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「学校では、下の名前では呼ばないでください」
低い声にいっそう凄みが加わる。私は、震えあがった。
「冬史郎。お嬢様の前で、本当に口の悪い子だね。お前は……」
「その大事なお嬢様に触らないでください! ヒゲ爺!」
ダークスーツと怒鳴り声のせいで、メチャクチャ怖い。
それにヒゲ爺って、校長先生のヒゲのことだよね。
上座である二人掛けのソファーを勧められてしまう。断りにくくて私は遠慮がちに座る。
校長先生は、私の正面の一人掛けのソファーに腰を下ろした。なぜか、冬史郎さんは私の隣にぴったりと寄り添う。
彼の中で私は、まだ別れた時の幼稚園児のままなのかも。
「これ冬史郎。お嬢様にベタベタと……お前こそ、セクハラで教育委員会に訴えるよ」
「私には、加齢臭はありませんから」
きっぱりと、冬史郎さんが言った。
確かに冬史郎さんからは、爽やかないい匂いがするのに対して、校長先生からは、加齢臭ではないけど、濃い男性用香水の匂いがする。
「誰が加齢臭だ。お前だって若作りしても30すぎたら中年だろう」
“若作り”という校長の言葉に、今度は冬史郎さんの眉がひくっと動いたのが見えた。
「……私が中年なら、校長はミイラですね」
「ミイラなら、もう少し敬え」
「生ごみ堆肥化施設に連れて行ってあげますよ」
「ちょっと待て。即身仏は、富士山だろうが!」
「甘いですよ。誰でも死んだら仏になれると思っているんですか? 経典のどこにもそんな話は、書いてありませんよ」
「それが親に向かって言うことか!」
「循環型処理をするなら、生ごみなどを堆肥にリサイクルするのはよいことですよ」
「誰が生ごみだ」
「ご自身で即身仏だと、言ったのでは?」
「まったく冬史郎は……外国のミイラばっかり相手にしているから、そんな屁理屈ばっかり」
「校長こそ、ヒゲの手入れをするより、仏教について学んだほうがよろしいですよ」
「お釈迦様だって、ヒゲぐらいはやしてるだろうが!!」
「あいにくですが、初期仏像の様式であるマトゥラー仏には、ヒゲはないんですよ」
「あ……あの、えっと」
放っておいたら、どこまでも続きそうな気がしてきた。
もとはと言えば、私のことが原因なのだし……。
「そ、その……私、お嬢様じゃないから、そんなに気を使わないでください」
笑おうとして顔が引きつった。
私の言葉に、目の前にいる二人の顔色が暗く沈んでしまったからだ。
特に冬史郎さんのほうは、さっきまで校長先生相手に、陰険な漫才していたとは思えない。
今にも泣きだしそうな痛みをこらえるような……そんな不可解な大人の表情を私は、これまでの人生において見たことがなかった。
ど、どうしよう……何がいけなかったの?!
「あ、あの、こんな立派な学校に通わせてもらえるなんて……なんてお礼を言っていいか……」
せめて気持ちを引き立てようとして私は、あわてて言ったが、もう遅い。
二人は、テーブルをひっくり返す勢いで立ち上がった。
「いいえ、今の風早があるのも、大恩ある大旦那様のおかげでございます」
「いや、この学校の編入試験に合格したのは、お嬢様の実力です」
まるで、息をそろえたように同時に二人が叫ぶ。トリッキーすぎる動き。
やはり親子なんだな……と、変なところで感心してしまう。
確かに編入試験は、私だって、がんばったけど……。
奨学金やこまごました手続きをして、この学校に通えるようにしてくれたのも冬史郎さんや校長先生のおかげだ。
「私……私、本当に……何度、お礼を言っても言い足りないほどです」
私は、立ち上がって深く頭をさげた。
ようやく落ち着いた空気になったところで、冬史郎さんが緑茶と菓子を勧めてくれた。
こんなにのんびりしていて、いいのかな。
「お嬢様は、銀座の“空也もなか”がお好きでしたね」
校長先生が言うと、すかさず冬史郎さんが言い返す。
「違う。“空也餅”です」
冬史郎さんの言う通り私が好きなのは“空也餅”だ。
冬季限定の生菓子で予約してもなかなか手に入らないはずなのに……。
「でも、今は、まだ9月なのに」
長い間、口にすることのなかった贅沢な生菓子だ。
「お嬢様がお好きだから、再現してみました」
「わ、私のために?」
そっと餅菓子をつまんで口に運ぶ。
粒の残る餅生地がよく晒したつぶし餡を包んでいる。上品な甘みでさっぱりとした口当たり……。
ずっと昔に食べたことの懐かしい味。でも、それは老舗の和菓子屋の味とはほんの少し違う。
これは“冬史郎さんの味”とでもいうものだろうか。
そういえば、ずっと昔、こうやっておやつを作ってくれたっけ。
口の中に広がる甘い味は、幼い日を呼び起こさせる。
「そういえばお嬢様は、もう一歳になるかならぬかで哺乳瓶を卒業して離乳食になりましたね。冬史郎が虫歯になるからといって」
校長先生が感慨深げに言う。
幼い私を育てたのは、世間知らずの母でもベビーシッターでもない。両親から、そんな話を聞いた。
「お嬢様は、甘いものがお好きでいらしたが、食べるものには冬史郎がとにかく、うるさかったんですよ」
そういえば、ずっと昔、家には大勢の人たちがいた。ねえやとか、ばあやとか、そんな呼び名の女の人たちだ。
そんな時代錯誤の呼び名は、おそらく曾祖父の時代から定着していたのではないだろうか。
でも、その人たちが作ったものより、ずっとおいしいお菓子を作ってくれた人がいた。
それは、市販品よりも、遥かにおいしい。
両親よりも誰よりも側にいてくれたのは……やっぱり、この冬史郎さんだったのか。
懐かしさに、じんわりと涙が込み上げてくる。
餅菓子をほおばったまま私は、涙をこらえた。