弐之章 『英雄』
ギィと、目を矯めて弓を引き絞る弓兵が一人。
矢の向く先では、裳を土埃で汚し、黒髪を振り乱した娘が一人、その切っ先から逃れんと息も絶え絶えに駆けていた。
後陣に構えていた弓兵の一人は、視界の隅に見知らぬ娘を見かけた。不審に思って追ってみると、その服装から相模国の人間であることが分かり、ならば射殺さんと、矢をつがえ、娘に狙いを定めたのであった。
「――あっ――」
覚束ない姿勢で懸命に逃げていた娘が、小さな喘ぎ一つ、小石に躓いて地面を転げた。
その転倒で右足を挫いた娘は、立ち上がろうにも力が入らず、また倒れ伏してしまう。それでもなんとか生き延びようと上半身で這うようにして前進する娘を認めて、矢の的中を確信した弓兵は甚だ凪いだ心で矢尻を離した。揺れる弦にはじかれた矢は射線上でのろのろと動く娘を捉えて、濁流のごとき勢いで飛んでいく。
父母も居らぬ煢煢たる深い森の中、娘は今が臨終の時かと覚った。今際の際ではせめて潔くと、両の目を深く瞑り、じきに訪れる死を待った。
弓兵が笑う。……卒然、空を翔ける八咫烏と見紛う勢いで矢と娘の間に闖入したのは、悲鳴を聞いて駆けつけたナギサヒコであった。
「――ふんッ!」
ナギサヒコはキッと矢を睨むと、その厳つい腕をのばし、娘めがけて飛翔する矢柄を強く掴んだ。
「――」
空気の破裂音が轟き、土煙が舞う中、ナギサヒコは娘の安否を尋ねる代わりに目を眇めた。すると矢尻は娘の眼前咫尺のところで止まっていた。
「な、何故其の者の身を庇うようなことを! そのような謂われ、御身にはないと……」
弓兵の抗弁に、ナギサヒコはそれを一瞥すると、手前で崩れ落ちている娘へ意識を向けた。
娘は目前の矢尻に怯懦し、眦に一掬の涙を浮かべていた。ナギサヒコはそれを指でぬぐってやると、矢を茂みへ放りつつ下部に言った。
「我らが矢をつがえるの何故か。まつろわぬ者共の戦意を挫くためであろう。ならば背を向けて戦場から逃れようとする者を、それが賊や土蜘蛛なら格別、抗う術なき女・童を射抜こうとするのは、これより東方十二道をしろしめさんとする我らが現人神が御子の率いる鋭師の所業ではない」
ナギサヒコの真勇に心を打たれた弓兵は、自らの行為を恥じて戦場へと向かった。
娘は、そんなナギサヒコの姿、自らに差し出された片手を呆然と見つめていた。
「立てるか?」
その手を取りながらも、俯き口を開かない娘を訝しんだナギサヒコは訊ねた。
「なぜこのような場所に一人でいる。ここの人間だろう?」
その問いに頷く娘が足を引きづっていることに気が付くと、ナギサヒコは娘の背と膝裏に手をかけ、抱き上げた。驚嘆する娘に笑いかけて、
「案内してくれないか。集落の場所を教えろというわけではない。安全だと思うところまで、連れて行こう」
娘にはナギサヒコの優しさの理由が知れなかった。娘が父や村の男から仄聞する征軍とは、各地の豪族を従わせていく征服者のことを指していた。そして今、その国造軍の侵攻の矛先が自らの土地に向いていることも当然知っていた。そのような者が自分に笑いかける理由が見つからずに困惑していたのだ。
「……なんで……?」
木漏れ日を浴びて輝くナギサヒコを見上げて、娘は疑問を口にする。
「……まつろわぬ者、と俺たちは呼ぶけどな。それが俺たちの事情でしかないことに気づかないほど、愚かではないつもりだ。詔によりミコトがこの地の平定を志すように、お前たちにはお前たちの義があり、信ずるものがあり、なにより守るべきものがあるんだろう。だから俺たちが戦意を向けるのは、同じく守るべきもののために剣をとる兵に対してだけでいいと思っている。甘い考えなのかもしれないけどな」
娘はその半生のうちに初めて、本物の壮夫を認めた。その猛き心は娘のちっぽけな海原を越えて深く根付いた。倭国しろしめす天子に付き従う副将の清き眼差しは、相模国人はおろか、この大倭に坐しますいかなる神も持たぬ事実を、この時娘は確信したのであった。
「……あ、このことは他の誰にもいうんじゃないぞ。不忠者として壱岐に流されるのは困るからな」
そう言って、勇壮な中にも童のあどけなさを感じさせる笑顔を向けられた娘の手に、思わず力が入った。ナギサヒコの衣を握っていたそれは、離した後に皺を残した。娘はそれを恥じらって横抱きをやめるよう願うと、ナギサヒコは娘の身体を解放した。
「あ……ありがとうございます。この恩は、必ず何か、別の形で返しますから……」
「そも俺の軍の不始末が原因だから、お前が恩を覚える必要はないぞ」
「いいえ」
副将の言を否定する娘からは、ナギサヒコの眼差しにも負けぬような堅い覚悟が感じられた。ナギサヒコは驚き、そして笑うと娘に背を向け、戦場をめがけて大量を抜いた。