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参之章 『館にて』

 その頃、ナギサヒコが国造(くにのみやつこ)を務める参河国(みかわのくに)の西部、青見郡(あおみのこおり)にてナギサヒコの武運を憂えるイラツメの元へ、馥郁(ふくいく)たる藤の香りと共に風に吹かれて現れたのは玉姫命(たまひめのみこと)であった。襲国より娶られた当初、ほとんど死者のような心地だったイラツメに幾度となく話しかけ、ついにはその心を溶かした尾張の豪族の娘である。


 淋しげに百合の花を眺めるイラツメに、タマヒメが問う。


「どうしたんですか、イラツメ」


「……タマヒメ」


「そんな悲しそうにしていては、せっかくの美貌が台無しですよ」


「……それは嫌味?」


「え? まさか」


 想定外の受け取られ方をされたタマヒメが、慌ててイラツメの言葉を否定する。


 イラツメはタマヒメの純心を分かっていた。分かっていて、このような事を言った。夫のない不安感を、せめて友人の狼狽ぶりを見て落ち着かせたかったのである。


「……私はタケイナダの前でさえ一番美しければ、それでいいんです。あの人にさえ恋い恋いてもらえれば、あとは何もいらない」


 怯むことなく言い切るタマヒメの強さを、これほど欲した時はなかった。


「だから今は、この葦原で貴女が一番綺麗ですよ。親友の私が約束します」


「……でも……」


 憂国の情にも似た悲歎を浮かべるイラツメの黒曜石の瞳は、タマヒメの首に飾られた勾玉の碧の濃やかな煌きに揺れた。それは見間違えようもなくタマヒメの決意であった。……タマヒメの夫である建稲種命(たけいなだねのみこと)は、ナギサヒコと共に東征の副将軍の勅命を受ける猛将として、(くが)の道より幾らも険しい海路を先導していた。そのような身空で夫の無事を信じて笑えるタマヒメを、イラツメは羨んだ。


「……私には、ナギサヒコしかない。ナギサヒコはこの国そのものです。ここへ来て、一度死ぬることの儚さを知った私という国の中には、ナギサヒコしかありません。だから……」


 イラツメの摘み取った一輪の百合は、二人の間を通った神の息吹によって東の雲海の(かた)へ舞い上がった。(つと)に起きて、草花の白露に比礼(ひれ)の先を濡らした二人の姫は、その百合が遠く潮海を越えて山川万里の夫の元へ落ちることを祈った。それは明けそめる空に呼ばれて小径に顔を出した野兎のように無垢な祈り、激流を昇る野鯉よりも敢然とした願いであった。


「タケイナダも、あなたの男も、強い人ですから。私たちは、願うことを続けましょう? 願いで、それぞれの館を守っていましょう、イラツメ」

 


   ☽


  

 かくして、まつろわぬ人々は鎮静化した。ミコト一行は二三の(むら)の男に相模(さがみの)国造(くにのみやつこ)の館まで案内させた。そして天皇(すめらみこと)への服属を命ずると、国造は気味の悪い笑みで応じた。やけに素直なその態度に怪訝(かいが)したのはナギサヒコであった。ナギサヒコは粋然(すいぜん)たる義に満ちたその双眸をミコトの横で炯々(けいけい)と光らせた。


 その時、男の長い白髭の中からなにかが光るのを見た。ナギサヒコがそれをミコトに知らせるよりも早く、男は立ち上がり、自らの懐に手を伸ばす――それを、止めた者がいた。ナギサヒコではない。ミコトでもない。国造の腕を掴んでいたのは一人の娘……先程、射抜かれ死ぬる運命をナギサヒコに助けられた娘であった。


 呆気にとられているナギサヒコへ笑みを浮かべた娘は、国造に向けてこう言った。


「おやめください。私が秋たけなわの森の逍遥から無事に戻り、今ここにいるのは、この方のおげなのです――お父様」


 毅然とした態度でそう言い放つ娘に、ナギサヒコは問う。


「……お前は」


「私は……女委邑日女(えみくさのむらひめ)と、そう呼ばれています。あなたは、なんとお呼びすれば、よろしいでしょうか?」


 ムラヒメは相模国造の(むすめ)であった。


 相模国造は娘に東征軍の相手をするよう言うと、館の奥に姿を消した。

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