プロローグ
はじめまして。小説を書くのはこれが初めてです。
稚拙な文章と物語ですが、どうか宜しくお願い致します。
部屋のドアがノックされたとき、僕はボロアパートの一室で夢の中にいた。
重い瞼をゆっくりと開けると、壁に掛けた時計の針が午前三時三十四分を指していた。
こんな時間に訪ねてくる人物に心当たりはない。なによりここ数年、必要以上の人付き合いを極力避けているし、そんな僕に興味を持つ人もいない。もしかすると、酔っ払いが部屋を間違えているのかもしれない。或いは、何か非常識で突発的な出来事がドアの外で起こっているのかもしれない。
だけど、僕はまだ布団の上で仰向けに寝転がっている。こんな時間だ。誰がどう考えても非常識すぎる。四月の明け方。布団の外は寒い。なにより面倒事はごめんだ。無視する事に決めた僕は、考える事をやめて布団の脇のテーブルに手を伸ばした。小さなテーブルの上は雑多で、テレビのリモコンやら灰皿やら飲みかけのコーヒーが入ったマグカップやら雑誌などでごちゃごちゃしている。
テーブルの上を手探りしているとガチャンと音がした。コーヒーカップが落ちた音だ。真っ暗な部屋の中、起き上がりもせずに不精な事をするとこうなる。
「あーあ」自然に声が出た。
これはさすがに処理しないとだめかな。そう考えて緩慢な動きで起き上がり、部屋の明かりを点け雑巾を右手に構えた。こぼれたコーヒーが畳の上に小さな水溜りを作っている。水溜りを埋めるように雑巾二枚をその上にポンと置き、部屋の明かりを落としてテーブルの上から耳栓を取り上げた。
再び布団に潜り耳栓を装着する。ドアをノックする音はいつの間にか止んでいた。人の気配らしきものは未だドアの向こうに感じられる。だが興味はない。
そのまま目を閉じ泥のように迫る眠気に身を委ねて意識を閉じた。
目を覚ますと少し体がだるい。明け方の来訪者に起こされて熟睡できなかったせいかもしれない。
時計を見るといつもの時間。午前七時二十分。目覚まし時計をセットしていなくても定時に目を覚ます事ができるのは特技と呼べるのだろうか。と、ぼんやり考えて身支度を済ませた。畳の上に座り湯気をあげるインスタントコーヒーをちびちびと啜る。テレビの電源を入れると朝の情報番組が画面に映った。初老の司会者が何やら憤慨している。その勢いに少し興味を引かれて画面を注視すると、画面右上のテロップが目に入った。そこには『連続放火事件でまた犠牲者』とある。
腕時計に目をやると七時五十分。出かける時間だ。テレビの電源を落とし、洗面所にある鏡で身だしなみを再度確認して、玄関のドアノブに手をかける。ふと、ある物が視界に映った。
それを目にして目眩がした。
ドアの隙間に挟まれた見覚えのある可愛らしい封筒。
それは僕の心臓の鼓動を早め、体の熱を膨張させた。
ぽっかり空いた心の隙間にえぐり込まれる記憶。湧き上がる感情。荒くなる呼吸、視界を滲ませる涙。それらは三年前の、あの頃を鮮明に思い出させた。途端、記憶の断片はまるで古い投影機のように目の前に展開される。
「もう、やめてくれ」目を閉じ叫んでいた。
その場に倒れこんだ事にも気づかず、頭を抱え子供のように泣きじゃくった。すべて幻覚。気のせいだとわかっているのに。それでも辛いものは辛い。
それから何分が経過したのだろうか。薬を飲んで落ち着きを取り戻した僕は腕時計に目をやる。八時五分。まだ講義に間に合う時間だ。急いで部屋を飛び出し学校へと全速力で走る。嫌な記憶を振り払うように、ただひたすら走った。
午前の講義を終えた僕は家路を急いだ。午後の講義は休講になって時間を持て余す事になったがサークルに入っているわけでもなく、友人がいるわけでもない僕は迷わず帰宅する選択肢を選んだ。何より今朝の一件で疲れが酷い。
帰り道。小さな公園がある。遊具はブランコと滑り台と、狭い公園に不釣合いな広い砂場。敷地の周囲を樹齢の若そうな桜の木が囲むように植わっている小さな公園。その前を通りかかった時、小さな泣き声が聞こえた。意識しなければ聞こえないほど小さな声だ。声のほうに視線を送ると女の子が泣いていた。年の頃は七歳くらいだろうか。いつもの僕なら気づかない振りをして通り過ぎるのだろうが、今日は違ったようだ。
「どうしたの?」気がつけば声を掛けていた。
彼女は答えない。幼い少女は両手で目を覆いしゃがみこんで泣いている。
「どうしたのかな? よければ話してくれないかな?」自分でも驚くほどのお節介振りだ。
「……メロンがいなくなったの。」
少し考えた。メロンとは彼女の飼い犬か何かだろうか。
「君は、そのメロンを探してるのかな?」
こくん。と彼女は頷くと、涙をいっぱい溜めた目をこちらに向けた。
「よし、じゃあ僕が一緒に探してあげるよ。だから、もう泣かないで」
「ほんと? 一緒に探してくれるの? 見つかるまで探してくれる? 約束してくれる?」
「ああ、約束だ」
途端、彼女の顔は笑顔になり。嬉しそうにメロンの事を話し始めた。
「メロンはね、毛がモジャモジャで、大きさはこれくらい。」
彼女は両手でメロンの大きさを表した。
「ふうん。メロンは君が飼っているペットなのかな?」
「ペットじゃないよ、友達だよ」不機嫌そうに口を尖らせて彼女は言う。
「そうか、それはごめん。じゃあ友達を探しにいこう。どうやらここには居ないみたいだよ」
辺りを見渡すが動物らしい姿は何処にもない。
「ここいにいるもん。」と、彼女は砂場を小さな両手で掘り返し始める。
その姿を見て、また少しメロンについて考えた。だけど、何もわからなかった。
「そうか、ここにいるんだね。僕も手伝うよ」
「うん」彼女の声は弱くなっている。見ると彼女の指先は少し赤く滲んでいる。
「あのね、まさし君達がここにメロンを埋めたの。」涙声の彼女が言う。
僕はギョッとして、ダラダラと動かしていた手を早め、急いで砂場を掘り起こした。
深く突き刺した手にゴワゴワした感触があった。メロンかもしれない。埋められてからどれだけの時間が経過しているか分からないが、体温は感じられない。その僕の反応が過剰だったのか、彼女は目を少し潤ませて僕を見ている。
「メロンみつかった?」不安気な声が僕に投げられた。
「……見つかったかもしれない」残酷な結果を彼女に伝えなければいけない。それをどう話そうかと考えながらも手を動かした。丁寧に砂を掬っていく。次第に露になるメロンの姿。
「あ。メロンだ。」嬉しそうな声をあげた彼女は乱暴にメロンの足を引っ張りあげた。
「そんなに乱暴にしちゃだめだよ」慌てて言ったが彼女は聞いていない。
強引に引っ張りあげられたメロンを見て僕は唖然とした。蓋を開けてみれば何てことはない。メロンは熊のヌイグルミだった。安堵の溜め息と当時に緊張の糸が切れたせいか、一気に疲れが襲ってきた。
「お兄ちゃん。ありがとう。メロン見つけてくれて。」
彼女は笑顔でいっぱいで、メロンを大事そうに抱きかかえている。メロンは所々、糸が解れて、綿が飛び出している部分もある。
「よかったね」僕が言う。
「うん。メロンはお父さんとお母さんがくれた私の大切な友達なの。」彼女はメロンの砂を払いながら言う。
その彼女の言葉が聴こえた時、頭のどこかで何か音がした。卵の殻が割れるような音。今まで聞いた事のない音。同時に頭痛と目眩が僕を襲う。これはいつもの発作の前兆だ。眉間の辺りを押さえてうずくまる。落ち着け。落ち着け。それだけを考えた。
「お兄ちゃん。どこか痛いの?」声に目を向けると、彼女は涙を浮かべ不安そうに僕を見ている。彼女を不安にさせるのは避けなければならない。せっかくメロンを見つけて、喜びに浸っていたのだから。
「だ、大丈夫だよ。……どこも痛くない」声を出すのも精一杯だった。
僕が言うと、彼女は、その小さな手を戸惑いがちにこちらに伸ばす。
「こうすると痛いの飛んでいくんだよ。お母さんが言ってた。」無邪気な笑顔で僕の頭を撫でながら彼女は言う。
「まだ痛い?」
僕は無言のまま首を振る。
「嘘。だってお兄ちゃん泣いてるじゃない。どこか痛いからでしょ?」
発作は落ち着いた。僕が泣いているかどうかはわからないが、もし、泣いているならそれは……。
「……僕は大丈夫。もう、行かなきゃ」僕は彼女の頭を優しく撫でて別れを告げた。
「メロン。大事にね。……君も、もう大丈夫だよね? もう迷うんじゃないよ」僕が言うと、少女は深く頷いて少し寂しそうな表情を作る。
「じゃあね、お兄ちゃん。ほんとうにありがとう。」少女は元気いっぱい手を振って僕を送ってくれた。
少し歩いて、後ろを振り返ると少女は、まだこちらに向かって手を振っている。何やら言っているみたいだが、聞き取れない。
僕は少女に向き直り、大きく手を振り返した。できる限りの笑顔を作って。
何処からとも無く風が吹いた。火照った体に心地よいくらいの、さわやかで冷たい風。
雲の隙間から太陽が顔を覗かせた。それは少女の笑顔をより眩しく輝かせる。
一際強い風が吹いた。太陽の光をも包み込むような優しさで。
そして、桜の花びらが舞い散るように。メロンを抱えた彼女はその風と共に空へ帰った。
帰り道。発作は治まった筈なのに涙は止まることが無かった。僕は打ちのめされていた。幼い少女は何故人生を終えなければならなかったのか。メロンの存在だけが、この世に残した彼女の未練だったのか。今は、もうわからない。
世界はこんなにも残酷だ。
だから僕は人と距離を置く。