。
「ね、まだお料理もできるのだし、食べてもらう相手がたくさんいたほうが、やる気が出るの」
織田さんは僕の腕や手をつかみ、半ば強引に席に座らせた。いつものことだった。織田くんは、予備校に通っているけど、家から近いところにあるから、昼は帰ってきて、一緒に昼食を食べるのだ。レンタル時間は終わったけれど、僕はそれに付き合わされていた。そんなことをしたいとは思わないし、全く興味がないから、断りたいのだが、体をベタベタと触られると、恐くなって逃げだす気力がなくなった。同世代や琴音先生くらいの年代の人よりは、多少なりとも恐怖心は少ないのだけど、やっぱり人間は苦手だから、お年寄り相手でも変わらなかった。
少し経つと、織田くんが帰ってきた。十二時十分。いつも同じ時間だ。織田くんは走ってきた様子で、少し顔が赤かった。彼はいつも元気で、スポーティな印象だ。筋肉質で、背も大きい。僕と同い年なのに、まるで別の生物のように思えた。
「今日もありがとな。おばあちゃん優木くんと話すと元気になるんだ」
「……いえ」
「天職だよな。俺から見てもめっちゃかわいいもんな。優木くん」
「……いや」
「かわいいわよね~、女の子みたい~」
「女装とか似合いそうだよな」
「……え」
「あ、ごめんな。気を悪くしたか」
「……いや」
「あはは、でも本当に似合いそうね」
「やめろよ、おばあちゃん。嫌がってるだろ」
「最初に言ったのは陽介でしょ」
「だってマジでかわいいから」
「ふふふ、こうしてるとあなたたち兄弟みたいね」
「……兄妹?」
「あら、やっぱり千尋くんもそう思うのかしら?」
「……いえ」
会話はまるで弾まなかった。僕はいつもそんな調子で、一体全体、なぜ僕がそんなにも気に入られているのかよくわからなかった。話を盛り上げようと頑張ってはいた。僕は普通になりたいから、社会を知るためにアルバイトをしていた。こういうときに、楽しくお喋りするのも、普通の人ならできることだから、一生懸命やっていた。そうそう上手にできないのは、わかってはいるけど、でも本当ならもう少しは上手くできると思うのだ。
織田さんちの二人は、スキンシップが多かった。織田くんも織田さんも、僕のことを「かわいい、かわいい」とやたらめったら触ってきた。髪を撫でたり、肩を触ったり、ほっぺたをつねったりした。他意はないとは思うのだが、体に触れる度に、僕は心臓をナイフで突き刺されたみたいに、息が止まった。そうすると頑張る方向が変わった。発作を起こさないように、我慢しなきゃって思ったのだ。
結局、十三時くらいまで織田さんちにいて、会社の事務所に戻ったのは十三時過ぎだった。事務所にはレンタル仲間や従業員が何人かいた。見知った顔だ。僕の名前を覚えている人もいた。僕は軽く会釈をして、すぐに社長室に行った。
「やあやあ、ひろくん」
「ただいま……」
「酷く疲れた顔だね。大丈夫?」
「いっぱい触られた」
「そう……、ひろくんは可愛いから仕方ないよ」
「気持ち悪かった」
「恵那も触りたいなー」
「触ったら殴るよ」
「殴られたい!」
恵那は期待に満ちあふれた顔で言った。声が弾んでいた。
「痛みは愛だもんね、ひろくん!」
「違う」
「ひろくん大好き。ひろくんも恵那のこと大好きだよね?」
恵那はこれから起こることをわかっていた。小刻みに体を揺らして、舌をだし、呼吸を荒くする姿は、ご褒美を待つ犬のようだった。
「ひ~ろくん!」
恵那は恋人を抱きしめるように僕に抱き付いた。勢いに任せて、頬にキスをした。舌をだして頬を舐めた。何度も舐め回した。
「だいすき、だいすき~」
僕は恵那のいいようにされたくはなかった。だけど、もう我慢はできなかった。
「やめろ」
僕は恵那を突き飛ばした。恵那は抵抗しなかったから、勢いよく地面に投げだされた。どすん、という鈍い音がしたから、どこかを打ったかもしれなかった。
「えへへ……、わくわく、わくわく」
「どっか行ってて」
「やだ~」
恵那は無防備な体勢を取って、卑猥な声を出した。誘っているような、からかっているような、この場に似つかわしくない態度だ。僕は恵那を無視した。
「どっか行って」
それしか言えなかった。もう耐えられなかったのだ。僕はデスクの上のパソコンモニタを掴んで勢いよく地面に叩きつけた。跳ね返って恵那の方に飛んでいったような気もしたが、もう気にならなかった。次にキーボードをとって壁に叩きつけた。次は、デスクを掴んで強引になぎ倒した。ボールペンとかフイルとかが散乱した。
「きゃー、きゃー」
恵那が騒いでる声が聞こえた。表情は読み取れなかった。次は書棚に手をかけた。大きなファイルや書籍がびっしりと詰まっていた。透明なプラスチックの引き戸もついていた。とても重そうだった。でも、関係がなかった。非力な僕は、燃え上がるそれに突き動かされて、力一杯に押した。ものの数秒だった。本棚は少し傾き始めると、一気に地面に崩れ落ちた。すごい音がした。
「あはははー」
嬉しそうな恵那の声が聞こえた。室内の惨状に冷静になるにはまだ早かった。僕は床に散乱する本やらファイルやらを蹴りとばしたり、踏みつけたりした。何度も何度も繰り返した。声は出さなかった。だから恵那の声だけが響いていた。
数分か、数十分か、時間はよくわからなかった。夢中になると、時間を忘れる。ふと我に返って時計を見ると、三十分を過ぎていた。酷く疲れていた。体が重くて、熱かった。呼吸が荒くて、汗まで掻いていた。足が痛い。手も痛い。気が付くと、何カ所か出血していた。後先考えずに叩いたり、蹴ったりしたせいだった。
「ひ~ろくん」
声は書類の中から聞こえた。視線を落とすと恵那が埋もれていた。僕の血がついたのか、顔が汚れていた。
「気持ちよかった?」
煽るような言い方だった。僕はまだ興奮していた。熱は冷めてきたけれど、早々冷静にはならなかった。
「最悪」
「恵那は気持ちよかった」
「鬱だ」
「でももっと気持ちよくなりたいの」
「殴らない」
「やだ、今からシてよ」
恵那は誘うように言った。同い年とは思えない妖艶な表情をしていた。呼吸が荒くて、よくみると唾液が口から漏れていた。とても気持ちの悪い顔だ。見るに耐えなかった。
「もうしない」
「シないと満足できないよ」
「もう殴らない。したくない」
「我慢は悪なんだよ。解放したら気持ちいよ。幸せだよ。嫌なことみーんな忘れて、最高になるんだ」
「嫌だ」
「痛みは愛でしょ」
「違う」
「恵那は愛されたいの」
「痛いのは、いけないことだ」
僕は段々と冷静になった。そして自分がしたことを酷く嫌悪した。僕は、接触恐怖症だ。母のせいか、なんなのか原因はともかくとしても、人と触れあうことが酷く恐いのだ。
それでも、我慢をすることはできた。めぐみやあおい、奏、恵那、みんなと触れあいたかったから、我慢を覚えた。最初は小さかった我慢も、次第によく知らない他人相手でも、できるようになった。織田さんちの人たちに触られても、耐えられるくらいには成長した。普通になるには、それくらいできなきゃいけないと思ったからだった。
「我慢は悪いこと」と、小さいころも恵那に言われた。僕は、昔から我慢ばかりしてきた。檻に閉じこめられていたころも、母に行為を強制されていたときも、あまり抵抗というものをしなかった。そういう無意識下の我慢は、恵那がいうように、僕を蝕んでいた。
僕には、破壊衝動があった。我慢が限界を超えると、発作のように大暴れする症状があった。。自覚したのは七年前、病院に入院していた時だった。琴音先生に言わせれば、退行現象の一種だというのだが、七年経っても根本的な解決法は見いだせていなかった。発作が起きると、僕は手当たり次第に周囲のものを破壊し、時には人を傷つけた。僕が僕じゃないみたいになるのが恐くて、破壊衝動も我慢しようとしてきた。おかげで一時的に抑えることはできるようになったが、後で溜まったったものを発散しなければいけなかった。仕事の後はほとんど毎回、こうして暴れていた。
いつも恵那は期待していた。恵那は暴力が好きだった。殴るもの、殴られるのも、快感を感じる行為だった。恵那が育ったところでは、暴力は日常だったし、拒否するものではなく受容するものだった。恵那の性癖は歪んでいた。僕が暴れるといつも喜んでいた。
恵那は待っていた。そして期待していた。
「そんなこと言ってぇ、昔はあんなに気持ちよくしてくれたのにぃ」
恵那は欲求不満そうな顔で起きあがった。ふて腐れていた。愛嬌のある顔だが、恵那の考えには賛同できなかった。
「楽しかったなぁ、病院」
「もうしない」
「あれがひろくんの本当の姿だよ。我慢していない、ありのままのひろくん」
七年前の病院が恵那にはどんな風に思い出されたのだろうか。
あのころの僕は、破壊衝動を全く制御できなかった。我慢は長続きせず、すぐに大暴れして先生たちを困らせていた。
恵那は今と同じような調子で、僕へちょっかいを出すものだから、僕は何度も恵那を暴行した。その度に恵那は満たされた表情で笑うのだ。
七年経って僕は少しは変わった。暴力はいけないことだから我慢しようと努力するようになったし、暴れる時も人に迷惑をかけないように、こうやって誰もいない個室でするようになった。恵那も変わった。常識を学び、会社を興し、体は大人の女性に近づいてきた。けれど、根本は何も変わっていないように思えた。
「むすぅ、我慢しなくていいのにぃ。恵那はひろくんのありのままを受け容れてくれる運命の相手なのにぃ」
「恵那はおかしい」
「むぅ、ひろくんだって同じなくせに~!」
「そうだよ……」
僕たちは頭がおかしかった。
普通になりたいという夢は、途方もなく遠い野望に思えた