七、偽りの儀式。
七、偽りの儀式。
「うふふふふ。楓さんたら、最近は随分と恵さんばかりにご執心ですこと」
開け放たれた窓から射し込む午後のまばゆい日差しを浴びながら、その少女はティーカップを片手にそう言った。
学内でも選ばれた者だけが同席することを許される、ソサエティ主催のお茶会の席で。
ただし『ソサエティ』と言っても我が学園におけるそれは、世間一般に知られた組織的なものでも、代々運営を引き継がれている伝統的なものでもなく、その時代ごとに自然発生的に設置される、一部の上流階級の子女たちを中心とした学内特権階級グループを意味していた。
それでも彼女たちの学園内における影響力は無視できないものがあり、幹部のほとんどがそれぞれのクラスや学年全体のリーダー格ばかりであることに始まり、親同士の上下関係が学内にも持ち込まれることによって下僕的取り巻き集団を多数擁し、まさしく数の上でも権力の上でも最大の勢力を形成していたのだ。
その学内の隅々に至るまで張り巡らされた人的ネットワークにより、有益な情報をほとんど一手ににぎると同時に、最近流行りの携帯端末等の情報機器を巧みに使いこなして、学園裏サイト等を主催することを通して、むしろ積極的に噂話を流したり、事によれば都合よく改ざんした情報を流布することで、生徒たちの言論や行動を完全に支配していたのである。
たとえばソサエティに反抗的な生徒に対しては、噂話や裏サイトにおける虚偽の書き込みによって、あらぬ悪評判を立てていき、当人の学内における信用を完全に失墜させることすらも可能であった。
これら人的電脳的双方のネットワークの活用により情報を恣意的に操作することで、恐怖政治を確立し、もはや学園内には表立ってソサエティに刃向かう者なぞ、ただの一人もいなくなっていた。
そしてまさしく、今年の春に中等部二年生になったばかりですでにソサエティにおける事実上のリーダー格だと目されているのが、誰あろう、現在私の目の前のテーブルの対面に座している、クラスメイトの姫岡梓嬢その人であり、学内でも一、二を争う家柄のよさと本人のカリスマ性によって、今や上級生にすら信奉者を多数有する有り様であった。
私自身は別にソサエティと敵対しているというわけではないものの、取り立てて興味もないので、これまでは極力関わらないようにしていたのだが、それが休日の午後というのにわざわざ呼び出しに応じて、学園内の文化系部室棟の一角で『文芸部』という名目で設置されているソサエティの談話室において、彼女との一対一のお茶会に出席しているのは、梓嬢御自身によるこれまでにない強硬な出席要請と、その際に聞かされた『本日の議題』が、とても看過することができなかったからである。
「……それで、恵に関して私に話があるって、いったいどういうこと?」
私は出された紅茶に手をつけることもなく、いぶかしげに問いかけた。
しかしそのソサエティきっての女王様は、こちらのあからさまな苛つきようをものともせずに、思わぬ言葉をもたらしてきた。
「あらあら、相変わらずせっかちであられますこと。まあ、いいわ。善は急げと申しますしね。──実は我々ソサエティは、全員の総意を持ちまして、二年D組の愛華恵さんを、将来の幹部会員としてお迎えすることに決めましたの」
……はあ?
「恵をソサエティの幹部にするって? 何の冗談なの、それって⁉」
あまりに予想外の言葉につい声を荒げてしまうものの、目の前の少女は少しも動じることはなかった。
「もちろん冗談でも何でもございませんわ。そもそも家柄から申せば、来年度に中等部最上級生となった暁には、私なんかよりも彼女のほうこそが、ソサエティの会長職を務められてもおかしくはないほどですし」
──っ。それは確かに、そうなんだけど……。
「ただし楓さんもご存じの通り、複雑な家庭事情のためか、編入してすでに数ヶ月がたつというのに、いまだ我が学園の校風にも慣れておられない御様子であり、何よりも気掛かりなのは、御自分のクラスにも十分には溶け込んでいないという有り様であられることです」
「そ、そんなことはないわ。恵はちゃんと、私や他の生徒たちとうまくやっているわよ?」
「ええ。あくまでもあなたと、一緒にいる場合にはね」
へ?
「恵さんは二年生として我が校に編入してきてすぐに、あなたと昵懇な間柄となったために、むしろ他の生徒たちとの間に意図せずに、壁を作っているような状況にあるのですよ」
「はあ?」
「確かにあなたと一緒にいれば、クラス内でも学園のどこでも、特に不都合なぞ生じることなく、周りの生徒たちも一応は普通に接してくれることでしょう。しかしそれはすべて、楓さんの強さや人望のお陰でしかないのです。あなたなら一人でもクラスや学内で居場所を作り、我々ソサエティはもちろん誰を前にしても対等に渡り合っていけるでしょう。だけど、恵さんのほうはどうでしょうか? もし仮に彼女が一人になった場合、果たしてクラスや学内に確固たる居場所を作って、他人と対等に付き合っていくことができるでしょうか?」
──うっ。
「そ、それは確かに、そうかも知れないけれど。もし私にあなたが言うように強さとか人望とやらがあるとすれば、それで恵のことを守っていけばいいじゃないの?」
「いいえ。むしろそれこそが恵さんの立場を、更に追い込むことにもなりかねないのです」
「え?」
「あなたは御自分が他の生徒たちから、どれほど羨望の眼差しで見られているのか、全然理解していらっしゃらないようですね。これまではあなたが常に一人でおられて、他人を寄せつけなかったからこそ、クラスや学内において、あなたに対する他の生徒同士の牽制状態を維持することができていたのですが、現在のようにいきなり特定の生徒にのめり込んだりなされるものだから、学内において一気に恵さんに対して不満が燻ることになり、今は辛うじてソサエティで押さえ込んでおりますが、実はすでにクラス内においては、恵さんへのいじめの兆候すら垣間見られるようにもなっているのです」
「な、何ですってえ⁉」
とても聞き捨てならない言葉に思わず身を乗り出せば、目の前の少女は自分の携帯端末を差し出してきた。
「どうぞご覧になってください。我がソサエティが運営している学園裏サイトの、ここ一週間分ほどの書き込みです」
「──なっ⁉」
何とそこには、
『恵ムカツク!』
『妄想癖の中二病女が!』
『三つ編みでもないのに文学少女を気取るな!』
『文学少女なら本を食ってみろ!』
『楓王子様はみんなのものよ!』
『泥棒猫には鉄槌を!』
『シネシネシネシネシネシネ』
──などという、
とてもお嬢様学校の生徒の書き込みとは思えない、下劣な悪口雑言のオンパレードが掲示されていた。
「……これって」
「お断りしておきますが、これでもごく一部なのですよ? もちろんこのようなことはソサエティといたしましても、放置しておくわけには参りません。そこで恵さん自身にソサエティに入会していただき、正式に会員になってもらおうという次第なのです。しかも将来の幹部候補ともなれば、もはや誰も手出しはできないでしょう。つまり我々ソサエティならば、恵さんを守ることができるというわけなのですよ」
「……それで何で恵自身に話を持ちかける前に、わざわざこんなところにまで呼び出して、私に伝えるの? 別に私は恵の保護者でも何でもないんだから、最初から直接彼女に言えばいいじゃないの?」
「それはもちろん、あなた自身にもお願いしたいことがあるからですよ。松戸楓さん、あなたには恵さんがソサエティに加入すると同時に、今後一切学内においては、彼女に関わることをお控えいただきたいのです」
……はあ?
「ちょ、ちょっと待ってよ。いくらソサエティとはいえども、そんなことを人に命令する権限なんてないでしょうが⁉」
怒り心頭のあまりとうとう席から立ち上がりわめき立て始める、学園一のこわもて生徒。
しかし目の前のお嬢様のほうはこれ見よがしに、深々とため息をつくばかりであった。
「まったく、先ほども申し上げたではありませんか。そもそもあなたが必要以上に恵さんを構われているからこそ、学内がこれほどまでに不穏な状況になってしまっているのですよ? せっかくソサエティに加入していただいたところで、あなた方の仲が今まで通り親密なままでは、生徒たちの不満は燻り続けるばかりではありませんか」
「うっ」
いやしかし、それではこれから先私は学園内では、恵に近づくことさえ許されなくなるわけなのか⁉
するとそのとき私の内心の焦りを見て取ったようにして、今度は梓嬢のほうから身を乗り出してきて、耳元で猫なで声でささやき始めた。
「だったら、こうお考えになられたらどうですか? 確かに恵さんは学内では今後一切楓さんを頼れなくなるし、しかも我々ソサエティでの御指導も、あくまでも彼女のためを思ってとはいえ、相当にきついものになるかと存じます。しかしだからこそ、学外でお二人でお会いになられる際に楓さんが優しくして差し上げれば、恵さんのほうもこれまで以上に、あなたのことを慕われるようになられるのではないでしょうか?」
思わず見やれば、あたかもこちらの胸中の何もかもを見透かすように輝いている、黒檀の瞳が見つめていた。
……そうか、そういうことか。
二年生になるまでは学内一の家柄を誇り事実上ソサエティのトップに昇りつめていた、梓嬢にとっては、いきなり現れた己を凌駕する家名を擁する恵のことが、実のところは唯一の目の上のたんこぶとも言え、何だかんだと理由をつけてソサエティに加入させて自分の支配下に置いてから、じっくりといたぶろうってわけか。
──なるほど。私にとっては、けして悪くない申し出だ。
先ほど彼女は私のことを『強い』と言っていたが、とんでもない。本当の強さというものを心のうちに秘めているのは、実は恵のほうなのだ。
少なくとも小説談義に限って言えば、今や完全に私のほうが一方的に、恵の天賦の才にのめり込んでしまっていたのだ。
もし仮に恵に捨てられるようなことになったりしたら、もはや小説家志望者としても単なる中学生の女の子としても、生きていくことはできなくなるだろう。
しかしこと学内の力関係においては、梓嬢の言葉通りに、恵は完全に私の庇護下にあるようなものなのだ。
もしそれをなくして自分自身が矢面に立たされるようなことになれば、恵は学外で二人っきりになるときには、これまで以上に私に依存してくるようになるに違いない。
そう。ある意味これは遠回しに、恵をこれからソサエティあげてのいじめのターゲットにすることに対して、私に了承を求めてきたようなものなのだ。
──いいだろう。女神を自分だけのものにできるのなら、たとえ悪魔に魂を売り渡すことになろうが構うものか。
そして私は目の前の少女に答えを返すために、ゆっくりと唇を開いていった。
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
結局私の強い勧めもあり、恵はソサエティに入会することとなった。
一応は幹部候補扱いという触れ込みではあったが、実のところは雑用係といった有り様で、入会後さっそく放課後や休み時間には、何かと体よくこき使われるようになってしまった。
約束通り私と恵は学内では一切接触しないようになり、唯一休日の日中に私の部屋で会うようにしていたのだが、それすらもソサエティの課外活動とやらに駆り出されて、キャンセルされることも少なくはなかった。
それでも当初の目論み通りに会える時間が少なくなった分、二人の関係は以前よりも濃厚なものになっていき、相変わらず小説づくりにおいては主導権を握りつつも、恵の私に対する依存度のほうも更に増してきたように思われた。
彼女のソサエティでの活動について詳しく聞こうとしても、けして不平不満を述べることはなくやんわりと話をそらすのは、私に心配をかけさせないための配慮であろうか。
元々庶民育ちの彼女にとっては、これまでとは住む世界がまったく違う令嬢方の集団の中に放り込まれたことで、さぞかし気苦労が絶えないだろう。
その健気な姿を見るたびに、私のなけなしの罪悪感もうずかざるを得ないのだが、これもすべては恵を真に自分だけのものにするためなのだと己に言い聞かせながら、心を鬼にして彼女のことだまし続けていたのだ。
しかし、本当にだまされていたのは自分のほうであったことに気づくのは、それから間もなくのことであった。
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
「梓さんが文芸部の部室で、私のことを呼んでいるって?」
放課後の掃除当番も終わって、そのまま一人で帰ろうとしたところ、ソサエティの会員のクラスメイトに呼び止められて、思わぬことを伝えられた。
「ええ。お掃除の時間が終わりましたら、すぐにでもおいでいただきたいとのことです」
「何で? 私は別に会員でもないし、今日はお茶会ってわけでもないんでしょう?」
「さあ? もしかしたら恵さんのことで、何かお話があるのでは?」
「──っ。そう、わかったわ」
恵がからんでいるとなれば、捨て置くわけにもいかない。
確かに今日は梓さんも恵も掃除当番ではなく、すでに教室内には二人の姿はなかった。
何だか嫌な予感が脳裏に走り、私は掃除道具を素早く片づけるや、中庭を突っ切って文化系部室棟へと向かっていった。
季節はすでに初夏を迎えており、ちょっと走るだけですぐさま汗が噴き出していく。
階段を息急き切って上りきり、三階最奥の文芸部へとたどり着くと、入口の引き戸がわずかに開けられていて、中から声が聞こえてきた。
「うふ。いいわ、その調子よ。梓さん」
──恵?
思わず扉の隙間から室内を覗き込めば、多数の書物が並べられている壁際の本棚の前で、純白のワンピース姿の二人の少女が、絡みつくようにして抱き合っていた。
「……ああでも、この目で見た今でも、信じられませんわ。まさか本当に、物語の世界の中に入ることができるなんて」
「ふふふふふ。さすがは文芸部の部長さんだこと。随分とおいしい『物語』でしたわ」
「そんな、真剣に小説家を目指しておられる楓さんと比べれば、足下にも及びませんわ」
「そのようなことはありません。人それぞれに物語の味はあるのです。あなたもこのまま自分ならではの個性を磨き続ければ、さぞやひとかどの小説家になられることでしょう」
「そうでしょうか。でしたらまた御指導のほどを、よろしくお願いしますわ」
「私で良ければ、喜んで」
「おほほほほほほほ」
「くすくすくすくす」
もはやこれ以上は聞くに堪えず、私は脱兎のごとくその場をあとにした。
──なぜ、なぜなの? なぜ他の人とも『儀式』ができるの?
あれは私とあなただけの、『秘密の遊戯』ではなかったの?
あなたは私だけの、女神ではなかったの⁉
私は何という、愚かな勘違いをしていたのだろう。
梓さんたちは最初から、恵をいじめのターゲットにする気なんかはなかったのだ。
考えてみればわざわざソサエティに引き入れて仲間にしてまで、恵をいじめる必要なんてないではないか。
本当の狙いは、私と恵を引き離すことだったのだ。
確かに私はこれからも休日になれば、学外で恵と会うことはできるだろう。
しかしもはや彼女は、私だけのものではなくなってしまったのだ。
それもこれもすべては、私が浅はかだったからである。
自分勝手な欲望なんかのために、恵を裏切ってしまった罰なのだ。
そのとき私は当てどもなく学園内を走り回り汗だくになりながら、心の中でいつまでも己自身を罵り続けたのであった。
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
「──どうなさったの、楓さん。そんなに渋そうな顔をなさって。お茶がお口に合わなかったかしら?」
テーブルの対面でティーカップを傾けながら、朗らかな笑顔で問いかけてくる同級生。
その瞳に嘲りの色が少なからず浮かんでいるように見えるのは、こちらの思い込みに過ぎないのであろうか。
「そりゃあ放課後にいきなり呼び止められて、有無を言わさず文化系部室棟に連れて行かれてみれば、ソサエティの幹部メンバーが勢ぞろいしていて、いつものお茶会が開かれていただけともなると、不機嫌な表情にもなるというものでしょう?」
「あら、大切なお話がございましたので昨日もお呼びいたしましたのに、すっぽかされたようでしたから、本日改めておいで願っただけなのですが」
しれっと言ってのけるのは、我が学園の誇るソサエティのリーダー格にして、クラスメイトの姫岡梓嬢。
白々しい。昨日は恵と一緒にいるところをわざと見せつけるために、呼び出したくせに。
「……それで、話って何なの? 恵の姿は見えないようだけど、同席しないでいいの?」
「ええ、今日は適当な理由をつけて、すでに帰っていただきました。何分本人の前では言いづらい話ですので」
「ふうん、つまりは、恵の話ってわけ?」
「はい、実は私どもも反省しておりますのよ。今回の件でお二人には、多大な御迷惑をお掛けしてしまったことを」
「は?」
何よ? この子いったい、何を言い出す気なの?
「私たち、無理やり恵さんをソサエティに入会させてしまったでしょう? しかも当初は恵さんに少しでも早く慣れていただこうと、厳しく当たったりいじめまがいの目に遭わせたりもしましたし」
そのとき一斉に忍び笑いを漏らし始める、五、六名ほどのソサエティのメンバーたち。
恐らくは彼女たちこそが恵の『指導』に当たり、「幹部としての心構えを養うため」などと称しながら、彼女のことをいたぶっていたのであろう。
「それに何よりも恵さんを学内でずっと拘束して、楓さんのほうにも極力接触しないように約束させたばかりか、時には貴重な休日にも呼び出しをかけるといった始末。せっかく仲睦まじかったお二人の仲をお邪魔してしまったようで、本当に申し訳なく思っておりましたのよ」
そう言うやわざとらしい笑顔のままで、ぺこりと頭を下げる梓嬢。
それに合わせるようにして、先ほどよりも更に大人数の生徒たちが、さざめくように笑声をあげた。
「……今さら何を言い出すのよ。それは最初から覚悟していたことで、こちらとしても別に構いやしないわ」
私は内心鬱屈したものを抱えながらも、あえて強がって見せた。
「そうおっしゃいますな。それではこちらの気が済みません。何でしたら我々は恵さんを、楓さんにお返ししても構わないとも思っておりますのよ?」
はあ?
「恵を私に返すって……」
「ええ、つまりは、恵さんにはソサエティを脱会していただいても構わないと、申しておるのです」
──なっ⁉
「ちょっと待ってよ、自分たちから入会をごり押ししておきながら、今度はいきなりやめてくれって言うのは、あまりにも身勝手じゃないの⁉」
「おっしゃる通り、失礼は重々承知しております。だからこそ本日は楓さんに、わざわざこちらまでおいで願ったわけなのです」
「え? それって……」
「つまり楓さんの口から直接恵さんに、ソサエティを脱会することを頼んでいただきたいのです。何せ我々から申し出れば、あんなに頑張っておられる恵さんに対して、まるで厄介払いをするような形になりかねませんからね」
「わ、私が直接、恵に⁉」
「あくまでも楓さんが個人的に頼む分には、別に角がたつこともないと思うのですが?」
……それは確かに、そうだろうけど。
しかし私だって散々恵に、ソサエティに入ることを勧めていたのだ。今さらどの面下げて、今度はやめてくれなんて言えるものか。
「うふふふふ。そんなに悩む必要はないでしょうに。ただ『ソサエティなんてやめて、ずっと私の側にいてちょうだい!』とお願いすればよろしいだけではありませんか」
「な、何ですってえ⁉」
その思わぬ言葉にきつく睨みつけるものの、私の周囲は一気に嘲りの笑声に包み込まれていった。
「もしかして、怖いのですか? それはそうでしょうね。必死にすがりついて頼み込んでみて万一断られたりしたら、『孤高の人』の面目丸つぶれですからねえ」
──っ!
もはやいつものお嬢様の品性なぞ放り捨てて、腹を抱えて笑い始める少女たち。
まさにそのとき、ついに私の堪忍袋の緒が切れた。
「ふざけないでよ! 別に私には恵なんか必要ないわ! 何よ、あの妄想癖そのままの夢見る夢子ちゃんは⁉ 本当はつきまとわれてうんざりしていたの! 元々私はあんな口先だけの女なんて、大っ嫌いなんだから!」
一瞬にして静まり返る、文芸部部室。呆気にとられる少女たち。
その場で立ち上がり、肩をいからせ荒い息を吐き続けている、今やメッキの剥げかけた『孤高の人』。
そんな中で一人梓嬢だけが、変わらぬ笑みを浮かべ続けていた。
「──ということらしいですわ。お聞きになりまして? 恵さん」
え。
思わず背後の入口のほうへと振り返れば、そこには見慣れた白いワンピース姿の少女がたたずんでいた。
表情を消し去った顔の中で暗く沈み込んでいる、茶褐色の瞳。
「め、恵、どうして……」
「忘れ物をなされていたようでしたので、携帯端末にメールを入れておりましたの。それにしても思ったよりも、早くお着きなられたようですわね」
わざとらしい言葉に振り向けば、まるで手負いの鼠をいたぶっている雌猫のごとく、残忍に笑み歪んでいる、黒檀の瞳。
そのように私が梓嬢のほうに気を取られた隙をつくようにして、唐突に踵を返して駆け出していく最愛の親友。
「──め、恵⁉ 待ってちょうだい!」
慌てふためいて彼女のあとを必死に追いすがっていけば、五階の渡り廊下を通過して本校舎に至り、そのまま一気に屋上へとたどり着く。
錆びついた扉をくぐり抜けるや、世界のすべては一瞬にして、初夏の晴天に包み込まれた。
「恵、お願い、話を聞いて!」
しかしすでに彼女は屋上の端の背の低い鉄柵へと行き着き、もたれかかるように背中を預けるや、こちらへ振り返る。
対峙する二人の少女の髪の毛やスカートの裾をはためかす、嵐をも予感させる初夏の風。
こちらを静かに見つめている、まるで魂を失った人形そのままの、虚ろな瞳。
これ以上近づけば、今にも彼女が柵を乗り越えてしまうのではないかと思えて、二、三メートルの距離を残したまま、いつもの孤高の仮面をかなぐり捨てて、必死に懇願する。
「馬鹿な真似はやめて! 大嫌いなんて言ったのは嘘よ! 私、あなたのことが好き。心の底から愛しているわ。だから戻ってきて! 私のことを許してちょうだい!」
そうだ。もはやこれまで積み重ねてきた、偽りのプライドなど必要はない。
ここでまたしても、恵のことを失うわけにはいかないのだ。
まさにその刹那。これまで硬く結ばれていた少女の桃花の唇が、ゆっくりとほころんでいった。
「うふふふふ。おかしな楓。何をそんなに慌てているの? 許すも許さないもないでしょう。だって私もあなたのことを、心から愛しているのですもの」
そのいつもと変わらぬ穏やかな口調に、張りつめていた緊張の糸が切れるの感じた。
「そ、それじゃ、もう二度と私を残して行ってしまったりはしないんだね? 今度こそ私の許に戻ってきてくれるんだね⁉」
そのとき少女が、微笑んだ。
まさしく純真無垢なる、女神のごとく。
「それは駄目。だってこれは、『儀式』なのだから。──この偽りの世界を永遠に存続させるためのね」
そう言うやくるりと反転し、鉄柵へと飛びつき身を乗り出す少女。
「──っ! 恵、待って!」
「さようなら、楓、私の唯一の魂の片割れ。次の『物語の世界』で待っているわ」
それが今回の彼女が私に残した、最後の言葉だった。
雪のように白い制服をひらめかせて、青空へと身を躍らせていく、華奢な肢体。
「いやああああああああああああああっ! 恵────っ!」
慌てて鉄柵へとかじりつくや、
──眼下は、白一色に塗りつぶされていて、何も存在してはいなかった。
………………………………は?
『あ〜あ、結局今回も駄目だったかあ』
そのとき突然脳裏に鳴り響いてきたのは、まったく聞き覚えのない少女の声であった。
『しょうがないわね、また最初からやり直しか。ほら、あなたもぼけっとしていないで、さっさと一ページ目に戻るわよ!』
「な、何よ? あなたいったい何者なのよ? それにこれはどういうことなの? 何で世界が途中からなくなっているの⁉」
『そりゃあ、そもそもこの「夢魔の告白」が、恵さんの飛び降りシーンで終わっているからに決まっているでしょうが。作者のあなたが何を言っているのよ?』
「はあ? 『夢魔の告白』? それに私が作者って……」
『まったく、ここまで完全に、過去の回想シーンの登場人物になりきってしまうなんて。あのときちゃんと言っておいたでしょう? タイムトラベルにおいては過去の世界のほうを現実と見なし始めれば、元いた世界のほうが夢だったということになってしまうって。ぼやぼやしていたらあなたも、このまま過去の夢の中に囚われてしまうわよ。しっかりしなさい、あなた作者兼主人公でしょうが⁉ ──さあ。このまま「テイク2」いくわよ!』
──その瞬間。世界はまばゆい光に包み込まれ、すべてはホワイトアウトしていった。