二、怪物。
「──ねえ、楓。私いつの日か、『物語の女神』に会ってみたいと思っているの」
そのとき少女はベッドの上でしどけなく身を横たえながら、そうささやいた。
私の腕の中できらきらと好奇の色を煌めかせている、茶褐色の瞳。
「……物語の……女神って?」
「ええ。出版界で古くから言い伝えられている噂話なんだけど、心の底から小説家になりたいと願い続けていればある日突然女神が現れて、『真の小説家』の道へと教え導いていってくれるらしいのよ」
「何その、いかにもうさん臭そうな都市伝説は。それじゃ女神なんかというよりも、『オペラ座の怪人』に登場する『ファントム』みたいじゃないの」
「さすがは楓、まさにその通りよ!」
「はあ?」
「そうなの。真の小説家として生きる道を選んだ者にとっては、『物語の女神』は同時に『怪物』でもあるわけなのよ。何せ願いが叶ったとき目の前に現れるのが女神なのか怪物なのかは、願いの内容や、その人自身の将来の作家としての心構え次第なのだから」
「つまりは、恵は真の小説家とやらになりたいってこと? だったらもしあなたの目の前に現れたのが怪物だったら、いったいどうするつもりなの?」
「別に構わないわ」
「え?」
「たとえ怪物だろうが、私のことを真の小説家だと認めてくれたんだもの。どこに導いていこうが、喜んでついていくわよ」
そのとたん私の心に、恵がいつの日か自分のことを置いていってしまうのではないかという、漠然とした不安感がよぎった。
「きゃっ。何よ、楓ったら。急に抱きしめたりして!」
くすぐったそうに身をよじる、最愛の親友。
なぜに彼女は、自分こそが私にとってのかけがえのない、女神であることに気づかないのだろう。
二、怪物。
「──いったいどう責任を取ってくれるの⁉ これもみんな、あなたのインチキ小説のせいよ!」
およそ二十年ぶりに会った元クラスメイトの女性は、私の仕事場兼自宅に乗り込んでくるや、開口一番そう言った。
三十代半ばにさしかかっていながらも、当時の女王様然とした美しさは微塵も失われてはおらず、シャネルのスーツに包み込まれた身体の線も崩れることなくいまだ女性らしいおうとつを誇り、念入りに化粧された顔も本来の美貌を損なうことなく、むしろ艶やかさや上品さこそを際立たせていた。
現在某有名企業グループ会長令息夫人にして、かつての名門女学園中等部時代における私や恵のクラスのリーダー格、姫岡梓女史。
「ひ、姫岡さん、落ち着いて」
「今は姫岡ではなく、青山ですわ」
「ああ、ごめんなさい。じゃああの頃みたいに、梓さんって呼ぶね。ちなみに私はシングルマザーだから、松戸のままだけど」
「呼び方なんて、どうでもいいのよ! それよりもどうしてくれるの⁉ とうとううちの娘まで昏睡してしまったのよ!」
「……いや。どうしてくれるのって言われても。娘さんにはお気の毒とは思うけど、何でみんな、私のせいにしたがるのかな?」
「だって、あなたのせいですもの! あの子がおかしくなったのは、あなたの作品──今評判の『夢魔の告白』を読んでからなのよ!」
「はあ?」
……またか。これで何度目なんだ、このパターンは。
「もちろん私だって最初は単なる馬鹿げた戯れ言だと思って、相手にしなかったわ。あの本を読んで以来夢の中に『怪物』が現れるようになって、娘のことを夢の中に閉じ込めようとし始めただなんて。しかし娘は何度も何度もそう訴え続けたあげく、実際に昏睡状態になってしまった。──そう。まるであなたの偽りの物語が生み出した怪物によって、本当に夢の世界の中に囚われてしまったかのように」
「ちょ、ちょっと待ってよ。娘さんが眠り込んでしまったからって、本当に怪物とやらの仕業と決まったわけではないでしょうが⁉ しかも何でそれが、私の作品を読んだせいだと言い切れるのよ!」
あまりに無体な言いがかりに、たまらず食ってかかったとたん、
──目の前の女性の唇から飛び出した、思いがけない言葉。
「だって私の夢にも怪物が──そう、『あの子』が、現れたのですもの!」
……え?
「これはあの子の復讐なんだわ! 何せ今まで昏睡してしまったのは、私たち当時のソサエティのメンバーの娘たちばかりだもの。あなたが事実をねじ曲げてあんな奇麗事だらけの偽りの物語をでっち上げたために、夢の世界の中であの子が怪物となって蘇ってしまって、私たちに復讐しようしているのよ!」
「待ちなさい! あの子って誰のこと⁉ 誰があなたの夢に現れたって言うの!」
「きゃっ⁉」
気がつけば私は旧友の両肩を鷲掴みにしながら、鬼気迫る形相で身を乗り出してまくしたてていた。
「か、楓さん⁉」
「いいから答えなさい! いったい誰? 誰が蘇ったと言うの? 誰が怪物になって、私たちに復讐をし始めたの⁉」
呆気にとられて身を硬直させる、セレブ奥様。
しかし私のせっぱ詰まった有り様に圧倒されたのか、ためらいがちに言葉を発していく。
「き、決まっているでしょ? あのときあなたから裏切られたことを知って自殺をしてしまった、自称『松戸楓の唯一の親友』さんよ」
──っ。それって、まさか⁉
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
「……今日はまた、すごいリムジンで乗りつけてこられたようで。先生も大変ですねえ。これでもう七人目ですか、同窓生の方が怒鳴り込んできたのは?」
ようやくお引き取り願えた旧友と入れ替わるようにして、来訪してくるなり苦笑混じりにそう言ったのは、毎度お馴染みの担当編集者の天原ひろみ嬢であった。
「まったく、勘弁して欲しいわ。これもすべては、無責任極まるマスコミのせいよ」
「うふふふふ。何でも『眠り姫』だとか『怪物現る』とかいったキャッチフレーズなんかを付けたりして、今回の昏睡事件を大々的に報じて、何かと先生の『夢魔の告白』と関連付けようとしていますからね」
『怪物』という言葉を聞くや、胸の奥にちりりと焦げ付くような痛みを感じ、私はむきになって言い返す。
「冗談じゃないわよ! 何でもかんでも人の作品のせいにするなってえの。何が怪物よ、私の作品はホラーでもファンタジーでもなく、あくまでもリアルな青春物なの! 怪物なんて出てくるものですか!」
「とは申されても、昏睡されてしまった方々はすべて先生の著作を読んでおられて、しかも眠り込まれる前に、『「夢魔の告白」の登場人物が夢の中に現れた』とか『その子が怪物となって誘惑してきた』などと、おっしゃっておられたとのことですよ?」
「……」
そうなのである。何とそのうえ被害者の全員が作品の舞台となった名門女学園の中等部に現在在籍していて、更にはその母親たちがかつての私のクラスメイトであり、『夢魔の告白』の登場人物のモデルときているのだ。
これでは私の作品と関連付けてしまうのも、無理からぬ話とも言えよう。
「……それにしても何よ、ひろみさん。担当作家の私がこんなに苦しんでいるというのに、『うふふふふ』とか他人事みたいに笑ったりして」
「だって他人事ですもの。というか担当編集としては現在の状況は、願ったり叶ったりとも言えますし」
「なっ⁉」
「お陰様で『夢魔の告白』はこれまで以上に話題となり、重版に次ぐ重版という有り様。出版サイドとしては実のところ、ほくほく顔だったりして。いやあ、マスコミの皆様はもちろん、『怪物』さんとやらには、むしろ感謝感激雨あられですよ」
……忘れていた。こいつって実は、こういうやつだったのだ。
一見いかにも人当たりがよさそうな世間知らずのお嬢さんぽく見えるものの、若くして出版界の裏の裏まで知り尽くし、担当する作家の作品に関しては一切の妥協を許さず、我々小説家の才能から心の傷にいたるまでそのすべてを絞り取ろうとし、それに対して弱音を吐いたり全力を出し渋ったりする者は容赦なく切り捨てるのも辞さぬという、鉄壁の完全主義者。
しかしだからこそ、彼女の担当した作家の作品はどれもが完成度が高く絶大な人気を呼び、作家自身もどんどんと鍛え抜かれていき、長足の進歩を遂げるのであった。
もちろん彼女の『流儀』に堪え忍び、脱落しなかった場合のみであるが。
一応のところ、自分の才能はおろか過去の恥や傷すらも出し惜しみすることなく、作品として発表していくのにやぶさかではない私にとっては、願ってもない頼りになるパートナーとも言えるのだが、こうした人を人とも思わない絶対的な功利主義の素顔を見せつけられた際には、心底うんざりしてしまうのも致し方ないところであろう。
「まあ、この件が先生にとってはまったくの他人事とも言えないのは、事実なんですけどね。むしろ今後どうなるかは、予断を許さないところでもあるし」
「へ?」
そのとき唐突につぶやかれた編集者の言葉に、思わず上がる間の抜けた声。
「予断を許さないって、まさか私も怪物の出てくる夢を見て、昏睡してしまうってこと?」
「いえいえ、先生というよりもむしろ、紅葉ちゃんのほうですよ」
「紅葉って……あ、そうか!」
「ええ。独自に調べたところ現在昏睡状態に陥っておられる方々のほとんどが、何と紅葉ちゃんのクラスメイトであるとのこと。しかも母親である先生は『夢魔の告白』の作者本人なのだから、当然かつてのいじめ事件の関係者であり、まさしくこれまでの被害者の条件とまったく合致しているわけなのです」
「ちょ、ちょっと待ってよ。何で一介の編集者であるあなたが、昏睡事件の被害者やかつてのいじめ事件の実際の関係者の個人情報を、そんなに詳しく把握しているのよ⁉ いくら出版界随一の情報通だからって、明らかにオーバースキルでしょうが!」
おいおい、別に私は三流ミステリィ小説の間抜けな登場人物じゃないんだから、そんな重要なことを安易にスルーしたりはしませんからね!
もちろん「実は身内に警察関係者がおりまして」とかの安易な御都合主義的展開は、断じて許さないわよ。それこそ三流ミステリィじゃあるまいし、本物の警察官がたとえ身内に対しても、捜査情報を教えたりするもんですか。公務員の守秘義務をなめるんじゃない!
「いやだなあ、何をおっしゃっておられるのですか。先生御自身が教えてくだされたのではないですか」
「はあ⁉」
何と、御都合主義のインチキ情報通キャラは、実は私のほうだったわけ?
「ほら、『夢魔の告白』の作成前に、のちのち肖像権とかの問題が生じるかも知れないので、前もって当時の事件の関係者に一言確認を取っておきたいからって、先生に連絡先をお教えいただいたではないですか。その際にほぼすべての方に、紅葉ちゃんと同い年の娘さんがいることも伺っていたのですよ」
……あ。そういえばそうでした。
「それに何というか紅葉ちゃんて、ああ見えて感受性が強いでしょう。本当に先生の著作が原因かどうかはともかく、昏睡してしまった御学友の方々に対して、いらぬ罪悪感を覚えて思いつめられたあげくに、御自身までも昏睡してしまうことも十分考えられますし」
う〜む。考え過ぎだと否定できないところが、母親としては辛いところよねえ……。
「──大丈夫よ。私は昏睡したりはしないわ」
そのときまさしくタイミングを計ったように聞こえてきた、幼くか細き声。
「も、紅葉⁉」
そう。仕事場の入口で純白のワンピース型の制服に痩せ細った肢体を包み込み、あたかも昼間の幽霊のようにひっそりとたたずんでいたのは、まさに私の娘の松戸紅葉であった。
能面のような無表情の顔の中で冷めた光をたたえている、黒曜石の瞳。
「も、紅葉ちゃんがしゃべった! 嘘っ。かれこれ三週間ぶり⁉」
驚くポイントはそこなのかよ⁉ いくら気心の知れた仲だからって、一応は担当作家のお嬢様に対して、何気に失礼な編集者だな!
「……そもそも私はお母さんの本なんて読んでないから、夢の中に怪物なんか出てくるはずがないもの」
おまえはおまえで失礼な娘だな! 読めよ、母親の作品くらい。女手一つでここまで育ててもらった感謝の念を、少しは表してもばちは当たらないだろうが⁉
「それに何よりも、私は知っているもの。怪物よりも恐ろしいものが、この世には存在していることを」
……え?
思わぬ台詞に呆気にとられているうちに、まるで白昼夢だったかのように、密やかに立ち去っていく少女。
「……紅葉ちゃん、何だか御様子が変でしたね」
「あの子が変なのはデフォルトでしょうが? ……まあ、いつもより増しておかしかったのは、確かだけど」
「それにしても怪物よりも恐ろしいものって、いったい何なのでしょうか?」
「私に聞かないでよ。あの子が考えていることを理解できる者など、この世にいるものですか!」
「それって母親の台詞として、どうなのですか? かなり失礼のような気がしますけど」
「──ぐっ」
いや。別にこれは、誰が一番失礼かを競うコーナーではないのであって。
しかし、怪物よりも恐ろしいもの、か。
もしそういうのが本当にいるのなら、夢の中でもいいから、一度お目にかかってみたいものよね。
案外頼めば怪物を退治してくれて、昏睡事件が晴れて解決したりして。
このようにそのときの私は、まだまだ状況を甘く見ていたのだ。
ついに『あの日の約束』が果たされる日が、間近に迫っていたことにも気づかずに。
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
「……まったく、どいつもこいつも、勝手なことばかり言うんだから」
時はすでに真夜中すぎ。私は自分の寝室のベッドの上に横たわりながら、うんざりとため息をついた。
「しかし、怪物ねえ……」
本当に怪物とやらの正体は梓さんが言っていたように、『あの子』──つまりは、恵なのだろうか。
私の創った偽りの物語が呼び水となって彼女を蘇らせて、過去の復讐として、かつてのいじめ事件の加害者たちの身内を夢の世界へと引きずり込んで、昏睡させているのであろうか。
はは、まさかね。
あの純真無垢な天使そのものだった恵が、わざわざ自分の身を怪物に変えてまで、復讐なんかしたりするものか。
それに彼女がすでに蘇っているのなら、他の誰よりも先に、私の夢の中に現れるはずだ。
なぜならこの私こそが、彼女を最も愛しながらも同時に最も傷つけてしまった、最大の裏切り者なのだから。
『──そうよ。あなたの歪んだ愛と裏切りこそが、私を怪物として蘇らせたの』
そのとき唐突に聞こえてきた懐かしき少女の声に、私は思索の海から一気に現実へと引き戻される。
とっさに振り仰げば、いつしか私の身体の上には布団越しに、十三、四歳くらいの年頃の少女がまたがっていた。
純白のワンピースの制服に包み込まれた、小柄で華奢な肢体。ふわふわとした薄茶色のセミロングのウエーブヘアに縁取られた、愛らしい小顔の中でいたずらっぽく煌めいている、茶褐色の瞳。
それは忘れもしない今は亡き、唯一かつ最愛の親友の姿であった。
「……恵」
『うふふふふ。約束通り迎えに来たよ、楓』
「約束ですって? でもあなたはあのとき私を置いて、一人で死んでしまったじゃないの。それともこれは夢? ただの幻なの?」
『何を言っているの? これは夢であり、また同時に現実でもあるのよ。すべては楓のお陰よ。あなたがあの偽りの物語を創ってくれたからこそ、私はこうして生まれ変わることができたわけなの。──さあ、そんなことはもうどうでもいいじゃない。早くあのときの約束を果たしましょう!』
そして彼女に手を引かれるままにベッドから身を起こせば、たちまち彼女と同じ制服を身に着けた中学生の姿になり変わり、周りの光景もいつしか初夏の晴天の下の、懐かしき屋上へと様変わりする。
そうだ。これがたとえ夢だろうが現実だろうが、別に構うものか。
やっと恵と会うことができたのだ。再びこの手に取り戻せたのだ。
私の願いは叶ったのだ。
『では、行きましょう、楓』
うっとりとするようなにこやかな笑みを浮かべながら、手を繋いだまま、私を屋上の端へと導いていく少女。
「……行くって、どこへ?」
『決まっているじゃない、私たちの「約束の地」よ。今こそ真の願いを叶えるときなの』
「えっ、こうしてあなたが存在するこの場所こそが、私にとっての最終的な理想郷じゃないの? それに真の願いって。たとえ怪物だろうが何だろうが、あなたが蘇ってきてくれて再び会うことができたのだから、もう私にはこれ以上望むことなんてないわよ?」
その刹那。恵が私の手を払いのけ、大きく飛び退いた。
「め、恵?──うわっ!」
慌てて彼女のほうに手を伸ばそうとしたものの、二人の足下に大きな亀裂が走り、近寄ることを遮られてしまう。
『お願い、早く思い出してちょうだい。──あなたの、本当の望みを』
そう言いながら、いつしか立ちこめてきた濃い霧の中へと、溶け込むように消え去っていく、華奢な肢体。
「め、恵! 待ってちょうだい! 恵──‼」
しかしまたたく間に私の視界は霧に覆いつくされ、すべてはホワイトアウトしてしまったのである。
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
「何ですって⁉ まさか先生までもが、『怪物』の夢を見てしまったのですか⁉」
いつもの人のよい笑みを消し去り、鬼気迫る表情でまくしたててくる編集者。
彼女のこんな真剣な顔を見るのは、長い付き合いの中でも初めてであった。
「お、落ち着いてちょうだい、ひろみさん。今朝方そんな夢を見てしまったというだけの話だから」
「これが落ち着いておられますか! 先生まで昏睡してしまったらどうするのです⁉」
世間話のついでに何気なく漏らしてしまった夢の話に、猛然と食いついてくる編集者。
どういうことなのだ、いったい。常に泰然自若としている彼女らしくもない。
「あはははは。まさか、そんな。たまたま怪物の夢を見ただけで昏睡してしまうなんて、単なるたわいもない噂話よ。同じ学園の生徒さんたちが被害に遭ったのも、ただの偶然か何か変な伝染病のせいに違いないわ」
「いいえ、これは間違いなく怪物の仕業です。彼女たちの夢の中には、本当に怪物が棲みついているのです!」
……はあ?
「ちょ、ちょっと待ってよ、いきなり何てことを言い出すの。怪物が本当に存在しているなんて、ホラー小説やファンタジー小説でもあるまいし。いくら文芸誌の編集者でも、現実と小説とを混同しては駄目でしょうが?」
「ええ。確かに怪物が現実に現れたとか言い出したのなら、それは小説の登場人物的な妄言に過ぎないでしょうが、それに対して怪物が夢の中に現れたと主張するのは、あくまでも現実的かつ常識的な言動なのです!」
え、何それ? いったいあなたは何を言っているの? 全然意味がわからないんですけど⁉
「確かにこうして現実サイドで第三者的立場にいる我々にとっては、『夢の中に怪物が現れたから昏睡してしまった』と言われても、単なる創作物か妄想にしか思えないでしょう。しかし本当に昏睡事件は起こっているのであり、数々の証言によれば被害者のほとんどが昏睡する以前に怪物が現れる夢を見ているというのです。つまり実際に昏睡してしまった人たちにとっては、『夢の中に怪物が現れ自分を昏睡させてしまった』というのが事実であり現実なのです。なぜなら実際に夢の中にいる人たちにとっては、今やその世界こそが現実なのですから。たとえばすでに怪物の夢を見てしまった先生が、もしもこれから先昏睡してしまうことになった場合、たとえ本当の原因が他にあったとしても、結果的には『怪物によって夢の世界に囚われてしまった』ことになってしまうというわけなのですよ」
「いやいやいやいや。確かに今回の昏睡事件はまったくの原因不明であるとはいえ、いくら何でも怪物のせいにするのは馬鹿げているでしょうが。いったいこの世界のどこに怪物なんかが存在しているというのよ⁉」
「もちろん先ほどから何度も申しておる通り、小説などの虚構の世界でもあるまいし、現実には怪物なぞは存在いたしておりません。しかし今回の事件においては、あくまでも怪物は夢の中だけに存在しているのであって、だからこそ本物と言い得るのです」
はああああ⁉
「いや、そもそもあなたの言っている、『現実』と『夢』という言葉の使い方というか区別のし方が、何だかあいまいでこんがらがっていて、よくわからないんですけど?」
「そうですか? それでは『現実』だけではなく、『実際』という言葉も併用することで、もっとわかりやすくいたしましょう。確かに我々は現実に怪物を見ることはあり得ないでしょうが、実際に見ることは十分可能です。それこそが『夢の中で怪物を見る』ということなのです。夢そのものは確かに現実のものではありませんが、夢を見ること自体は誰もが経験することができる実際の出来事なのですから。先生だってこれまで幾度となく、怪物や幽霊等が出てくる夢をご覧になられたことがおありでしょう。たとえばどんなに愛している人であってもひとたび亡くしてしまえば、現実では二度と会うことができないけれど、夢の中なら再び言葉を交わしたり触れ合ったりすることすらも可能なのです。先生もそのような夢をご覧になられたいとは思いませんか?」
──っ。
「特に今回は昏睡事件ということで、まさしく夢の世界の中だけの存在である怪物たちにとっては、ホームグランドを舞台にしているようなものであり、いったん眠ってしまえば自分自身も単なる夢の構成物となってしまう、人間風情が太刀打ちできるはずもございません。よって一度でも昏睡してしまえば手の打ちようがなくなるわけであり、すでに怪物の出てくる夢をご覧になられている先生は、現在非常に危険な状態にあると言えるのです」
……確かにあのとき恵が気を変えなかったら、私はそのまま夢の中に囚われ続けていたかも知れない。
しかし何で恵は、私以外の人たちまで昏睡させているのだ?
本当に死んだ恵の魂が、怪物として蘇ったわけなのだろうか。
これこそは彼女の私たちに対する、復讐とでも言うのか。
「……いや。だったら、もう手の施しようがないというわけなの? だって相手は夢の中だけの存在なんだから、現実世界にいる私たちには対処のしようがないんだし」
まあ私としては、夢の中に出てきたあの怪物に囚われてしまうことは、むしろ本望なんだけどね。
「いいえ、そんなことはありません。夢の中の怪物──いわゆる夢魔に対しては、唯一最強の対抗手段がございますので」
「は? 夢魔に対する、唯一最強の対抗手段て……」
「聞いたことはありませんか? 『物語の女神』ですよ」
「──っ。それってまさか⁉」
「そう。出版界において古くより語り継がれてきた、伝説の存在にして文字通りの守り神。何と自らの魂を、人の夢や妄想やその派生物である小説等の創作物の中に入り込ませて、自意識を保ったまま行動できるのみならず、絶大なる異能の力を振るい、虚構の世界そのものを改変することすら成し遂げると同時に、時には真に小説家になりたいと願う者の前に現れて、独特の創作技術を伝授することにより、一流の小説家に育て上げることもあるという、まさしく我々出版関係者にとっては神様そのものともいえ、夢の中だけの怪物である夢魔に対抗し得る力を持っている、現実サイド唯一の存在なのです」
「……確かに私も何度か話に聞いたことがあるけど、本当に存在していたの? むしろ夢魔なんかよりもあり得ないでしょう、そんな常識外れの人物なんて。さっきあなたは『怪物は夢の中の存在だから本物なのだ』って言っていたじゃない。女神だか何だか知らないけどそんなのが現実に存在していたら、先ほどまでと話が矛盾してくるんじゃないの?」
「そこら辺は大丈夫です。女神が異能の力を使えるのは夢や創作物の中だけであり、現実世界においてはあくまでも『ただの人』に過ぎませんので、リアリティの維持においても論旨の一貫性においても、何ら問題はありません」
「そんなに何でもかんでも、『夢の中だけだから大丈夫』とか言っていたら、すべてはどこかこことは別の世界の話みたいになって、私たち現実サイドの人間には最初から最後まで、一切かかわり合いがなくなってしまうんじゃないの⁉」
「そのようなことはございません。先ほども申しましたように、要は結果論なのです。女神が怪物を退治してくれて見事昏睡事件が解決するのなら、その手段や過程が現実のものか虚構のものかなんて、別にどうでもいいのではないですか?」
「……」
確かにそうなんだろうけど、何か釈然としないのはなぜなのだろうか。
仮にこれがファンタジー小説やライトノベルであるならば、このように屁理屈ばかりこねず、リアリティなんて放り出して、正面から正々堂々夢魔を相手にしてど派手なサイキックバトルでも展開したほうが、よほどわかりやすいのではなかろうか。
「ええと、女神が本当に事件を解決してくれるかどうかはともかく、どうやって依頼をするの? 今まで散々噂は聞いてきたけど、誰一人直接会ったことがないどころか、連絡手段を知っている人もいなかったわよ」
「その点は御心配なく。彼女のメールアドレスなら、存じておりますので」
「はあ⁉」
何だよ、女神様のメールアドレスって。何だかとたんにありがたみが薄れたような。
「いやいやいや、そんなことよりも。あなたっていったい何者なの? 確かにただ者ではないとは思っていたけど、その若さで出版界最大の伝説的存在と、当然のようにして繋ぎがとれるなんて⁉」
「ふふふふふ、そこは蛇の道は蛇ってところですよ。まあいいじゃないですか、そんなことは。では私のほうから先方さんに先生のアドレスをお伝えしておきますから、そのうちメールで連絡がくることでしょう」
思わぬ展開の連続にこちらが呆然としている間に、どんどんと話を進めていく編集者。
しかし今の私には、それを止める理由も気概もなかったのである。
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
「──何よ、しけた顔して。こうして女神様が直々に会いに来てやったんだから、もっとありがたがりなさいよね」
その少女は、待ち合わせのカフェテラスに三十分以上も遅れて姿を現すや、開口一番そう言った。
人形そのものの端整な小顔の中で、黒水晶の瞳を傲岸不遜に煌めかせながら。
先日さっそく『物語の女神』とやらからのメールが届き、とりあえずは直接会って話をしようということになったのだが、実際に相まみえてみればそれは予想外の人物であった。
年のころは十三、四歳くらいか。小柄で華奢な肢体を季節外れの暑苦しい漆黒の禍々しくも可憐なゴスロリドレスに包み込み、初雪のごとくすべらかな白磁の肌を艶めく長い黒髪で覆っているその有り様は、女神というよりはまさしく悪魔や死神すらも彷彿とさせた。
おいおい。二十年ほど前に恵も話題にしていたくらいだから、てっきりシスター服の御老女あたりでも現れるかと思っていたら、何でこんな幼い少女が登場してくるんだ? ひょっとして、最近になって代替わりでもしたとか?
とにかく話を進めようと、テーブルの対面でアイスカフェオレをすすっている御仁に対して、恐る恐る問いかける。
「あの……」
「何よ?」
「あなた本当に、『物語の女神』なの?」
「はあ? 違うわよ。何を人を電波そのものの名前で呼ぼうとしているの。あなたもしかして、いい歳して『中二病』なの?」
「へ? じゃ、じゃあ、あなたはいったい何者なのよ⁉ まさか今さら人違いとかいたずらだったとか、言い出す気じゃないでしょうね?」
「ああもう、店内でいきなり立ち上がって大声出すんじゃないわよ、恥ずかしい。まったく、小説家という輩は、どいつもこいつも常識を知らないんだから。私が何者かって? ちゃんとメールで名乗っていたでしょうが、『御神楽歌音』って。あなたには特別に、『歌音様』と呼ばせてあげるわ」
「はあっ⁉」
何が歌音様よ! 初対面の相手に、変なプレイを強要するんじゃないわよ!
いや、待てよ。ということはこの子は間違いなく、あの物語の女神のメールの差出人ということなの?
「……女神だか何だか知らないけど、あまり大人を馬鹿にするんじゃないわよ」
「何言っているのよ、このメス豚風情が。調子に乗っているのはそっちじゃないの?」
「──なっ⁉」
「さっきは一目私を見たとたん、『え〜、こんな幼い女の子が物語の女神なのお?』なんて感じの間抜け面をさらしていたくせにさ。小説家にしては想像力が貧困なんじゃないの。おたくの担当編集者も、さぞや苦労していることでしょうね。まあ、そうは言っても、あなたは私たち一族にとっての大切な糧食なんだし、養豚場の豚だってちゃんと世話をしてやらなければ、立派な御馳走にはならないんだから、せいぜい面倒を見てやることにいたしますか。さあ、ぐだぐだ言ってないで、とっととこちらに右手を出しなさい!」
「想像力が貧困? 養豚場の豚⁉ あ、あなた、仮にも当代一の人気作家であるこの松戸楓に対して、何たる侮辱! たとえあなたが本物の物語の女神であろうと、許しはしないから!」
「だ・か・ら、私のことを勝手に『女神』呼ばわりしているのは、あなたたち『小説家』のほうであって、そんな名称なんてどうでもいいのよ。あなたが必要なのは、あくまでも私の『力』でしょう? つまりそれを、これから見せてあげると言っているわけよ」
「──っ」
確かにそれはそうだ。私は『怪物』と対抗し得る力を借りにきただけであって、相手が少女だろうが老婆だろうが女神だろうが関係はないのだ。
……しかしそれにしても、何でこうも一方的に罵倒されなければならないのよ⁉
私は今一つ納得がいかないまま、少女が差し出した手の上に自分の右手を重ねた。
その瞬間。私の意識は『あの日』へと、跳んでいったのである。
◐ ◑ ◐ ◑ ◐ ◑
『──楓、また来てくれたのね。やっと自分の本当の願いを思い出せたのね!』
気がつけば目の前には、古びた鉄柵にもたれかかるようにして身を預けている、かつての親友の少女の姿があった。
「……恵」
何だ? 何で急に、夢の世界の中に入ってしまったんだ⁉
『さあ、こっちへ来て、楓。今こそ、私たちの望みを叶えるときよ』
妖艶な笑みを浮かべながら、私のほうへと手を差し伸べる、白いワンピース姿の少女。
もはや私は抗うことなぞできず、一歩また一歩と近づいていく。
その刹那であった。
『──待って、楓。あなたはいったい、「何」を憑けてきているの⁉』
「へ? な、何って……」
『……ふん、気づかれたか。さすがは今話題の、連続昏睡事件の犯人様ね』
そのとき唐突に脳裏に鳴り響いてきた、不可思議なる声音。
それはまさしく先ほど出会ったばかりの、毒舌ゴスロリ少女のものであった。
『ま、まさか、「女神」⁉ 楓、あなたまた、私のことを裏切る気⁉』
あたかも鬼のごとき形相となり、詰問してくる親友。
「ち、違うわ。これは、そのう、少々手違いがありまして……」
『許さないわ! 楓は私のものよ! 他の女神なんかに渡すものですか! 必ず私の世界の中に捕らえてみせるから!』
そう言うや、まるで空気に溶け込むようにして消え去っていく、ワンピース姿の少女。
「め、恵、待ってちょうだい!」
『ちっ、逃げ足の速いことで。まあいいわ、挨拶代わりにはなっただろうし』
「あ、あなた、さっきからいったい、何を言って──きゃっ⁉」
その瞬間、世界のすべてが、まばゆい閃光に包み込まれた。
そして気がつけば私たちは、相も変わらずカフェテラスの向かい合わせの席で、お互いの右手を重ね合っていたのである。
「……ちょっと、いつまで人の手を握りしめているのよ。あなたまさかその気があるの? 私に手を出したりしたら、淫行の現行犯で訴えるわよ⁉」
「なっ、淫行って⁉ 何を変な言いがかりをつけているのよ?」
「ふん。さっきまで『恵〜』とか言って、散々騒いでいたくせに。あの子って、ちょうど私くらいの年格好だったわよね」
「わ、私はあくまでも、恵のことが好きなのであって、別に幼い女の子が好きなわけではなくて──」
「けっ。ロリコンが言い訳によく使うパターンよね」
「人のことを、ロリコンって言うなあ‼」
「うるさいわねえ。だからこんな公共の場で、涙目になって怒鳴りながらテーブルを叩くなと言っているでしょうが⁉」
な、何なのよ、この子っていったい⁉
ひろみさんたら、「『女神』は美人で高飛車だから、先生とは気が合うかも知れませんね」なんて、暗に私自身に当てこするようなことを言っていたけど、美人度も高飛車度も、私なんかとは全然レベルが違うでしょうが!
確かに想像もつかなかった超絶美少女であることは認めるけど、このドS高慢ちきな性格は何なのよ⁉ 女神と言うよりも、サドの女王様じゃないの?
「まあ、そんなことはともかくとして、これではっきりしたわね」
「はっきりしたって、何がよ?」
「はあ? 何言っているのよ、この鳥頭。自分がここに来た理由を、もう忘れたの? 夢魔よ、夢魔。あなたは夢魔の実在を確認しに来たのでしょうが」
……あ。そういえば、そうでした。
そして少女はこの日初めて、文字通り女神そのものの、厳かな声音で言い放った。
「そう。あなたの夢の中には、夢魔が棲みついているの。しかも折り紙付きの、凶悪なやつがね」