6
涙ぐむ私を見て、校長先生が感慨深げにため息をもらす。
「お嬢様は、オムツのとれるのも早くていらして……」
「ふぐっ?!」
いきなり思いもかけない方向へ話が向かって、私は餅菓子が喉に詰まる。
茶碗に手を伸ばす私の背中をさすりながら、冬史郎さんが不機嫌に答えた。
「お嬢様のオムツを取り換えたのは、私だけのはず……!」
小さいころには、冬史郎さんがオムツからミルクまで面倒を見てくれていたというのは、両親からは何度も聞かされた話だけど、ここで言われるとは思わなかった。
「冬史郎は、あのころからお嬢様には触らせてくれないから……」
校長先生が子供みたいに、口をとがらせる。
「お嬢様は、すぐにおむつかぶれをされるのに、紙おむつを使おうとするからでしょう。オムツは布だと、あれほど言ったのに」
――ちょっと待って、今さらオムツの話をされても本当に困るんだけど……。
“お嬢様”と呼ばれているのに“お嬢様”扱いされている気がしない。
「今の紙おむつは、なかなかの優れものなんだぞ!」
校長先生は、片眼鏡の向こうから恨みがましい視線を冬史郎さんに向ける。
「冬史郎……お父さんだってお嬢様と」
黙っていれば、端正な老紳士だが、そんな子供っぽい所作は、元執事にしても、現校長としてもいかにも不似合いだった。
「いい加減にしてください。校長のせいで、お嬢様の学校生活に支障があったらどう責任を取るつもりですか?」
「もちろん。私はわきまえているつもりだよ。風早冬史郎教諭」
冷たくあしらわれて校長先生は、わざとらしいほど仰々しく言った。
って、風早冬史郎“教諭”?
教諭って、冬史郎さん。ここの学校の先生なの?!
冬史郎さんは、私の茶碗に新しいお茶を注いでいる。
「きみを産休代替教員として、大学から呼び寄せたのもそのためだ」
思いがけない校長先生の言葉に驚いて冬史郎さんを見上げる。
「わ、私のせいで、冬史郎さん……大学、辞めた……ってこと?」」
私の頭に冬史郎さんは、そっと大きな手をのせた。
ふっと優しい微笑みを見せながら、校長先生に対してだけドスの効いた声で言う。
「ここは中高一貫校で編入生は珍しいんです。お嬢様、いや、“私の生徒”に迷惑をかけないようにしてください。校長」
「そのへんは大丈夫だ。風早冬史郎教諭。お嬢様がおひとりでは寂しいかと思って、編入生を同じクラスにしたのだからね」
そう言いながら校長先生は、正面の席からテーブル越しの私に迫ってくる。
「近寄らないでください、と何度も申し上げているはずですが……。認知症には早期の診断とケアが必要ですね」
すかさず冬史郎さんは、校長の顔を掌底打ちする。
校長先生を突き放しておいて、私の肩を抱くようにして引き寄せた。あまり強くひっぱるので冬史郎さんの胸に顔からぶつけてしまう。
「お嬢様の前で、その言いぐさはなんだ。冬史郎」
ソファーの上で後ろに倒れ込みながら、校長は顎を押さえた。これは親子だから許されるのだろうか。普通なら懲戒処分だ。
「“花菱くん”は私の生徒です。むやみに触らないでください。加齢臭が移ります」
本当に冬史郎さんが教諭だとしたら、この職場における上下関係は、すでに崩壊している。
もしかしたら、これが平素の冬史郎さんなのかもしれない。
でも、私のほうは、心臓が爆発しそうだった。
抱き寄せられた鼻先に冬史郎さんの胸がある。
優し気な面差しからは想像もできないほど、がっしりとして厚い胸板だった。
これまでの“冬史郎さんのいなかった”私の人生において、男性に抱きしめられるなどあり得ない状況にいる。
「冬史郎は、学者肌な男だから人と接するより物事に没頭するほうが向いていると思ったが、お嬢様のことになると見境がないね」
校長先生があきれたように言った。
それでも冬史郎さんは、私を腕の中から放そうとはしない。
小さいころには、こうして抱きしめてもらっていたのかもしれないけど……。
校長先生の加齢臭はともかくとして、じつは冬史郎さんにも男性的なかすかな匂いがある。
匂いの記憶は、意外と頭の奥深くに刻み込まれているものかもしれない。
昔の冬史郎さんの匂いを何となく覚えている。
今は、あのころとは、少し違う。
温かみのある甘苦い……ペパーミントにも似ている。もしかしたら、これは、タバコの匂いなのかな。