運命共同死 (後篇)
「やっと病院へ着いたな。思った以上に時間が掛かったな」
言葉とは裏腹に、島田の顔は清々しかった。
「ですね。でも、今からが大変ですよ。何処まで説明して分かってもらえるか。考えると頭が痛いですよ」
亜美も自然に笑顔になっていた。さっきまでの太陽も今は綺麗な色になって、亜美と島田をオレンジ色に染めていた。長く伸びた影が二人よりも先に病院へと入っていた。
「じゃあ。今日は御疲れ。あ、もし良かったら、明日、この前行ったレストランで食事でも…どうかな?」
島田は少し照れくさそうに頭を掻きながら話した。
「いいですね!二人だけの慰労会、という事ですね。それより先生も今日は早く休んで下さいね。明日のために」
亜美の嬉しさがその表情から滲み出ていた。島田もその顔を見ると、思わず嬉しくなって無言のまま笑顔で頷いた。
「じゃあ、先生、また明日」
「ああ。亜美も大変だけど頑張ってな」
「ハイ!」
亜美は廊下を歩いて行く島田の背中が小さくなるまで見ていた。やがて島田の姿が亜美の視界から消えると、急に大きく深呼吸を始めた。
「よし!」
これからの説明に対しての気合のつもりだった。拳を握ると亜美はナースステーションへと向かった。
扉を開け中に入ると、皆、亜美を見て一瞬言葉を失ったようだった。ナースステーションの中は水を打ったように静かで、妙な雰囲気があった。時折、誰かのすすり泣く様な声も聞こえてきた。亜美は単純に院長の死を惜しんで泣いている人がいるんだと思った。それに関しては何だか気まずいような気になった。だが、それは自分のせいではない、と何度も言い聞かせて、
「あ、あの、た、ただいま戻りました。ご、ご心配掛けて申し訳ありませんでした」
とにかく頭を下げた。しかし、どうしても言葉が、どもるのが自分でも納得いかなかった。辺りは依然、静まり返っていた。亜美もどうしていいか戸惑っていると、直ぐに森下が走って来た。
「今井さん。大変だったわね。あのう、ちょっといい?」
森下はそう言うと亜美の手を取って、半ば強引にナースステーションから連れ出た。そして、廊下の端の方まで行くと、声を殺して、
「実はみんなピリピリしてるのよ。それはね、院長の奥さんの冬子さんがやって来てアメリカの医師団来院の件、続行するって言って来たのよ」
そう言うと眉間に皺を寄せた。森下の言葉に亜美は違和感を感じた。それはナースステーション内の雰囲気はそのような内容の物とは違っているような気がしたからだった。しかし、その言葉は同時に、ある意味、亜美をホッとさせてくれた。というのも、実は、一連の事が亜美や島田のせいだと、皆が思っているのでは、と懸念していたからだった。ナースステーションで言葉が出なかったのも、そういう思いが心にあったからだった。
「今井さんも今日一日大変だったと思うけど、こっちも結構大変だったのよ。自分の旦那が死んだというのに、あの奥さんたらケロッとしているんだもの。院長代理という事で色々と指示があってねえ…」
森下やナースステーションで見た他の看護婦の疲れ具合や様子で、その指示の内容がかなり細かいんだと思った。『さすがは院長の妻ね。自分の旦那の事より、病院の事をとるとは』亜美は感心せざるを得なかった。いや、もしかしたら、もう院長夫婦は既に心が離れていたのかも、そんな推測も亜美の頭には浮かんだ。
「そうだったんですか。私はテッキリ院長や婦長が亡くなって、病院全体が悲しんでいるのかと思ってました」
とりあえず、亜美は当り障りの無い答えを森下にした。亜美の言葉を聞き頷くと森下は急に思い出したかのように、
「そう言えば、警察の方はどうだった?ちゃんと分かって貰えた?」
少し不安げな表情で亜美に尋ねて来た。亜美は、森下が気を使ってくれているんだと感じた。
「やっぱり無理ですね。でも、私たちが院長や婦長を殺した、とは思ってないみたいです」
「そらそうよね。あんな噂話、誰も信用しないわよね。まして、本当に人が死んでいるんだからね。あ、でも、私は分かってるわよ」
森下の気遣いが再び良く分かった。亜美は少し微笑むようにして静かに頷いた。
「確かにたくさんの犠牲が出たとは思いますが、でも、これで終わったんです。もう、誰も犠牲者は出ませんよ。これで完全に終わったんです。あの噂も」
亜美の言葉に、今度は森下が静かに頷いた。
「私も、そして今井さんも友達を亡くしたわね。せめて、あの地下で、あの人たちが死んだ地下で手を合わせたいと思うんだけど、どう?」
そう言われて、亜美は一番に真美の事を思った。大親友、そして、色々と助けてもらった、将に命の恩人ともいえる真美。今の自分があるのは真美のおかげ。その真美が最期を遂げた場所。確かに森下の言う通りだった。
「そうですね。静かに冥福を祈りたいですね」
「じゃあ、行きましょう。本当の最後のお別れに!」
そう言うと、森下はエレベーターへと向かった。
地下に着き、エレベーターを一歩出ると、亜美の頭に色々な悲しい事が急に思い出されて来た。そう考えると少し、足が止まりそうになったが、ここで立ち止まれば、本当の終わりにはならない気がした。『ここで全ての終止符を打つ!』亜美は心で呟いていた。
現場には、当然のように、まだロープが張られていた。割れた鏡の破片、崩れた壁の土。何もかもが生々しいままで残っていた。
森下は、その前に立つと眼を閉じ静かに手を合わせていた。亜美も全員の、そして、真美の冥福を心の底から祈った。
その時、突然に森下が手をポケットに入れ携帯電話を取り出して耳に当てた。
「ハイ。森下です。あ、そうなんですか!分かりました!」
何だか慌てているような話し方だった。『今、着信音、聞こえなかったけどバイブにしていたのかな?それにしても、どうしたんだろう?急患か何かしら?』亜美は少し妙な気もしたが、その事はあまり気にせずに、心配して森下を見詰めた。
「大変よ、今井さん。院長の奥さんの冬子さんがナースステーションにまた来ているんだって!急いで戻らないと」
内心、そんな事か、と思ったが、それを言葉に出す訳にはいかなかった。さも、自分も慌てているように、
「わ、分かりました!」
そう短く答えた。
「あっ、そうだ、今井さん。実は奥さんは身だしなみに非常に五月蝿い人なのよ。だからキチッとしておかないと怒られるわよ」
「そうなんですか。でも、大体これでいけてると思うんですけど」
亜美はザッとではあるが自分の服装をチェックした。その時、森下がある事に気付いた。
「あれ、今井さん、名札が無いわね。あっ、そうだ!」
そう言うと自分のポケットからネームプレートを取り出して亜美の胸の辺りに着けてくれた。
「えっ?先輩、これは一体誰のネームプレート…」
「今井さん、口紅も少し取れてるわよ」
森下は、亜美の問い掛けにも答えずに、矢継ぎ早に言って来た。
「あ、ハ、ハイ」
亜美も何だか、その勢いに押されて、それ以上聞く事が出来なかった。
「どう?この鏡で確認すればいいわよ」
森下は親切にもコンパクトを亜美に向けてくれた。その向けられたコンパクトで顔を映してみた。
「あ、ありがとうございます。あれっ?このコンパクトは?こ、これを何処で…」
亜美は驚いた。森下が親切にも出してくれたコンパクトは自分のだった。
「あ、言うの忘れてたわ。今井さんが帰ってくる少し前に警察の方が来て、これと名札を渡してくれたのよ」
「ああ、そうだったんだ。私たち、交番に忘れてきたんだ。じゃあ、先輩がさっき着けてくれた名札は…」
亜美はそう言い掛けた時、ふと嫌な感じがした。まるで、その表情を待っていたかのように森下の顔が微笑んだ。その表情に言い知れぬ恐怖を感じ、亜美は慌てて自分に着いているネームプレートを確認した。
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確かに、横書きで、しかもファーストネームとファミリーネームが逆になった、自分の物だった。一瞬にして全身に鳥肌が立った。
「…まさか…先輩…そのコンパクトで、この名札を…」
森下の顔は、まだ微笑んだままだった。いや、むしろ、はっきりと笑顔に変わって行くようにさえ思えた。
「ごめんなさいね。さっきの電話も実は嘘なのよ。やはり、ここじゃないと終止符は打てないから」
森下の今の声を聞いて、亜美は全身がガタガタと震えて来た。ついさっきまでの森下の声とは明らかに違っていた。そして、その声は自分にも聞き覚えのある声であったからだ。
「ど、どうしてそんな嘘を……そ、それに、その声…まさか…」
亜美は声を詰まらせた。どうか自分の間違いであって欲しい!そう願いながらも確認せざるを得なかった。
「ま、まさか、婦長……今矢婦長……なんですか?どうして…」
「そうよ、今井さん。やはり……あなたにも死んで貰わないと。その為には林さんも動けないようにしたわ」
森下は、いや、今矢は平然と言い放った。
「……真美も……そんな……」
もう、亜美に言葉は無かった。鏡に名前を映された以上結果は分かっていた。もはや逃げる術はない!ただ絶望だけが残った。
「これら一連の事を詳しく知っているのは、あなたと島田先生だけ。だからこそ、あなたを使って、この噂の終わりを告げるのよ。特に今井さん、あなたは知り過ぎてしまったのよ」
「ど、どうしてなんですか?どうして私まで死ななければ…」
亜美の声は震えていた。力の抜けた、その身体は床に吸い付くように座り込んでしまった。今矢はそんな亜美を眉一つ動かさずに上から見詰めていた。
「元々怖い物好きのあなたは、いずれ、この噂を誰かに語り継ぐ事でしょう。それだけは避けたいのよ。噂そのものを終わらせる!これが私の最後の意志よ!」
「私は決して、そんな事を…」
亜美は哀願するように今矢に訴えたが、今矢は静かにゆっくりと首を横に振った。亜美の目からは暖かい涙が一粒、冷たい床に音も無く落ちた。
「立て続けに、同じ場所であなたが死ねば、今度はきっとマスコミ沙汰になるでしょう。そうすればこの病院は終わりよ。それでいいのよ。病院を無くす事、それがこの噂の本当の終焉に繋がるのよ」
話し続ける今矢の眼は、もう亜美を見ていなかった。ただ呆然と前を見詰めているだけだった。
「私はこの病院が大切だった。だから、たとえ誰を犠牲にしようとも守りたかった。でも、それも叶わなかった。いや、実は前院長の意思だったかも。せめて早く世間から忘れられる事が必要だと思ったのよ。冬子さんも解ってくれたわ」
今矢の眼も段々と潤み始めていた。しかし、それを亜美に悟られまいと顔を少し上に向けた。
「えっ、奥さんも?どういう事ですか、それは?」
今矢は敢えてその質問には答えなかった。
「さあ、終わりにしましょ。井山を手に入れた今、由美さんの魂は消滅するわ。私たちもその力で消滅する必要があるわ。時間が無いのよ」
そう言うと急にキッと睨みつけるように亜美を見た。その眼に亜美はドキッとした。そして、自分自身の終焉を知った時、無性に恐怖を感じ始めた。どう今矢が説明しようと、それは全て今矢自身の問題で、亜美には関係の無い事だった。それ故に亜美には共感できる事は何も無かった。ただ、理不尽に自分が殺されるという恐怖しかなかった。
「婦長、やめて下さい!いや!やめてーっ!お願い、真美助けて!」
亜美は冷たい床を這うように今矢から逃げ、力の限り叫んだ。今矢はそんな亜美をゆっくりと追いながら、
「私を恨んでいいわ。そしりは地獄で受けるつもりよ。さあ、林さんが待ってるわ。もう直ぐ島田先生も駆けつけることでしょう」
そう言って微笑むと、持っていたコンパクトを開け、亜美に向けた。
「やめてーっ!やめ…」
亜美が顔を背けた途端、コンパクトから一本の白い細い手が亜美の首を掴んだ。まさしく土田の手だった。
「ううっ、う…」
亜美は必死にその手を解こうとしたが無駄だった。亜美も例外なく土田の手に掛かった。やがて、もがいていた亜美も力尽きたようにグッタリと身体を床に置いた。もう、動く事は無かった。顔は恐怖に歪み、今までに死んでいった者たちと同じだった。
その姿に始めて今矢は涙を落とした。
「ごめんなさい…こうするしかなかったのよ…許してなんて言わないわ。ただ、ごめんなさい。これしか、私には…」
ただ、動かなくなった亜美を見詰めて佇んでいると、けたたましい足音がした。今矢は足音がする方に眼をやった。廊下から姿を表したのは島田だった。
「亜美!そこにいるのか!」
島田の目に飛び込んで来たのは、ただ立っている森下と床に横たわっている亜美の姿だった。島田は駆け寄ると一番に亜美の身体を触った。温もりこそあるが、脈はもう途絶えていた。それが何を意味するのかは島田には良く分かった。自然と涙が溢れて来た。
「なんだか胸騒ぎがしてナースステーションに行ってみたら亜美がいないから、もしかしたら、と思って来てみたら……森下君!何故こんな事に!どうして……」
島田は亜美の身体を抱き締めながら森下に事の経緯を尋ねたが、森下は無反応のまま答えなかった。
「森下君!森下君!何故答えない!」
島田は亜美を失った苛立ちを森下にぶつけてしまっていた。最愛の女性を失った理由が知りたかった。
「島田先生」
島田は、森下の発した声を聞いて全身の血が逆流したようになった。
「ま、まさか、その声…今矢…婦長…」
島田は眼を丸くして森下を見つめた。頬を伝う涙も一瞬にして乾くようだった。
「もう、終わったはずじゃあ…亜美はもう終わったと…」
島田には信じられなかった。もう全てが終わり、そして新しい時を亜美と一緒に迎えられる、そう信じていたからだ。
今矢は急にしゃがみ込むとポケットからマジックを取り出した。そして、ゆっくりと床に、
ITO HUYU X
と書いた。
「ごめんなさい、島田先生。私にはこれしか言えません。でも、これで本当に終われるんです。大切な今井さんまで巻き込んで…ごめんなさい…でも、どうしてもこうする事が…時間がありません。後は冬子さんが」
そう言うと森下は気を失ったように倒れた。
「あ、今矢婦長!院長の奥さんがどうした!それに、この言葉は何なんだ!答えてくれ!」
島田は倒れ込んだ森下の身体を何度も何度も揺さ振ったが、全く反応は無かった。
「島田先生。その答えは私が出しましょう」
島田はその静かな声の響きに驚き、急いで振り向いた。
「お、奥さん…冬子夫人!」
そこには、いつの間にか冬子が立っていた。
「な、何故、ここに奥さんが…?もしかして、この床の文字は奥さんの名前…?」
冬子は冷たい表情で首を振った。そのあまりの感情の無さに、逆に島田が凍り付いてしまった。
「いいえ違います。私は冬子です。これは私の名前ではありませんよ」
「どういう事です?僕にはもう、何が何だか……」
島田は訳が分からずに頭を抱えてしまった。
「全ては今矢さんの、そして私の意思でもあったのです」
島田は冬子を見詰めた。冬子も、また微動だにせず、ただ、島田の眼をジッと見詰め返していた。
「奥さんの意思?それは…」
冬子は暫く眼を閉じた。そして、おもむろに眼を開けると意を決したように続きを話し始めた。
「3日ほど前に今矢さんから手紙が届きました。そこには、主人がした事や、私の父の事、全てが書かれていました。しかし、不思議と驚きませんでした」
冬子は始めてゆっくりと歩みだした。しかし、視点は島田を離さなかった。
「父の事も、うすうす知ってましたし、それに主人の事も何となく分かっていました。だって、幾ら冷めていても夫婦でしたから」
冷たい笑みを島田に見せた。島田は再び背筋に冷たい物が走った気がして小さく唾を飲み込んだ。
「島田さんももう分かっていると思いますが、やはり主人は死んで当然、いや、死ななければいけなかったと思います。だから、私は今矢さんのする事を黙認したんです」
島田は、まさか、今矢が事前に院長が殺される事を告白していた事に驚いて言葉も出せなかった。
「こんな忌まわしい、いわくのある病院など無くなった方が良い。そう考えたのです。元々主人との結婚も父が望んだ物で、私が望んだ物でもありませんでしたし」
そう淡々と言う冬子を見て、島田は冬子もまた、前院長から始まった、この一連の出来事の中にいる事を感じた。
「何故、病院が無くなっても構わない…と。この病院は、あなたのお父様が、経緯はどうであれ、心血を注いで建てた物じゃないですか?あなただってやる気になっていたと聞きましたよ」
島田の問いに冬子は無言で首を横に振った。
「やる気を見せていたのは、この時の為の時間稼ぎです。そもそもの元凶は、この病院にあるんです」
「どういう事ですか?」
「この病院を建てる為、この病院を運営する為に、結局は犠牲を出して来た。いわば、皆、この病院の犠牲者なんですよ。そして、私もその中にいる事を知りました」
島田は冬子の眼が赤くなったのを見逃さなかった。ただ、良く分からないのは、何故、冬子が悲しみを感じたのか、だった。夫が死ぬ事も、この病院が無くなる事も容認した冬子に、どんな悲しみが残るのか、島田は考え込んでいた。
「本来、人の命を救う病院が、人の命を奪うなんて、あってはならない事です。だから、この忌まわしい出来事に私が終止符を打たなくてはならないのです!」
急に語気を荒げた言葉に島田は何か意味深い物を感じた。
「何故、奥さんが終止符を打たなければならないんですか?それとも、このままだとまだ犠牲者が出るとでも…」
島田は、たくさんの死者を出し、最愛の亜美までも亡くし、結果、自分達が解き明かした物が何の役にも立っていない。そう思うとやり切れなかった。たまらなく悔しかった。
「でも、もう大丈夫ですよ。本当に、これで終わるんです」
意外にも冬子はキッパリと言い切った。しかし、一度湧いた疑念は、そう簡単には消せなかった。島田にはまだそんな気持ちが残った。
「こうなってしまって、何故、そう言い切れるんですか?しかも、何故、奥さんでないと終わらせる事が出来ないのか、僕には全く理解出来ない!」
「それは運命なんです。今矢さんが教えてくれました。今、この場に来て、その本当の意味が分かったんです」
島田の頭は益々混乱を始めた。冬子は考え込んだ島田をよそに、ゆっくりとしゃがみこむと先ほど森下が書いた
ITO HUYU X
の文字を指差して島田を見つめた。
「この文字の意味が解りますか?」
島田は突然の質問に一瞬戸惑った。
「え、こ、これも土田が認識できる全て左右対称のスペルで書かれた……ただ、このバツというのは何を意味するのか解らないままで……」
確実に分かっているのは今、明らかになった冬子の名前ではない、という事だけだった。それ以外は何も思い付かなかった。
「×はバツではなく『X』なんですよ」
「えっ?エックス?」
島田は言葉に詰まった。今までは単に意味もなくバツを書いているだけだと思っていた。しかし、冬子の言葉で、土田の日記の最後のページに大きく書かれていた、と警察から教えられた事を思い出した。『このバツ、いや、このXには意味があったんだ!』島田は大きく目を見開き冬子を見詰めた。
その様子を見て冬子は立ち上がり頷いて見せた。
「これは、『伊藤 冬』と書いたのではなく『糸 冬』と書いてあるのです。今矢さんが教えてくれました。それで私も運命だと解かったんです」
冬子の説明に島田はまだ理解できずにいた。冬子は当然のように頷くと再び説明を続けた。
「スペルで書くと『伊藤』も『糸』も表記は同じなんです。でもこれを『糸』と読む事で、ある一つの文字になるんです。それは『終』という文字になるんです」
説明を聞き、島田は驚いた。何だか冬子の言う運命という物が解って来た気がした。
「そして……」
冬子は意味有り気に言葉を一度止め、そして、今度は島田を睨むように少し目を細めて見つめた。島田は冬子の視線に思わず息を止めてしまった。
「この『X』というのはローマ数字で『10』を意味します。時計の文字盤に使ったりしてますよね。この数字は由美さんが活動できず、この地下に閉じ込められ、ただ鏡の中で泣いていた時間を意味するのです」
「活動できない……?」
冬子にそう言われ、島田はじっくりと考えてみた。そして、ある事に気づいて急に指折り数えだした。
「そうか!そういう事か!土田の活動時間は11時から1時までの間の2時間。つまりそれ以外の10時間はここからは出られない時間!し、しかし、一日は二十四時間あって……」
島田はふと疑問を感じ冬子を見た。
「違います。この暗い地下では昼夜を問わないのです。時計に表示される時間が土田さんにとって、全ての時間だったのです」
間髪入れずに答えが返って来た。
「そうだったのか。噂で午後十一時となっていたのは、あくまで今矢婦長が印象付けたかった時間なんだ!本当は午前十一時でもよかったんだ!」
一度は納得した島田だったが、再び、直ぐに疑問が湧いた。
「し、しかし、亜美が死んだのは、ついさっきの筈……土田の行動時間には当てはまらない筈じゃあ……」
「時間制限をしていたのは、あくまで、あの大きな鏡が存在していた時だけなのです。土田さんが埋められた直後に設置された鏡は、いわば、土田さんの体の一部となっていたからです」
冬子は表情一つ変えずに淡々と答えた。
「そう言う事だったのか……その鏡と体が無くなった今、時間も行動も制約する物は無くなったという事だったんだ。単に自分が認識出来る名前の人物を探しているに過ぎないんだ」
一人納得する島田の表情に冬子は微かに微笑んだ。そして、更に追い打ちをかけるように冬子は話を続けた。
「そして、この『10』はもっと意味の有る事を表しているのです」
「もっと意味のある事?そ、それはどういう事ですか?」
島田は気になった。この床に書かれた『X』という物が時間とは別に、しかも、更に意味の有る事を指すとは一体どういう物なのか、島田は冬子の答えを待った。しかし、冬子はそれには直ぐに答えなかった。
「今回の場合、伊藤冬子は『終子』となるんです。さっき終止符を打つと言いましたが、この場合は『終子符』と書いた方が良いのかも知れませんね」
なんだか寂しそうに微笑んで言う冬子に、逆に、『X』の持つ別の意味を聞くことが怖くなってしまった。言葉をかける事もできず、島田は黙ってしまった。
冬子は島田の疑問を感じつつも、敢えて答えを避けるように一方的に話を続けた。
「つまり、今回の一連の出来事を終わらせる子とは私の事なんです。だから、私でないと終わらせられないのです!」
冬子はまるで運命を、いや、忌まわしい宿命を背負った自分を断ち切るかのように声を荒げた。
「すみません、声が大きくなってしまいましたね」
取り乱した自分が恥ずかしく感じたのか、すぐに呼吸を整えた。
「さあ、この忌まわしい出来事を終わらせましょう」
冬子はそう言うと森下の手に握ってある亜美のコンパクトをソッと手にした。
「冬子さん、いったい何を…」
島田の声も今は聞こえないのか、答えることなくコンパクトを自分の肩の高さまで持ち上げると、急にパッと手を放した。
「あっ!」
島田は思わず声を上げた。と同時に、とても小さなコンパクトとは思えないぐらい大きな音を立てて床に落ちて割れた。その音の大きさに島田は瞬間的に身をすくめ、耳を塞いでしまったぐらいだった。暫くして、周りに何も起きてない事を確認するとホッと胸を撫で下ろした。
「このコンパクトは私じゃないと割れないんです。他の人だと…きっと割れないんです。運命を背負った私じゃないと」
冬子の声は妙に穏やかに聞こえた。自分への忌まわしい運命を自ら断ち切った思いからだと島田は思っていた。
「僕にはコンパクトの割れる音がこの一連の出来事の犠牲になった人たちの悲鳴のように聞こえました」
島田はしみじみと言うと、やはり亜美のことが思い出されて複雑な気持ちになった。再び悲しみが島田の心を強烈に襲った。知らないうちに拳を強く握りしめていた。
「ようやく終わりますね」
初めて冬子の顔が心から笑ったように思えた。
「でも、どうして、亜美は……亜美は死ななければいけなかったのか、僕には、それがどうしても分からない」
「この子は深く知り過ぎてしまったんです。それも運命。そして、それが『X』のもうひとつの意味でもあるんです」
冬子は敢えて印象付けるかのように、もう一つの『X』の意味をこのタイミングで口にした。島田は内心ドキッとした。
「亜美の死は運命?それが、この『X』という文字に関係が……」
島田が恐る恐る冬子を見ると、冬子はただ頷いただけだった。
「この『X』は犠牲者の数を表しています。土田さんは自分も含め、この人数を得て昇天するのです。だから……頭の良い島田さんなら分かるでしょ?」
冬子は意味有り気な目で島田を見つめていた。島田は何だか恐怖で冬子の目を見ていられなくなった。
「し、しかし、今、冬子さんがコンパクトを割った事で全てが終わったんじゃないのですか?逆に言えば、もう少し早く亜美のコンパクトを割っていれば、亜美は死ななくても良かったんじゃ……」
島田はある意味悔しくもあった。冬子が全てを知っていたのなら、もう少し早く教えてくれていれば、もう少し早く自分が知っていれは、亜美は……。今更取り戻せない時間をただ悔やむしかなかった。
しかし、島田とは対照的に、冬子は冷静な目でまだ島田をジッと見て、そして、またも首を横に振った。
「それは無理です。全ては運命。さっき、この病院はいわくの有る、と言いましたが、それは、この病院の前身であるナタロシス病院の時から始まっていたんですよ」
「えっ?それはどういう事なんですか?」
島田は、伊藤病院の前身、小さなナタロシス病院にいわくがあるというのは聞いていたが、今回の事とは全く関係ないと考えていた。それ故に、冬子の言葉には驚かざるを得なかった。
「先生はナタロシスとは、どういう意味を含んだ言葉かお分かりですか?」
冬子の質問に島田は直ぐに答える事が出来なかった。いや、そんな意味すら今まで考えた事が無かったというのが本当のところだった。
「意味ですか?そ、それは、誰かの、外国人の名前かと……」
島田はそう答えるのがやっとだった。冬子は当然だという顔をした。
「英語の『natal』で、『生まれつきの』や『誕生の』という意味を持っています。それをベースにして創った名前だったそうです」
「……生まれつき?…誕生?……つまり、この建物が出来た時から、誕生した時から、全ては始まっていた……」
島田は呟くとハッとした。冬子の言葉に驚きを隠せなかった。単に、土田殺害の件から始まったのではなく、その前、つまり、この建物自体が出来た時から、そして、この病院を選んだ時から、自分も含め、死んでいった人間達も運命に従っていたのだと解った。ここで命を落とした者は初めから、こういう運命にあった。どう足掻こうと逃げ切れる筈は無かったのだ、と。
冬子は続けた。
「ナタロシス病院の【シス】は【死す】を意味し、ナタロシスは誕生から死ぬまで、つまり揺りかごから墓場まで、をモジった名前だそうです。そして、ナタロシスという名前には、今回の件に関する更に重要な意味があるのです」
「重要な……意味?」
今聞いた事だけでも十分なのに、更に、深い意味を持っている。もはや、島田には充分に考える余裕が無くなっていた。理解をすればするほど頭の中は混乱を始めていた。そんな島田をよそに、冬子は続けた。
「ナタロシスの『ナ』はカタカナの『ナ』ではなく『十』という数字をもじった物で、そして、『タ』と『ロ』は二つ組み合わせて『名』という漢字を、そして、先程言った『シス』は『死す』となるのです」
島田は、朦朧とする頭の中で、冬子の言葉を素直に頭に浮かべてつなぎ合わせてみた。そして、一つの言葉にするとハッとして思わず声を上げた。
「それって、『十名死す』となる!」
島田の言葉に冬子は満足したように頷いた。
「父がこの病院を買った時から、既に今日の事は決まっていたんだと思います。何故父がいわくある病院を買ったのか、それは私にはわかりません。ただ、医者でありながら父は昔から奇妙な呪術に興味を持っていましたし、それに終末思想にも傾倒していた。それに関しての事だと思います。でも……」
一瞬言葉を詰まらせて、続けた。
「呪術で幸せには成れない事を知っていた筈。ましてや【終わり】を望む考え。ただそれを隠す為、名前を変えたんだと思います。複雑な手段を用いて不幸を楽しむ、終焉を楽しむ……そんな変わった人でしたから」
冬子は島田を見詰めたまま軽く一度だけ首を振った。
「もしかすれば父は不幸を好むが故に病院に魅入られたのかもしれません。ただ、残念ですが、全てが運命だったんです。あなたの亜美さんも」
島田には言葉が思い付かなかった。ただ、肩を落として俯くだけだった。
「やはり、初めから亜美は……助からなかったのか……」
動かなくなった亜美を見つめポツリと呟いた。
「だから、この病院はもうこの世に存在してはいけないんです。あとは先生の協力が必要です。頭の良い、あなたなら分かりますよね。存在しては……。待っていますよ」
冬子は静かにそう意味有り気に島田に告げた。
「えっ、待っている?それはどういう意味ですか?これで終わったのなら、もう一度やりましょうよ!奥さんも一緒に!僕だって協力しますよ!」
島田は横たわり動くことない亜美を見詰めながら、もう一度、この病院を盛り上げようと心に誓った。それが、これら一連の犠牲になった人たちへの、そして亜美への思いだと思ったからだった。
しかし、そんな島田の気持ちとは裏腹に、冬子は何も言わず、ただ無表情で島田をジッと見つめるだけだった。
「……奥さん……」
返答の無い冬子に、島田は愕然とした。
ちょうど、その時、気を失っていた森下が小さな声を漏らして目を覚ました。
「あっ、森下君!大丈夫だったか?」
「えっ、島田先生?ここは?私、どうしてこんな所に…?」
森下にはまるで記憶が無く自分が何故ここにいるのかが全く理解できないでいた。しかし、自分の目の前に倒れている亜美を見つけると一瞬息を飲んだ。そして、島田を見つめると、島田も悲しい目で小さくうなずいた。それだけで十分だった。森下は一粒、涙を床に落とした。
「…どうして…今井さんまで…終わった筈じゃあ…」
もう、それ以上言葉を続けることができなかった。島田も悔しさは同じだったが、終わった今となってはどうしようもない事だった。今は自分を無理矢理にでも納得させるしかなかった。でなければ、あまりに悲しすぎる結末に胸が張り裂けそうだった。
「終わったよ。今度は本当にね。ここにいる冬子さんが終わらせたよ」
ふと、顔を向けるといつの間にか冬子の姿が見えなくなっていた。
「えっ、冬子さん……一体どこへ……」
島田はキョロキョロして、薄暗く狭い廊下で冬子の姿を探していた。
「冬子さん?何を言ってるんですか、先生!院長夫人は、ついさっき、院長室で首を吊っているのが発見されたんですよ。私たち……ナースステーションでそれを聞かされて……」
森下は泣きながら島田にそう告げた。
「えっ、まさか……だって、僕は今まで……」
島田はそこまで言うと急に言葉を止め、暫く何かを考えたかと思うと指折り数え始めた。そして、ある事に気付くとソッと目を閉じて顔を上に向けた。
「みんな噂してました。冬子さんは漢字でもローマ字でも名前が左右対称じゃないのに死んだ。あの噂は嘘だって。そして、この病院は単に呪われているって!」
「そういう事だったのか……だったら、もう……呪いは消えるよ、前院長の呪縛も」
島田はポツリと呟くように森下に言うと、もう動かなくなった、そして、冷たくなり始めた亜美の体を持ち上げ、ゆっくりと歩き始めた。
「……せ、先生……どこへ」
森下の質問に答えることなく亜美を抱きながら歩き続けた。
「今……やっと意味が分かりましたよ、冬子さん。待っていると言った意味が。自分が死ぬ事で、この広まった噂が嘘だったと思わせたかったんですね。この噂がもともと嘘だったんだ、と」
いつしか島田の目にも煌めくモノが溢れ出していた。
「あなたの望み通り、この病院はもう終わりでしょう。そして、この噂も。僕は、本当はこの病院が好きでした。でも、愛した亜美もいなくなった今、この僕にできる最後の事は……」
零れ落ちた雫が亜美の冷たい頬へと落ちた。島田は愛おしそうに亜美に顔を寄せると冷たくなった頬をまるで自分の体温で温めるように何度も何度も擦りつけた。
「僕も知り過ぎたんですよね。これも運命なんですよね。最後に、待っていると言ったのはそういう事だったんですね」
島田は一人、悲しそうに微笑んだ。そして、死んでいった人の名を一人一人頭の中で呟いた。土田由美、谷口早苗、山田真由美、伊藤前院長、林真美、伊藤院長、今矢婦長、そして、亜美。
「冬子さん、あなたを入れて犠牲者は九人になった。でも『X』は『10』。つまり、あと一人、病院関係者が必要なんですよね。『十名死す』じゃないと、土田自身も本当の意味で成仏できない、この病院の呪いも解けない、という事なんですね」
自分がすべき事の全てが理解できた。冬子同様、病院に広がった噂が嘘であったように思わせ、尚且つ、犠牲者をこれ以上出さないようにする方法。そして……もう一度、亜美に会える唯一の方法。それは……迷う事は無かった。生まれた時からこの10名は名前を含めて、みんなこの運命だった。誰も抗う事はできなかった。故に覚悟はできた。
「亜美、もう離れないよ、これからはずっと一緒だよ。だから、僕の最後の時を見届けておくれ」
亜美に優しく語りかけると静かな最後の場所を、たった二人だけの時間を過ごせる場所を、探しに島田は暗い廊下を歩き続けた。
「二人、思い描いた理想とは違うけど、結果的に、これでもいいよね、運命だから。許してくれるよね、亜美」
島田は自分が持つ人生最高で最大の愛情を注ぐように亜美の耳元に口を寄せ、
「この緑のカプセルが僕を楽にしてくれるよ。だから、もうすぐ、僕もそっちへ行くよ。だって、君の事が本当に……本当に死ぬほど好きだから」
ソッと優しく囁くと、ただ嬉しそうに微笑んでゆっくりと歩いていた。
了