トロメライ
「ぼくは人を悲しませることしかできないんだ」
月が見えない夜、いつもは無口なポトフが言った。
「だからなるべくじっとして、台本通りにしゃべるのさ」
誰かに聞かれないようにと、声のボリュームをうんと下げて。
「そんなことはないさ!現におれは君が大好きだよ。君と話していると温かい気持ちになる」
そう主張するのは、ポトフと同い年のラゲルだ。長いまつげ、真っ白な肌、中性的な顔立ちをもつまさしく美少年である。
「たとえばね、ありがとうとかおはようとか、ちょっとした挨拶でいいんだ。難しいことじゃない。にっこり笑って言ってみな、みんな君を好きになるよ」
ラゲルはポトフの横顔をちらりと見やった。くるくると上機嫌に舞う巻き毛、いつもどこかしょんぼりとした垂れ目、顎から耳にかけてのシャープなライン。誰もがラゲルを美しいと言うけれど、彼はポトフに敵うやつなんていないや、と密かに思っていた。
「ダメなんだよ。僕が笑うと不幸になるんだって。ママが言ってたよ。僕が笑うとママは殴るよ。ホントだよ」
相も変わらず聞き取りづらいささやき声で、彼は悲しい話をする。ラゲルはポトフの身の上をもっと知りたかった。腰掛けた木の根っこから、変な液が染み出てくる。じめりとした感覚におののきながらも、ラゲルはポトフの声に耳を澄ませた。
「ぼくが挨拶するとね。みんないやな顔をするよ。トロメライが死ねば仲良くしてあげると言われたよ。でもぼくはトロメライが大好きなの」
ラゲルはうんうん、と大きく頷いた。彼はトロメライの魅力をよく知っていた。
「ふむ。思っていた以上に事態は深刻だね。おれの本領発揮と言ったとこかな!」
ラゲルは張り切って知恵を絞った。彼はあんまり考えることが得意じゃなかったけれど、ポトフのためなら頑張れた。
「何かプレゼントを贈ろうよ。素晴らしいサプライズで、みんなを楽しませよう!」
「ぼく、お金、ないもの。それにみんなぼくが触った物はフケツだから触れたくないって言うよ……」
どうやら作戦は一つ消えてしまったようだ。
「うん、じゃあそうだね、とってもおいしい料理を、今度のパーティーで振る舞おう!あっつあつのミートローフはどうだろう?キノコたっぷり、ソースましまし。きっと気に入るよ、みんな」
「ダメなんだよ。僕も一度考えた。丹精込めて木苺のケーキを作って持って行った。そしたらイノシシの餌にされた。僕が作るものはフケツだから食べたくないんだって」
静かな森が、不意にサワサワとざわめく。ポトフの愛らしい栗毛が、モチモチと揺れた。
「……フケツだとは思わないけど」
二人は沈黙した。フケツって言葉は、何もかも台無しにする気がする。どんなに頑張ろうと足を上げても、その一言で負けちゃう気がする。
「実は友達が欲しくてね トロメライを殺したよ」
「ええ。どうなったの?」
「トロメライに散々怒られた。みんなも余計ぼくを嫌ったみたい」
ポトフのそばに寄りそうトロメライが、やけに不機嫌そうなのはそのせいか。つぶらな瞳でせわしなく、森の様子を見つめている。うん、かわいい。とても。
「トロメライはどうして嫌われるのかなァ」
ポトフがしんみりつぶやいた。ラゲルは答えを知っていたけど、何にも言わずに一緒にうなだれた。
今日はやけにしゃべる。これ以上話すと、ポトフの口からなにか大事な物が出てきちゃうんじゃないかと心配した。ポトフはウッカリさんだから。
「じゃあ、そろそろ寝るよ。付き合ってくれてありがとう。」そう言ってポトフがたちあがったのは、数十分後だった。普段あんまり話さないからか、ポトフはたいへん疲れているように見えた。
「僕と話していて楽しそうにしてくれるのは、君たちだけだよ」
そういってポトフは、二人におやすみのキスをした。
その夜ラゲルは長い長い時間をお風呂で過ごした。体中が赤くなるほど、全身をスポンジでこすった。ふやけてドロドロになりながら、そのフケツな心を呪った。
ポトフは好きだ。大好きだ。その彼が好きな物は自分も好きなのだ。トロメライのことも、もちろん。
おれは彼を仲間はずれにする、冷徹な人々とは断じて違う!潔癖な彼は、汚れを恐れた。汚れた心が、世界で一番嫌いなのだ。
のぼせて朦朧とした頭で、ふと壁のタイルをみると、そこに彼女がいた。見つかっちゃった、とでも言いたげなまなざしでラゲルを見ている。
「やあ。のぞきなんてよろしくないぜ。浮気するつもり?」ラゲルは努めて明るく言った。得体の知れない汚れが自分にたまっていくのを感じて、ガタガタ震えながら。
トロメライは長い髪をチロリと揺らして、あっという間に風呂場の石けんに飛びついた。
「おいっ!なにして……」
ラゲルが呆気にとられているうちに、彼女は石けんに食らいついた。小さな口で一生懸命その大好物にありついた。
激昂したラゲルはすぐさまトロメライにつかみかかった。逃げ足の速い彼女でもどうしようもなかった。艶めいたトロメライの身体に馬乗りになって、力一杯に殴りかかった。すらりとした手足を切り取ると、強烈な不安感が薄らいでいった。トロメライは泣いているように見えた。必死に抵抗する彼女をみたときに、たったの一度もポトフの顔が浮かんだことはなかった。
「ゴキブリのくせに!」
感極まって声を荒げた瞬間、ラゲルは悲しくて、苦しくて、何にもわからなくなって、とうとう動かなくなったそれの傍らでワンワン泣いた。彼が信じていたもの、信じたかったものも、守りたかった世界のすべてが、さっきのフケツな心に台無しにされてしまったのだ。
「あの夜以来、ラゲルが来なくなっちゃった」
ポトフはしょんぼり、ひとりぼっち。お気に入りの切り株に腰掛けて、103人目のトロメライにキスをする。
「ぼくは君が大好きなんだ。かわいくて、優しくて、いつもそばにいてくれる。ママに捨てられて、ぼろ屋敷に一人で眠っていたとき、慰めてくれたよねえ」
トロメライはなんにも答えない。いつもなんにも答えない。
「いつかトロメライのこと……そして僕のことを好きになってくれる子が見つかるよね」
おわり