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仕事や学校を紹介してもらったそうだけど、それは、今の家から通勤・通学できる距離ではなく、我が家は引っ越しをすることになった。
その引っ越し費用まで、冬史郎さんに融資してもらうというのは……いくら、昔の雇用関係があったとしても、そこまでするのは、ちょっとおかしいんじゃないか?
「おかしいのは、今のお嬢様の状況のほうです。花菱家は、明治以前から続く家柄だったのですから!」
きっぱりと、冬史郎さんはそう言った。
時代錯誤な発想だけど、そのおかげで、私は、また高校に行くことができる。
私は、冬史郎さんの運転する車で登校することになった。
もっとも、それは編入初日だけ……ということで、お願いしたのだ。
そうでなければ、毎日、送り迎えに来ると言うのだから、冬史郎さんの中では、私はずっと昔の“お嬢様”のままらしい。
冬史郎さんの紹介してくれた学校は、これまで通っていた学校とはまるで違っていた。
私立のミッション・スクールで、西洋の王城のような外観の建物だ。
編入試験の時に、一度来たことはあるけど、独特の雰囲気に気おくれしてしまう。
今までは、ずっと共学だったから、女子校がとても新鮮に感じたけど、私には、場違いだったのかもしれない。
校長室のドアには、大きな樫材の重厚な扉に金色の校章にノッカーがはめ込まれている。
ノックするより先にドアノブが動く。
誰かが出てくるのだと思って一歩後ろにさがると、室内から出てきた人物が、私の目の前でひざまずいた。
たった今、校長室のドアの前に立ってから数秒の出来事だ。
「……え……え?」
何が起こったのか理解できない。
私の目下に白髪頭と黒っぽいスーツの背中が見える。
身なりのきちんとした白髪の年配の男性が、一般生徒の前でひざまずくという日常では、あり得ない事態に私は凍りついた。
あれ? デジャブ?
まったく同じことが、前の学校でもあった。
「綾乃お嬢様。お久しゅうございます!!!」
上ずった声は、今にも泣きだしそうだ。
ようやく私は、この怪しげな人物が誰なのかを理解した。
「あ、あの……こ、校長先生?」
私の呼びかけに白髪頭が上がる。
片方だけの丸いレンズの眼鏡。左右両端を上にはねあげた八字型の口ひげに芝居がかった言動。
まさか、という思いと、やっぱり……という気分が入り混じっている。
私が生まれる前から、祖父母や両親に仕えていた執事さんらしい。
あらかじめ、お父さんや冬史郎さんに教えてもらっていなかったら、また、パニックを起こしていたと思う。
私が小さいころは“じい”と呼んでいたそうだ。
ずっと昔の話とはいえ、今さらながら恥ずかしくなってくる。
「お嬢様、お美しゅうお育ちになれましたなぁ」
“じい”こと校長先生は、ひざまずいたままの姿勢で私を見上げる。
「あ、あの……そ、そ、その……」
冬史郎さんで一度、経験しているとはいえ、自分の両親よりも年上の男性にひざまずかれても、どうしたらいいのか分からない。
「ああ、これは大変、申し訳ありませんでした。お嬢様をこんなところに立たせたままなどと……」
重厚な扉を押し開き、校長先生は丁寧に頭を下げる。
うながされるまま私は、校長室に踏み込んだ。
「どうぞ、おかけください。じいがお茶をお持ちいたしましょう」
上座の席を促されて私は、慌てた。
「い、いいえ、その……」
私の言葉に一瞬、校長先生の動きが止まる。
「わ、わ……私、お嬢様じゃない……ですから……」
「いいえ、お嬢様は、何があろうと、わたくしのお嬢様です!!」
強い口調で断言されて、私は口ごもってしまう。
かつて“じい”と呼ばれた校長は、興奮気味に私の手をとった。力を込めて自分の両手でおしいだくように握りしめる。
「しかし、お嬢様は亡くなった大旦那様に似ておいでです。どんな時もけじめを大切になる方でいらして!」
「大旦那様……?」
「お嬢様のお祖父様ですよ。私が付けているこの片眼鏡もお祖父様から頂いたものです」
「えっと、えっと……メガネ……?」
校長先生の話は、展開が早くてついていけない。
私は、一緒にきてくれた冬史郎さんを振りかえった。
「モノクルと言うものですよ。イギリスでは主人の富を象徴として執事に片眼鏡をかけたそうです」
うわ~そんな貴族の真似事なんてやってたんだ。
ホントに成金だったのかも……うちのお祖父さんって。
そもそも私には、祖父の記憶がまったくないと言ってよかった。
とてつもなく忙しい人だったようで、幼いころの私は、この“じい”と呼んでいた人こそが、自分のお祖父さんだと思っていたぐらいだ。
「ところで、そろそろ、その手を放していただけませんか?」
冬史郎さんの声が、低くなったような気がした。
「私の声が聴こえませんか? 校長」
もともと、静かな低い声音の人だけど……。
さらに低くなっている。
「教育委員会につるし上げられる前に、この私がその窓から吊るしてあげましょうか?」
声のトーンだけではなく発言の内容もかなり危ない。
「何を言っているんだ。冬史郎だって、お嬢様に久しぶりにお会いできて、嬉しかったんだろう?」
それでも校長先生のほうは、いたって落ち着いていた。
残念ながら、私は“お嬢様”じゃない。ド庶民だ。
低めの声が怖い元執事こそ、黙っていれば、上品そうな御曹司にも見える。