五、過去からの呼び声。
「──楓さん、いったいどう責任をとってくださるおつもりですの?」
そのクラスのリーダー格の少女は、自分に忠実な取り巻きの生徒たちを引き連れて屋上に現れるや、唐突に私へと詰問してきた。
初夏の晴天の下、お嬢様のお肌には大敵の、紫外線すら物ともせずに。
「……責任をとるって、いったい何のことよ、梓さん?」
「当然私たち『当時の事件の関係者』までが、ついに昏睡してしまったことについてですわ。これもすべてあなたが、偽りの物語なんかをでっち上げて過去の事実をねじ曲げて、恵さんを蘇らせたせいなのよ⁉」
「はあ? 当時の事件って。それに昏睡とか偽りの物語とか、何をわけのわからないことばかり言っているわけ? 蘇らせるも何も、恵はこの通り元からちゃんと生きているし」
わざわざ目を向けるまでもなく、私の隣で横座りになってただにこにこと微笑み続けている、親友の少女。
「だからそれもこれもこの世界のすべてが、あなたが創ったまやかしだと言っているのですよ! しらばっくれるのも大概になさい。元々『当時の事件』すら、あなたのせいで起こったようなものではないですか。──いいでしょう。どうしてもおとぼけになられるというのなら、私たちにも考えがありますから!」
そう言うや、わけがわからず唖然とし続けている私を置き去りにして、さっさと踵を返して立ち去っていくクラスメイトたち。
そんな中で相変わらず微笑み続けている、最愛の少女。
──あたかも作り物の、人形のごとく。
五、過去からの呼び声。
「──何ですって⁉ 梓さんたち卒業生までが、昏睡してしまったですって?」
朝一番に仕事場兼自宅に飛び込んできた担当編集者の報告を聞くや、私は思わず問い返した。
「ええ、まだ公式には発表されていない極秘情報ですが、先生の『夢魔の告白』の題材となった『当時の事件』の関係者のほぼ全員が、すでに昏睡状態になられているとのことです」
さすがに普段と打って変わって神妙な表情で告げてくる、ひろみ嬢。
「……ということは、今朝の夢は、正夢だったってこと?」
「え。先生、それって──」
「そんなわけはないでしょう。つまり昏睡させられた者も、その瞬間に夢魔と化してしまって、今度はあなたの夢の中に侵入してきたってことなのよ」
そのとき唐突に鳴り響いてきた、幼い少女の声音。
振り返るまでもなくそこにいたのは、華美ながらも禍々しきゴスロリ姿の少女であった。
「……歌音さん、今何と言ったの? 何で梓さんたちが、夢魔なんかになるわけなの⁉」
「あら、あなただってこの前夢の中で、偽物の親友さんから勧誘を受けていたじゃないの。自分と共に夢の中だけで生き続けないかって。──つまり昏睡状態になった者は、夢の世界の中では、夢魔になってしまっているというわけなのよ」
──っ!
そうか。あのときの恵の申し出には、そういう意味が隠されていたわけなのか。
「これがファンタジー小説あたりなら、夢の中で永遠に生き続けるとか言うといかにもロマンチックだけど、あくまでも現実世界においては、単に意識を失って眠り続けているだけということなのよ。さあ、困ったわねえ。一度夢魔になってしまえば夢の中に限っては、絶対無敵で万能の存在になったようなものだし。しかも夢を見続けている限りは、どこにも逃れることはできないし。その気になれば、狙った相手に毎晩地獄の責め苦そのものの夢を見せ続けて、発狂させてしまうなんてお手の物でしょうねえ」
自分自身物語の女神であり、同時に夢魔でもある少女の言葉は、非常に説得力があった。
脳裏に蘇るは、夢の中で聞いたかつてのクラスメイトの少女の、「私たちにも考えがある」という捨て台詞。
「……やれやれ、何を深刻な顔なんかをしていることやら。別にあなた自身には関係のない話じゃないの」
「はあ?」
女神様の思わぬ台詞に意表をつかれ、間抜けな声をあげる小説家。
「つまり本物か偽物かは知らないけれど、あなたの夢の中にはすでに恵さんという夢魔が棲みついているのだから、他の夢魔には手が出せないということよ」
あ。そういえば、そうでした。
今朝方見た夢でも、梓さんたちは恵のことを憎々しげに睨みつけてはいたものの、結局は何ら手出しすることなく立ち去っていったしね。
「……待ってください。それでは紅葉ちゃんは、大丈夫なのですか?」
「へ? 何でここで、紅葉の話が出てくるの?」
突然話に割り込んできた担当編集者の不穏な言葉に、私はすかさず聞き返した。
「だって、昏睡状態となって今や夢の中で夢魔と化してしまわれた方々は皆、真偽のほどはともかく先生の著作こそがすべての原因と思われているのでしょう? それなのに先生御自身に手出しができないとなると、その矛先が娘さんである紅葉ちゃんに向けられるという展開も、十分あり得るのでは?」
「──っ‼」
私はひろみ嬢の言葉を聞き終えることなく、脱兎のごとく娘の部屋へと走っていった。
「紅葉! いるんでしょ⁉ 返事をしなさい! 紅葉!」
鍵のかけられた入口のドアを激しく叩き続けるものの、何の反応も返ってはこなかった。
「先生、私にお任せを」
そう言って鍵穴に特殊な形の工具を挿し込むや、やけに手際よく解錠していく担当女史。
「……ひ、ひろみさん?」
「うふふ。これも編集者としてのたしなみですよ。何せ締め切り前に居留守を使われる先生方も、結構おられますからねえ。──お、開きました」
いや、いくらもっともらしい理由をつけても、これは明らかに犯罪行為では?
内心忸怩たるものを感じながらも、とにもかくにも室内へと踏み込んでいく。
「──きゃっ、紅葉⁉」
ゴミや食べ物や衣服が部屋中に散乱した中で、唯一の空きスペースであるベッドの上に横たわっている、華奢な肢体。
しかしそれはほんの一週間前に最後に見たときとは比べ物にならぬほど、無惨にもガリガリに痩せこけていたのだ。
光を失ってしまった黒曜石の瞳の下にくっきりと刻み込まれている、黒々とした隈。
もはや骨と皮だけとなった胸部がわずかに上下を繰り返しているので、辛うじて生きていることは確認できるが、いきなり自分の部屋に人が入って来たというのに、いまだ何の反応も見せることはなかった。
「どうして、こんな。紅葉、いったい何があったの⁉」
「……どうしたもこうしたもないでしょうが。あなた母親のくせに、何で娘がこんなになるまで気がつかないのよ⁉」
「──うぐっ」
存在自体が非常識な物語の女神様からの極めて常識的な指摘に、言葉を詰まらせる小説家。
だ、だってうちは基本的に放任主義だし、例の平手打ち以来紅葉のほうでも私のことを何かと避けていたし、しかも私自身いろいろあって、娘のことなんかに気が回らなかったのよ!
……はい。こんなことを言っている時点で母親失格なのは、重々承知しております。誠に申し訳ございません。
「も、紅葉ちゃん、とにかく何か食べましょう。このままでは命の危険すらあり得るわよ⁉」
この期に及んでは唯一紅葉からの信頼を保持し続けている担当さんが、泡を食って申し出る。
「……駄目よ……お腹がいっぱいになったら……眠ってしまう……そうしたら……夢の中でまた……あいつらが……あの怪物たちが……やってくるから……」
「っ!」
うつろな目つきでやっとそれだけを口にした少女の姿に、私は思わず息を詰まらせた。
「ごめんなさい、紅葉! みんなお母さんが悪いの!」
もはやなりふり構わずベッドにかじりつくものの、娘の唇が新たな言葉を発することはなかった。
「紅葉! お願い、返事をしてちょうだい。紅葉!」
「──無駄ですよ、先生。夢の中の怪物に対しては、我々現実側の人間には手の出しようがないのですから」
「なっ⁉ ひろみさん?」
そのとき私のほうを見下ろしていたのは、これまで見たこともない冷め切った瞳。
「何よ! 子供もいないあなたに、何がわかるとでもいうの⁉」
「わかりますよ。私もかつて、大切な身内を失ったことがありますので」
「え?」
思わぬ言葉に気勢をそがれる、母親兼小説家。
「そんなことよりもとにかく今は、事態の抜本的解決策を模索すべきです。紅葉ちゃんの夢の中に巣くっている夢魔たちは、先生の作品こそが原因だと思い込んでいるようですが、恐らくはそこには彼女らにとっては看過できない、『歪み』が存在しているのでしょう」
「はあ? 歪みって……」
「立ち入ったことを申すようですが、これまでの経緯から推測するに先生の『夢魔の告白』は、過去の事実の一部を恣意的に改ざんして創っておられるかと存じます。もちろんこのようなことはむしろ小説作成においては常識的なことですので、ここではその是非を問うつもりはございません。問題はそのことによって、『当時の事件』の関係者のうち、特に加害者の皆様の意識の中でこれまで密かに抱え続けてきた、罪悪感等の負の感情を刺激してしてしまい、それが夢の中で『怪物』として具象化することになり、あげくの果てには彼女たちを昏睡させることにもなったのでしょう。そして自分自身も怪物──つまりは夢魔となった彼女たちは、自由自在に他人の夢の中に行き来できるようになり、かつての特権集団の仲間たちを自分と同じ夢魔にしつつ、お互いの夢の世界を統合していき、あたかも先生の『夢魔の告白』そのままの、『もう一つの二十年前の世界』を創りあげてしまったのです」
「も、もう一つの、二十年前の世界ですってえ⁉」
「つまりその世界における現実の過去との『歪み』を修正消去することができれば、怪物たち──すなわち加害者の皆様の負の感情も解消されて、昏睡状態から脱することを為し得るかと思われます。そしてそれを成し遂げることができるのは、過去の事実と改ざんした部分の双方ともを熟知しておられる、先生御自身の他にはいらっしゃらないのです」
「……いや。ほとんど話についていけなくて、真偽のほどは何とも言えないんだけど。そもそもそんな夢魔化した人たちの夢の世界の集合体に歪みを直しにいくって、まずそこから実行不可能でしょうが⁉」
「何をおっしゃっているのですか。まさにこれぞ歌音さんの──すなわち、物語の女神の『ダイブ能力』の見せ所ではありませんか。先日彼女自身が申されたように、タイムトラベルとは夢のようなものであり、その派生物である小説の回想シーンのようなものでもあるのです。つまり昏睡しておられる方々の夢の集合体とは、ある意味本物の二十年前の過去の世界であり、先生の『夢魔の告白』の世界でもあり、更にはそれらをすべてミックスした世界とも言えるわけなのですが、物語の女神のダイブ能力を使えば、そのいずれの世界であろうとも自由自在に出入りすることができ、そこでかつての実際の過去とは異なる『歪み』を見つけ出して修正除去さえすれば、現在夢魔化しておられる方々も全員解放されて、昏睡事件は見事解決の運びとなり、すべては本来のあるべき姿へと立ち戻るという次第なのですよ」
……いやだから、もはや話に全然ついていけないんですけど。これって先日散々揶揄していた、タイムパラドックスを解消しようとするSF小説お得意のパターンとどう違うわけ?
しかし過去の歪みを解消するというのは、私にとってはまさしく望むところであった。
なぜならそれは、恵との過去の日々を、もう一度やり直せるということなのだから。
振り向けば、いつもの饒舌さが嘘だったかのように、ただ意味深な笑みを浮かべながらこちらを見つめている、黒水晶の瞳。
たとえ本物の過去だろうが夢だろうが創作物だろうが、恵が存在する世界に連れて行ってくれると言うのなら、女神だか夢魔だか知らないけれど、その手をとって見せよう。
「……いいわ。私がそのもう一つの二十年前の世界とやらに行って、必ず歪みを見つけ出して消し去ってあげるわ」
そう高らかに宣言して黒衣の少女へと向き直れば、無言で差し出される華奢な右手。
私がそれを握りしめた刹那、酷薄に笑み歪む、目の前の深紅の唇。
──あたかもまんまと獲物の魂をせしめることに成功した、悪魔のごとく。