六、秘密の遊戯。
六、秘密の遊戯。
「──楓、楓、しっかりして!」
私の身体を激しく揺さぶりながら、すぐ間近で叫び続けている、必死な少女の声。
そのとたん私の意識は、急速に浮上していった。
こちらへと覆いかぶさるように覗き込んでいる、ふわふわとした茶髪に覆われた愛らしく整った小顔。私とおそろいの純白のワンピース型の制服に包み込まれた、十三、四歳ほどの小柄で華奢な肢体。
そして涙を浮かべながらいかにも不安げに揺れている、茶褐色の瞳。
「……恵?」
「ああ、楓。やっと気がついたのね⁉ よかったあ〜」
そう言うや、ひしと私の身体を力の限り抱きしめてくる、親友の少女。
「ちょ、ちょっと、恵⁉」
「心配したのよ。私がふざけてこんな狭い屋上で鬼ごっこなんかを始めたせいで、恵ったら給水塔のはしごを昇っている途中で足を踏み外して転げ落ちて、頭を打って気を失ったりして」
「へ?………いつっ」
彼女の言葉を聞くことによって思い出したかのように、後頭部ににぶい痛みがはしった。
「か、楓、大丈夫⁉」
「え、ええ。ちょっとずきずきするだけで吐き気とかはないし、意識もはっきりしているし、心配はいらないよ」
恵の腕に抱かれたまま周囲を見渡せば、初夏の青空の下で、本校舎の屋上が広がっていた。
しかし、この見慣れた光景がなぜこんなにも、懐かしく感じられるのだろうか。
「楓、何ぼんやりしているの? やはり病院に行ったほうがいいんじゃないの?」
「……いや。それよりも私って、どのくらい気を失っていたの?」
「ええと、確か二、三分かしら」
「ふうん……」
「それがどうしたの? ──はっ。まさかこういったパターンではお馴染みの、記憶喪失にでもなったとか⁉ じょじょじょ冗談じゃないわ! いい、楓。あなたは楓で私は恵よ。マイネームイズ、メグミ=マナカよ⁉」
「いやいやいや。いきなり記憶喪失とか、そんな小説みたいなことが現実にあり得っこないでしょうが。ただ何だか、すごく長い夢を見ていた気がするだけよ」
「夢って、どんな?」
「ずっと遠い未来の夢だったような気がする。そこでは当然私は大人になっていてそれなりの地位と名声を得ているんだけど、なぜかどこにも恵はいないの。だからどんなに成功しようと、いつも心にぽっかりと穴が空いている感じがして、けして幸せにはなれないんだ」
実際に口に出しているうちに夢の中の偽りの喪失感が蘇ってきて、不覚にも涙があふれそうなり、慌てて両手で覆い隠そうとした、その刹那。
「──大丈夫よ、それはただの夢。私はちゃんとここにいるわ」
私の頭部を胸元に包み込むようにしてささやきかけてくる、温かな優しさに満ちた声。
「そんな偽りの未来なんて、さっさと忘れてしまえばいいじゃない。あなたはこれからもずっとこの世界の中で、私と一緒に生きていくのだから」
そしてあたかも女神や聖母そのままの、慈愛にあふれた微笑みを向けてくる、最愛の親友。
……恵。
そうだ、何をためらう必要があろう。
やっと私は、恵との世界を取り戻したのである。
けして幸せになることのできない辛いばかりの未来なぞ、捨ててしまえばいいのだ。
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
聖カサブランカ女学園。
都心の一等地の広大な敷地内に幼稚舎から大学院までの各校舎を擁し、量質ともに最上級の教育環境を誇るこの伝統ある名門校は、政財界の名家の子女たちが数多く集う、まさしく我が国でも指折りの『お嬢様学校』であった。
当然現在中等部で私と机を並べて学んでいる同級生たちも、皆育ちがよく上品でプライドが高く、あたかも血統書付きの子猫たちの群れのようにも見えた。
そんな中にあって、一応父親のほうは大物政治家であるものの、母親はその二号さんに過ぎないという身の上の私は、文字通りただ一人だけ毛色の違う立場にあった。
本来なら、哀れみの対象としてクラス内スクールカーストの最下層に甘んじるか、場合によっては仲間はずれやいじめの対象にもなりかねないはずだったのだが、私自身元々気が強く、自分の生まれ育ちなぞ気にしない質だし、他人と群れることも苦手だったので、あえて自ら『孤高の人』を気取る一方で、成績優秀かつ品行方正であることによって教師陣の覚えもめでたく、普段からうかつな言動を取ることなく寡黙に徹しながら言うべきことはきちんと言うといった、空気を読みつつもけして下手には出ない強気の姿勢ゆえに、クラスにおいても断じて侮られることなく、むしろ畏怖すらされていたのだ。
しかも何とクラスを実質的に支配している上級お嬢様集団である自称『ソサエティ』の連中ですら、私を何とか自分たちのメンバーに引き入れようと幾度となく粉をかけてくる始末であった。
特に当時ソサエティのリーダー格であった、某有名企業グループの会長の孫娘である姫岡梓嬢なぞは、個人的にも猛アタックしてきて、いつぞやは彼女が所属する文芸部の部室に閉じ込められて、貞操の危機すら覚えたことがあったほどである。
私なんかのどこがいいのかほとほと理解に苦しむところであるが、あいにくと当方は何よりも孤独を愛する性分ゆえに、どんな誘いも払いのけ周囲に不可視の壁を張り巡らせているうちに、クラスメイトたちもおいそれと手出ししてくることもなくなり、中等部二度目の春を迎え二年生へと進級するころには、至極平穏なる日々が続いていくばかりとなっていた。
まさにそんなときである。私が愛華恵と出会ったのは。
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
「──ねえ、松戸さん。あなたは催眠術を使って、人を殺すことができると思う?」
……はあ?
いつものごとく昼休みに読書にふけっていたら唐突に突き付けられた、不穏極まる言葉。
思わず見上げれば机の前で私を見つめていたのは、あたかも天使や妖精のごとき純真無垢な笑顔であった。
日だまりの中の子猫のようにいたずらっぽく煌めいている、茶褐色の瞳。
「……え、ええと。あなたは確か今年の春から編入してきた、愛華恵さんだったっけ? 今何ておっしゃったのかしら? 私の聞き違いでなかったら、催眠術で人を殺すとかどうとか聞こえたんだけど」
「ええ、そうよ? 松戸さんに是非とも、御意見を伺おうかと思いまして」
「な、何でそんなことを、この私に⁉」
常にクールで級友たちから恐れられている私であるが、さすがに人殺しの相談を受けるのは初めてであった。
「あら、文学少女の松戸さんなら、ご存じかと思ったんだけど」
「ぶ、文学少女お⁉」
読書家とか本の虫とかなら呼ばれたことがあるけれど、文学少女とはまた乙女チックなことで。
別に私は三つ編みなどではなくちょっと長めのボブカットだし、本をむしゃむしゃ食べたりもしないし、いきなり学園ミステリィを解決してみせたりはしないのだけど……。
「──あ、そうか。もしかしたらそれって、ミステリィ小説か何かの話なの?」
「ええ、まあ、そうとってくださっても構わないわ。どっちにしろ同じことだから」
「そうねえ、基本的にいくら催眠術をかけて面と向かって相手に『自殺しろ』と言っても、まったく効果はないらしいけど、確か昔読んだ小説ではヒロインに催眠術をかけて、『ただ真っ直ぐ歩け』と命令することによって、崖から落とそうとする話があったような。そういったのでよかったら、うまく工夫すれば、催眠術による殺人も実現できるんじゃないの?」
「ブー、不正解です。催眠術ではいかなる方法によっても、相手に自殺させることはできません。いやはやこんな初歩的な問題に引っかかるなんて、小説家志望者としては失格ですぞ。松戸楓大先生?」
──っ。何で、私の将来の夢を知っているのよ⁉
「な、何を言い出すの? 今私が参考にしたのは、我が国を代表するベテランミステリィ作家のヒット作なのよ? それがまさか、そのような初歩的なミスを犯しているわけがないでしょうが⁉」
しかしそんなクラス一のこわもて一匹狼の剣幕にも動じることなく、その編入生の弁舌はむしろ調子を上げていくばかりであった。
「だからそこが、小説家志望者としての心構えが甘いと言っているのよ。小説に書いていることを、何でもかんでも事実だと信用しては駄目よ。まずはすべてを疑ってかからなきゃ。──なぜなら、別に小説は事実ばかりを書く必要はなく、ほとんど全部がでたらめであっても構わないんだから」
なっ⁉
「あなたまさか、出版界における神様同然のドル箱作家の作品が、でたらめに過ぎないと言っているわけ⁉」
「ええ、そうよ。ただしそれが、その人のオリジナル──つまりは、その人が最初に考案したアイディアならば、でたらめだろうがいんちきだろうが別に構わないわけ。事実に反するものはけして小説にしてはいけないなんて言い出したら、斬新かつ奇想天外な真に面白い作品なんかは生まれてこなくなっちゃうからね。でもいやしくも小説家志望者が、小説に書かれていることを鵜呑みにして、それを『既成事実』として自分の作品を創ったりしては、断じてならないの。すなわち『催眠術で人を自殺させる』というのは実現可能かどうかはともかく、あくまでもそのベテラン作家のオリジナル設定なのであって、それを何も考えずに模倣していっては、けして新しい作品なぞ生み出すことはできず、単にパクリをやっているようなものに過ぎないのよ」
──っ。
「だからこそ小説家を志望する者は、常に小説における常識を疑い、自分の目で事実を見極め、固定観念の打破に努めていかねばならないの。つまりそれこそがここで言う、『果たして催眠術で人を殺せるか』という問題なんだけど、結論を言えば、残念ながら絶対に不可能なの。──なぜなら我々人間には、『自己防衛本能』というものがあるのだから」
え。
「あなたも実際に何度か経験したことがあると思うけど、眠っていて夢の中で死にそうになったり高いところから落ちそうになったりしたときには、必ずと言っていいほど目を覚ましてしまうでしょう? つまりこれぞ眠っていても人間には、防衛本能が働いていることの証しなの。いわんや半分は眠っているけど半分は覚醒している催眠状態において、崖から落ちそうになったり車通りの多いところで全力疾走させられたりして実際に命の危機にさらされた場合には、完全に意識が覚醒してすぐさま危険を回避する行動を取るようになっているの。みんな勘違いしているようだけど、催眠術で自殺させることができないのは別に『自殺』という言葉がNGワードだからというわけではなく、人間が他の野生動物同様に本能的に危険を回避する習性を持っているからなのよ」
「……ええと。そう言われてみればお説御もっともとしか言えないんだけど、現にその作品を模倣しているプロの作家の作品なんて、ごまんとあるじゃないの?」
「そこが小説等創作物の怖いところなのよ。どんな荒唐無稽なことであろうと一度小説に書かれるだけで、既成『事実』になってしまうのだから。たとえば夢枕貘先生の『陰陽師』なんかもそう。いくら主人公の阿部清明が実在の人物だからって、みんなでよってたかって劣悪な模倣作品を乱発していくものだから、今やすっかり世間一般の人々においては、平安時代では日常的に不思議な呪術が使われていて式神なんかも跋扈していることが『事実』となってしまったわ。でも常識的に考えればたとえはるか千年前の平安時代だろうが、実際に呪術とか式神とかが存在するはずはないの。つまり『呪術や式神が登場する阿部清明の物語』は、言ってみれば夢枕先生のオリジナル設定なのであり、他の作家はすべてパクリをやっているようなものに過ぎないのよ。これは司馬遼太郎先生の『竜馬がゆく』のような、より現実的な作品にも言えて、現実の坂本竜馬と司馬先生の坂本竜馬とでは様々な点で相違があるというのに、それから以降の作家の作品のほとんどすべてが、『司馬版竜馬』を基にしたものばかりになってしまっているの。たしかに模倣作品のほうもそれなりにヒットして、ある意味文化的にも商業的にも貢献を果たしてはいるけれど、あくまでもそれはすべて、夢枕先生や司馬先生のオリジナル作品自体がそれほどまでに素晴らしかったからこその、おこぼれ的波及効果に過ぎないのであり、その模倣ばかりを続けていたのでは、我が国の小説はいつまでたっても真の進歩を成し遂げることはできないわ。だからこそこれからの出版界を背負って立つべき小説家志望者たちは、けして小説界にはびこる偽りの『常識』や既成『事実』に惑わされることなく、常に己を律し知識の向上に励んでいき、『真の真実』なるものを見いだせる眼力を養っていかなくてはならないのよ!」
そのとき折よく鳴り始めた午後の授業の開始ベルと同時に、ようやく延々と続いた長口上を切り上げてくれる編入生殿。
今や私のみならずクラスの全員が唖然となり言葉をなくしたまま、ただひたすらふわふわ巻き毛の茶髪の少女のほうを注目していた。
「ふふふ。なかなか有意義な時間だったわ。よかったらまたお話しましょう。今度はあなたの御意見を、じっくりとお聞きしてみたいわ」
そう耳元でささやきかけるや、いまだ何の反応もできずにいる私を置き去りにして、さっさと自席へと戻っていく少女。
──面白い。
たぶんクラスのほとんどの生徒たちが何が何だかわけがわからないままに、間違いなく彼女のことを、すっかり『変人』だと決めつけてしまっていることであろう。
しかし、私だけは違った。
確かに彼女のお説は突拍子がなく、ほとんどすべてが詭弁や極論と呼べるものばかりであったが、その一方で小説愛好家として抗えぬほどの、魅力を覚えたのもまた事実であった。
まさしく目から鱗が落ちるとは、このことであろう。
これまで私こそは誰よりも小説を深く理解していると自負していたというのに、このたった十分やそこらの間に、すべての価値観をことごとく壊されてしまったのだ。
くやしさや怒りを感じるより先に、こんな考え方もあるのかと、脱帽すらしてしまった。
もちろん彼女が言ってることが、全面的に正しいとは思わない。
それはつまり、私のほうからも十分に、意見を戦わせる余地があるということである。
そう。すでにこのときの私は、これから先の彼女──愛華恵との、熱き小説談義の日々に思いを馳せていたのだ。
生まれが生まれだけに、誰とも不干渉を貫いてきた私にとって、これほど他人に関心を寄せたのは、実は初めてのことであった。
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「──さあ、楓。今日はどの物語の世界へ旅をする?」
そのとき少女は茶褐色の瞳を好奇の色で煌めかせながら、耳元へとささやきかけてきた。
私の部屋のベッドの上で、二人して横たわりながら。
あの衝撃的な出会いの日以来私は、すっかり恵との小説談義に夢中になり、学園内はもちろん放課後や休日等においても、ずっと一緒に過ごすようになった。
そんな中で私はごく自然に、彼女の我がお嬢様学園における立ち位置の特殊さを、まざまざと思い知らされていくこととなる。
驚いたことに、現在彼女が共に暮らしている父方の祖父母の家系は、華族の流れを汲み今でも政財界に傑出した人材を輩出し続けている、我が国でも指折りの名家であったのだ。
それにしてはあまりにも彼女自身が気さくで親しみやすい性格であることを不思議に思い、それとなく問いただしてみれば、「だって私自身は生まれも育ちも庶民なんだもん」という、明快極まりない御返答をいただいた。
話によると彼女の両親はいわゆる『駆け落ち婚』で、恵が生まれたころにはすでに父方の祖父母とは絶縁状態にあり、単なる庶民の家族として暮らしていたのだが、去年の暮れにとある不運な事情にて父親が亡くなるや、いきなり祖父母たちが乗り込んできて、「我が家の大事な跡取りをこれ以上庶民の女なんかには任せられない」と、訴訟すら辞さない勢いで、恵を引き渡すことを迫ってきたと言う。
その結果、当時最大の稼ぎ手だった父親を失ったばかりでもあり、十分な経済的援助を母親に対して行うことを条件にして、恵は祖父母の家にもらわれることとなった。
それ以降名門愛華家の一員として恥じぬようにと、恵に対しては厳しいしつけが行われていき、それまで通っていた公立学校も辞めさせられ、今年の春から中等部二年生といういかにも中途半端な時期に、我が校に編入してきたという次第であった。
しかしすでにご存じの通り何よりも自由な発想を尊ぶ恵は、確かに恵まれているとはいえ現在の暮らしを非常に窮屈に感じているらしく、友達付き合いを始めてからは毎日のように門限ぎりぎりまで、私の家に入り浸るようになったのだ。
まあ、うちのほうは完全に放任主義だし、女優兼大物政治家の二号さんである母親も、何かとお忙しいらしくほとんど家を空けていることだし、いくら友人を連れ込もうが何の気兼ねもいらないから、問題はないんだけどね。
聞くところによると、恵のほうも私同様小説家や編集者等の出版関係の仕事に就くことを志望しているとのことで、私たちは二人でいるときは学内でも私の家でも常に、読書をするか熱い小説談義を戦わすかのどちらかであった。
そのうち恵は私が密かに小説を書いていることを知るや、「見せて見せて」と騒ぎだし、いくら私が「恥ずかしいから駄目!」と言おうが聞く耳を持たず、とうとう根負けして自信の一作を見せるや、食い入るようにして読みふけり、こちらが赤面するほどの大絶賛をしたかと思えば、返す刀で容赦なき酷評を山ほど突き付けてきたのだ。
ただしそれを聞いても、私は怒ったり気落ちしたりすることはなく、その的確かつ自分自身では気づかなかった鋭い指摘に舌を巻くばかりで、いつしか小説を書くごとに自ら彼女の御指導を仰ぐようになり、お陰で私の創作技術はこれまで以上に長足の進歩を遂げていくことになった。
更には恵自身も興が乗ったときには、その場で短いストーリーを創りあげて私に聞かせることもあったが、それは小説どころかちゃんとした筋立てすらもない適当な思いつきのようなものであったものの、あたかも吟遊詩人による即興詩であるかのように、聞いている者を惹きつけずにはおられない不思議な魅力に満ちあふれていたのだ。
もしも、小説を始めとするすべての文芸や音楽等を司る芸術の女神である、『ミューズ』自身の語る物語が有ったとしたら、こんなふうではないかと思えるほどに。
このように二人して私のベッドの上に寝転がり、互いに物語を語り合ったりそれに対する感想を述べ合ったりしているうちに、いつしか私たちは、微睡みの世界の中に漂っていることに気づくのであった。
そこでは、これまで二人で読んだ小説や私の自作や恵の即興などが、すべて混じり合ったかのような物語の世界が、まさしく現実そのままに象られていたのである。
しかし目覚めてみれば、当然私たちはただ二人で抱き合ってベッドの上に横たわっているだけであり、結局すべてはひとときの夢に過ぎなかったというわけなのだろうが、私にはなぜだかどうしてもそれは、恵が──そう。私の女神が見せてくれた、仮初めの奇跡ではないかと思えてならなかったのだ。
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「あはははは。楓ったら、おかしいの。何を馬鹿なことを言っているのよ。夢魔でもあるまいし、そんなことができるわけがないでしょう?」
「……夢魔?」
「そう。人の夢の中に棲みつき、夢の構成要素である『精』を奪い取る妖魔よ。狙った相手からより多くの精を絞り取るために、その人の好みに合わせて夢の世界そのものを創り変えることすらもできるの。つまり夢魔だったら、既存の小説だろうがその人の妄想だろうが、夢の中で現実そのものの世界として創りあげることができるのよ」
「へえ、そりゃすごいね。まるで夢の世界限定の神様みたいなものじゃないの」
「もしかしたら小説家のように想像力が豊かな人たちの夢の中には、決まって夢魔がいるのかも知れないわね。きっと夢魔が見せる夢によって想像力を高められて、更に素晴らしい作品を創っていくことができて、夢魔のほうも小説家ならではの良質な物語の夢を生きる糧にしていけるという、理想的な共生関係が成り立っているに違いないわ!」
……理想的かな、それって?
思わぬお言葉の連続にただただ面食らっていれば、いたずらっぽく煌めく茶褐色の瞳をすぐ目と鼻の先に近づけてくる、最愛の親友。
「うふふふふ。私がもし夢魔になれたのなら、是非とも楓の小説の中に入ってみたいわ。楓の『物語』って、いったいどんな味なのかしらね♡」
そう言いながら、いかにも淫靡に私のうなじへと這わされる、桃花の唇。
「きゃっ⁉ だめっ、そこは弱いの! こらっ、恵!」
「抵抗しても無駄よ。一度取り憑かれてしまえば誰だろうが、夢魔からは逃れられないんだから」
「あっ。まさか、そんなとこまで⁉ ──いやんっ!」
「おほほほほ。二人でいるときの楓って、本当に可愛いんだから。学園とは別人みたい。この猫かぶり屋さんめ、こうしてやる!」
「だ、だから、これ以上人の身体をくすぐるのは……うひぃっ!」
狭いベッドの上でもつれ合うようにしてたわむれ続ける、二人の少女。
しかしそのとき、相手の夢を食べたいと密かに渇望していたのは、むしろ私のほうであった。
──そう。あの頃の恵は、私にとっての唯一の読者であり、いたずらな夢魔であり、そして何よりも尊き、女神そのものであったのだ。