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外傷  作者: 葵栞
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昔、僕は精神病院に入院していたことがある。

 昔、僕は精神病院に入院していたことがある。小さいころの話しだが、その期間は二年にも及んだから、今でも特別な思いがある。

 その時、児童精神科の主治医は、認知行動療法の一貫として、患者三人に擬似的家族を作らせた。

 女性二人、男一人、そして先生は、それぞれ「(あね)ちゃん」「(いもうと)ちゃん」「(おとうと)ちゃん」「ママちゃん」と呼び合った。

 病棟内は比較的自由があった。介護士と看護師が常駐していたが、みんな優しかった。拘束着でベッドに縛り付けられたり、意図しない向精神薬を与薬されることは、殆どなかった。

「姉弟妹」三人で院内をよく散策した。入院病棟を出て、外来のエントランスにある売店へ買い物に行くのが毎日の日課だった。その日のおやつを買い出しに行くのは、ママちゃんから依頼された仕事だった。メモを握りしめて、封筒にお札を入れて、出かけるのは楽しみだった。

 姉ちゃんは淡々とした感じで、他人にも自分にも興味がないように、いつも涼しげな顔をしていた。だから僕が妹ちゃんに暴行を受けているときも、素っ気なかった。妹ちゃんは、僕を目の敵にしていた。口癖は「我慢は悪いことだ。したいことをしなかったら、神様に怒られるよ」だった。妹ちゃんは、衝動を抑制する機能が崩壊していた。脳の異常だと聞いたが、ただ本人にそういう気持ちがないだけのような気がした。妹ちゃんは、僕を何度も殴った。お腹を蹴った。頭を叩いた。蹲った僕を踏みつけて、罵倒した。

「痛いでしょ。私が憎いでしょ。それが本能だよ。反抗してよ。怒りのままに私を襲うんだよ。気持ちいいよ。思うがままに生きたら」

 狂気が見え隠れする笑み笑みは、今思えば、母によく似ていた。妹ちゃんは、本能に従順だった。したいと思ったことを、なんの躊躇いもなく実行することができた。我慢ばかりする僕にイライラするから、殴る。蹴る。諭す。内向的だった僕は、滅多に反抗しなかった。だけど、稀に反撃をしたとき、妹ちゃんは、恍惚の表情で、痙攣した。妹ちゃんは、僕が殻を破ると嬉しそうだった。彼女は本能のままに僕を傷つけるのが好きだが、本能のままに僕に傷つけられるのも好きだった。

 僕が反撃すると、抱擁し、頭を撫で、キスをされたこともあった。妹ちゃんの頭は狂っていたというほかない。僕は恐かった。精神異常の妹ちゃんにではなく、その気持ちに共感しまう自分が、恐かった。 

 僕は、母に虐待されていた。母は僕を愛玩生物として監禁していた。学校には行かせず、外にも出さない。欲求を満たしたい時に檻の錠を外し、相手をさせた。母は、僕に暴行されるのが好きだった。地に伏して、僕を見上げ、なじられるのを待った。僕は、母を見下ろし、希望のままに罵倒した。顔を殴り、腹を蹴ると、母は泣いて喜んでいた。唾液まみれになって、快感に溺れる母の顔が思い出される。醜悪で、汚い姿だ。

「痛みは愛なのよ、大好よ、ちぃちゃん」と母は言った。僕は言葉の意味を深く考えず、愛されていると満足した。僕の世界は狭かった。


 そうした日々が続いた後に、母は死んで、僕は入院した。九歳の時だった。警察も、医者も、僕に同情的だった。僕は世界のことを知らないけど、病院で常識を学んだ。ママちゃんは、実質的に僕の育ての母と呼んでも差し支えがない。僕は、これまでにしてきたことが、悪いことだったと学んだ。でも、妹ちゃんを見ていると、忘れようとしてきた昨日のことが思い出された。

 僕は、母との行為に快感を感じていた。なぜなら、母は僕を檻に閉じこめる悪い人だったからだ。低学年までは、学校にも通った。世界は狭いが、檻が全てではない。母は優しかった。僕は愛されていた。愛を感じていた。でも、檻は冷たくて寂しかった。行為をするときは、母へ悪意を向けることが許された。楽しいと、思った。でも、それがいけないことのような気がして、忘れたかった。でも、心の海底から巻き上がった。

 僕は妹ちゃんに共感を覚えそうになった。本当に、分からなくなった。同時に、不安が募った。僕はもっと重大なことを忘れているのかもしれない。

「えへへ……、ひろくんは、恵那と同じだよ。同じ。仲間だ。ひろくんなら恵那の気持ちが分かるはずだ」

「わからない」

「嘘つきは悪だよ」

「違う」

 分かりたくはなかった。妹ちゃん――恵那(えな)は、殺人を犯して、病院へ来た。衝動を抑えない恵那は、いけないことをするのが好きだった。禁止されたことをするのは、快感だった。「嫌いな人を殺したくなったからした。楽しかった」という恵那に、共感を覚えると、不安になった。

 母の死因は、頭部挫傷と内臓の損傷だった。発見されたのは、死後三週間。漏れ出した異臭に通報が入ったからだ。警察が家に入ったとき、僕も倒れていた。こちらは、飢餓による衰弱だった。それから色々と聞かれたが、なにも思いだせなかった。三週間の記憶が、すっぽりとない。

 もしかしたら僕も、殺人犯なのではないか

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