彼女のモトカノ
とんでもない無駄足を踏んでからの翌日の朝。
寝て醒めれば、昨日のことは全部夢だったんじゃないかって期待がないでもなかったけど、この寝不足で最悪な気分がそれを全力で否定していた。
恋人が前世で男だった記憶を取り戻して、別れ話をされて、なのになぜか人探しを手伝う羽目になって。
たった一日の間に起こる出来事にしては一つ一つが大事件で、むしろ夢でなきゃおかしなレベルの話なんだけどなぁ。
「ふぁ……」
あくびをして、眠い目をこする。昨夜はネットで調べ物をしていたから、寝るのが随分おそくなってしまった。
検索したのはもちろん、『エリタ』や『歌谷美優』それに『前世の記憶を消す方法』だ。
けれどネット上に二人の名前は見つからず、さらに一度蘇った前世の記憶はどうやら消すことは出来ないらしいという僕にとっては絶望的な情報を得られただけだった。
「……もう、戻らないのかな」
優しくて恥ずかしがり屋で真面目だった、かつての恵莉さんの姿を青空に思い浮かべる。
あの彼女とはもう、二度と会えない……そんなこと、納得できるはずがなかった。
今日の風紀委員会は休みなのか、校門を通り抜けても恵莉さんや例の風紀委員の先輩の姿は見かけることはなかった。
昇降口を抜け、程よい喧騒の響く廊下を歩く。
「ミナキ!」
自分の名前を呼ばれて、その声がすぐに誰のものか気付き振り返った。
「おはよう……エリタ」
僕の背後にいたのは、予想通りの相手だった。
姿も声も、僕が好きだった女の子と変わっていない。ただ、トレードマークだった長いみつあみは編みこまれていなくて、代わりに綺麗なストレートロングの髪が彼女の背中一面を覆い隠すように広がっている。
右手には半透明のビニール袋をぶら下げていて、腕を振るたびにがさがさと音を立てていた。
「よかった、探してたんだ」
「どうしたの?」
「いや、何も言わずこれを預かっててくれ」
ガサッと音を立てて、持っていたビニール袋を差し出される。近くにあるコンビニのロゴが入っていた。
「いいけど……」
「さんきゅ! じゃ、昼休みに校舎裏でなっ」
言うだけ言って、彼女は妙に慌てた様子で教室に入っていった。
同じクラスなんだから一緒に戻ればいいのにと思いながら、いま渡されたばかりの袋に視線を向ける。重さはほとんどなく、持っているのを忘れそうなほどだ。
「はよっす」
「あ、おはよう」
輪島が声をかけてきたので、軽く挨拶を返す。と、すぐにその目が僕の右手に注がれた。
「何だ、それ?」
「さあ? エリ……恵莉さんが、預かって欲しいって」
「預かる? 愛妻弁当とかじゃなくてか?」
「違うよ」
昨日、フられたばかりだし。
というか、付き合っていた頃の恵莉さんにもお弁当を貰ったことなんてない。いつか作ってくれないかなって期待していたんだけど、可能性はもうほぼゼロとしか言えない。
「何が入っているんだ?」
「えっと……」
袋の中を覗き込む。見たらダメとは言ってなかったし、僕も気になっていた。
「……お菓子?」
中には、小さな四角い箱が4つか5つほど入っている。初めて『エリタ』と遭遇したときに彼女が食べていた、棒状の硬いラムネ菓子だ。
「お菓子ぃ? …………何か、メッセージが込められているのか」
「ないと思うけど……」
だけど、僕にわざわざ預ける意味はなんだろう?
それとも輪島の言うとおり、本当に何かのメッセージが込められているのだろうか。
────その答えはすぐに、朝のホームルーム中に担任の口から明かされた。
「なんか校舎裏でタバコの吸殻が見つかったみたいでな。ってことで俺と風紀委員とで持ち物チェックするぞ。あ、ついでにゲーム機やお菓子とか持ってきたやつも減点な」
(エリタああああああ!!)
僕は心の中で絶叫し、教師の隣でいかにも真面目そうな顔をする犯人を涙目で睨みつけるのだった。
*
「ひどい」
昼休みになり約束通り校舎裏で落ち合い、開口一番に不満が飛び出る。
お菓子だし、大した問題にはならなかったけど、それでもハメられたことには違いない。
「だから悪かったって。風紀委員が校則違反してた方がマズイのはわかるだろ?」
じゃあ、はじめからお菓子なんて持ってこないでよ、という言葉を呑み込んで、僕はため息をついた。
「昨日の集会で言ってたの?」
「あん? ああ、そう。なんか、ここに吸殻が落ちていたんだとさ」
「…………キミじゃ、ないよね」
「殴るぞ」
恵莉さんの顔つきを鋭くさせて、コンビニ袋から取り出した一見タバコに見えなくもない棒状のお菓子を僕に投げよこす。
「ほら、口止め料」
「……どうも」
「まったく、ここは相変わらず堅ぇな……お菓子ぐらい持ってきてもいいだろうが。そう思わねぇ?」
愚痴りながら、慣れた手つきで包装をはがしてラムネ菓子を口に含む。
遠目で見ればなんとなくタバコをくわえているように見えなくもないけど、でも吸殻がある以上ここで本物を吸った人間がいるのは確かだ。そう思うと、急にこの場所にいるのが怖くなってきた。
「エリタはそのお菓子、よく食べるの?」
不安を紛らわせるように、口を開く。
以前の恵莉さんがお菓子を食べている姿なんてほとんど見かけなかったから、ふと気になった。
「なんだよ文句あるか。言っておくけど、記憶が戻る前からコイツは食ってたぞ」
手のひらの箱をカタカタ振ってアピールしてくる。
僕が知らなかっただけで、恵莉さんは前からそのお菓子が好きだったらしい。
「ただまぁ……俺が"俺"だったときも、コイツにはちょっと因縁があったな」
「因縁?」
「大したことじゃねぇよ」
どこか寂しそうに笑って、パキッと口にくわえたラムネ菓子を折る。
恵莉さんの顔だから、だろうか。
そんな表情を見せられると、僕はなんとかして元気付けてあげたくなった。
「そ、そういえば、今日はどうするの?」
「あん?」
「歌谷さん。探すんでしょ?」
昨日は中途半端のままだったから、今日こそは最後まで調べてみたい。けれど、エリタは妙に歯切れを悪くして首を横に振った。
「今日は、いいや」
「え?」
「他にやることがあるんだ。考えてみたら美優のことだって別にもう……なぁ?」
同意を求めるように笑って、『悪いな』と謝られる。
けど、いきなりそんなことを言われても戸惑ってしまう。どうして急に心変わりをしたんだ?
「それに、あれだ。お前も、新しい彼女とか探さなきゃなんねーだろ?」
「新しい、彼女?」
「いつまでも俺なんかに付きまとってねーで、さっさと次の女を見つけろよ」
好き勝手なことを言って、エリタはそのまま裏口を開けて校舎の中に戻っていく。
「なんなんだ……」
前世での恋人を探せとか言ったり、かと思えば『別にもう』なんて煮え切らない態度で諦めて見せて。
挙句の果てには、新しい恋人を探せ?
「……絶対、元に戻してやる!」
あんなワガママな男に、恵莉さんの身体を委ねるわけにはいかない。
決意を新たにして、僕は拳を固く握り締めた。
*
僕らの住む街の図書館はかなり大きい。
整然と並んだ書架にはバリエーションに富んだ本がびっちりと敷き詰められ、さまざまな年齢の人たちが思い思いに本棚の間を行き来している。
壁に掛かった時計を見ると、閉館時間の三十分前だった。ホームルームが終わってまっすぐここに来たのに、ゆっくりする暇なんてほとんどない。
このわずかな時間で膨大な量を調べられるはずがなく、僕は受付カウンターの脇にあるパソコンに近づいた。確か、これで所蔵している本が検索できるはずだ。
「あ、あれ?」
液晶のモニターには、『故障中』というメモ用紙が貼り付けられていた。
昨日といい、どうもここの図書館とは相性が悪いようだ。
「何か、お探しですか?」
受付にいた職員の人が、パソコンの前で困惑する僕に声をかけてくれた。
ありがたくその厚意に甘え、生まれ変わりについての書籍がないか訊ねる。
「えぇと……少々お待ちくださいね」
職員の女性はゆったりと微笑んで、受付にある職員用のパソコンを操作し始めた。
なんとなく手持ち無沙汰になり、キーボードを叩く職員さんを見つめる。
ショートカットの、優しそうな感じの人だ。
歳はたぶん、僕より一周りぐらい離れている。でも化粧っ気は少なく、元の素材だけで十分若々しい綺麗な女性だった。
「……えぇと、本館には30点ほどありますね」
検索し終えた女性は、ディスクトップを動かして僕に液晶画面を見せてくれる。
創作小説や体験談、それに怪談の副題として、『生まれ変わり』という単語がずらりと並んでいた。
どの本が役立つかわからないので、ひとまず所蔵場所をチェックする。
「あの、メモ用紙ってありますか?」
「ございますよ、どうぞ」
そう言って、女性職員さんは脇においてあった紙切れと、ネームプレートが付いた胸ポケットからペンを取り出す。
僕はそれを受け取りながら、何気なく彼女の名前に目をやった。
「…………え」
「どうなさいました?」
子供の利用者にもわかるように配慮された、その名札に書かれていたのは。
突然凍りついた僕を、変わらず優しげに見つめるその女性の名前は。
『うたたに』さんだった。
*
夕食より少しだけ早い時間帯だからか、ファミレスの店内はそこそこの喧騒に包まれていた。
小さな子供を連れた家族に、朱城学園の制服を着た男女のグループに、難しそうな顔をしてパソコンを叩くスーツ姿の一人客。
さまざまな人が居合わせるこの場所で、僕と彼女はどういう風に見られているんだろう。
「……それで? 聞きたいことって?」
僕の向かい席に座った歌谷美優さんは、注文したドリンクバーの紅茶を飲みながらやんわりとした口調で促してきた。
探していた人がいきなり目の前に現れて、つい『仕事の後、空いてますか』なんてナンパまがいの台詞を言ってしまったけど、歌谷さんはまるっきり気にしていなさそうだ。
まぁ、一回りも年下の男にナンパされたとか普通は考えないだろうし、余計な心配か。
「その制服、朱城学園のだよね。私が昔の先輩だってことは知ってた?」
「は、はい」
仕事が終わったからか、口調は図書館のときよりだいぶ砕けたものになっている。
初対面の男相手にも緊張しない、気さくな女性のようだ。……僕が男として見られていないだけかも知れない。
「えっと……それで、会って貰いたい人がいるんです」
「私に? へぇ、どんな子?」
「その前に」
いきなり『僕の彼女はあなたの恋人だった男の生まれ変わりなんです』とか言っても信じてもらえるはずがない。
僕はブレザーのポケットを探ると、昼休みに受け取ったラムネ菓子の箱をテーブルに置いた。
「貴方の知り合いの中に、よくこれを食べていた男はいませんでしたか?」
「……うわぁ、まだ売ってるんだ。これ」
どこにでもある安物のお菓子をまるで宝石を見るように笑って、箱を手にとる。
「エリタ君、でしょ? うん、覚えてる覚えてる。懐かしいなぁ」
年上なのにどこか幼い感じのテンションではしゃぐ女性の口からその名前が出てきたことで、改めて『エリタ』は実在していた人物なのだと確信する。
恵莉さんが生み出した別人格という考えがないでもなかったけど、これでその線は完全に消えた。
「いつもくわえてたなぁ、コレ。……きっかけは、私からだったんだけどね」
「え?」
歌谷さんは手の中で小さな箱をいじりながら、昔を思い出すようにゆっくりと口を開く。
「エリタ君はバスケ部だったんだけど、素行にちょっと問題があったの。いわゆる不良ってやつ」
「不良……」
あの粗暴な態度を思い出せば、十分ありえる話だと思った。
「でね、私は風紀委員で……ある時たまたま、彼がタバコを吸う現場を目撃したわけ」
歌谷さんはもちろんそれを見逃すはずがなく、すぐに先生に報告しようとした。
けれど、エリタもただ黙って彼女を見送ったはずがない。
「ぐっ、と思いっきり肩を引っ張られてねー。校舎の壁に押し付けられちゃった。今ハヤリの壁ドンってヤツ? あれ、実際やられると怖いのよー?」
おどけるように言って、十年以上前の出来事をとうとうと語る。
「そんな状態で、『吸っているのバレたら、部活の奴らに迷惑がかかる』なんて言うのよ? じゃあ最初から吸うなって話よね」
「あはは……」
「詳しくは聞かなかったけど、なんか家庭の事情とかでイライラしてつい始めちゃったとか必死に言い訳してね……それで、仏心を出しちゃった」
アルバムで見たバスケ部のメンバーはみんな笑っていた。
歌谷さんがエリタを許したからこそ、彼らは笑顔のまま部活を続けられたのだろう。
「そのときエリタ君にあげたのが、コレ。ほら、見た目ちょっとタバコっぽいでしょ?」
カタッと音を鳴らして、僕にお菓子の箱を返してくる。
箱の側面には『貴方の禁煙を応援します』という文字があった。
「代用品ぐらいにはなるかなーって思ってさ。本人もなんだか気に入ってくれたし、結果として禁煙の助けになったみたい」
「そうだったんですか」
お菓子で禁煙って発想が簡単に浮かぶあたり、歌谷さんはなんだかずいぶん茶目っ気のある性格をしているらしい。
アルバムに写っていた彼女は何だかとっつきづらい怖そうな人だなと思ったけど、全然そんなことなかった。
「そこから、なんか縁ができちゃったんだよねー……。気が付いた彼のことがら好きになってて、恋人同士になって……すぐに、別れちゃったけど、ね」
それまでずっと朗らかに昔語りをしていた歌谷さんだったけど、その言葉を口にして初めて声に陰りを見せる。
あと一歩だけ深く踏み込もうと、僕は口を開いた。
「亡くなったんです、よね」
「なんだ、知ってるんだ。……うん、そう」
苦笑いを浮かべて、歌谷さんはさらに言葉を紡いでくれた。
「肺炎で、そのままあっさり。もしタバコが原因だったら『バーカッ』って言ってすぐに忘れてやったんだけどねぇ」
「違ったんですか?」
「風邪をこじらせたらしいよ。一度だけお見舞いに行ったけど、凄い熱だった」
(風邪……)
そういえば、今みたいになる前の恵莉さんも高熱を出していた。
死んだときと状況が重なって、それで、前世の記憶を取り戻したのかもしれない。
「もっとちゃんと看病してあげてれば助かったかもって、すごく後悔したなぁ……」
エリタとの思い出を語り終えた女性はしめやかに息を吐き、再び紅茶に口をつけた。
「……すいません。辛いこと聞いちゃって」
「いいのいいの、もうほとんど気にしてないから。昔のことよ」
「そう、ですね」
話を聞いて、わかった事がある。
歌谷さんにとって、エリタはもう『過去』なのだ。
いまさら恋人だった男の名前を出されても、戸惑うだけに違いない。けれどそんな気持ちをおくびにも出さず僕に話を聞かせてくれた彼女は、やはりとても優しい人なんだとも思った。
「っと……ごめんね。ちょっと電話が」
軽く会釈をして、バッグから取り出した携帯を片手に歌谷さんが店内から出て行く。
一人になるとようやく緊張の糸が切れたのか、肩の力がどっと抜けた。
「気は済んだか?」
後ろの席から、どこか不機嫌そうな女の子の声が飛んでくる。
いまさら、それが誰の声かなんて確認するまでもない。だから僕は、振り向かずに訊ね返した。
「……いつ、来たの?」
「さっきだよ。『俺』が死んだときの話をしていたとき」
女の子の声で聞くには違和感のある一人称を使い、これ見よがしに深々とした溜息をつく。
「急に呼び出したかと思えば、美優と二人きりで話なんかしてやがって……どこで見つけたんだ」
「図書館で、偶然。……どうする?」
彼女を呼び出した時点では、とにかく何としてでも歌谷さんと会わせるつもりだった。
でも、見ず知らずの僕に嫌な顔一つせず『過去』を語ってくれた女性を目の当たりにしたことで、その気持ちが揺らぐ。
「余計なこと、しちゃったかな」
心残りをなくせば恵莉さんは元に戻るなんて、そんな不確かな期待に縋って、僕は二人の古傷をえぐり返そうとしている。
自分がしていることは自己満足ですらない、ただの迷惑行為なんじゃないか?
「うぜぇッ」
「ぁ痛っ」
沈み込んでいると、ぺチン、と後頭部が叩かれた。
「い、いきなり何するんだよ」
抗議の声を上げて、後ろの席を振り返る。
エリタがむくれた顔をして、僕を睨みつけていた。
「うじうじうじうじ鬱陶しいな、てめーは。だいたい、余計なこと気にしすぎなんだよ」
そうなのかな。自覚はないけど、納得できないでもなかった。
「でも、だって」
「でももだってもねぇ、男なら一度決めたことを最後までやり通せ!」
「いたっ、痛いって」
バシバシと遠慮なく人の頭をはたいてくる。
励ましてくれているにしても、乱暴だ。
「お待たせ……って、あれ?」
「あ」
いわれのない暴力に耐えているところへ、電話を終わらせた歌谷さんが戻ってくる。彼女は少しだけ目をしばたたかせてから、にっこりと笑いかけた。
「こんにちは。お友達?」
「う……」
どう紹介したものか、言葉に詰まる。
元は恋人だったけど今は友達でもなくて、正確に言うと知り合いでもなんでもないし、これは女の子として生まれ変わったあなたの昔の恋人ですだなんて信じてもらえるわけがないし……。
「歌谷美優さん、ですよね。はじめまして。わたし、朱城学園で風紀委員をやっている三坂恵莉です」
(……はい?)
ぐるぐるあれこれと考えていると、ハキハキとした声が質問に答えた。
「風紀委員……? あぁ、じゃあ貴女が」
「無理を言ってすいません。当時の風紀委員がどんなことをしていたのか、今後の参考のために聞きたくて」
「ええ、もちろん。参考になるかわからないけど、どんどん聞いて?」
三坂恵莉と名乗った少女が僕の言っていた『会って貰いたい人』だと勝手に納得して、同じ学園の先輩後輩どころか、同じ風紀委員だったことがわかり歌谷さんの態度はますます親しみやすいものになった。
一方で、僕はただひたすらポカン、とすることしかできない。
まるで別人……というか、元の恵莉さんと比べてもまったく違和感のない、完璧な振る舞いだ。
「わぁー、そんなことなさっていたんですか」
「あの先生、まだいるの? え、教頭に? へぇー」
後ろの席で女性二人が賑やかに話すのを、僕は放心状態のまま右から左へと聞き流すのだった。
*
ファミレスの店内が夕食時のピークを迎えたのをきっかけに、僕らは話を切り上げて外に出た。
「今日はありがとう。楽しかった」
「こちらこそ、色々教えて下さってありがとうございました」
女性同士の話題は尽きないというけど、エリタは本当に男だったのかって思うぐらい、歌谷さんと気持ち良さそうに話していた。
いまだに恵莉さんのフリも続けているから、実は元に戻っているんじゃないかという錯覚さえしてしまう。同時に、それがただの淡い期待でしかないこともわかっていた。
「それじゃあ、またね。お二人さん」
歌谷さんは最後まで笑顔のまま手を振って、背を向ける。
僕も会釈をして、遠くなる背中を見送った。
「あのっ、もう一つだけっ」
なんだか切実そうな顔をして、エリタが呼び止める。
さっきまで彼女と一緒に同じように笑っていた表情は、いまは真剣そのものだった。
「どうしたの?」
「その……いま、幸せですか?」
風紀委員とまったく関係のない、不思議で唐突なその質問に、歌谷さんはきょとんとして、けれどすぐに目を細めた。
返事を聞くまでもない、満面の笑みで響かせた彼女の声は。
「もちろんっ」
言葉通り、とても幸せそうだった。
歌谷さんの後ろ姿が今度こそ見えなくなり、日の落ちた歩道に街灯の明かりがあちこちで輝く夜の風景をしばらくの間ぼんやりと眺める。
と、横から背伸びをするような億劫そうな声が上がった。
「はぁ~あ……こんな早く見つけるなんて、思ってなかったぞ」
「……僕も」
声帯は同じなのに口調が違うだけでこうも人の印象が変わることに驚きながら、小さく頷く。
自分の死後なおも気にしていた、歌谷さんとの出会い。それがこんな形で叶うなんて、僕も予想していなかった。
しかし、望みが果たされても恵莉さんは『エリタ』のままだ。生前の心残りを解消したところで、幽霊じゃない『エリタ』の人格は恵莉さんの中から消えない。
一体どうしたら元の恵莉さんに戻るのか、また一から考え直す必要があった。
と、ふいにエリタが夜空を仰ぎ、強がるように笑う。
「しっかし……やっぱ、そうかぁ」
「何が?」
「あー? 美優のヤツ、結婚するんだなーって思ってな」
「け、結婚!? そんな話、してたっけ」
「バーカ。美優の右手、見なかったのかよ」
人のことをキッチリけなしてから、見せびらかすように細くて小さな手をかざす。
反対側の手で右の薬指を小突きながら、やけっぱちのように言い放った。
「指輪あったぞ、ここに」
「え……確か、それって」
「婚約してるってことだな、どっかの男と。まぁ、幸せだってんなら、いいんだけど、よ」
言葉尻はだんだんと弱くなり、そのまま顔を俯かせる。
どうしたのか、なんて聞いても答えてくれないだろうし、何よりもエリタになってから初めて見るあからさまに落ち込んだ様子が、声をかけるのをためらわせた。
「前、向いてろ」
「う、うん……」
言われたとおり、歌谷さんが消えた方角に向き直る。
あの人は今どうしているだろう。さっきの電話は婚約者からだったのかな、とかそんな取り留めのないことを考えていると、後頭部をまた叩かれた。
……いや、違う。
「ちいせえな、お前の背中」
両肩に恵莉さんの手のひらの感触が乗り、茶化すような声はすぐ後ろからする。
少しだけ心臓をドキドキとさせながら、だけど振り返ることなく何も言わずにいると、押し殺した嗚咽が聞こえてきた。
「あー……俺が、幸せにしてやりたかったなぁ……ちくしょう……」
「……」
こんなとき、広い背中に寄りかからせてあげられれば、もう少し格好が付いたんだろうけど。
背の低い僕には、耳元で彼女が泣くのをじっと受け入れることしか出来なかった。