第2話 リンネはお人好し
次にボクが目を覚ました時、ボクは白い大理石でできた柱が5メートルおきほどに置かれた巨大な円の中に倒れていた。
「えっ…何、ここ?」
ボクは呆然としながら、ただただあたりを見回した。ボクが少し先に視線を送ると、そこには西洋らしいレンガ造りの建物が並んでいた。いかにも異世界ファンタジーといった感じである。ボク、ほんとに異世界に来ちゃったんだ…。様々な人々が街を行き交い、人間の他にはドワーフやエルフ、ケット・シーなど、様々な亜人として描かれる種類の生き物の姿も確認できた。道路には馬の形をしたゴーレムが引く馬車が地面を揺らしながら進んでいく姿が確認でき、そのほかにも怪しい身なりをした男が看板を掲げて路上に店を展開している様子も見られた。空にはドラゴンが悠々と翼をはためかせて飛んでいた。
「すごい…!」
ザ・異世界ファンタジーの世界に、ボクは興奮を隠せなかった。…と、感動もひとしおのところでボクは周囲の人々が自分に向ける視線が気になった。
「…なんでみんな、ボクを見てるんだろう………」
「おい、なんだよあの可愛い子」「リインカネーションヘンジに倒れてるってことは転生者か?」「あの生足、たまらん…」「どんな化粧水使ったらあんなお肌になるの……!?」「ボーイッシュ系か?」
しかも、なんかいろいろ話し声が聞こえてくるし。ボーイッシュっていうか男なんだよ。ボクが困惑していると、唐突に目の前に剣士が歩いてきた。軽装のプレートアーマーに直剣を腰から下げ、なるほど、これが異世界ファンタジーの装備。デザインが超カッコいい。何か言いたそうな表情をしているけど、なんかガチガチに固まって言い出せないでいるみたいだ。…ラチがあきそうにないし、ボクから話しかけてみよう。
「あの、何かご用ですか?」
「い、いや、見ない顔だなあと、思いまして!あ、あの、お名前は…?」
「えっ、あ、リンネって言います。……その、装備カッコいいですね」
剣士の上がり方が予想以上で、ちょっとテンパってしまった。笑顔と相手を褒めることでごまかそうとする。すると、みるみるうちに剣士の顔が上気していった。まるで、クラスの女子と話すコミュ障(なお、前世のボクのことである)のようだった。
「あ、あの…?」
ボクが声をかけると、剣士はピシリと姿勢を正した。
「い、いや、なんでもねえ!朝からあんたみたいに可愛い女の子に会えて、俺は幸せものだよ!今日の仕事も頑張れそうだ」
えーっと、これは…応援した方がいいのかな?何しろ、ボクは引きこもりだったために社交辞令という物を一切知らない。
「お仕事、頑張ってくださいね!」
「うおおおおおおおお!頑張るよおおおおおお!」
なぜか叫びながら、剣士はボクの前から逃げるように走り去った。
「………あの胡散臭い男といいあいつといい、ボクのことをまるで女の子みたいに……」
…それはそれとして、行動目的が定まっていない今、ボクはヘタにここから動くことはできない。非常に困った事態である。異世界転生したにもかかわらず、何をすればいいかを誰も教えてくれないのだ。
「ちょっといいかい?」
何者かが背後から声をかけてきて、ボクは振り返った。目にかかるほど長い、白い癖っ毛の髪に碧い目を持った男の子が立っていた。華奢な体格に腰にはリボルバーが入ったホルスターが2個ついている。
全身を白で固めているその男の子は言った。
「山の方で布に覆われた誰かが男に引っ張られているのを見たんだ。取引先…みたいな言葉が聞こえてきて、雰囲気としてはやばそうでね」
…まさか人身売買か?ボクは体の筋肉が少し引き締まるのを感じた。
「君が行くわけには行かないの?」
他力本願みたいな発言だけど、彼が見かけたなら彼が行動するのが筋だろう。ボクは彼が腰に下げているリボルバーをチラリと見る。コレを突きつければ、大抵のことはなんとかなりそうだけど。ヘラヘラ笑っている彼は頭をかきながら言った。
「それも考えたんだけど、男の足が早くてねぇ。男は足が早くて、見失ってしまったんだ。敵の居場所もおおよそ見当がついてるけど、僕も大事な用事があってここでもたついてるわけにはいかない。……ああいう奴らがいると、世界は平和にならない。そうは思わないかい?」
……それはまあ、そうだ。
「うん」
「……ってことで、そんな君に売られかけてる彼女の救出をお願いできるかな?」
人身売買か……確かにこれは、捨ておけない状況だ。…でも。
「…状況はわかったけど、なんでボク?」
確かにボクは、自他共に認めるお人好しではあるが。
「敵にはおそらく、君が有利に戦えるはずさ。その容姿を見れば、並大抵のやつなら油断するよ。………まぁともかく、僕が動けない以上、この状況は君に託すよ」
…人が困っている以上、救済を求めている人が存在する以上は放って置けないだろう。ボクは頷いた。
「…わかったよ。どっちの方角?」
「こっちだ」
男の子が指差した先には、どこまでも鬱蒼としげる木々が織りなす新緑のタペスリーが広がっていた。森は街との境界線のようになっていて、街の家がちょうど途切れた場所から3メートルほど離れた位置から始まっていた。奥に見えるダークな空間は、いつか写真で見たアフリカのジャングルを思わせた。…あそこを奥に行かないといけないのか。
「…できるだけ慎重に…」
ボクは足音を忍ばせながら、森の奥の方へと入っていった。ボクは土地勘がいいから、森に入るぐらいはどうってことない。姉さんに延々山登りに付き合わされてきた嫌な記憶も蘇ったりするが、気にしない。なぜなら今、ボクの集中力は一番高い範囲にまで達していたからだ。
「…っ!」
だからだろう。ボクはすぐに背中が凍りつくような殺気感知し、横飛びで回避することができた。小さい針のようなものがボクがいた位置を通過し、後ろにあった木に刺さった。…これは吹き矢だ。剣道の道場に飾っているのを見たことがある。
「…そこか!」
ボクは近くに落ちていた鞘に収まっている鉄剣を拾い、半身で構えた。なんでこんなものが地面に落ちているのかとかツッコみたいところではあるけど、今はそんなこと言ってられない!前世でボクは、西洋剣術、剣道、居合道、フェンシングを学んでいた。剣の扱いには慣れている。気配を探り、吹き矢が飛んできた場所にいた人間を突いた。攻撃は狙い通り敵の肩に命中し、人相の悪い男は肩を抱えたまま倒れた。意識は残るように殴り倒したので、ボクはそのまま男を茂みの奥に引きずり込み、声をひそめて男に言った。
「いくつか質問がある」
「ウゥ…」
ゾンビみたいな声を上げながら、男はこちらを睨みつけた。
「…さらった奴はどこにいる?」
ボクは鞘から剣を抜き、剣の刃をちらつかせながら男に言った。姉さんに教えられた方法で、殺気を相手に伝える目線を男に投げかける。こちらの武器と殺気からボクの本気度を錯覚したのか、男は真っ青になりながら回答した。
「こ、小屋だ。この獣道を辿って行った先にある小屋に連れ込まれているところは見た。俺は侵入者がこないかどうか見張っている担当だったから、これ以上のことはもう何も…ほ、本当だ!」
「…わかった」
ボクは男を解放すると、小屋を目指して獣道を辿り始めた。すぐにでも救助を開始したいところだ。木がぐんぐん後ろに流れ、土の匂いがより濃くなってくる。ヒロインの補正のおかげか、足がいつもより軽い。…というか、疑問に思ったことが一つある。なんで人一人のために見張りなんて置いたんだろう?何か、被害者に特別なユニークスキルでも備わっているのだろうか。…いや、考えるのは助けてからにしよう。ボクは獣道を辿る速度をさらにあげる。全力疾走だ。
しばらく疾走を続けていると、頭上に小屋が見えてきた。獣道は山をぐるりと回るように伸びており、ネジを縦に置いたような形になっていた。その途中に小屋がある。ボクはもう一息、と自分に喝を入れて、一気に坂を駆け上がった。小屋に近づくと、何かが中で暴れている音が聞こえてくる。
「くそッ、ガキが、大人しくしやがれ…!」
男の声がする。どうやら暴れている被害者を抑え込もうとしているようだ。
「肉、肉、肉うううう!」
「いっでええええ!?腕に噛み付くんじゃねえ!」
肉を求めて腕にかぶりつくって猛獣か!凶暴すぎないか!?
「ハムだあああああ!」
「ハムじゃねえよ!おいおいマジかよ、腕の肉がメキメキいってる!これ以上は洒落にならねえ、やめろ!」
どんな咬合力だよ。
「食わせろおおおおお!」
「ぎゃあああああああ!?」
…さらった男の方が劣勢に聞こえるのはボクだけだろうか。
「とにかくこの中に…!」
ボクは助走をつけると、剣を構えたまま扉に突撃した。比較的新しそうな扉だけど、関係ない。ボクは母指内転筋横柱に体重をかけ、力が最も入りやすい姿勢に調節してから扉に剣を叩きつける。メキメキと扉が音を立てて割れ、小屋の中が見えた。
「…え、何この状況」
目に涙を浮かべながら必死で力を込めているらしい大柄のスキンヘッドの男と、涎を垂らしながら男のハムのような二の腕にかぶりついているぐるぐる巻きにされた女の子の姿があった。
「えーっと…」
ボクはこれにどう対処したものか、困ってしまった。とにかく、女の子に声をかけることにした。
「あの、助けに来たよ!」
男が腕を振り上げる。
「おう、すぐにでも助けてくれ!」
「あんたじゃない!」
まあ確かに、男としては一刻も早く助けて欲しい状況だろうけれども。
「この人でなしが!」
「誘拐犯が言うセリフか!?」
ボクがツッコミを入れている間にも、女の子の方は依然として血走った目でかぶりついている。…目が正気じゃない。空腹のあまり頭がおかしくなっているのか…?女の子だけ救出できればいいし、適当なことを言ってこっちに来てもらおう。流石にこの男をこのまま放置しておくわけにはいかないだろうし。
「おーい、腕に噛み付いているそこの君!ボクの方についてきたら街に戻れるから、パンがもらえるよ!」
パン、という単語を聞いた瞬間、女の子は男の腕を離した。そのままゴロゴロと床を転がっていく。噛み付くのに力を使いすぎたらしく、そこから動き出す気配はなかった。ひとまず男の救済は完了。恩は売ったからこれで解放してもらえるんじゃないかな……
「……なあ、お嬢さん?」
「…え、ボクですか?」
それ以外にはいない。男はこちらに話しかけているようだった。
「お嬢さんっていうかボクは…」
男。そう言おうとしたのだが、男はそれを遮るように口を開いた。
「俺たちの秘密を見ちまったからには、一緒に来てもらうぜ」
男は壁にかかっていた斧を手に取ると、こちらに向けてきた。曲がりながらも助けた人に対して何たる仕打ちだ。
「…めちゃくちゃですね…」
頭上の風が動くのを感じ、慌ててバックステップで回避した。直後、家を飛び出した斧が地面を叩き割る。突然飛んできた斧に対応できたのも、〈ヒロイン〉の戦闘力補正のおかげだな。ボクは直感的にそれを感じた。が、いくら補正があっても、あんなのに叩かれたら無事では済まないだろう。ボクは飛んでくる可能性がある肉弾攻撃を警戒して、後ろに飛び退いた。
冷や汗を拭いつつ、ボクは鉄剣を構える。男は口を開いた。
「華奢な割にはやるじゃねえか」
そっちこそ、結構な力で噛まれていたのによくそんな重そうな斧振り回せるな。
「…あの、武器を下ろしてくれませんか?」
ボクは慎重に言葉を選びながら、斧を振り下ろしてきた男に声をかけた。
「それならこの女から離れろ」
男がニタニタ笑いながら、ボクに要求を出してくる。
「ボクが立ち去った後、どうするんですか?」
少なくとも入れ墨を入れ、スキンヘッドの大柄なこいつは明らかに何もしないって言う見た目ではない。
「お前が知ることじゃねえよ。さっさと引っ込んでな。じゃねえとお前も売っ払うぞ!わかったか!」
知ることじゃないと言いつつ、あっさり目的を話す男。
「オーケイ、君がとんでもない馬鹿だってことはわかったよ」
人身売買は見過ごせない。ボクは敬語を崩し、敵対することを示した。
「あんたは底なしのお人好しで命知らずだよ!ここでお前の人生は終わりだ!」
ボクが気配をサーチする必要もなく、ボクは40人近くの山賊の男たちに囲まれていた。それぞれが武器を手に持ち、こちらを敵意剥き出しの目線で見ている。…悪洒落もいいところである。だが、姉さんの教えによるとこうだ。『どんな絶望的状況も、運と力さえあれば100%覆る』…ボクがこの世界において持つ力はすなわちユニークスキル〈ヒロイン〉だ。そしてボクは、人が多ければ多いほど運がよくなるユニークスキルも持っている。…意外に、勝機ありかもしれない。ボクはすぐに、一つの作戦を思いついた。だがそれは、自分が精神的に深く傷つく可能性を秘めている。…ええい、迷っている場合か!『生き残りたければ、泥水も死なない程度にすすれ』姉さんの教えだ。今はつまらない意地に任せて動いてはならない。時に人は恥を捨て、新たな自分に生まれ変わらなければならない!そして今がその時だ!…たぶん。そうじゃなかったら死ぬ、死んでやる!
ボクは覚悟を決めて、息を吸った。今だけボクは、ヒロインだ。
「女の子相手にあんまりズルしてると撃っちゃいますよ♡バーン!」
自分が出せる最高の萌え声で男どもに言う。さらにウインクしながら指ピストルの形を作り、バーンと撃つ真似をした。ボクにこのスキルを与えたあの男は、〈ヒロイン〉の効果についてこう説明した。『ユニークスキル〈ヒロイン〉は常時発動スキルの中でもかなり上位に位置する、本当にヒロインとしての魅力が身につくというものダ。戦闘での補正が大きくなるし、世の男を夢中にすることだってできル。ちょっとした動作でも可愛く見せることができるんだゾ? それに、条件によってはレベル三桁分のステータスを覆すほどのパワーも発揮できる反則級の性能だってあル』と。つまり!
「か、可愛すぎる…」「なんだ、あの可愛い生き物は!?」「結婚してくれ!」「ブヒィィィ!」「心臓を射抜かれたあああ!」
ボクの思った通り、男どもは沸き始めた。さながら、アイドルがファンサを始めた時のオタの集団のようだった。
「でも、全員は選べませんよ?」
ボクは男としての恥もプライドも全て捨て、ヒロインになりきってさらに男どもに揺さぶりをかける。
「結婚したい!」「いや、貴様なんぞには渡さん!俺の嫁だ!」「何を言ってやがる!俺のだ!」
たちまち、山賊同士で内戦が起こった。お互いにボカスカ殴り合い、敵は勝手に潰し合いを始めた。主犯格と思われる斧の男以外は全員〈ヒロイン〉の効果を受けたらしく、ボクという一人の男のために殴り合いに参加し結果満身創痍となった。
「こんなふざけた戦法で俺の仲間が…!?てめえ、タダじゃ済ませねえぞ!」
「そうは言っても、残るは君だけだね」
ボクは軽く剣を回して感覚を研ぎ澄ますと、斧を見た。まさかりってやつだろうか。かなりでかい。もちろん、ボクが姉さんに習っていたどの剣術でもこんな奴との戦闘はシミュレーションされていなかった。
「ああ。そうみたいだな!」
敵がこちらに突っ込んできて、体を思い切りそらしながら斧を構えてくる。
「ふっ…」
息を止め、横に振りかぶられた斧を回避する。風が唸り、斧から放たれた音が髪を揺らした。
「シッ!」
ボクは蛇のように息を吐きながら、蹴りと剣による突きを交互に繰り出した。
「おい、攻める以外に脳がねえのか?」
男はニヤニヤ笑いながら斧をくるくる回し、こちらに飛びかかってくる。
脳筋はどっちだよ。ボクは構をフェンシングのものに切り替えた。
「フンッ!」
気合いと共に振りかぶられた斧を横に流し、突きを叩き込む。
「ガッ…」
「チェック・メイト」
崩れ落ちる男に、ボクは一言そうアピールしてやった。
「…で、こいつらで全員?」
「う、うん…ありがとう」
女の子を縛っていた紐を解き、無事解放に成功する。短い金髪に青い目を持つ女の子の身長は160センチぐらい、モデル体型の女の子だ。半袖に薄手の素材でできたランニングウェアがアクティブな印象を与えた。目にも生気が戻り、どうやら正気に戻ったらしかった。この子も転生してきたばっかりなんだろうな。転生直後に誘拐されるなんて災難すぎる。
「どうしたの?」
落ち着いて、ゆっくり聞いてみる。女の子が近くにいると思うと、急に緊張してきた…
「………あの、図々しいのは承知の上でお願いしたいことがあるんだけど…お菓子とか、持ってない?」
「……はい?」
謎の質問に、ボクは思わず聞き返してしまった。
「お腹が空いて、動けそうにないの…」
「う、うん…」
ボクは努めて冷静な口調を装おうとしたが、その努力はおそらく丸わかりだっただろう。
「友達とはぐれちゃうしお腹も空くしでもうくたくた…」
なるほど、まあ誘拐されていたわけだしご飯はろくに食べられなかっただろうな。ボクはポケットを探ってみる。しかし、空っぽだった。ボクは女の子の方を向いた。期待の眼差しでこちらを見ている。
「ごめん、何もない」
申し訳ないけど。
女の子はがくりとうなだれた。その目には涙が滲み、地面についた手は土を握りしめている。
「うう、ひもじいよう…」
「…………」
流石に可哀想だ。とは言っても、ボクに何かができるわけじゃない。
「そもそも、なんでそんなことに?」
「道に一列で落ちてたリンゴを食べて歩いてたら視界が真っ暗になって…以後、訳がわからない奴らに捕まって身柄拘束されてたの」
事情はわかった。彼女は誘拐の被害に遭っていたらしい。それにしたって道一列にリンゴって…獣のトラップか何かだろうか。
「…事情はよくわかったよ。それじゃ、友達探しに行かなくていいの?」
「そうなんだけど、お腹が空いて動けないんだ…」
女の子の回答に、ボクは対応に困ってしまった。おそらく見る人によっては印象最悪だろうが、一つ言わせてもらう。女の子は被害者だ。それこそ正気を保てずに人を襲うほど、空腹に苦しんでいた。ボクはなんとか、この女の子を助けてあげたくなった。
「…そうだな、ちょっと待ってて」
これは正直、最終手段なんだけど。ボクは立ち上がり、おもむろに木の葉っぱをむしり取って噛んだ。
「ちょっと、何してるの!?」
女の子が目を丸くする。まあ、常識人が見れば奇行だろう。だが、知識のある人間ならボクの行動の意味がわかるはずだ。
「…姉さんから教わったんだ。噛んでみて苦い葉じゃなければ、一応毒じゃないってね」
「そう…なのね」
女の子が引き気味に言った。
「ま、まさかそれを食べろっていうわけじゃないわよね?」
「ひもじいんだよね。食べないと死ぬよ?」
ボクは本気だった。
「『生き残りたければ、泥水も死なない程度にすすれ』姉さんから教えられた」
「泥水をすすったらバイキンが入ってきて死んじゃうわよ!?」
とんでもないお姉ちゃんだ!と女の子の解釈が変な方に独り歩きしそうだったので、ボクは慌てて訂正した。
「比喩だよ」
ボクだって、流石に泥水をすすったりはしない。命は大事にしろ、でも手段を選ぶな。姉さんはよくそんなことをボクに教えていた。ボクは葉っぱを差し出しながら、女の子に質問した。
「…ところで、君が男から誘拐されたって言う子?」
「な、なんでそれを知ってるの?」
「君が誘拐されてる現場を目撃していた人から話を聞いたんだ。ボクは君を助けるためにここまできたわけで…」
「そう、だったんだ…ありがとう、あたしみたいなやつのためにここまで行動してくれて…。でもあたし、何もできないよ?」
「見返りなんていらないよ。何かしてほしくて行動したわけじゃないし」
「でも…」
女の子は居心地悪そうだ。
「…『心からの善行を働くなら見返りを求めるな』」
「えっ?」
「…姉さんからそう教えられてきたんだ。だから、心から助けたいと思った相手に見返りは求めないよ」
「本当に、お姉ちゃんのことが大好きなんだね?」
女の子がポツリと、そう言った。ボクは迷うことなく頷いた。
「ああ。ボクは世界のどんな偉人よりもたくさんのことを教えてくれた姉さんを尊敬してるし、憧れてる」
戦い方、生き方、選択するときのリスク、会話の楽しさ、武器の扱い方。でも一番姉さんから教えてもらっていたのは、生きることについてだった。ボクが引きこもっていたせいか、その話をするときは姉さんの目はいつも真剣そのものだった。まあその話をヘラヘラ笑いながらするのもおかしな話だけど、ボクの姉さんはなんというか…真剣さが違った。その会話が最後になるみたいな、そんな死生感を感じさせる話し方だったんだ。
「…でも、一番大切な教えを守ることなく、死んでしまったんだ」
ボクは嘆息した。そう、結局ボクは、姉さんの教えを裏切ってしまったのだ。
「もしかして、それが君の未練?」
「ああ」
…ボクの未練は、選択から逃げたこと。今世では、選択から逃げない。ボクはそのつもりでいた。
「…そっか。君は真面目だなあ」
女の子はこちらを見ながら言った。
「…?そういう君の未練は何なの?嫌なら答えなくてもいいけど…」
「嫌っていうか恥ずかしいかな。ネタとしてはすごく優秀だと思うんだけど。…無理なダイエットをして食べたいものを全然食べなかったこと!あはは、我ながらお間抜けすぎて笑っちゃうわ」
舌をぺろっと出しながら、女の子は明るく言った。
「…いや、そんなことないと思う」
「えっ…?」
キョトンとした顔で、女の子はこちらを見てくる。…本当に、無垢な表情だ。だが、それ故に自分が抱えている未練の大きさに気がついていない。ここにいる未練とはすなわち、第二の人生をやり直してまで晴らしたい未練…。とても大きく、心のつっかえとなっている未練な訳で。…そんな自分の後悔を、未練を、間抜けだっただなんて絶対に言ってほしくない。身勝手ながら、ボクは口を開いた。
「…行動しなかったことによる未練という意味では、ボクたちは共通している。ボクにはとても、君の未練が間抜けなものには見えないよ」
「…そっか」
女の子は少し微笑みながら呟くと、にわかに立ち上がった。
「君、名前なんだったかしら?まだ聞いてなかったわよね」
「あ、ボクはリンネだよ。そういえばまだ名乗ってなかったね」
めちゃくちゃ眩しい笑顔で女の子はボクに手を振った。
「リンちゃん、助けてくれてありがとう!この恩は絶対に返すわ!」
女の子は街の方にたったと駆けていった。
…ふう。人助けは悪くないけど、流石に疲れたな。
ガサッ
木の上からそんな音が聞こえてきた気がしたが、気のせいだろう。きっと、本格的な戦闘を久々にやって疲れたんだ。
…リンネが立ち去ったその後。忍び装束を着た人影がゆらりと現れ、山賊の前にかがみ込んだ。透き通った声が、無音だった森に少し生命の感覚を蘇らせる。
「…寝てる?起きてる?…寝てる。かわいそう。男を嫁にしようとして、仲間同士でやり合うなんて…ところであんなことして、彼はこの世界の刑法を知ってるのかな」
クノイチは懐から注射器を取り出すと、男たちの血を少しずつ吸い、それらを試験管にしまった。
「…彼の血は、どんなだろう」
感情の読めない声で彼女はそう呟きながらリンネが歩いていった街の方へと足をすすめるのだった。しかし道を抜けた先には…もう彼女の姿はどこにもなかった。