八、最後の選択。
八、最後の選択。
「……ひろみさん、どうしてあなたが、この過去の夢の世界の中に登場してくるの?」
そのとき私は、あまりに予想外の闖入者に大混乱をきたしながらも、とりあえずは身投げを中止し恵ともども鉄柵の内側へと戻って、どうにかそれだけを口にした。
「ふふふ。それは私が、真の『語り部』だからですよ」
「は? 語り部って……」
何だ。あんた編集者の副業として、流しの吟遊詩人でもやっていたのか?
「そんなことはどうでもいいのです。それよりもこの茶番劇は、いったい何なのですか。そんな偽物の愛華恵──すなわち、私の姉さんをでっち上げたりして」
「なっ、姉さん、ですってえ⁉」
思いがけない言葉に面食らうものの、私の隣にたたずんでいる当の『姉さん』のほうは、きょとんと首をかしげるだけであった。
「ええ、私天原ひろみと愛華恵は、正真正銘姉妹だったのです」
「い、いや、だって名字も違うし。祖父母と暮らしているとは聞いていたけど、妹がいるなんて初耳だし。あとは、離れて暮らしている母親がいるとしか……あっ、まさか⁉」
「そうです、天原は母のほうの姓なのです。つまり実は娘は二人いて、姉さんだけが父方の祖父母に引き取られて、当時まだ幼かった私は母のもとに残ることになったのですよ。ここら辺の事情は詳しく話すと長くなりますが、それでもお聞きになられますか?」
「……え、ええ、それはもちろん」
私の了承の言葉を受けるや咳払いをして、その自称語り部殿は文字通り立板に水を流すようにして、大演説を語り始めた。
「私たちの父親は、華族の流れを汲み現在もいくつもの会社を経営している名家の一人息子として、生まれたときから輝かしい将来を約束されていて、本人もその期待に応えて、幼いころから学業その他に励んでいき、我が国でも指折りの一流大学に入学するまでは順風満帆の人生でした。しかし生来の読書家ゆえに入会した文芸サークルで、一人の女性と出会ったときから、その運命を大きく狂わせていくの。一年先輩だったその女は小説に対する造詣がことのほか深く、古今東西の名作に通じそれに対する洞察や論評も興味深いものばかりで、父はたちまち彼女と小説を交えて討論していくことに夢中になったわ。そのうち彼女ほうも父の非凡な文才に気づいて、小説を書くことを勧め始めるの。実は古くよりこの国で物語づくりに携わってきて現在でも出版界に多大な影響を及ぼし続けている、御神楽家の傍系の血を密かに引き継いでいた彼女によって、的確な指導と独特な創作技術を施されることで、父の小説の腕前はメキメキと上がっていき、四回生のとき両親に黙って、すでにその先輩の女性が編集者として勤めていた出版社の新人賞に作品を応募し、見事大賞に選ばれデビューを果たしたの。それを知った父の両親は当然のごとくかんかんに怒って、父に小説を書くことをやめるよう命じて、出版社に対しても裏から手を回して受賞を取り消そうとまでしたわ。だけどかつての朝廷直属の『物語の司』であり、現在においては出版界の守護神とも言われる、御神楽家の肝いりでデビューした新人作家に対しては、いかに元華族とはいえ干渉することはできず、父もさっさと大学をやめて、先輩女史──つまりは、私たちの母親と結婚してしまったの。そして正式に担当編集者となった彼女の指導の下で改稿して出版された、デビュー作にして幻想ミステリィ巨編の『人魚の声が聞こえない』は、その特異な内容から平成最大の奇書とも呼ばれ大ヒットを飛ばし、一躍作家『天原洋』の名前を世間に広めていったわ。こうなるともはや父の実家のほうも完全に手出しできなくなってしまったのだけど、そのうち私や姉さんが生まれると、今度は私たちを父の代わりに愛華家の跡継ぎにするために引き取ろうとし始めたの。しかし特に姉さんのほうには幼いころから御神楽家特有の『物語の女神』の力が備わっていたので、母は私ともども自分の後継者にしようと祖父母たちの申し出を断り続けていたのだけど、そんな折突然父が死んでしまったの。──しかも愛人と無理心中する形で。それもよりによって相手の女性が母の後輩の編集者だったものだから、当時は三角関係のもつれのせいとも噂されていたけれど、実はすべては母が仕組んだことだったのであり、真面目で堅物過ぎる父により小説家としての幅を広げさせようと、あえて後輩をけしかけたり二人が接近しやすいように、いろいろとお膳立てしていたらしいわ。浮気がばれて土下座して謝罪する父に対し真相を明かして、何も気にする必要もないし、これからも小説づくりのために必要なら他に女を作っても構わないと、優しく言い諭すことさえしてのけたの。最愛の妻であり、全幅の信頼を寄せる指導者であり、唯一の同志である、母からの思わぬ言葉に衝撃を受けて絶望した父は、それからすぐに愛人とともに命を絶ってしまったわ。そうなると当然黙っておれないのが父の両親たちで、もはや今度は裁判も辞さない勢いで迫ってきて、結局姉さんだけが引き取られていくことになったの。母が私のほうを手元に残したのは当時まだ幼かったというのもあるけれど、すでに物語の女神として目覚めていた姉さんであれば、かつて母自身がそうだったように、自分の周囲の環境にかかわらず、自然と出版人としての道を歩いていくことがわかっていたからでしょうね」
悲痛な表情でそう言うや、ようやく長々と続いた衝撃的な『事実』の一部始終を話し終える、編集者。
縁なし眼鏡の奥で揺れている、姉と生き写しの茶褐色の瞳。
「……そんな……まさか……。恵が、あの伝説の作家天原洋の実の娘で、しかも御神楽家の血を引いていたなんて」
「ええ、そうです。だからこそ姉さんは、あなたへと近づいたのですから」
「は?」
「つまり彼女は最初から物語の女神として、あなたの小説家となり得る才能を見抜き、真の語り部として育て上げようと目論んでいたのですよ。なぜなら御神楽の血を引く物語の女神にとって、己の生きる糧である『物語』を紡ぎ出す語り部──すなわち、小説家になるべき者を見いだし育て上げていくのは、本能のようなものなのですから。言わば姉さんや歌音さんからしてみれば、あなたのような語り部は、養豚場の豚みたいなものに過ぎないのですよ」
な、何ですってえ⁉
そんな。恵はただ単に、私に小説家の才能があったから接近してきたというの? 私のことを物語の女神である己のための、『食い物』にしようとしていただけなの?
二人だけで何度も物語の世界への旅を重ねた、あの『秘密の遊戯』の日々は、単なる幻だったとでも言うの⁉
もはやすべてに絶望し、私が失意のどん底に陥ろうとしていた、まさにそのとき。
「……だけど姉さんは途中から、道を誤ってしまったのです」
え。
思わぬ言葉に振り向けば、彼女の瞳にはすでに嘲りの色はなく、今や深い哀しみに沈んでいた。
「私たちは離れて暮らすようになってからも、お互いの家に黙ってたびたび会っていました。恐らく姉さんは、まだ幼かった私のことが心配だったのでしょう。彼女のほうも名家ならではの堅苦しさや厳しいしつけに苦労していたようで、無理やり通わされることになった身分違いのお嬢様学校にも、不安を抱いていたみたいでした。それが実際に聖カサブランカ学園に編入したとたん、彼女の様子が変わっていったのです。そう。その切っ掛けとなったのは、まさしくあなたと出会ったことでした」
「──っ」
「確かに最初はあくまでも物語の女神として、あなたの語り部としての才に惹かれていったのでしょう。しかしあなたに対するのめり込みようときたら、次第に妹の私から見ても尋常ならざるものとなっていったのです。何と出会ってからほんの一月ほどしかたっていないというのに、すでに物語の世界への旅──いわゆる『ダイブ』まで、共に行ったと言い出すではありませんか。物語の女神にとって文字通り身も心も相手にさらけ出すことになるダイブ能力は、ある意味男女の交わりよりも重要な儀式なのであり、これはと決めた真の語り部との間でしか行うことはないというのに。それ以来私と二人で会うときにも、姉さんはあなたの話ばかりをするようになり、あなたがどんなに素敵か、そんな人の唯一の親友になれてどんなに誇らしいか、切々と語っていったのです。もはやその時点においては、姉さんは私のことはもちろん、自分自身すら捨て置いて、四六時中あなたのことばかりを考えているような有り様でした。──御存じですか? 姉さんは最初から、あなたがソサエティによる彼女に対するいじめ行為に関わっていたことを、知っていたのですよ?」
なっ⁉
「彼女言っていましたよ、『うれしいわ、楓ったら私をいじめさせてまで、自分だけのものにしたかったのね』って。しかも『でも、まだ足りないわ。こんなものでは、まだまだ安心できない。だって私には楓しかいないけど、楓を好きな人なら私以外にも大勢いるもの。あの子が今よりもほんの少し周りに心を開くだけで、とたんに人気者になってしまう。みんなの楓になってしまう。そうしたら私なんか捨てられて、すぐに忘れられてしまうわ。もう一押し、何か決定的な楔を、楓の心に打ち込まなければ』なんて、何かにとり憑かれたようなことを言い出して。……それからすぐですよ、姉さんが自殺してしまったのは」
え?
「そう。姉さんはあなたの心に消すことのできない傷を刻み込んで、自分のことをけして忘れられないようにするために、あなたの目の前で死んでみせたのです」
……何……です……って……。
「どうです、それだけ一方的に愛されていたのなら、むしろ本望でしょう? つまりあなたは、今側にいるような偽物の姉さんを、創り出す必要なんてなかったのですよ」
突然予想だにしなかった不可解な言葉を突き付けられて、恵のほうを見やるものの、そこには相変わらずただにこにこと微笑んでいる、親友の姿があるのみであった。
「この恵が偽物? しかも私が創ったですって⁉」
「だって、あなたの心を未来永劫自分だけのものにするという願いを、すでに叶えてしまっている姉さんが、わざわざこんな偽りの過去の物語の中に、『怪物』として復活してくる必要はないではありませんか? つまり最初から怪物とか夢魔なんて、どこにもいなかったのですよ。夢魔が人を夢の中に閉じ込めて昏睡状態にさせていたわけではなく、人の心こそが夢魔を生み出して、自らを悪夢の中に閉じ込めて昏睡させていたに過ぎないのです。あなたや他の御学友たちの夢の中に出てきた姉さんも、あなたの偽りの小説を読むことによって、かつての彼女に対するいじめの加害者として心の奥底に秘め続けていた、罪悪感が刺激され、それぞれの夢の中で具象化したものに過ぎなかったのです。まあ、あなたに関して言えば、結局のところ最初から最後まで、姉さんの手のひらの上で踊っていたようなものなのですよ。あなたは自分自身こそが、姉さんへのいじめの仕掛け人だと思われていたのでしょうが、むしろ単なるピエロに過ぎなかったのです。──そんな哀れなあなたに、私が心からの贈り物をいたしましょう!」
思わぬ事実の発覚の連続に、ただ呆然と立ちつくすばかりの私の周囲の空間に、あたかもテレビの画面のように様々な映像を表示している、小窓が無数に現れた。
「──っ。これって、まさか⁉」
何とそこに映し出されていたのは、私の娘の紅葉の姿であったのだが、そのすべての画面の中で彼女は、筆舌に尽くし難い陰惨ないじめに遭っていたのだ。
ゴミだらけにされた、靴箱。
誹謗中傷ばかりが書き込まれた、裏サイト。
携帯端末に殺到する、いたずらメール。
ネットの動画サイトにアップされた、更衣室での着替えの隠し撮り。
そして野卑た男子高校生たちによる、集団レイプシーン。
まさにそのほとんどすべてが、私の著作物の中で使われたのと、同じいじめの手口であったのだ。
「……どうして……こんな。何で紅葉が、いじめなんかに遭わなければならないのよ⁉」
「もちろん、復讐ですよ。かつてソサエティの連中が姉さんに『指導』という名目で、同じような嫌がらせをしているのを黙認していた、あなたに対するね」
かつてない憎悪に満ちた瞳で睨みつけてくる、ひろみ嬢。
これこそが、今まで私の前では秘め続けてきた、彼女の本当の姿なのであろうか。
「ちょっと待って。どうしてあくまでもカサブランカ学園においては部外者に過ぎないあなたが、生徒たちを使って紅葉をいじめさせることができるのよ⁉」
「忘れたのですか? 私があなたの当時のクラスメイトの方々の、連絡先を把握していることを。皆さんそれぞれに各界の名士の方の奥様になられて、一見申し分のない生活を送られているように思えますが、言ってみれば単なる専業主婦のようなものに過ぎないのです。そんなときあなたの『夢魔の告白』が大ヒットしたわけですが、彼女たちの目からすれば、さぞやあなたのほうこそが成功者に見えたことでしょう。しかも作品そのものが、自分たちの学生時代のいじめ事件をモデルにしているのです。まるで自分たちばかりをいじめの実行犯としてダシにしておいて、あなただけ高みの見物をしながら、まんまとすべてを小説の材料にしてしまったようにも思えたでしょう。そこで私は皆さんに匿名のメールを送ることによってあることないこと吹き込んで、唯一の成功者であるあなたに対する嫉妬心を煽り立てる形で、彼女たちの娘である学園の在校生を使っての、紅葉ちゃんへのいじめを誘導していったのですよ」
まさか、私が全然気づかぬ間に、そんな手の込んだことまでしていたの⁉
「そしてそれは皆さんが母娘そろって昏睡状態になってからは、夢の中でも行われるようになり、毎晩眠りにつくごとに陰惨ないじめに遭うことになった紅葉ちゃんは、すっかり不眠症となられて、今ではこの通り、悲惨極まる有り様となられているというわけなのです」
そう言って彼女が右手を振るうや、すべての画面が合体し、一つの巨大な映像を映し出した。
「──っ。紅葉⁉」
「ええ、これは現在の、紅葉ちゃんの部屋の状況を映し出しております」
その言葉通りに、私の目の前いっぱいに広がっていたのは、確かに紅葉の自室であった。
まさにそのとき、ガリガリに痩せこけた身体を何度も腰砕けになりながらも、ゆっくりとベッドから起こしていく少女。
「何を、する気なの?」
「ああ、もう限界のようですよ。まあ、無理もありません。眠っていても責め苦が続いていくんだから、どこにも逃げ場はないわけですしね」
そうこうしているうちにも、天井からぶら下がっている大きな照明器具へと、椅子の上でつま先立ちとなり、何か紐のようなものをくくりつけていく。
「ま、まさか⁉」
そして紐の下端に輪っかを作るや、自分の首を入れていく娘。
「だ、駄目よ、紅葉! 馬鹿な真似はやめなさい!」
画面に向かってわめき立てるものの、当然何の反応も返ってはこなかった。
──蹴り倒される、足下の椅子。
「いやあああああああっ、紅葉──!」
その瞬間、目の前の画面が消え去った。
たまらずその場に崩れ落ちうずくまる私のほうを、氷のような侮蔑の瞳で見下ろす編集者。
「これもすべてはあなたが、あんな偽りの物語をでっち上げたのが原因なのです。そのせいで、かつてのいじめの加害者たちの罪悪感を駆り立ててしまい、死んだあとでも姉さんを冒瀆されたために、怒りに燃えた私を復讐に走らせていき、その結果、御自分の娘さんを死に至らしめることになったのですよ。──さあ、泣きわめきなさい! 絶望しなさい! 己の浅はかさを後悔しなさい!」
ここぞとばかりに畳みかけてくる、かつての最愛の親友の妹君。
しかしそのとき私の唇から洩れ始めたのは、悲しみの嗚咽でも怒りの咆哮でもなかった。
「……ふふ……うふふ……あは……あははははははは!」
まるでせき止められていた水が一気に解き放たれたかのように、辺り中に響き渡っていく、高らかな笑声。
「な、何を笑っているのよ? まさか狂ったの⁉」
私の思わぬ有り様に、気勢をそがれて怪訝な表情となって、ただこちらを窺うばかりの編集者。
「うふふふふ。まったく傑作だわ。恵が最初から、私の想いに気づいていたなんて。自分のほうこそ私を独占するために、だまされたふりをしていたなんて。つまり私のやったことなんて、全部無駄な茶番劇だったってわけじゃない。彼女のことをソサエティに売り渡して、いじめさせたことも。偽りの物語なんかをでっち上げて、偽物の恵を夢魔として蘇らせたことも。そのせいで昏睡事件を引き起こしあげくの果てに、自分の娘を死に追いやったことも。結局私は私自身の世界を、無茶苦茶に壊し尽くしただけだったのよ。もう何かも手遅れだわ。もうやり直すことなんてできやしないわ。これが笑わずにおられますか!」
「──それじゃこの悪夢、私が食べてあげましょうか。そうすれば、すべては無かったことになるわよ?」
そのとき唐突に鳴り響いた、幼くも凛とした声音に振り返れば、そこには十三、四歳ほどの少女が、華奢な肢体を禍々しくも華美な漆黒のゴスロリドレスに包み込みたたずんでいた。
人形のごとく端整な小顔の中で、蠱惑の笑みを浮かべている、黒水晶の瞳。
「……歌音さん、どうしてあなたまで、この夢の世界に」
「あら、私こそが、真の物語の女神なのよ。夢の世界だろうが、創作物の世界だろうが、本物の過去の世界だろうが、思いのままに現れたっておかしくはないでしょう?」
肩をすくめて、己のあたかも神のごとき全能の力を、いかにも何でもないように言ってのける、幼き少女。
「それで、夢を食べてすべてを無かったことにするって、いったいどういうことなのよ?」
「もちろん、言葉通りの意味よ。前にも言ったように物語の女神は夢魔でもあるのだから、夢の世界そのものすら食べることができるのであり、あなたの偽りの物語によって生み出されて、今やすっかり歪み切ってしまった、この過去の夢の世界を食べ尽くして、『夢魔の告白』が世間に発表されてから以降に起こったすべての『現実の出来事』を、無かったことにしてやろうと言っているわけ」
「へ? 何で夢がなくなることで、現実まで変えてしまうことができるのよ⁉」
そんな至極もっともな反駁にその少女は、いかにもあきれ果てたように深々とため息をついた。
「何を言っているのよ。すべては『真の語り部』であるあなたが、偽りの物語をでっち上げることによって、創作物を現実にしてしまったからでしょうが?」
「はあ?」
「そう。真の語り部ならば、たとえ一夜限りの儚い夢であろうと、それを小説にすることによって、現実の出来事にすることすらできるの。今回の件で言えば、あなたの実体験を基にしたという触れ込みで発表された『夢魔の告白』は、真実を知らない世間一般の人々にとっては、まさしくそれこそが『事実』として受け取られ、一方真実を知る者のうち当時の加害者である元ソサエティのメンバーたちは、密かに抱え続けてきた罪悪感を刺激されることにより、自分の夢の中に怪物を生みだしてその結果昏睡状態に陥り、生前恵さんからすべてを聞き及んでいたひろみさんに至っては、作品の欺瞞に対する怒りのあまり、加害者たちを唆して紅葉さんへのいじめを画策したりといったふうに、もはや現実世界のほうが、偽りの過去の物語であるはずの『夢魔の告白』に合わせて、変容させられてしまったような状況ともなっているの。すなわちこれも前に言ったように、タイムトラベルにおいて過去の世界が現実となることにより、元いた世界のほうが夢みたいなものになってしまうのと、同じようなことなのよ」
何ですって。つまりは私の『夢魔の告白』こそが、すべての元凶だったってわけなの⁉
「かように真の語り部であれば、その手により生み出される作品の絶大なる影響力によって、作品の世界そのままに、現実世界のほうを書き換えることすらなし得るの。そしてそんな語り部の夢によって狂ってしまった現実世界を、元のあるべき姿に戻すことができる唯一の存在が、我々物語の女神であり、その夢魔としての夢喰いの力で、今や偽りの物語の夢と一体化してしまっている現実世界の歪みの部分を食べ尽くして、すべての元凶である『夢魔の告白』が発表されてから以降の出来事を無かったことにして、再び最初からやり直させることができるのよ。何せ人が目覚めるとき消えてしまうのが、たった今見ていた夢だけでなく、『現実だと思っていた眠る前の世界』も実は夢に過ぎなくて、消えてしまうことだってあり得るのですからね。つまり先日のタイムトラベル論で言えば、夢だったのは過去の世界だけではなく、何と元の世界の一部も夢だったというケースで、一応は元の時代に戻ってこれたけど、それは過去の世界を変えてしまったことでその結果改変されてしまった未来という、ある意味SF小説によくあるパターンみたいなものなわけ。だから今現に夢の中にいるあなたにとっての現実は、実際に目覚めるまでは確定しておらず、夢を書き換えることによって現実をも改変できる物語の女神や語り部なら、恣意的に変えることすら可能ってことなのよ。ただしこれには一つ条件があって、それは私が夢喰いによってすべてをリセットしたのちに、新たに『夢魔の告白』を発表する際にはその内容を全面的に改め、かつてあなたが恵さんをソサエティに売り渡しいじめを黙認したことや、そのせいで二十年後の現在において紅葉さんが陰惨ないじめに遭ってしまったこと等の『事実』を、今度こそすべて隠し立てすることなく、書き著さなければならないの」
「なっ、どうしてそんな⁉ 私のことはともかく、娘がいじめられていたことまで書けだなんて、もはやプライバシーの侵害でしょうが⁉」
「もちろんこれは万が一にも今回のように、あなたの小説のせいで現実を歪めてしまうことを防止するための措置なの。つまり現実をも変え得る真の語り部の創作能力により、むしろ逆に現実に忠実な作品を創ることによって、現実をあくまでも現実として揺るぎないものにしてしまおうってわけ。さあ、どうするの? 決めるのは語り部であり、すべての元凶である偽りの物語を生み出した、あなた自身なのよ。もし仮にここで現実を受け容れることを拒否してしまえば、このまま己自身が創り出した偽りの過去の世界という、悪夢の無限ループの中に閉じ込められ続けることになるだけよ。──そちらの偽物の恵さんと一緒にね」
──っ。何ですってえ⁉
反射的に目を向ければ、相変わらず私の傍らには、にこにこと純真無垢な笑みを浮かべている、私自身が創り出した恵が、寄り添うにしてたたずんでいた。
いまだ二人の腕を硬く結びつけている、彼女の瞳の色と同じ茶褐色のリボン。
それを見ているうちに、私の決意は固まった。
「……ふん。何を馬鹿げたことを。見くびらないでちょうだい。自分が親友を裏切ったことを告白しろ? そのせいで娘がいじめに遭ったことを発表しろ? この当代きっての人気いじめ小説家である松戸楓が、そんなみっともないことができるものですか。さもなくばこのまま悪夢の無限ループに閉じ込めるですって? 面白いじゃない、やれるものならやってご覧なさい。いくら必死こいて小説を書いたところで、何一つ望みは叶わず、けして思い通りになることのない現実世界なんて、もううんざりしていたところだし、むしろせいせいするわ!」
心のままにわめき立てて、強烈な啖呵を突き付ける小説家。
しかし目の前の黒衣の女神様は、相変わらず意味深な笑みを浮かべ続けるばかりであった。
一方黒幕としてここに至るまで密かに様々な策謀を巡らせてきたというのに、それをすべて否定された形となってしまった編集者のほうは、当然のように烈火のごとく食ってかかってきた。
「ふ、ふざけるんじゃないわよ! これまで散々人の不幸を食い物にして、いじめ小説を書いて、お金や名声を手に入れてきたくせに、自分や娘のことだけは書けないなんて言わせないわよ! 他人はもちろん自分自身や身内の不幸や傷や恥や罪をすべて、創作の糧にして小説を創っていくことこそが、小説家としての業であり生き様なんじゃないの! それをちょっとばかり自分の思い通りにならなかったからって、現実を捨てて夢の世界へ逃げようとするなんて、虫が良過ぎるのよ! あなたも小説家なら、うだうだ言い訳をして逃げようとはせずに、小説で語りなさい! 自分自身の無様さも恥も痛みももはや叶わぬ想いさえも、すべて作品にして世に問いなさい!」
そう言い終えるや目を血走らせたままで、肩で荒く息をし続ける女編集者。
ふふふ。やはりひろみさんはどこまでも、本物の編集者だったってことか。
結局は偽物の小説家でしかなかった、私とは大違いね。
「お説御もっともなんだけれど、あいにく私にはもう、小説なんか書く必要はなくなったの。だって私はようやく、恵の本当の想いを知ることができたのですもの」
「はあ?」
「私はこれまで、恵は私の裏切りの事実にショックを受けたために、自殺してしまったと思っていた。もう彼女との秘密の小説づくりができなくなってしまったのは、自分自身の過ちのせいだと信じ込んでいた。だから私は恵のいない空虚さを満たすためにこそ、ただひたすら小説を創り続け、その中で恵を蘇らせようとした。恵さえこの手に取り戻すことができるのなら、自分の偽りの物語によって、過去や現実を歪めようが、昏睡事件を引き起こそうが、娘がいじめに遭って自殺しようが、別に構いはしなかった。──でも結局、すべては無駄だったの。だって最初から恵は、私と共にあったのですもの」
「な、何ですってえ⁉」
私の予想外の言葉に目をむく、黒幕兼編集者。
「いやだ、あなたが言ったんじゃない。恵は私の想いを、すべて知っていたと。その上で私を自分だけのものにしようとして、あえて私の目の前で死んでみせて、私の心に自分自身のすべてを刻みつけて、けして忘れられないようにしたって。そうよ、恵は今も、私の心の中に棲み続けているの。彼女は最初からずっと、私だけの女神であり夢魔だったんだわ。だからもう私は、現実世界なんかで生きる必要はないの。このまま自分が創り出したこの偽りの物語の中で、ここにいる偽物の恵と一緒に生き続けたって、構いやしないわ。そう。もう私は、小説なんか書く必要はないの。あはははは。そうよ、そうなんだわ。もういじめ小説家松戸楓なんて、必要ないんだわ! あは、あはははは、あははははははははははははは!」
私は、私の創り出したこの世界の隅々にまで響き渡らせるように、狂喜の笑声をあげ続けた。
もはや言葉をなくし、呆気にとられて立ちつくすばかりの編集者。
そのとき目の前の黒衣の少女が、微笑んだ。
まるで天よりの御使いのように、純真無垢に。
煉獄をつかさどる黄泉の女王のごとく、凄絶に。
「──だったら、死ねば? 小説を書かない小説家なんて、生きる価値はないわ」