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Episode.1  蛹

 夜7時過ぎ。都市郊外の駅前は、いつものように帰路につく人々でそこそこの賑わいを見せている。そんな賑わいのなかに、大きなため息が聞こえた。飛高(ひだか) あげはは肩を落としながら、持っていたギターをケースの中にしまい、それを背負って、帰路につく人々に混じってトボトボと駅前を後にした。

 凰は週に2回ほど、駅前で路上ライブをしている。いつもは夜6時頃で切り上げるのだが、今日はこの後用事もないので、1時間多く演奏していた。既に数回、路上ライブをしているものの、足を止めて凰の演奏を聴いてくれる人はほとんどいなかった。そして今日もその例に漏れず、足を止めてくれる者はいなかった。

 駅前から3分も歩けば、レストランや居酒屋、寿司屋やラーメン屋などが建ち並ぶ、ちょっとした商店街がある。夕飯時だからか、いつもここを歩くときより人が多いような気もするが、凰はそんなことは気にもとめず自宅へ向かった。

 ブーッ。ブーッ。

 その時、ズボンのポケットに入れていたスマホのバイブが鳴り出した。

 スマホの画面を見ると、離れて暮らしている母からの着信だった。凰は歩く足を止め、電話に出る。

「もしもし。どうしたの、お母さん。」

「あ、ううん。別にどうかしたって訳じゃないんだけどね。最近連絡なかったから…。」

 母は不安げな声色である。

「ごめんね、この頃ちょっと忙しくて。」

「そっか。…ご飯はちゃんと食べてるの?病気してない?」

「ちゃんと食べてるよ。風邪もひいてない。」

「そう。それならいいんだけどね…。」

「うん、大丈夫だよ。」

 凰は安心させようとするが、母の不安は拭えないようだ。すると母は、少し言いづらそうに言った。

「…凰、まだ、音楽やってるの?」

母からのその問いかけに凰は言葉を詰まらせた。

「お母さん、凰の夢、応援してないわけじゃないけど…、心配なのよ。そろそろ将来のこととか考えた方がいいんじゃないのかなって…。」

「…うん。わかってるよ。ごめん。心配させて。」スマホを持つ凰の手に、ぐっと力がこもった。

 

 それから母といくつか会話を交わすが、母は終始不安そうな声色のままであった。

 凰はおやすみ、と言って電話を切る。スマホをズボンのポケットに入れると、緩いウェーブがかかったミディアムボブの茶髪を耳に掛け、力ない足取りで再び歩き出した。

 しばらく歩くと、駅が近く観光客が多いこともあり、ホテルと土産物屋が多い通りがある。凰の自宅はその通りを数十分歩いた先の住宅街にある。

 凰のアルバイト先もこの付近にあるため、この道はほぼ毎日のように通る。今日も、いつもとなんら変わらない、ただの帰り道。

 駅前を出て20分ほど経ったろうか。ここまで来ると、ホテルや土産屋、その他の店の数もかなりまばらになり、比例して道行く人々も少なくなる。そんな人通りの少ない通りの歩道に、見慣れない緑色の立て看板が置いてある。今まで何度もこの道を通っているが、この立て看板が出ているのを見るのは初めてだった。

 【BAR Consola(コンソラス)tion(ィヨン)  19:00オープン】

 立て看板にはそう書かれていた。

「こんな所にバーなんてあったんだ…。」

 そのバーは古めの二階建ての建物で、出入り口の扉には『OPEN』の札が掛かっている。しかし、そこまでお酒が好きというわけでもなく、なにより今はそんな気分ではなかった凰は勿論入店などするはずもなく、肩からずり下がったギターケースを背負い直し、自宅へと歩を進めた。――と、その時だった。

凰の背後で、カランカランと入店ベルの音がした。振り向いてみると、バーの出入り口から客であろう女性が出てきており、続いて若い男性が出てきた。その男性は、肩に触れるくらいの黒髪を後ろで結んでいて、シャツにベスト、黒いネクタイと、服装から察するにこのバーのバーテンダーだろうが、よく見ると両耳にいくつかピアスが付けられていて、凰にはチャラそうな印象を受けた。

 バーテンダーはありがとうございました、と言ってお辞儀をする。女性も会釈をし、凰とは反対方向へ去って行った。

 バーテンダーが店内へ戻ろうとした時だった。凰の存在に気づいたバーテンダーと目が合った。凰はぎくり、と肩を震わせて早足で歩き出す。が。

「あの…」

 バーテンダーに呼び止められてしまった。

「はい…?」

 変に絡まれませんように、と心の中で祈りながら、凰はバーテンダーの方へゆっくりと向き直った。

「うちで少し休んでいきませんか?」

「あ…でも今日は気分じゃなくて…」

「もし良ければ一杯サービスしますよ。お酒以外にもソフトドリンクもあるので…是非いかがです?」

 凰は、頼まれたら断れない自分の性格を心底恨んだ。

「…じゃあ、一杯だけなら…。」

 バーテンダーはどうぞ、と言って凰を店内へ招き入れた。

 入店すると、バーテンダーはカウンターへと入っていく。その背後の棚には20本ほどのリキュールやウイスキーの入った瓶が並べられ、店内を鮮やかに彩っている。

 そしてそのすぐ目の前のカウンター席には先客の男性が一人座っている。20代後半くらいに見え、軽く顎髭を生やしてはいるが清潔感もある。

「お好きな席にどうぞ。」

 バーテンダーは凰を席へと促す。凰は、男性客が座っているカウンター席から2つ隣の、出入り口から一番近い席に座り、背負っていたギターを下ろして自分の側に立てかけた。

「何にしますか?」

 メニュー表を渡され目を通すが、凰はあまりお酒に詳しくなく、羅列される文字にはハテナが浮かんだ。いくつかわかるものもあるが、好みでなかったり、アルコールの度数が高すぎて凰には飲めないものであった。ソフトドリンクを頼もうとも思ったが、バーという酒場でソフトドリンクのみを飲むのはさすがに失礼だと思われてしまわないだろうか、と凰はぐるぐると考えを巡らせた。

「あの、すみません。私お酒とか全然わかんなくて…。その、おすすめって…できますか?」

 凰が尋ねると、バーテンダーは笑顔で快く対応する。

「アルコールはどうします?」

「できればノンアルコールがいいです…。」

「かしこまりました。」

 そう言うとバーテンダーは準備をし始めた。

「何かあったの?お姉さん。」

 唐突に男性客が話しかけてきた。

「あぁ、俺は鶴来(つるぎ)(ひろ)。で、こっちのマスター兼バーテンダーは芳野(よしの)結維(ゆい)。学生時代からの友人だ。」

 友人の店に来るとは、相当仲が良いらしい。

「もう、勝手に人のこと紹介して…。その酔っ払いのことはほっといていいので。」

 芳野というバーテンダーは瓶のキャップを開けながら、呆れて言った。

 確かに鶴来と名乗った男性客の手元には琥珀色の液体と丸く削られた氷が入ったグラスがあるし、頬もわずかだが赤く染まっている。

「別に酔っちゃいねぇよ。んで、何かあったの?」

「どうして、そんなこと聞くんですか?」

「何かあったってお姉さんの顔に書いてる。」

 鶴来が言うと、凰は黙ってしまった。

 シンガーソングライターという夢を叶えたいこと、けれど、上手くいっていないこと、そして女手一つで育ててくれた母を心配させてしまうこと。鶴来の言う“何か”が無いわけじゃない。でも、それを今日会ったばかりのよく知りもしない人に言ってもいいのだろうか。

 その空間に、数秒の沈黙が流れた。

「ま、とりあえず美味しいものでも飲んでゆっくり休んでください。」

 沈黙を破ったのは芳野であった。

 芳野は凰の目の前に、山吹色の飲料が入ったカクテルグラスを出した。

「これは…?」

「『シンデレラ』というカクテルです。とは言ってもオレンジジュースとレモンジュース、パインジュースをミックスして作る、ノンアルコールのカクテルですけど。やや酸味がありますがすっきりしていて飲むとサッパリしますよ。」

 凰はそっとカクテルグラスに手を伸ばし、恐る恐るひとくちだけ口に含んだ。

「美味しい…。」

 凰の表情が少しだけ明るくなった。

 凰はもうひとくち口に含み、今度はゆっくりと味わった。その様子を芳野と鶴来はただ優しく見守っていた。

「もし嫌でなければ話を聞かせてくれませんか?何があったのか。もちろん無理にとは言いませんが。」

 そう話を切り出した芳野。

 少しだけ明るくなった凰の表情が、再び悲しげに曇った。

「……私、なりたいものがあるんです。けど、全然上手くいかなくて。」

 凰は小さな声で答えた。先ほどまでの警戒心は不思議と消えていた。

「なりたいもの?」

 鶴来が尋ねる。

「シンガーソングライターになるのが夢なんです。そのために、学校に行って音楽の勉強もして、動画投稿サイトに作った曲を投稿してみたり、駅前の路上で歌ってみたり…今もその帰りで。」

「お姉さん、曲作れるの。凄いねぇ。」

 鶴来が感心したように言った。

「お姉さんの曲、聞かせてよ。」

「え!?でも…」

「僕も聞いてみたいです。」

 鶴来と芳野から、自分の曲を聞きたいと言われ凰はたじろぐが、ちょっとだけなら、と意を決して二人の前で歌うことにした。

 凰はケースからギターを取り出し、足を組んで(もも)に置く。6本の弦の上に乗せられた指は、緊張からか震えていた。落ち着かせるように一つ深呼吸をして、弦を(はじ)く。柔らかいバラード調のメロディが、凰の震える指から紡がれていく。

 すぅっと息を吸い込んで、凰は歌い出した。

 その途端、その場の空気が一変した。

 まるで母親の抱擁(ほうよう)のような、優しくも強く芯のある凰の歌声が、小さなバーの一室を包み込んでいった。

 鶴来はその歌声に度肝を抜かれたようで、開いた口がふさがっていない。一方で、少し驚いたものの、心地よさそうに聞いている芳野。

 

 凰が歌ったのはワンフレーズのみだったが、凰の緊張と歌声、そしてそれを聞いた二人の驚嘆に包まれていたバーの一室は、あっという間に余韻に満たされていった。

「ブラボー!ブラボー!最高!!」

 席を立ち上がってパチパチと拍手をする鶴来は、頬を紅潮(こうちょう)させて興奮を(あらわ)にする。

「ありがとうございます。そんな風に喜んでもらえて嬉しいです…。」

 “嬉しい”という言葉とは裏腹に、凰の表情は依然曇ったままだった。

「…でも、もう夢は諦めます。」その声は喉の底から絞り出したように震えていた。

「え!?あんなに最高な歌なのに!どうして!?」

 先ほどとは打って変わって愕然とした鶴来は、悲しさの入り混じった声色で凰に問い詰めた。

「母を、これ以上不安にさせたくないんです。」


 凰の母はかなりの心配性だった。

 父は凰が子どもの頃から単身赴任で家にはほとんどおらず、母が女手一つで凰を育ててくれた。心配しながらも、大学は音楽大学に行かせてくれたし、一人暮らしをするときも泣きながら、しかし笑って送り出してくれた。これ以上、母を心配させるわけにはいかないと思った。

 幼い頃から歌うことが好きだった。いつしかそれは夢になっていた。けれど、その夢を追いかけるのも、おそらくもう退き時なのだ。

 成功するかどうかもわからない夢なんて諦めて、普通に就職して、普通に結婚して、普通に家庭を持って。きっとその方が母を安心させられる。

 悔しさと悲しさと、今まで母を心配させ続けてしまった後悔が、凰の胸を埋め尽くした。


「本当に諦めちゃうのかい?」

「…もともと簡単な道じゃないことはわかってました。覚悟もしてるつもりでした。それに、私は今までずっとワガママだったから。これ以上ワガママ言って母を不安にさせちゃ、ダメなんです。」

「いいんじゃないですか?親を心配させたって。」

 それまで静かに聞いていた芳野が、しれっと言ってのけた。

「随分と簡単に言うんですね。」

「子どもが産まれた瞬間から、大きくなってもずっと心配するものですよ、大抵の親は。確かに親を心配させないのも大事なことだけど、そればかりを気にしては、子どもは何もできなくなってしまいます。」

 芳野の拭いていたグラスがキュッと音をたてる。

「母があんな風になったのは私のせいなんです。だから、その責任は取らなきゃ。もう本当にいいんです。薄々気づいてました、私に音楽は向いてないって。今諦めたって後悔はありません。」

「僕にはそうは見えません。」

 芳野はきっぱりと言った。

「僕は、貴女はまだ誰かに見つけてもらえてないだけだと思うんです。」

「見つけてもらえてない…?」

 凰は芳野の発言にきょとんとする。

「ええ。どんなに凄い才能も技術も、発明も発見も、誰かに見つけてもらえなきゃ当然評価はされません。それはかの有名なモーツァルトやエジソンも、僕だってそう。僕はできるだけたくさんの人に、このお店でお酒を楽しんでほしいと思ってるけど、お客様にお店を見つけてもらえない限りはそれはできませんからね。それに、今諦めたら、貴女が今日まで頑張ってきたものが無駄になってしまうような気がして…。それってなんだか寂しいじゃないですか。」

 そう言った芳野の瞳は少しばかりの憂いを含んでいた。


 “わぁ!凰はギターが上手ね!いっぱい練習してたもんね!”


 こんな時でも思い出すのは、幼い頃、初めてギターを上手に弾けたときの、母の喜ぶ姿なのだ。

「私、やっぱりまだ歌いたい。」

 気がつけば、蓋をしていた本音と涙が零れ出ていた。

「私、まだ、もうちょっとだけ、頑張ってみてもいいかなぁ…」

「当然。人間、いつ頑張れなくなるかわからん。頑張れるうち、頑張りたいうちに頑張っておいた方がいいさ。」

 鶴来はそう言って、琥珀色の液体をこくり、とひとくち味わうように飲んだ。

「貴女ならきっと大丈夫です。学校に行って音楽の勉強をしたのも、路上で歌を歌うのも、貴女にしかできない、貴女だけの努力です。その貴女の努力を見つけて、見続けてくれる人が、きっといます。現に今日、僕らが貴女を見つけましたし、貴女が僕のこのお店を見つけてくれました。諦めなくて、いいんですよ。」

 

 “諦めなくていい”

 芳野のその言葉は、凰の背負い込んでいた不安や後悔を解くのに十分であった。堰を切ったように溢れ出る嗚咽混じりの涙が、膝の上に乗せていたギターの所々を濡らしていった。



「そういえば、まだ名前聞いてなかったね。お姉さん名前は?」鶴来がふと思い出したように尋ねる。

 あれから20分ほどが経ち、凰も落ち着きを取り戻していた。

「えっと、飛高(ひだか) (あげは)といいます。あ、でもネットじゃさすがに本名フルネームは怖いので、“アゲハ”って名前でやってて、顔も出してはないんです。」

「そっか。確かに今の時代、ネットに本名や顔を出したら何があるかわかったもんじゃないからな。でも、“アゲハ”って名前はなんかかっこよくて好きだぜ、俺は!」

 鶴来の褒め言葉に凰は照れくさそうに笑った。


「あの、ほんとにいいんですか?サービスしていただいて…。私、やっぱり…」

「いいんですよ。そもそも、僕が無理矢理お店に入れてしまったようなものですし。サービスさせてください。」

 ギターケースを背負って帰ろうとしていた直前、凰がカクテルの代金を支払おうとしたが、芳野はそれを断った。

「で、ではお言葉に甘えて…。ありがとうございます…。」凰はぺこりとお辞儀をする。

 凰が扉から出ると、芳野もお見送りをするために、後ろに続いて外へ出た。

「芳野さん、今日はありがとうございました。」凰は芳野の方へ振り向いて、改めて礼を言った。

「いえ、こちらこそ。」

「私、もう少しだけ頑張ってみます。誰かに、見つけてもらえるように。見続けてもらえるように。」

「えぇ。大丈夫ですよ、きっと。」

 凰はお辞儀をして『BAR Consolation』を後にした。ギターケースが背負われたその背中は、心なしか希望に満ちあふれているように見えた。それはまるで、羽化を今か今かと待ちわびる、蝶の蛹のような。

 芳野はありがとうございました、と言って頭を深々と下げ、店内へ戻っていった。



「なぁ。なんであの子…凰ちゃんを店に招き入れたんだ?」

 深夜2時。あれから、何度か数人の客が入店しては見送ってを繰り返したが、平日の深夜ということもあってか、今、客は鶴来だけとなった。そんな折、ふと唐突に鶴来は芳野に向かって、先ほどから気になっていた疑問を投げかけた。

「別に。なんとなくだよ。」

「バカ言え、今まで誰かをなんとなくで無理に店に入れたことねぇだろ。何年一緒にいると思ってんだ。」

 鶴来にそう言われ、芳野はぎくっとした。

「でも、本当にたいした理由じゃないよ。ただ、あの人の目が…昔の――、あの頃の自分に似てるような気がしたんだ。それだけだよ。」

「…そう。」

 芳野の回答に納得したのかしていないのか、曖昧な表情で、鶴来は煙草をふかしはじめた。

「で、宏さん、いつまでいるの?奥さんだって心配するんじゃないの。」

「残念ながら今は友人らと小旅行に行ってるよ。」

「明日、仕事は?」

「あとで仮眠か、最悪はオールすりゃあいい。ま、たまにはいいじゃねぇか。一杯奢るからさ。」

「はぁ、わかった。その代わり、僕がこの一杯を飲み終わるまでね。」

 芳野は仕方が無い、とでも言いたげにため息をつくが、案外満更でもないのかちょっぴり嬉しそうな笑みをこぼした。

「そうこなくっちゃ。」

 こうして、彼らの長い夜は続いていくのであった。


 

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