家から学校までは一時間
家から学校までは一時間くらいだった。電車で乗り替え一回。学校は池袋のテナントビルにあった。サンシャイン六十階通りの途中にあり、駅からのアクセスはよかった。僕は人混みが嫌いだったが、学校には行くべきだと思っていたから、頑張って通学していた。通信制だから、学校には行かなくてもいいのかと最初は思ったけど、毎日、授業があった。単位には関係がない学習支援のような授業だったから拘束力はなかったけど、勉強することは楽しかったし、外の世界を知るのも有意義だった。電車の中、あるいは街中で、人間観察をしていると、なんだか僕も普通になったように思えて、嬉しかった。僕の学校は現役のみの通信制で、制服もあったから、めぐみと二人、ブレザーを着て、登校をすると、これまでの人生が夢だったかのように、街の中に溶けて染まっていく感じがして、なんだか嬉しかった。普通でいること、普通に見えること、そんなことで快感を覚えるのはきっと僕くらいだ。
ビルの五階と六階が学校だった。エレベーターに乗り、市役所みたいな受付を抜けて、教室に入った。クラスというものはなかったけど、生徒番号はあったから、授業の開始時に、出席表という小さなメモ札に、名前と共に記入して提出した。
スクーリングの時は、出席番号を元にして、クラスと席が指定されるが、それ以外、席は自由だった。
教室に入ると、奥の方で青白い少女が手を上げた。
「おはよ」
そういったように見えたが、声は聞こえなかった。
「おはよーっ」
めぐみは駆けだして少女に抱き付いた。僕は遅れてゆっくりと行った。教室は狭いし、生徒は常に十人以上は居たから、体に触れないようにするのが難しいのだ。衣服越しの接触くらいだったら気持ち悪いくらいで昏倒はしないが、できれば避けたい。大体、人に会って駆け出すほど嬉しいという気持ちが、僕には分からなかった。
その相手が家族のような相手だとしても。
「おはよ、千尋」
「あおいちゃん、おはよう」
「相変わらず小さい」
「一日で大きくなるわけない」
「でもなるかも、千尋も男だし、環境には恵まれてる」
「下ネタは嫌い」
「あ、意味わかったんだ。千尋も意外とやるじゃない」
川澄あおいはバカにするように微笑んだ。あおいは、僕と同い年の女の子だ。一応、クラスメイトといっても差し支えはないが、それ以上に、家族という感覚の方が近かった。あおいは、僕が入院していた時、姉ちゃんと呼んでいた女の子だ。僕よりも後に退院をして、川越で祖母と暮らしていた。
「大きくなる日も近いかしら」
「下ネタは嫌い」
「でも刺激しないと男性ホルモンもでないじゃない」
「その前にストレスで死ぬ」
あおいはいつも僕をからかって遊んでいた。僕は身体機能に発達障害があって、極端に背が小さかった。一六歳の高二にして、身長は一四〇㎝台だったし、体重は四〇㎏以下だった。顔立ちは幼く、声はあどけなくて、声変わりをしていなかった。僕は二次性徴が殆どきていなかった。原因は色々と考えられた。脳の先天的異常、虐待の影響、服用する精神薬の副作用……。ホルモン投与をすることも可能だったが、気分や感情面に副作用があると聞いて、断っていた。二次性徴が弱いから、男性機能も発達していなかった。僕は精通を経験したことがなかった。弱々しくて、小学生に見間違われることこともよくあった。めぐみと並んで歩くと、姉弟どころか、親子に思われたこともある。めぐみは中身は幼稚だが、容姿は大人びて華やかだ。社交的でもある。一方の僕はそんな見た目だし、コミュニケーション能力も皆無だから、そんな風に見えてもおかしくはなかった。
「千尋は情けないなぁ」
「僕なりに頑張ってはいる」
「それはわかる」
「手だって繋げるんだ」
見せつけるようにあおいの手を握って言った。
人の体に触れるのはトラウマの影響で難しいのだが、最近はそうでもないケースができた。あおいやめぐみたちだったら、手を握るくらいなら意をけして頑張れば、できるようになったのだ。僕は誇らしげに目線を合わせた。
「ほら」
「へぇ、手繋げて偉いね。えらいえらい」
あおいは再びバカにするように薄く笑い、同じ言葉を繰り返した。
「えらいえらい」
「僕も成長してるんだ」
「がんばれ」
機械のように抑揚のない調子だったが、あおいはいつもそんな話し方をする。だから何を考えているのか全然わからなかった。僕は人間のことが嫌いだけど、興味はあった。お母さんがなんであんなことを僕にしていたのか、知るためだ。「原因を知れば、答えが分かる。対策もできる。だからまずはいっぱい勉強して、たくさん考えるの」とは、琴音先生が僕の病気に対して言ったことだった。だから、日頃から人間のことを観察しようと意識していた。そうしていると、いつも薄く笑って、冷めた調子のあおいの内側にあるものが、段々と見えるようになった。
あおいは、僕と似たところがあった。特殊な家庭環境で育ち、普通とは違う価値観を持った。そういう人が社会では生きづらいことは、それまでの人生で身をもって知ったけど、あおいは自分を卑下しなかった。解離性障害という病気を主にするあおいは、感情表現が苦手なのだが、そういう自分を誇りに思っているところがあった。そこは僕とは全然違った。
たとえば昼食の時だ。僕たち大抵、学校の周辺で外食をした。僕とめぐみは里子という立場上、お金はあまりなかったけど、あおいはお金持ちだった。祖母が裕福らしいのだが、会ったことはなかった。おかげで、あおいがいいと言えば、なんでも食べたいものが食べられた。
よく食べていたのは、路地裏にあったラーメン屋。ニンニクや油のきいた濃厚ガツガツ系が売りのお店だった。麺は太麺で、スープは辛味噌、味噌、醤油、豚骨の四種類が選べた。上に乗せる野菜の量も選べて、一番多いのを選ぶと、器から溢れ出しそうだった。
僕は小食だから、いつも少なめを選んでいた。ニンニクや油も、減らしてもらっていた。濃い味が苦手だった。めぐみも同じだった。ただしそれは僕とは違う理由だった。めぐみは味覚障害があって、甘み以外を強く感じることができなかった。普通の味噌ラーメンを食べたとしても、殆ど無味に感じていた。だから、ニンニクなどの量をアレンジしても無駄だった。めぐみは、スクールバッグにいつも蜂蜜を忍ばせていて、食べる前になんにでもかけた。ラーメンでも餃子でも炒飯でもかけて、毎食ごとに百㎖のチューブを使い切った。だから僕らはカウンターには一度も座らなかった。味の好みは人それぞれとはいえ、さすがに持ち込みは非常識として怒られるからだ。めぐみは社交的な部分があり、そのあたりを器用に立ち回れた。
あおいは、いつもいわゆる全マシを頼んでいた。肉厚のチャーシューを五枚トッピングし、餃子も二皿注文した。制服を着用する少女が、平日の昼間から濃厚なラーメンをすする姿は少し浮いていた。お店は男性が圧倒的に多くて、油とニンニクの臭いが店外に溢れてくるほどだった。女性客の割合は、見た感じでは0.1%くらいだった。あおいは人目も気にせず、飲み込むように食べた。あおいは大食いだった。そして早食いでもあった。僕が食べおわるよりも随分と早く、それらを平らげた後で、再び食券を買って、同じ量のラーメンを注文した。スープを変えたり、トッピングを変えることもあった。常連だったから店員さんが驚くことはなかったけど、新しく入ったアルバイトの人は驚いた顔をしていた。ただ、あおいは涼しげだった。汗を掻くこともなく、表情一つ変えず、淡々としていた。どこにいっても、そんな調子でたくさん食べるものだから、横目でお客さんにじろじろと見られることもあったが、あおいは気にする素振りを見せなかった。というより、気にしていなかった。何度か聞いたことがあるが、あおいは、
「だって食べたいんだから、しょうがないじゃない」
といつもの調子で言っていた。じろじろ見られることについても、
「私が美人だから、しょうがない」
と本気なのか冗談なのかわからないことを言って、僕を困らせた。
「私は私なんだから、他人の目なんか気にしてもしょうがない」
ラーメンを食べおわった後、あおいは好奇の目に振り返ることもなく、ボソボソといつもの冷めた声で言った。それは独り言のようにも思えたが、なんとなく僕へ言われているようにも感じた。
あおいは、そんな風に自分に自信を持っていた。抑揚のない話し方や薄笑みが、他人にあまりいい印象を与えないことは、自覚していた。社交的なめぐみと比べたら、一目瞭然だった。それについても「育った境遇のせいだから仕方ない」とあおいは困った様子を見せなかった。「それが私だし」
あおいはいつも堂々としていた。ラーメン屋での振る舞いもそうだった。僕だったらあんなにも人にじろじろと見られたら、恐くなって、逃げだす。しかしあおいは動じる素振りがなかった。そういうところを僕が褒めたら、「境遇のおかげ」と過去を誇っていた。他にも、色が白くて、瞳が大きい整った顔立ちを褒めたら、「言われるまでもない」と恥ずかしがることもなかった。なんというかあおいはカリスマ性があった。我が道を行くと、その後を誰かが追いかけてくるような、魅力があった。
「私、神子だったし、尊敬されるのが得意なの」とあおいはいつもの調子で言っていたが、どうにもそれが本心っぽいと、そのころ段々と分かってきた。