篠塚友恵(覚醒)
自分という存在が無に消えるのが途轍もなく恐ろしかった。
母親が死んでからその恐怖はさらに私の中で広がった。じわじわと滲んで洗っても取れない染みになる。血の繋がっていない父親に優しくされても、親しい友人に恵まれても、心の虚は埋められることはなかった。自分だけが異物である感覚。自分の居場所なんてどこにもない。それは、この異世界にきてからも同じことだった。まるで命すらも作り物であるかのようで、現実味がなかった。
それでも、私は何かに縋りたかった。そして、死を身近に感じて、佐倉涼太という同級生に依存した。私と一緒に異世界に飛ばされた男の子。彼は私と真逆の理由で私に依存した。私をこの右も左もわからない世界で生きるための希望にしたのだ。
そんな前向きな覚悟をその時の私はできなかった。私が涼太に依存したのは、ここで私が死んでも彼だけは悲しんでくれる、というなんとも消極的な理由からだった。
そんな私を変えたくて、目の前に現れた得体の知れない大いなる存在に力を渇望した。でも、何も変わらなかった。それはきっと……ううん、確実に自分のせいだ。変化を望む反面、このどうしようもない虚無感に押し潰されそうになってる。
それでも、今まさに殺されそうになってる涼太を前に私は手を伸ばした。死んで欲しくなかった。それが昔あった仄かな恋心からか、単なる独りよがりなのかは私自身わからない。
ただ死んでほしくない。その思いだけは本物だ。
ふと気づくと、そこは世界樹の中ではなくなっていた。
天は開け、空は七色に色付いていた。幻想的な光景に目を奪われる。そこで、ここがテューンの語っていた師匠の記憶の断片であることを認識する。ここは山の上で、ここで師匠は神に匹敵するとされた怪鳥と死闘を繰り広げた。その痕跡が山肌の荒れ具合からも見て取れた。
そして、一人の男性の姿が目に入った。
天を見上げる赤毛の男は輪郭にまだ幼さを残していた。端正な顔立ちで、きっと将来は女たらしになる少年だ。でも、きっとそうはならない。だって、少年からは師匠と同じ匂いがした。
「彼はユークリッド。私の最初の弟子だ」
いつのまにか私の隣にいた師匠が言った。
「やんちゃなやつだった。すぐ熱くなって暴力を振るうし、食事のマナーもなってないし、典型的な荒くれ者だった。控え目に言って、クソ野朗だな」
昔を懐かしむように寂しそうに笑う。こきおろしてるけど、それを楽しんでもいた。師匠と少年の関係はそういうものだったのだろう。なんだかちょっと羨ましかった。
「彼のこと好きだったんですか?」
突拍子もない品のない質問だ。だけど、そんな気がしてならなかった。
師匠は少しの沈黙のあとに口を開いた。
「私の最愛の人だ」
ユークリッドの体がボロボロと崩れ、風に乗って空に散っていく。私と師匠はその行方を追うように視線を動かした。
なんとなく察した。ユークリッドは死んだのだと。
「さて、私の話をしてもいいが、君はそれどころではないだろう?先に一言言わせてもらうと、君が獲得したスキルをもってすれば、とりあえずの危機は回避できる」
「本当ですか?」
「私が最後に覚えたスキルだ。そして、私のオリジナルでもある。まさかこのスキルまで失うことになるとはな。扱いは難しいが、君なら使いこなせる」
形はどうあれずっと守られてきた。歪な関係であっても他人ではなかった。涼太を助けられる。込み上げてくるもので胸が裂けてしまいそうだ。
「トモエ、君には感謝している。君がいなければこの世界を歩くことすらままならなかっただろう。だから、告げなければならないことがある。君はこの世界の住人で、しかもウルリカと同じく神の血をひく者だ。君の生まれたルーツはこの世界にある。だからこそ、この世界の神の血を受け継ぐ者を眷属に迎えたからこそ、私は力を取り戻すことができた」
私がこの世界の生まれ。それは事実なのだろう。師匠が嘘をつくメリットは何一つない。それに、師匠との血の繋がりが濃くなったからこそ私が何者か師匠は理解したのだ。
この世界に私の母の過去がある。それはつまり、脈々と受け継がれた血の歴史があるということだ。
「何を望むのも好きにするがいい。しかし、老婆心ながら言わせてもらう。君はもっと前を見て歩くべきだ。虚しさに囚われるなら、自分の歴史を調べてみるのもいい。それは自分を知るということ他ならない」
私がずっと抱えていた闇を解き放ってくれるかもしれない。そう思うと、居ても立っても居られなくなる。でも、それは後に考えることだ。私には大切なモノがある。感謝しなければならない相手がいる。ちゃんと向き合って想いを打ち明けなければならない。そのために、私は戦う。
「師匠、ありがとうございます。進むべき道がやっと見えてきました。でも、その前に私たちには倒さなければならない敵がいます。だから、もう行きますね」
「ああ、そうだな。健闘を祈る」
薄れゆく記憶。それが辛いものでも、師匠の心は温かかった。彼女は自分の過去を全て受け入れたのだ。
師匠の歩む道には常に英雄の姿があった。
時に彼らの背中を追いかけ、時に肩を並べ、時にその手を引いた。彼らは師匠の心を照らし、あるいはその光によって濃くなった闇に温もりを与えた。
そして、今は私たちが師匠とともにいる。