診察の日
診察の日は、金曜の午後と決まっていた。月に二回、僕はめぐみと川越の国立病院へ出かけた。病院は、駅から離れた郊外にあった。川越名産の里芋畑が広がる風景の中にあるから、バスで向かう途中でも結構遠くから見えた。
建物は外来と入院病棟の二棟建てで、渡り廊下で繋がっていた。病院の正式名称は、国立児童精神医療研究センター病院といった。僕らは国立児童精神と省略して呼んでいた。一般外来は受けいれていない高度医療病院という種別の病院で、受診するには医療関係者からの紹介状が必要だった。日本で二つしかない児童精神医療に特化した国立病院ということで、外来は全国から受診者が来訪した。
十月の金曜日、僕とめぐみは十五時過ぎにそこに着いた。広いエントランスをくぐり、受付をすませて、診察室がある二階へ行った。ソファに腰掛けて、案内を待った。十六時前、予約よりも少し早く、名前が呼ばれた。僕はめぐみを置いて、診察室へ入った。
「待ちきれなかったー」
入るなり琴音先生は白衣を乱しながら、僕へ抱擁するそぶりをした。茶色でパーマがかかった長い髪が宙に舞った。品のよさそうなメガネがズレているが、気にしていない感じだ。
「毎日会ってるでしょ、意味不明です」
「だって密室だしー」
「それ、医者が言うセリフですか」
「うん! 千尋くん大好きだし」
ハイテンションというには些か激しいので、どちらかというとお薬をキメているみたいな感じと形容する方がしっくりきた。先生は大抵、そういう調子だった。先生は嬉々とした様子で、手招きをした。僕は丸い椅子に腰掛けたが、抱擁されそうになったドキドキが残っていた。そして疑問を感じたから、質問を投げかけた。
「やっぱり先生はおかしい。僕を怖がらせて何の意味があるんですか」
「ちょっとした冗談じゃないの~、んもう」
「冗談じゃ済まないです。僕は真剣に治そうって頑張ってるのに」
「怒った?」
「血管が沸騰してます」
先生のことは信頼していた。僕の事情を詳しく承知しているし、行く当てのない僕を家に導いてくれた人でもあった。冗談めかした振る舞いは、僕が緊張しないようにするためだ、ということもわかってはいた。ただ、度を超した行為が目立つから、僕は我慢せずに言った。
「先生は病気です」
「人間はみんな病気なの。愛という病」
「メンヘラおばさん」
「お姉さん」
「小児性愛性犯罪者」
「男の子を可愛がるお姉さん」
「あたおか」
なにを話しても、僕は相手にされなかった。先生は変人だが、賢かった。アメリカの大学を出た医者だ。小学校もろくに通っていない僕が、論争で勝利する術はなかった。
先生のカウンセリングは認知行動療法を基本としていた。認知行動療法とは、PTSDの治療に用いられる治療方法の一つで、トラウマの原因となった事象を想起しながら、認識を改めていくことを目的とする。例えば、母を殺した→悪いことだ→僕は悪人→と、罪の意識に苛まれ、精神や肉体に症状がでているのだとしたら、母を殺した→母は悪い人だった→殺したのはいいことだった→僕は悪人ではない→と、考えを修正してくのだ。先生はしばしば、それに家族というキーワードを付け加えた。
「それで、お母さんを殴っていた、と」
「殴るだけじゃありません。蹴ったり、踏みつけたり、刃物で切りつけることもあった」
「なんでお母さんはそんなことをさせたのかな」
「さあ……。分かりません」
「でもお母さんは喜んでいたんでしょう?」
「涎を垂らして痙攣してました」
「それを見て千尋くんはどう思った?」
「役に立ててよかった、と」
「嫌じゃなかった?」
「どちらかといえば。……八対三くらいですかね」
「嫌が八?」
「いえ、そっちが三」
僕は母に監禁されていることに不満を感じていた。母は甘かったのだ。僕を愛玩具として扱うのなら、生まれたときからずっと閉じこめるべきだった。しかし僕は幼稚園と小学校に通っていたことがあるから、外の世界を少なからず知っていた。テレビやインターネットもある時期までは自由に使えた。アニメ番組で、監禁や拘束というものは見たことがあった。悪いことをしたら、鉄格子の檻に閉じこめられるのだ。アニメではコミカルな演出がされていたけれど、現実は苦しかった。どこで購入したのかは分からないけれど、それは大きな鉄格子がついた堅牢なものだった。恐らくはペットを飼育するためのものだろうと思うが、小さかった僕が中で立ち上がれるくらいの大きさがあった。自由を奪われるというのは、子供ながらにも絶望的だった。カーテンが閉め切られた部屋で一人過ごす夜は、不安に恐怖した。特に冬場は、檻が氷のように冷えきるから、上手く寝付けなかった。こんなにも辛い仕打ちをするお母さんなんて死んでしまえばいい、と思うこともあった。だけど、檻は悪いことをした人が監禁される場所だ。僕はお母さんのいいつけを守れず、悪いことをしてしまったから、仕方ないのだと思うことの方が多かった。お母さんはいいつけを守れない僕を大切にしているから、「これは愛なの。ちぃちゃんのためなの」と言う言葉の通り、危険から僕を守護するためにこうしているのだ、と本気で信じていた。
「痛みは愛だから」
僕がぼそっと言っても、先生は朗らかな笑みを崩さない。先生はポーカーフェイスだった。いつもニコニコしていた。その笑みは母性的でもあるし、何かを企んでいるようにも見えた。
「僕に痛めつけられるのも愛」
「千尋くんも愛情表現として殴った」
「そういう気持ちもあった」
「愛をこめて?」
「はい。お母さんが喜んでいるのは、僕の愛を感じるからだって、言ってたから」
「被虐性愛みたいな感じだったのかしらね」
「なんですかそれ」
「マゾヒズム。痛みに快感を感じる性的嗜好のこと」
「あぁ」
「前も教えたでしょ」
「そうでしたっけ。僕、物覚え悪いから」
虐待された子供は脳が萎縮する。前頭葉も海馬も正常に機能していないのなら、僕の学力が低いことも当然のことだ。ホルモン異常も脳下垂体が萎縮しているからだ。コミュニケーション能力が低いのも、脳神経細胞間の情報伝達速度が遅いからだ。全部、そのせいだと責任を押しつけてみても、現状が打破出来るわけではないから、無意味に感じた。
「そんなことはないわ。千尋くんは普通の子と変わらない。ただちょっと、環境が違っただけなのよ」
「普通になりたい」
「なれるわよ」
「分からない」
僕は僕のことを信じられなかった。監禁されていたころの僕は、母によって齎されたその苦痛を、愛だと思い込もうとしていた。僕を愛しているからこそ、僕へ痛みという愛をくれるのだ。僕は被虐性愛の性癖はなかったから、普段は、冷たい檻の感触がただ苦痛だった。でも、愛だ愛だと念じていると、次第に気持ちがよくなって、なんだか胸が温かい感じになることがあった。そんな僕だったから、母を殺したとしてもなんら不思議がなかった。痛くて苦しいから、お母さんへ怒りをぶつけたかった。痛くて苦しい愛情をいっぱいくれるから、お母さんへ愛の痛みを返したかった。そもそも痛くて苦しいというお母さんへの怒りそのものが、愛だ。痛くて苦しいから殺したいほどに憎いという気持ちは、愛だ。
「そんな風に思ったのかもしれない。僕はおかしい」
「環境よ。先生だってそんな境遇だったら、同じことをしたかもしれないし、大体、千尋くんが犯人だなんて誰も言ってないし、証拠もないじゃない」
「でもそんな気がする」
「それこそが思い込み。悪い方に思い込んで人生を生きづらくしてる」
先生は落ち着いた調子で僕と話しながら、認知の歪みを正そうとしていた。先生は頭がよかった。僕がなにを話してもポジティブな意味に変換して返した。
「証拠がないから、悪いことをしてない。それが認知行動療法ですか」
「そうそう。千尋くんは、証拠も記憶もないから、自分が犯人かもしれないって疑ってるんでしょう。そのマイナスな思考をプラスに持っていけば夢だってきっと叶うわよ」
「願えば叶うと」
「人生は脳が支配するの。思考は現実になる」
「怪しい宗教みたい」
僕がぼそぼそと独語のように呟くと、先生は苦い顔をした。すぐに柔やかに表情を作り直したが、いつも前向きな先生にもきつい話題はあるようだった。
僕はいつも先生に弄ばれていて、仕返しをしたかった。冗談なのか本気なのか分からないことが多い先生の行動には、いつも参っている。全体としてみれば大きな感謝があり本当の母のよう慕っているが、だからこそちょっと反抗してみたくなるときがあった。
「先生は今、恵那をどう思ってますか」
その名前を聞いた先生は怪訝な顔をした。相生恵那。昔、この病院にあおいと僕と一緒に入院していた女の子で、妹ちゃんと呼ばれていた子だ。歳はみんな同じで、境遇に違いはあれど精神面に受けたダメージは大差ない感じだった。
「どうって」
「恵那はポジティブ思考でしょ」
恵那は欲望に従順だった。したいと思ったことを、すぐにした。倫理的に許されないような行為であっても、抑制がきかなかった。恵那はまるで動物のようだった。本能を愛し、衝動的に生きた。嫌いだから、殴りたい。殴られたから、痛いから、犯したい。「殺してみたいから、切り刻んでみた」
恵那はそんな風に殺人について愉悦の表情で言った。恵那は絆の会という共助団体で育った。占い師が始めたセラピーが母体になったその団体は、ナチュラルマインドフルネスという思想を掲げていて、全国各地に自給自足を営む村があった。団体の思想は単純明快だが一般社会からは狂気の集団に映った。
ストレスや生きづらさの原因は、欲があるからである。無欲の境地に至れば、自然と同化して生の苦しみから解放される。しかし現実として、厳しい修行に耐え抜いて神と同義の存在になるのは些か困難だ。そこでお手軽に行える方法としてある人物は塊法という手段を説いた。塊法は、無欲になるには、欲望を徹底的に叶えればいいと説いていた。例えば初めてのセックスは筆舌に尽くしがたい快感を得ることができたとしても、何度も何度も同じ相手と行為を積み重ねたらやがて飽きが来るものだ。刺激を求めて、コスプレをしたりサドマゾヒズムを導入したり、屋外に場所を移してみたりと試行錯誤する。それでも限界はあるから、行きつく先は性への無関心である。それはどんなことにも当てはまり、何度も何度も経験を重ねるうちに人間は慣れていき、飽きを感じて、どんなことにも動じない強靱なマインドを手に入れることが出来る。
絆の会の村には、信教を共にする同士しか居なかった。彼ら彼女らは、お互いの欲の対象になることに喜びを感じた。隣人にある日突然、なんの脈絡もなく暴行を受けると手放しで拍手に溺れた。接点のなかった男性に突然犯されると、素晴らしいことだと相手を褒めた。倫理観のたがを外して欲望に身を任せ、全ての願望を叶えれば、その先にあるのは無欲というストレスフリーの世界だ。互いが互いの豊かな未来を願い、動物のように野蛮な姿を称賛し合った。恵那はそんな場所で育った。