#1「裏世界」
午前2時13分。天気は晴れ。
微かな風が、少女の無防備な頬を撫でる。風はそのまま道を流れて行き、満月に照らされながら町の遠く果てへと消えていく。東京郊外のこの街も、2時ともなれば流石に明かりも少なくなり、見守ってくれるのは月の光だけだ。
「……はあ」
少女は缶コーヒーを片手に、バス停のベンチに座った。
笹苗 名津稀。長い黒髪を指でいじりながらため息をつく少女は、そういう名だ。
「眩しい……」
名津稀は視線を上げて月に目を向ける。周りに明かりの消えた無機質な家ばかりなら、自然と満月に視線が吸い込まれるのも納得だ。
眩しかった。輝く月は自分と真反対で、嫌いだった。
「……髪、どうしよう」
後ろ髪をいじっていた指を、名津稀は前髪へと移動させた。イタズラで切り落とされて半分だけが変に短く、端的に言えばダサくなっている前髪へ。
「まあ、可愛い方か。今日のやつは」
自虐的な笑みを浮かべて、名津稀は呟く。そして、右手の掌を月へ向けて伸ばした。月光の影になってよく見えない掌には、しかし確かに、古い火傷跡がある。今はもう痛くなどない。見て痛むのは胸の奥の奥だ。
お父さん。やめて。殴らないで。そのタバコを近づけないで。いい子にしてる。逃げてない。私はちゃんと言うこと聞いてる。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。助けて。
ごめん。私がクラスに馴染めないからだよね。ごめん。でも私、殴られるほどのことなんて何もしてない。だから殴らないで。バケツの水なんて誰にもかけてない。だから私をびしょ濡れにしないで。助けて。
「……お腹すいた。ロウソンのパンとゼブンの肉まんで迷うな」
何故思い出したかもわからない、だけどフラッシュバックする思い出。それを掻き消すように、名津稀は全然違うことを考え出した。なぜこんなことになったのか_そんなことは分からない。今分かるのは、自分が不幸だということだけだ。
不幸なのは今だけ。誰かがいつかきっと助けてくれる。最初はそう思っていた。だけど今はもう、そんな風に期待するのを馬鹿馬鹿しく思う自分もいる。それぐらい名津稀の心は、もう錆び付いている。
明日は学校で、何をされるのだろう_名津稀はまた変な思考をしてしまいそうになり、それをまた掻き消そうと勢いよくベンチから立ち上がった。やっぱり寄り道しないでもう帰ろう。早く寝てしまおう。そう思って。
「……あ」
名津稀は小さな声を上げた。帰路の方へ振り向くと、道端のマンホールの蓋が開いていた_それだけだったのだが。
(閉めたほうがいいのかな……?)
名津稀はそんなことを思いながら、なんとなくそのマンホールの下の穴を覗いた。本当になんとなくだった。構造が見たいとか、中に誰かいないか確認するだとか、そういうんじゃなく本当になんとなく。
無意識な、一瞬の行動の、はずだった。
「……え?」
吸い込まれるような感覚とともに、名津稀の視界は突然真っ暗になった。
「………………んん」
仮眠から覚めたような感覚とともに、いつのまにか仰向けに倒れていた名津稀は目を開く。さっきまでと同じ満月が、彼女を包むように光を放っているのが見える。
「……?」
そっと起き上がり、辺りを見回して違和感に気づく。
ここはどこだ?さっきまでのバス停近くとは全く違う、見覚えの無い景色。それに、辺りは何故かガレキだらけだ。無機質なコンクリートの残骸。その残骸の海の真ん中で、名津稀は困惑する。
移動した?馬鹿な。意識を失ったまま、どこか分からないような場所まで来るなど、寝返りでもあり得ない。そう思うからこそ、名津稀からすれば意味がわからなかった。
「ニャ〜」
「……猫?」
名津稀は聞き覚えのあるキュートなボイスがした方を振り返る。見てみると、ガレキの中から猫が頭だけ出てきているではないか。
「ニャァ〜……」
「埋もれちゃったのかな……今出してあげるね」
名津稀はそう言って、猫に近づいていく。動物は信頼できる。嫌われたって、他人より怖い関係にはならないから。心を傷つけてはこないから。
「……ニャァーーオ」
そんな鳴き声と共に、急に地面が揺れ出した。
「きゃっ……!?」
地震……? 倒れながら、名津稀はそう思った。
だが不正解。いや、不正解と気づく前に、名津稀の思考回路は狂わされた。
「……ニャh%^3655@m!””7”ffj」
聞き取れない鳴き声と共に、巨大な影が現れ、月を遮って名津稀の視界を覆い尽くした。
「………………え?」
わからない。わからなかった。顔は白い猫。体は茶色い熊。足は黒い蛸。胸から無数に生える、目玉のついた赤い触覚。これは何だ? 動物? 生き物? 怪異? 概念?
理解も思考も追いつかない名津稀の脳がただ一つ分かったのは、自分がこの異形を恐れている、ということ。
「化け…………物……!?」
「____________________________!!!!」
固まった体がやっと動かせるようになったのは、"彼"の聞き取れない叫び声を再び聞いた時だった。逃げなきゃ。ようやく脳もその結論を出し、体を動かす。それでも動けなかった。
「……!!」
既に名津稀の体の自由は、猫の顔をした異形が握っていた。その触手に両手をからめ取られ、彼女の体は上空、顔のそばへと引き寄せられる。
猫が舌を伸ばした。50メートルのようにも見えるし、せいぜい2,3メートルしかないようにも見える舌が名津稀の顔を舐め回す。唾液で彼女の頭を濡らしたその舌を引っ込めると、異形はニヤニヤと笑った。
「………………いあああああああああ!!!!!! ああああああああああ!!!!!!!!!」
赤子のようなその笑みこそ、限界を迎えた名津稀を発狂させるには的確であった。大粒の涙を流しながら泣き叫ぶ名津稀を飲み込もうと、異形は触手ごと彼女を口に近づける。
奥歯で噛みちぎられ、喉の奥で溶かされる。怖い、ダメだ、死ぬ、死──
「……あ」
そこで、名津稀は何故かかえって冷静になれた。
「死ねるのか」
「とうっ!!!」
声。名津稀のではない。異形のものでもない。確かに聞き取れる、人の声。名津稀は閉じていた目を開く。
「グガァァァァmhdrmi?pdudryq_)-bdk」
見ると野太い断末魔を上げる異形の首は、体から切断されていた。
「よっと!」
「……うわっ」
再び声がする。今度は名津稀を縛っていた触手が切り裂かれ、彼女はまた別の何かに掴まれる感覚を覚えた。
「大丈夫?」
声がする方を見た。人だ。人が自分を抱えている。そう理解した途端、彼女を抱える人物は地面に着地した。
「ほら、立って……よっと」
促されるまま名津稀はガレキの上に立つ。振り返ると、彼女を抱えた人物は手を空に掲げ、何かをキャッチしていた。
「ありがと、相棒」
キャッチして声をかけたそれは、SF映画に出てきそうな刀身が光る剣であった。
「大丈夫? 怪我してない?」
何故か剣は消滅し、その人物は名津稀に話しかけた。さっきまではパニック状態でなにも考えられなかったが、今その姿を見て、声を聞いて、ようやくわかった。黒髪の少女だと。
「は……はい。あの、ごめんなさい……」
「なに、ごめんなさいって? どっちかというとありがとうって言われたほうが嬉しいかなー」
「ああ……ごめんなさい」
「だーかーら!」
「あっ、えっと、その……ありがとう、こざいます」
「んん、よろしい」
少女は満足げに頷いた。黒いショートヘアーを揺らしながらドヤ顔するその顔に、名津稀は見覚えがあった。
「…………」
「ねえ。君、あたしでしょ?」
「……え?」
あたしでしょ? その質問の意味が、名津稀にはわからなかった。
「あーごめん、違うね。君、あたしなんだよ」
「……ええっと……」
何が違うのだろう。相変わらず意味不明な言葉のままだ。
「あー、いやんーと……説明が難しいなあ」
そう言って少女は頭を掻く。その顔に、名津稀はようやく見当がついた。イメージが全くないが、おそらく自分にとって一番見知った顔。
「…………あなた、私だ」
「やー、自分から気付いてくれて助かったよー」
平らな大きいガレキに座り込んで、少女はそう言った。
「あたし、ササナエ・ナツキ。君もおんなじ名前でしょ? 同一人物だし」
「は……はい。笹苗名津稀です」
聞かれて名津稀は頷き、自信のないか細い声で行った。ナツキ。同じ名前。同じ人物。性格は違っていそうだが、確かに何度見ても自分自身だと、名津稀も今ならはっきりとわかる。
「でも、どうして……」
「ん?」
「ああ、えっと……どうして、同じ人間が2人いるんですか……?」
「あー、そこ説明しなきゃだよね。それはねー……」
名津稀と同じ顔の少女_ナツキはそう言って立ち上がった。
「……ここが"裏の世界"だからだよ」
「…………裏の……世界……?」
「ま、あたしからすると表の世界だけどね」
ナツキはそう言って、ジャンプでガレキからガレキへ飛び移った。
「あの、それってどういう……」
「まあ一言では言い表せないんだけど……パラレルワールド。そう言ったらなんとなく想像できるかな?」
「は、はい……」
「これ見て」
ナツキはそう言って、名津稀に自身のスマホの画面を見せた。
61:1。61時1分。そう書いてあった。だが、おかしいのは時刻だけではない。
「こ、これ……時間もおかしいけど、文字が逆……? 鏡合わせ……?」
「鏡合わせの数字じゃないよ。"裏返し"の数字。まあ、あたしからしたらこの数字が普通だけど。これでちょっとは分かったかな。ここは君がいた世界とは違う」
ガレキを飛び回って遊んでいたナツキは、名津稀の方を振り返った。月の逆光に差されながら、彼女はまた口を開く。
「名津稀ちゃん。ようこそ、"裏世界"へ」