#6「消えない影、忘れない恋」
午前6時31分。30分前に基地に帰ってきた名津稀は、トモコに連れられてある場所に来ていた。
「っ……はぁぁぁ〜……」
熱さに体がピリピリする。だけどすぐにその感覚は、絶大な脱力感と気持ちよさに変わっていく。"癒し"とはこういうものだと、実感させてくれる。
「湯加減大丈夫か?」
「はい、助かりました……入浴の文化が無い世界だったらどうしようって……」
隣に座るトモコに、名津稀は答えた。トモコは長髪を左右に団子にしてまとめていて、先ほどまでの大人びた雰囲気とは違って可愛らしい感じがある。ちなみに名津稀も今はポニーテールだ。
ここは基地の浴場。銭湯の大浴場程の広さとはいかなくとも、5,6人は一緒に入れそうな十分な広さであった。
朝風呂はしばらくぶりだがやはりいいものだと、名津稀は思う。前は父に虐待されながら、彼が寝た時間や出掛けた時間にこっそり入っていた。一人でいられる、小さな部屋。身体中の傷口に湯が滲みたけど、それ以上に心安らぐ時間であったのが嬉しかった。
「ははっ……帰ってきた戦士をねぎらうのに、シャワーだけじゃ物足りないと思ってな。高い出費して建て付けたんだ」
「助かりますぅ……」
「一度朝になってしまえば、もう次の夜まで怪物は99.9%現れない。明日は仕事も無いからな。一日ゆっくりしててくれ」
「いいんですか? カゲクイは毎晩くるんじゃ……」
「そうなんだが、昼間言わなかったか? 千葉を守ってるのは私たちのチームだけじゃない。明日はここより大規模な組織がパトロールに出てくれる予定だから、私たちは休みだ。そうやって助け合ってるんだよ、信頼できる組織とは」
「そっかあ……良かったです……」
「そりゃあ、毎晩こんなんじゃ流石にナツキやカンナだって耐えられないからな」
思ってたよりはホワイト事業だ──過労で倒れるまで覚悟していた名津稀は、そう思って肩を落とした。
「でも、信頼できない組織もあるんですね……その言い方だと」
「君は聡明だな。まあ、そういうことだ。潤沢な武力をいいことに、なけなしの資源を人から略奪する連中とかな……そういう奴のもとに、子供が行って欲しくはない。だから私がチームを立ち上げて、子供をスカウトして守ろうと思ったんだ」
ナツキたちのように"ウツシミ"を持つ子供は、悪い大人に利用される。力を持つ者を悪人が好きに操る。元の世界でもよくあったことだ。だけど、トモコのようにそんな人間に真っ向から立ち向かえる人は少なかった。
「……トモコさん、凄い人なんですね」
「そんなことない。大人としてやるべきことをやらなければと思うだけだ」
それができる人が、凄い人なんです──そう、名津稀は心の中でだけ言った。
「……って、悪い。あまり興味ない話だったろ」
「え? あ、いえ……全然!」
名津稀は首を横に振った。事実、退屈だなんて少しも思っていなかった。
「君の好きな話もしてくれていいよ。君の話が聞きたい」
「好きな話、ですか……?」
急にそう言われても思いつかない。そもそも関わる人全てに虐げられてきた名津稀が人と普通の会話をするのも久々で、こちらにきてからはトモコたちみんなの話を聞くだけでも十分満足していた。楽しかった。
だから、自分から何か話す必要も、話すことも無いと思っていたのだ。
「今思っていることでも、なんでもいい。というか、それが良いかもな」
「今、思うこと……」
部屋に立ち上る、掴めそうで掴めない湯煙を見上げながら、名津稀は呟く。思いを馳せる。今までと、今に。
「……私、前の世界があんまり好きじゃありませんでした。色んなものに虐げられてて……生きるのも嫌になりながら、ずっと誰かが助けてくれるのを待ってました。我慢するのが正しいと思ってました」
「…………」
トモコは何も言わない。ただ名津稀の言葉を聞いて、頷きも無しに次の言葉を待ち続けている。
「でも、違うって分かりました。声は張り上げないと届かない。願いは叫ばないと届かない。私は助けを求めて待つことも出来てなかった。叫ぶことさえ怖がって、何もできないでいるだけだった。そんなのは我慢じゃなくて現実逃避だって、ナツキさんに教えられました」
ナツキが教えてくれた。ナツキが差し出してくれた手が眩しかった。ナツキと一緒に戦えるのが、少しでも助けになれるのが嬉しかった。名津稀にとってはたった一晩の時間が、彼女の心の中のヒーローにしていた。
「……私、もっと強くなりたい。ナツキさんと肩を並べられるようになりたい。ナツキさんが苦しんでたら……今度は、私が手を差し伸べられたら良いって思います」
そうだ。ナツキを助けたい。さっきの様子_きっと今も、何かを抱えて悩んでいる。今は届かなくても、一歩ずつ近づきたい。追い越して、今度は自分が上から手を差し伸べてやりたい。
この混沌とした世界に迷いながらも、それだけは確かな自分と願いだと、名津稀は思えるのだった。きっとそれぐらい、自分にとって彼女が大切な人なのだ。
カゲクイとの戦いは、ずっと続くのだろう。多くの苦しみが、そこにあるのだろう。
だけどそれ以上に_人の温かさに触れて、名津稀は満たされていた。
「……うぅぅぅ……!!!」
「え、と、トモコさん!? 泣いてる!?」
「うぁぁぁ……君やっぱり良い子だなあ……嬉しいよぉ……うちのチーム変人ばっかりだからぁ……普通の子がいでぐれでぇぇ……おぉうおぅおぅおぃぃ……!!!」
翌日、午後4時。
時計の針の音だけが、無機質にかすかになり続けている。シャッターを閉じて日光を遮ると、もう部屋は薄暗いナツキだけの部屋になった。
名津稀はもう自分の部屋を貰ったらしい。一人で考える時間が欲しかったので、助かった。3人には体調が悪いと嘘をついて、こうして一人の時間を作らせてもらい、今に至る。
ナツキはベッドに仰向けに寝転んで天井を見上げる。朝はあまり寝付けなかったが、かといって今寝転んでも眠気が来るわけではなかった。
「…………先生」
ナツキは呟いた。寝返りを打って、ベッドの横の鏡台の方を向く。隣の小さな棚の、一つだけ鍵のかかった引き出し。その裏にこっそり隠している鍵を取って、鍵穴を開けた。
気がこすれる音とともに、引き出しが開く。たった二つ、そこに大事に仕舞われていた。ナツキは寝転んだまま、手探りで中にあるその二つを手に取る。
手に取ったその右手を、宙に掲げる。一つは、青い石に紐を通しただけのシンプルなペンダント。金銭的価値も何もなくても、彼女に取っては宝物で、形見だ。
もう一つは、一枚の写真。裏を向いたその写真を、手を返してひっくり返す。何年も前に撮った写真だ。まだ幼かったナツキと、その隣に写る、金髪の青年のツーショット。笑顔のナツキの隣に、青年が陽だまりのような優しい微笑みとともに写されている。写真の端には、"先生、大好き!"と書かれていた。
忘れられない、胸に焼き付いて離れない、幼き日のササナエ・ナツキの全て。同時に、手を伸ばしてももう取り戻せないもの。だからこそ、胸の中で永遠に輝き続ける記憶。
そう思っていた。昨夜までは。
「…………どうして」
昨夜ナツキたちを助けた存在。かすかに見えたその人影。それは明らかに、写真に写る金髪の青年だったのだ。
「死んだんじゃなかったの……? 生きてたの? 生きてたなら、なんであたしに何も言ってくれないの?」
虚空に問いかけても、何も聞こえない。何も返答は無い。ただ、恋焦がれた人の面影が、幻のように心の中に映るだけだった。