帰路
学校が終わると、帰路に着いた。あおいの家は同じ路線の三駅先だった。だから、一緒に列車に乗り帰ることが多かった。そのまま、うちに遊びに来ることもよくあった。琴音先生とは旧知の仲であるし、そのころも先生の患者だった。退院はしたが、僕もあおいも、先生に月二回診てもらっていた。
家は駅から歩いて一五分くらいの河川敷にあった。裏庭を出ると、一級河川があり、毎朝毎晩、風が強かった。それは谷風という現象のせいだということは、年下の女の子に教えてもらった。
「谷風というのは、簡単に言うと気圧差で起こる空気の移動のこと。熱い空気は軽くて、冷たい空気は重い。空気の温度差で風が起きるの」
「そうそう、前にも聞いた」
「この時期はまだ風が強いよ。気温差あるし」
日中、太陽に照らされて熱くなった空気は、比重が軽いから上空へあがる。一方で夜になり空気が冷えると、下へ下りてくる。この循環が風になる。高低差がある地形だと、そうした動きが顕著になるため、谷では特に起こりやすい。大きな川の側は、土手があったりして、高低差があることが多いから、川でも同じ原理があるという。他にも遮蔽物がないために、空気が流れやすい影響もあるそうで、それを川風というらしかった。
「十月だもん」
家に帰った僕たちへ、流暢に説明したのは小六の女の子だった。名前は日高奏といった。僕と同じで里子としてそこで暮らしていた。奏は僕よりも五こ年下だが、身長体重は同じくらいだった。頭脳は、奏の方が上。奏は賢かった。
「千尋、あそぼー」
「疲れてるから」
「えー、なんでー、千尋、疲れる理由ないじゃん」
「外に居るだけで疲れる」
「じゃあ家に帰ってきたんだからもういいじゃん。みんなでコスプレ撮ろうよ」
奏はアニメやゲームが好きだった。毎日、たくさんのアニメをパソコンやテレビで観ていた。お気に入りは繰り返し何度も観ていた。飽きないのかと訊くと、「ゲームしながらでちょうどいい」と携帯ゲーム機をいじっていた。器用なものだなと思った。耳でアニメを聞きながら、目はゲームに向いていた。そうすると効率がいいのだという。まだ若いのに、好きなものがあっていいなと思っていた。僕はこれといった趣味がなかった。だから奏に付き合って、一緒にゲームをしたりアニメを観たりした。僕は反射神経があまりよくないらしく、対戦ゲームは苦手だった。シミュレーション系のゲームのほうがゆっくり考えながらプレイできるので好きだったけど、飽きやすかった。アニメを観ていてもそうだった。最初は集中していられるのだけど、途中から別のことに気がむいてしまって、気が付くと内容についていけなくなることが多かった。
「虐待された子はね、脳が萎縮するんだって」
「へぇさすが、詳しい」
「先生が言ってたよ」
奏に言われて先生に訊いたら、同じことを言っていた。同時に、「身近な人……、例えば家族と幼少期に離ればなれになった子は、強い喪失感の影響を受けやすい。つまり飽きやすくなる。全てに」とも教わった。確かに、言われてみると、なんに対しても、いつか終わる、なくなる、と考える自分がいた。人間関係は特にそうだ。いつかは死ぬ、突然に死ぬ、死んでいなくなる、だから一歩、下がったところから接していた。それが当たり前だったから、
「死なないよ。千尋は死なない。奏も死なない」
と奏に強く言われたときは、なんだか申し訳ないような気がした。
「ゲームではどっちも死ぬけどね」
といいながら奏にモニタ内で殺された。
十月のその日は、結局、コスプレ撮影をすることになった。僕は反対したが、めぐみもあおいも乗り気だった。めぐみはスタイルがいいし、あおいは顔がよかった。奏にしてみたら、自分がコスプレするのも好きだが、完成度の高いレイヤーの撮影をするのも好きだったから、喜んでいた。奏は二人のことが好きだった。少し年上で、同性の美人。慕われるとがあおいたちも嬉しそうだった。
奏のコスプレ素材はネットで買ったり、池袋で買ったりしたものだった。僕たちの登校についてきて、購入したり、撮影スタジオへ行ったこともある。値段が高いイメージがあったが、以外と手ごろな価格で驚いた。そうした物のお金は、琴音先生が出していた。先生は国立病院の主任医師だし、書籍も出していたから、金銭的には余裕があった。ただ、非行癖があっためぐみには生活習慣を改善するために、お小遣いを制限していた。僕はそれよりは多くもらっていた。ただ、特に買いたい物はないし、趣味もなかったから、使うにしても、昼食代と、後は勉強のために本を買うくらいだった。しかも昼食はあおいが奢ってくれることが多かったし、知りたいことはインターネットで結構知れたから、お金は余っていた。
そう考えると、先生はお金には甘い人だった。奏のコスプレ道具は、かなり高額だった。一つで数万するドレスもあったし、ウィッグやカラーコンタクト等の小道具も含めると、相当額だったと思うが、息をするように奏はどんどん買っていた。
「わぁ、やっぱり綺麗~」
二階の和室。奏の部屋。女子高生風の衣装とピンク色のウィッグを着用したあおいは、星形の模様が入ったカラーコンタクトを輝かせて、にんまりと笑った。ラブコメアニメのヒロインのコスプレだが、とても似合っていた。そのアニメはいわゆる日常ラブコメに分類されるTHE・深夜アニメという感じの作品で、僕も見たことがあった。内容はよく覚えていないのだが、キャラクターの台詞は覚えていた。
「私、神様なので」
あおいは粘っこい声でぼそっと言った。あおいの声は鈴が鳴るように透明感があるが、キャラへのなりきりという意味では全然だめだった。
「なんでもできるので」
~で、~ので、という語尾がそのキャラの特徴だった。前向きで一生懸命な性格で、主人公のために頑張る健気さが人気だったから、冷めた感じの演技はまるで似合わない。
「完璧なので」
「でも芝居はできないね」
調子に乗って台詞を言うあおいへ僕は釘を刺した。いつもからかわれている仕返しだった。あおいは表情一つ変えず、淡々と言った。
「じゃあ千尋がやってみて」
「僕は男だ」
「コスプレに性別は関係ない。ね? かなちゃん」
あおいが奏に目配せすると、少し大仰な感じで頷いた。
「うん! 誰でもなりたい物になれるのがコスプレなんだ」
分かってるな、という感じで意気揚々と言った。
「男の女も、年齢も関係ない。だからいいんだ。コスプレは」
そういう奏は着付け役だったので、今日は普段着だった。少年アニメのキャラクターTシャツを着ていた。手にはスマホを持っていた。撮影した写真をネットに公開したりもしていたが、本格的なカメラはまだ所有していなかった。
「え、みたい。ちーちゃんの!」
「私も見たい」
「しよしよ、千尋もー」
三人に圧力をかけられると、逃げられなかった。「じゃあ千尋は、こっちがいいかな。好きだったじゃん。この子」
と言って、奏がクローゼットの中から引っぱり出したのは、スカート丈が短い制服風衣装だった。「後これと」あおいの衣装とは、デザインが違うが、女物であることは違いない。「ウィッグは、これでいっかな」取り出したのは青色のストレートロングのウィッグ。大抵、そういうウィッグはポリエチレン素材で出来ているので、シリコンスプレー等で手入れをする。奏は慣れた手つきで、スプレーをしながら櫛を通した。「千尋も変身するんだ。変身」
ウキウキの奏を横目に僕は全く気乗りしなかった。それでも、その場の空気が、とても断れるものではなかった。
準備が整った後、僕はスカートを履いた。別の部屋でズボンを脱いで、ニーソクスも履いた。上はラインの入った空色のブレザーと白のシャツ、そして淡いリボンだ。とても恥ずかしいが、みんなの前に出ると、黄色い声を浴びた。
「ちーちゃん、かわいい~」
「よく似合う」
「千尋最高じゃん」
たくさんの声を浴びたと思うが、否定的な言葉はなかった。乗り気ではなかったが、褒められると、悪い気はしない。それどころか、気分が高揚し、別人になったように、ノリがよくなった。
「私を褒めるなんて百年早い!」
いくつか覚えていたセリフを言った。そのキャラは、あおいのと同じアニメのキャラで、高飛車なお嬢様だった。いつも上から目線だが、たまに弱いところを見せて、いわゆるデレる、ツンデレ系だった。
「でも……、あんたなら褒めるのを許可するわ!」
声を張るなんていつ以来だったか、覚えていないくらいだが、意外と、いい声が出た。声真似なんてしたことがないが、声変わりしていないせいか、意外に自分でも上手くできたと思った。
「似てる」
「ちーちゃん、めっちゃかわいい~、ちゅーしたい」
「才能開花してる~」
そう言われると嬉しくなって、もっとしたくなったが、覚えている台詞がなくなったので、何も言えなくなった。数十秒、もぞもぞしていると、段々、コスプレブーストがなくなって、平常心になってきた。そうなると、途端に、足下がスースーしてもどかしい感じになり、落ちつかなくなった。
「千尋写真撮ろう」
「いやだ」
「え~、なんでなんで? 撮ろうよ」
「恥ずかしいからだ」
「めっちゃ似合ってるのに」
奏は不思議そうな顔をしたが、諦める様子はない。ごねている間に、あおいは畳に座って、お菓子を食べ始めた。めぐみは、クローゼットを漁り、かけてあるウィッグを片っ端から、つけたり外したりしていた。暫く経ったが、納得しない僕をどうしても撮りたいのか、奏は交渉を持ちかけた。
「じゃあ一緒に撮ろうよ」
「姉妹になっちゃうよ」
「いやいや、よくて同級生でしょー」
「そんなに幼い? 僕」
「うん。小学校にいても、違和感なし」
「そっか……」
その言葉に意気消沈した。筋骨隆々の男らしい男になりたいとは思わないが、年相応にみられたいという気持ちはあった。僕はみんなと違うことに劣等感を感じていたから、制服を着て街に出ると普通になったような気がして嬉しかったように、普通の世界に溶け込みたかったのだ。僕がみんなと違うのはわかっていたけど、あおいのように、それが自分らしさだと自信を持つほどの胆力はないし、めぐみのように自由奔放な生き方も出来ない。だからあどけない容姿を指摘されるのは、嫌だった。
「うんうん、じゃ撮ろ撮ろ」
気落ちしている間に、奏が隣に立って僕の肩に腕を回した。顔を近づけて、スマホを構えた。奏は素早かった。
「はい、ちー、ちゃん」
リズムカルにシャッターの合図を言った。僕はもう撮られるしかなかった。奏は溌溂とした笑顔だった。僕はふて腐れたような顔をしていた。笑う気分ではなかった。
後日、その写真は奏のSNSで投稿された。同時に、コスプレ写真専門サイトの奏のアカウントでも投稿をした。恥ずかしいからコメントなどは全く見たくないから、気にもしていなかったが、数日後、あおいが僕へ写真とコメントのスクショをLINEしてきた。
《姉妹だって》
《同級生じゃなくてよかったよ》
《かなちゃんが姉って声が多いよ》
《奏が喜ぶよ》
仲のいい小学生姉妹による微笑ましい写真。と思われたことは、ショックだったが、想定されていたことではあった。僕は二次性徴が殆どないから、顔立ちもそうだが、小学生みたいな貧相な体をしている。喉仏がなくて、骨張ってなくて、体毛が薄い。だからミニスカートを履いても、すね毛を剃ったりする必要がなかった。奏には褒められるが、僕には喜ばしいことではない。
その件で、奏にも訊いてみた。
ある日の夕方、一緒にゲームをしていたときだ。奏は僕がそういうのを嫌っているのを知っているから、あんまり話題には出さない。
「えへへ、やっぱ千尋女の子だよ。声真似もしたらきっとバズるって」
「絶対嫌だ」
「ぼくからしたら、羨ましいんだけどなぁ」
と言うと奏はあっ、という顔をして口元を抑えた。僕はゲームを一時停止した。
「あ、またぼくって言っちゃった」
「いいんじゃない。僕で」
「だめだめ。今は女の子なんだから、変だよ」
「それぞれの生き方でいいじゃないか」
「自分に出来ないことを、ぼくに言うな」
奏にぐうの音も出ないことを言われて絶句した。確かに、それはアドバイスというよりも、僕の理想を言っただけだった。
「奏はすごいよ。僕より、自分らしく生きてる」
「ぜんぜんだめ。ぼくも千尋みたいに、成長出来たらいいけど」
「そう?」
「うん。千尋高二なのに女の子みたいだもん。そうなりたいわー」
そう言いながら、奏はゲームを再開した。ゲームに熱中しながらも、ショートボブの髪を手ぐしで時々直す姿は、女の子らしい品があった。
奏は誰よりも長く琴音先生の里子として暮らしていた。生物学的には男だが、出会ってから一度も、僕は奏を男だと思ったことはない。外の世界でも、そうだ。奏と外出しても、兄妹かいとこ、友達に思われることが多かった。学校でも、女子として扱われているらしかった。小さいころの癖で、度々、ぼくと言ってしまうのを気にしているらしいが、ぼくっ娘がいてもいいのではないか、と思った。それこそ、奏が好きなアニメやゲームの世界には、ぼくという一人称の女性なんてたくさんいるのだ。そう質問して、
「女の子と触れあいたいのは男の本能なのに、なんで千尋は触れないの?」
と返された。
「触れたら、気持ち悪いから」
「それと同じだよ。奏もね、ぼくは嫌なの」
「そうか」
僕はそれ以上何も言えなかった。