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外傷  作者: 葵栞
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年月は瞬く間に過ぎる

 年月は瞬く間に過ぎる。

 僕は一六歳になった。

 その時は精神科医の三上琴音先生の家で里子として暮らしていた。先生は、僕が病院でママちゃんと呼んでいた人だった。法律で規定された専門里親制度によって、先生に引き取られたのが大体、一年くらい前だった。

 児童精神医療会で著名な琴音先生は、僕が入院していた国立児童精神医療研究センター病院の主任を若くして任されていた。同時に、プライベートで里親としての活動もしていて、関東の田舎町にある先生の家には、僕を含めて里子が三人住んでいた。

 当時の日本の里親制度には大きく四つの区分があり、それぞれ、養育里親、専門里親、短期里親、親族里親に分かれていた。そのうち専門里親は、児童虐待や非行など、特別な支援を必要とする児童を対象とした区分で、なるには児童心理学の講習を受ける必要があった。

「千尋くんのために里親になったのよ」

「違うでしょ」

「だから褒めて~」

 高二の十月ごろ。リビングで朝食をとりながら先生は言った。

「いいこいいこして~」

「なぜ」

「大人だって褒められたいの」

「僕には無理」

「おねがい~」

 先生はおかしな人だった。精神科の先生らしく頭脳明晰だし、知識も豊富だけど掴み所がなかった。

「じゃあ、抱きしめさせて~」

「絶対無理」

「頑張ればできる。頑張れ」

「どういう立場」

 僕は時々、先生に呆れていた。頭がおかしいとさえ思うこともあった。

 ただ、先生がふざけた態度をとるのは、僕が緊張しないようにするため、という理由があることは分かっていた。おかげで僕は先生にならなんでも話すことができたし、とても信用していた。母が死んでから僕には家族がいなかったから、その家のみんなを本当に大切に思っていた。

「まあ気をつけて」

「うん。ありがとう」

 平日の八時頃には先生は家を出た。出勤するためだ。車で勤務先病院まで三十分くらいかかるらしかった。同居するもう二人のうち、一人は小学生なのだが、八時前には集団登校で学校に向かっているから、家に残ったのは僕と、雪村めぐみだけだった。

「ちーちゃん、行ってらっしゃいのちゅーしなかったの?」

「するわけない」

「えー、でも家族はするんだよ」

「しないから」

「でもするの。めぐとすればいー」

「絶対しない」

「素直じゃないちーちゃんは悪い子だ」

「そうかも」

「悪い子にはおしおきしなきゃね」

「痛いのは嫌だ」

 僕とめぐみ朝食の後片付けをしながら他愛のない話をしていた。朝食は大抵めぐみが作っていたが、あまり美味しくなかった。めぐみは料理が苦手だったが、料理することには憧れを抱いていてちょっと複雑だった。食卓を囲む椅子は元々六個合ったが、今は一つ壊れていて新しいものを探していた。壊したのは僕だったから、僕が責任を取りたいと思っていた。

「じゃあそろそろ行くよ~」

 平日は、九時前には通信制の高校へ出発した。同居する雪村めぐみは一つ年上の明るい女の子だった。めぐみも同じ高校に通っているから、いつも一緒に通学した。河川敷を歩いて、橋を渡り、丘の上の駅へ向かった。めぐみは、僕を弟のように思っていたらしく、過剰なスキンシップが多かった。僕は虐待の影響で身体的接触が嫌いだったが、めぐみはやたらめったら触ってきた。

 僕の境遇は何度も説明したはずだが、めぐみは理解していなかった。

「今からでも遅くない。出発のちゅーしよー」

「あたおか」

「ちーちゃん大好きっ」

 めぐみが僕を捕まえてキスをしようとしてきたら、僕は抵抗できなかった。めぐみは、僕よりも二十㎝くらい背が高かったし、なんというか勢いがすごかった。いつも元気で明るいが、物事を深く考えないのか、その笑顔は短絡的だった。そして僕は恐かった。誰かに身体を触られると、硬直してしまって動けなくなった。

「キスしたら倒れるよ」

「快感で?」

「ある意味そうかも」

 僕はボソボソと独り言のように言った。僕は人間のことが嫌いだったし、人づきあいも苦手だった。あまり対人関係を構築してこなかったからか、いわゆるコミュニケーション能力が低かった。人の目を見ないし、抑揚のない話し方をするし、声も小さかった。

「えへへ~、やっぱり嬉しいんじゃん! 家族ってね、キスするんだよ。愛情を表現するんだ」

「痛みは愛」

「いたみ?」

「お母さんが言ってた」

 めぐみの価値観はおかしかった。家族というのは、互いを想いあい、愛しあう関係だ。従って、キスもするしセックスもする。めぐみは僕を弟のように思っていたから、それらの行為をするのは当然だと言った。

 一般的価値観はあまりないとはいえ、多少なりとも常識を勉強したから、僕はそれが近親相姦というタブーに該当してしまうことだと知っていたし、普通はキスをしてもほっぺにちゅーくらいだと指摘したのだが、めぐみは大きな(まなこ)を見開いて、まるで理解しなかった。

 聞けばめぐみは水商売の母と二人で育ち、幼少期からお店の手伝いをし、制服を着るころには学校にも行かくなったという。ネットを駆使し体を売り物にしながら、日銭を集めて半ば放浪生活のような生き方をしてきたらしかった。

 琴音先生と出会い、身も心も入れ替えたとは言うが、めぐみは本当の家族を知らない。先生が思春期の精神治療に積極的に取り入れる「家族」をロールプレイする認知行動療法の影響かは知らぬが、めぐみは人一倍家族に憧れを抱いていた。だけどきっと本当を知らないせいで、歪んだ価値観を持っていた。



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