#9「先生」
「アラミスって言った?」
そう言ったナツキの顔から、その心は読み取れなかった。
「ナツキ、さん?」
「……!!」
ナツキは踵を返し、名津稀の方へ走る。そのまま彼女を手でどかして、さらに向こうへ走って行く。道を転がっていく落とし物を追いかけるかのように。
「……先生っ! いるの!? 先生!!」
「先生……?」
名津稀がいることも忘れてしまったような無我夢中な様子で、ナツキはそう叫び、走り、無くし物を探すように懸命に周りを見回している。
「いるんでしょ!? 昨日あなたを見たの……見たんだよ! 出てきてよ……アラミス先生!!」
震えながらも激しい、そんな声で。ナツキは叫んでいた。
「…………」
立ち止まる彼女に追いついた名津稀は、何も言わず彼女の後ろ姿を見ていた。
「ナツキさん、やっぱり何か隠してたんだね」
「…………ごめん。嘘ついてた」
そう言って振り返った彼女の目元には、涙が溜まっていた。口元は繕うように微笑みながらも、その目は彼女の心を素直に表していた。
「……話して、欲しいな。アラミスさんのこと」
言うべきか一瞬だけ迷ったが、すぐに名津稀は口を開いた。待ったりせずに踏み込んでいく。そう決めたのは彼女自身だから。
「私、弱いし、何も知らないし、できることも少ないけど……だけど、話のひとつも聞いてあげられないほど弱くはないつもりだから」
優しく諭すように、そう言った。
「………………」
ナツキは顔を伏せてじっと黙っていたが、やがて決意したように、あるいは観念したようにため息をついて顔を上げた。
「わかった。ありがと、なっちゃん」
そう言った時の顔は、さっきまでよりほんの少しだけ晴れていた。
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始まりは十年、否、それ以上前であった。
ササナエ・ナツキの両親は、彼女が幼い時、不幸であまりにも突然すぎる死を遂げた。生まれたばかりの姿でただ独りこの世に残され、残酷な運命の穴に突き落とされそうだったナツキを救い上げたのは、両親の親友であり、彼らに多くの恩を受けていた青年だった。
アラミス。民を守る銃士の名を借りて、彼はそう名乗っていた。ナツキは両親が死ぬとすぐに彼に引き取られ、彼とともに生きた。ナツキは彼を、いつからか"先生"と呼んだ。
ナツキに食事を作ってくれた。寂しい日は一緒に寝てくれた。両親を失った悲しみに涙が止まらない日は、ずっと側にいてくれた。彼はナツキの全てを満たしてくれていて、そしてナツキの全てであった。殺伐とした世界でゆっくりと流れる時間を、ナツキは彼とともにじっと噛み締めて生きていた。
「ごめん。私は父にはなれない。親にはどうしてもなれない」
「どうして? 先生もあたしの家族だよ?」
「ありがとう。でも……駄目なんだ。俺は」
幼い頃のナツキと彼は、そんな話をよくした。今ならナツキにも分かる。彼が自分の弱さを、どうしても両親になりかわることが出来ない悔しさを噛み締めていたのだと。そして、自分が"それでも、あなたは大切な人だ"と言ってやれなかったことを今も悔いていた。
それから月日が流れた。13歳になろうというある時、ナツキは気が付いた。
彼の顔を見ると、不思議な気持ちになる。目を合わせると顔が熱くなる。決して彼のことが嫌いではないのに、近づかれると離れたくなってしまう。恋なのだと自分で理解したのは、それからしばらくしてのことだった。
そんな中やってきたのは、アラミスの誕生日だった。
ナツキはプレゼントを買いに遠出していた。いつも暮らしている瓦礫だらけのボロボロの町を越えて、遠くへ。そうして、青いペンダントを手に入れた。
──あげたら、喜んでくれるかな?
──あたしの気持ちを伝えたら。喜んでくれるのかな?
会いたいと思った。早く会いたいと思って、帰り道はずっと駆け足だった。早く彼に会いたい。会って、プレゼントを贈って、そして気持ちを伝えたい。そうしたらきっと──
「………………」
「……なに、これ」
コトンと、家に帰ったナツキの手からプレゼントの箱が滑り落ちた。
雨の匂いに、鉄臭さが混じり込む。立ち尽くすナツキの目から溢れるモノは、雨粒と一つになって地に滴り落ちる。
「…………ナツキか」
彼女の目の前で、暗い家の壁に寄りかかるアラミスが、微かな声を漏らした。血が壁にベタ付き、床を滴って広がっていく。
彼の胸には穴が開き、血がどくどくと溢れていた。顔が青ざめ、生気を失いながらも、彼は必死にナツキを見上げていた。
「先生……先生!!」
ナツキは座り込んだアラミスの元へ、叫んで駆け寄った。
「なんで……こんな……!!」
分からない。何があった? どうして彼は傷ついた? 自分がいない間、誰が何をした? 彼は──彼は死ぬのか?
「く……グフッ」
「あ……ああぁぁ……!!」
ナツキは膝をついて、震える声を漏らすことしかできなかった。致命傷だ。治せるような設備はここにはない。病院も近くにない。こんな状態の人間を、遥か遠くの病院まで無事に運べるわけもない。
治せない。助からない。恐怖と混乱で何も考えられないのに、それだけはなぜか鮮明に分かってしまう。それが余計に怖かった。
「嫌ぁ……先生ぇ…………!」
「…………ナツキ」
アラミスは声を震わせて彼女を呼び、右手を伸ばす。
「手を……手を取ってくれないか」
囁くように言った。助けてくれ、とは言わなかった。本当は助けて欲しかったのか、それとも運命を悟っていたのか。ナツキにはわからなかった。わかったのは、自分にはその運命を変えられないということだけ。
「…………これで……いいの……?」
「ああ」
だから、自分に出来ることをした。泣きじゃくって震える右手で、彼の手を握った。
「お前に……託すものがあるんだ」
アラミスは最後の力を振り絞って、差し出された右手をぐっと握りしめる。
右手を通して伝わるのは、体温と、悲しみと、それから不思議な力。
「生きろ…………その、力、で」
右手が青く輝くことにも気づかないナツキの泣き顔を見て、アラミスは呟いた。その目は次第に焦点が合わなくなっていく。
「お前、は……強い子だ。生意気だが、勇敢で……優しい。大丈夫だ……頑張れる」
「先生……待ってよ」
嫌だ。死なないで。笑顔でお祝いして、そして伝えたい気持ちがあるのに。
「先生……あたし! あたしね……先生のこと──」
言いかけた刹那。手を握り締めたナツキの右手は、空っぽになった。
「…………先生?」
会話は、独り言になった。
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「………………亡くなったの?」
名津稀が絞り出せたのは、その一言だけだった。
「うん、死んだ。それで、その時もらったのがこれ」
ナツキはそう言って右手の中にウツシミ──青い剣を作り出し、握った。
「ウツシミの譲渡は普通できないって言われてるんだけど……でも、きっと先生があたしにくれたの。元々先生が使ってたウツシミだから」
目を伏せながら、そう語るナツキ。悲しみか、思慕か。その心までは名津稀には見えなかったが。
「…………そっか」
でも、生きてて良かったね_そうは言えない理由があった。
「……あの時、確かに死んだんだよ、先生。でもね、ちょっとだけ。ちょっとだけその場を離れて泣いてたの、あたし。それで戻ったら……いなくなってた」
「え……?」
「死体が消えてたんだ。どこ探してもいなかった」
「……そう、なんだ」
死んだのに、死体がない。そして、死んだのに名津稀の前に現れた。そうだとしたら──
(あの人……アラミスさんは、きっと……)
「……なんか、ちょっと楽になった気がする。ありがと」
「えっ……あ、う、うん」
微笑むナツキに言われて、名津稀は物思いから我に帰った。少し疲れたような微笑みだった。
「……覚悟、決めなきゃかな」
「え?」
「何でもないっ」
月を見上げて、ナツキは言った。その目が映すのは、浮かぶ月だけだったのだろうか。