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爆発しろ!!  作者:
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リア充への試練



 その日は、僕がこれまで生きてきた中で最も緊張する時間だった。

 いや待てよ。確か、昨日も似たような心境だった気がする。というか、ここのところ緊張が続きすぎて何がなんだかわからなくなっていた。

 朝起きたときから心臓は早鐘を打ち続け、見慣れたはずの風景もまるでモヤがかかったみたいにぼやけている。眼鏡をかけていないときの景色と似ているけど、顔にはしっかりとレンズの存在を感じる。念のためレンズを磨いてみたけど、やっぱり景色はぼやけたままだ。

 足取りもなんとなくおぼつかず、ふわふわとした気分のまま輪郭の定まらない通学路を進む。しばらくすると僕が通う朱城学園の門が見えてきた。

 その瞬間、緊張は更に高まり、足が前に進むことを嫌がる。

 まだ『彼女』の姿も見ていないのに、と自分の気弱さに情けなくなりながら、生まれたばかりの子鹿みたいにがくがくと脚を震わせながら、それでも無理やり動かして校門に近づいた。

 門の傍には、生徒たちの服装チェックをする風紀委員のメンバーが揃っていた。その中には『彼女』もいる。

 ストレートの黒髪を頭の後ろでみつあみにして、スカートの長さもキッチリ膝下まで覆い隠した、いまどき珍しいぐらいの地味でおとなしめの服装をした『彼女』────三坂恵莉さんは、右腕にクリップボードを抱えて、左手に持ったペンを走らせながら同じ風紀委員の上級生が服装違反者に注意しているのを後ろで眺めていた。

「あっ……」

 恵莉さんが僕に気付き、目が合う。

 それだけで気恥ずかしくなり、慌てて視線をそらした。逸らした瞬間、今の態度はまずかったかなと後悔した。

「お、おはようございます……」

 僕の態度を気にしないようにしてくれたのか、それとも最初から気にしていないのか、恵莉さんの方から僕に声をかけてくれる。

「おはよう。えっと…………」

 視線を戻して彼女と再び向き合うけど、挨拶から先の言葉が出てこない。

 恵莉さんもそれは同じらしく、俯き加減になって口をもごもごとさせている。

 男子の平均身長よりやや低い僕は、女子にしては背の高い彼女の顔を自然と覗き込むような形になる。ので、真っ赤になった顔もバッチリ見えた。可愛い。

「あーもしもし。こんな所でイチャつかないでくれませんかねぇ?」

 校門のど真ん中で向かい合ったまま動かない僕たちを見かねたのか、彼女と一緒にいた風紀委員の先輩(ブレザーのリボンが緑だし、間違いない)が割って入ってくる。

 笑顔だけど、なんとなく言葉の端々にイラついているような感じがした。

「い、いちゃつくだなんて、そんなっ」

 先輩に指摘されて、恵莉さんはいっそうしどろもどろになって赤面した。その可愛らしい仕草を堪能したいところだけど、僕も当事者なので冷静ではいられない。

「あー、二人とも顔真っ赤にしちゃってまぁ……けっ、爆発しろ」

 吐き捨てるようになんだか不穏な台詞を言うと、先輩は彼女の腕からクリップボードをひったくるように取り上げた。

「あ、あの、先輩?」

「後はあたしがやっとくから。行っていいよ」

「で、でも」

「あのねー、これ以上ここにいられるとメーワクなの。ほら、行った行った」

 先輩に押されるようにして、僕と彼女は校舎へと向かった。


「…………当番、サボっちゃった」

 校門から少し離れたところで、彼女が申し訳なさそうに呟く。服装と同じく、性格まで真面目だ。

「いいんじゃない、かな。先輩の許しもあるんだし」

 そう言うと、彼女はきょとんと目を丸くして、僕をじっと見つめてきた。

「な、なに?」

「……ううん」

 少しだけはにかみながら首を横に振る。

 なんなんだろう。何か変なことを言ったかなとかそんなことを考えていると、ふいに自分の右手が暖かなものに包まれる。

 恵莉さんの手が、僕の手を握っていた。

「これって、不純異性交遊……かな?」

 真っ赤な顔をしておどけてみせる彼女に、心臓が跳ね上がるほどときめく。それがとても可愛くて、だから、こんな子が自分の『彼女』なんだと思うと、本当にこれは現実なのかと疑いたくなる。

「わたし、なんだかこのまま不良になっちゃいそう」

 だけど、そう言って微笑む恵莉さんの顔も声も。手のひらから伝わる暖かな感触も。

 全部、現実で。

 こんな日がこれからずっと続くんだと、そんな幸せな気分に浸りながら、僕は恋人の手を握り返すのだった。


***


 恋人がいる人は幸せで、だからといって独り身が不幸だとか、そんな偉そうなことを言うつもりはない。

 だけどその日も僕は、間違いなく世界で一番幸せな男だという思いを抱いていた。

「あー、はいはいゴチソーサマ」

 僕のノロケ話に、最初は耳を傾けてくれていたクラスメイトの輪島は、三分も経たないうちに明らかに『面倒だ』という顔をして、話を強制終了させた。

 まだまだ彼女の魅力は語り足りないけど、長々と話してウザがれるのもイヤなので僕も口をつぐんだ。

 放課後の教室に残っている生徒は僕と輪島以外、誰もいない。みんな部活や委員会に出て行ったんだろうか。

 夕暮れの西日が差す教室は、ちょうど彼女に告白したときと同じオレンジ色に染まっていた。

「んで、どこまでいったわけ?」

「え」

「だーから、もうエッチしたのかって話。お前ら、付き合ってどのくらいだよ?」

「えっと……」

 顔が熱くなる。

 輪島の台詞が、僕に恵莉さんの裸を連想させる。……が、それはもちろん想像上のものでしかない。

「まだシテねーの? 三坂なら、強引に迫れば一発だろ。押し倒せ押し倒せ」

「ご、強引にだなんて、そんな……っ」

 手をぶんぶんと振り、よこしまな想像とイヤラシイ輪島の台詞を振り払う。

 どうしてこの男はそんなことを平然と言えるのか、まったく理解できない。不特定多数の女の子と付き合うような男の発想を受け入れたいとも思わないけど。

「けっ、これだから童貞は。一生女に幻想持ってろ」

 『あーあ、くだらねー』とか言うだけ言ってカバンを肩にかけると、輪島はそのまま教室を出て行った。

「……自分から聞きたいって言ったくせに」

 一人になると、途端に教室の中が静寂で満たされる。校舎の外では運動部の掛け声が、中からは吹奏楽部の演奏が聞こえているのに、僕の周りだけまるで音を遮断しているかのように静かだった。

「……帰ろ」

 ここでこうしていても仕方がない。

 時計を見ると、午後四時半を回っていた。ちょうど、風紀委員集会が終わる時間だ。

 普段の僕ならワクワクしながら恵莉さんを迎えに行くところだけど、彼女は今日、病欠している。

 風邪を引いたらしく、もう二日も顔を合わせていない。メールのやり取りはしているけど、やっぱり直接会って話したかった。

 『伝染るといけないから』って、お見舞いも断られている。さびしい。けど、その優しい心遣いがまた僕の胸を締め付ける。

「おーい、永倉くーん」

 聞きなれない女の人の声に呼ばれて振り返ると、このあいだ恵莉さんと一緒にいた風紀委員の先輩が手を振っていた。

「あ。こ、こんにちは」

 あまり面識のない上級生に対してどう接すればいいのかわからず、少しだけ挙動不審になる。

 先輩は大して気にした風でもなく、人好きのする笑顔を浮かべたまま用件だけを手短に伝えてきた。

「今帰り?」

「はい」

「んじゃ、これ。よろしく」

「なんですか? プリント?」

「風紀委員会のお知らせ。めぐりんに渡しといて」

「めぐりん……」

 渡されたプリントよりも、そっちの方が気になる。

 彼女のあだ名かな。……僕もいつか呼んでみよう。

「んじゃ、よろしくねー」

「あ、ちょっと────行っちゃった」

 ハイともイエスとも言ってないのに、強引な人だ。断る理由なんかないけどさ。

 とにかくこれで、堂々と彼女のお見舞いに行く口実ができた。先輩に感謝だ。



 恵莉さんの家は、二階建て集合住宅の一室だ。

 一人っ子で、共働きの両親と共に暮らしている。

 ただ、そういう話は聞いていたけど実際に訪問するのはこれが初めてだ。いつも家の前まで送って、そのまま別れていた。

 だけど、今日は違う。

 インターホンを押して、ドキドキしながら返事を待つ。誰が出てくるだろう。両親だったらどうしよう。だけど恵莉さんだったらそれはそれで緊張する。

 そんなことをぐるぐる考えて、それからしばらく待った。

 …………だけど、返事はおろか、部屋の中から物音一つしない。

 もう一度押す。やっぱり返事はなかった。

 ドアノブに手をかけてまわしてみると、鍵はかかっていなかった。無用心だなと思いながら、その一方で心の片隅がざわつく。

「あ、あの~、恵莉さん?」

 ドアをくぐると、彼女の香りと良く似た他人の家の匂いが鼻先をくすぐった。

 だけど、相変わらず返事も、人の気配もない。心が、いっそうざわつく。

「は、入りますよー」

 落ち着かない予感に急き立てられるように、悪いとは思いつつも彼女の家に侵入する。こんな泥棒みたいなマネをするのは初めてだ。

 でも僕は泥棒じゃなくて彼氏で、彼女の具合が悪いことも知っていて。だからプリントを置いて引き返すことはせず、『めぐり』とプレートのかかったドアの前に立つと迷うことなく扉を開けた。

「ゲホッ、ゲホッ……ハァ、ハァ……なが、くら……くん?」

 彼女の性格を現すようにキチンと整頓された部屋のベッドには、いつものおさげ髪をほどき冷却シートをおでこに貼り付けた、苦しそうな恵莉さんが横になっていた。

「だ、大丈夫!? あ、お、起きなくて良いから!」

 起き上がろうとする彼女を慌てて制止し、横に直す。

 ベッドの傍には、空になったコップと風邪薬。それに飲み干されたゼリー飲料の容器が丸いお盆の上に置いてあった。

「ハァ、ハァ……来ちゃ、だめって、言ったのに」

 風邪のせいか、頬を上気させて潤んだ目で見つめてくる。

 並んで歩くといつも僕が彼女を見上げるような形になるため、こうして彼女の顔を見下ろすのはなんだかとても新鮮だった……って、そうじゃない。

「いいから寝てて。水、持ってくるよ」

 空のコップを取り、キッチンに向かう。

 家に来たことや勝手に入ったことなら、あとでたっぷり叱られよう。

 彼女が元気になるのなら、それでいい。



 すっかり日も沈み、窓の外が街の灯りで照らされ始めた頃、容態もやや落ち着いてきた彼女がふいに口を開いた。

「あの……お願い、が」

「うん? あ、電気つける?」

「ううん、そうじゃなくてね。……手、握って欲しいな」

「う、うん」

 暗がりの中で手を伸ばし、彼女の右手を握り締める。このあいだ触れたときと同じ、小さくて柔らかな手だった。

 恵莉さんが一つ、大きく息を吸い、吐き出す。

「わたしが寝たら、ちゃんと帰ってね。もうすぐ、お母さん帰ってくるし」

「……わかった」

「不法侵入に……不純異性交遊。治ったら、たっぷりお説教、だね」

「あはは、お手柔らかに」

「ん……」

 息を吸う。吐く。

「わたしね、あなたのこと、好きだよ」

「僕も、だよ」

 手を握り締める。

 まるで、今にも遠くへ行ってしまいそうな彼女を繋ぎとめるように、強く、強く。

「……えへへ、そっかぁ」

 息を吸う。吐く。

「ありがとう。それじゃあ……」

 息を吸う。

「また、明日ね。皆希くん」

 静かに息を吐きながら、最後に僕の名前を呼び。

 そのまま彼女は、深く、深く眠りについた。

「……おやすみ、恵莉さん」

 心のざわつきは拭えないまま、彼女の手を離す。


 この時、幸せな日常ががらりと姿を変えいただなんて、僕は気付いてもいなかった────。



***



 目を覚ましてまず一番に考えるのは、もちろん彼女のことだった。

 体調はよくなっただろうか。昨日はかなり苦しそうだったけど、最後の方は穏やかな顔をしてくれていたのがせめてもの救いだ。

 お見舞いに行ったときの会話と、笑顔がフラッシュバックする。

『また、明日ね。皆希君』

 彼女から僕の名前を呼ばれたのは、あれが初めてだ。何回かお願いしたことはあるけど、いつも恵莉さんは恥ずかしがって呼んでくれなかった。

 どうして彼女が名前を呼んでくれたのか。あのとき僕が感じていた落ち着かない気持ちとは、何か関係があるのか。ざわつきの正体は結局わからないまま、こうして朝を迎えた。


 だけどそんな不安は、校門に立つ彼女の姿を見たことで一気に吹き飛ぶ。

 昨日僕にプリントを渡した先輩の後ろで、恵莉さんはいつもと同じように、左腕にクリップボードを抱えて、右手に持ったペンを走らせていた。

(…………あれ?)

 なにか、違和感がある。だけどその違いを見つける前に、僕の足は校門の前にたどり着いた。

「おはよう、恵莉さん」

「うん? あぁ、うん……」

 挨拶をしても、彼女はどこか上の空で返事をしている。

 いつもかっちり編みこまれているおさげも、初めてみつあみに挑戦してみたような、ゆるゆるでヨレヨレの有様だった。

「寝坊したの?」

「あ?」

 訊ねると、まるで本来はつかない文字に濁点が付いているかのような声で僕を見下ろしてくる。

 なんだか、すごく不機嫌っぽい。

「えっと、いや、髪、クシャクシャだったから」

「んなっ……わ、悪かったな! 一時間かけてこんなザマで!」

「はい!?」

 気分を害したのか、恵莉さんはぷいとそっぽを向いて行ってしまった。

 いや、そんなとこより今の言葉遣いの方がずっと衝撃的だ。

(い、いまのって、恵莉さんが言ったんだよ……ね?)

 何がなんだかわからず、その場に立ち尽くす。

 付き合ってまだ半年にも満たないけど、僕はそれ以前から彼女のことは良く知っているつもりだった。

 あんな風にいきなり怒ったり、ましてや男みたいな乱暴な言葉遣いをしていた記憶は一度たりともない。

「何があったんだろう……」

「いや永倉くん。そこなんだよね」

「うわっ」

 いつの間に来たのか、風紀委員の先輩がなんだか難しい顔をして僕の傍に立っていた。

「あたしはてっきり、キミがめぐりんに無理矢理迫って、だから機嫌が悪いんだと思っていたんだけど……」

「そ、そんなこと、するわけないじゃないですか!」

「だよねー。それに、イラついているってだけじゃ説明付かないところもあるし」

「……」

 やっぱり、先輩もそれは感じていたらしい。

 もう一度彼女を見る。風紀委員の仕事をするその姿は、髪の毛が乱れていることをのぞけば普段の様子と何も変わりがない。

「あっ」

 昨日までの彼女とはまったく異なるところを見つけて、思わず声が出た。

 違う。

 どうして恵莉さんが、右手にペンを持っているんだ。

「めぐりんって、両利きだったっけ?」

「違う……と思います」

 先に違和感の正体にたどり着いていたらしい先輩が、確認するように僕に訊ねてくる。

 そう、彼女は左利きなんだ。右手でペンをすらすら動かせるはずがない。

「んー、キミにも原因わかんないかー。ま、ちゃんと仕事はしているしいいんだけどね」

 薄情なことを言って、先輩も自分の仕事に戻っていく。

 髪が乱れていたり、言葉遣いや態度が乱暴なのはまだわかる。そんなもの、少し意識すれば簡単に変えられることだ。

 だけど利き手だけはどうしようもない。少なくとも一晩で変えられるものじゃない。

(恵莉さん……何があったの?)

 どこかへ飛んでいったはずの不安が再び這い寄り、鎌首をもたげる。

 僕は、それをただじっと怯えながら見守るしかなかった。



 昼休みになると、それまで先生しか喋っていなかったクラスが一気に賑わい、喧騒に包まれる。

 上の空で聞いていた授業の教科書をしまうと、僕の目は自然と彼女の姿を探した。

 恵莉さんの席は窓際で、かなり後ろの方だ。先生の目も届きにくく、絶好の昼寝ポイントになっている。まぁ、恵莉さんに限ってそんな真似するはずないんだけど。

 事実、彼女は今日半日、まったくいつも通りだった。

 大人しく授業を受け、板書をして、先生からの質問にも淀みなく答えていた。……ずっと右利きのままでだ。

 今朝の乱暴な言動は夢だったんじゃないかと思い込みたくても、利き腕が変わっているというだけで凄まじい違和感に襲われる。まるで、偽者を見ているような気分だった。

「どうした? 愛しの彼女ンとこに行かないのか」

 輪島が軽い調子で声をかけてくる。からかっているつもりなんだろうけど、今の僕にリアクションをする余裕はなかった。

「あ」

 まごまごしていると、恵莉さんが席を立ち教室から出て行く。最近ではよく一緒にお昼を食べるのだけど、やはり今日の恵莉さんはいつもと違っていた。

「なんだ? ケンカでもしたのか」

「違うよ。じゃあね」

 きょとんとする輪島をあしらって、彼女の後を追う。

 恵莉さんに何があったのか。いろいろ考えたけど、やっぱり本人に直接聞くのが一番だ。

「あれ?」

 てっきり学食に行くのかと思っていたのに、彼女が向かったのはまったくの逆方向だった。

 学食や中庭からはどんどん遠ざかり、進めば進むほど人気も少なくなっている。

 いったい、何の用があるんだろう。声をかければいいのだけど、まるで呼び止められるのを拒むような速さで歩く後姿にどうしてもためらいが出てしまう。せめて見失わないようについていくのが精一杯だ。

「……」

 やがて彼女は一階の、校舎の裏口にあたる小さな二枚扉を開けて、上履きのまま外に出て行った。

「え、だって、鍵……」

 ドアが閉まるのを待ってから近づくと、取っ手には簡単なダイヤル式の錠前が開錠されたままの状態で引っかかっていた。

 彼女が外したのだろうか。でも、どうして番号を知っている?

 ドクドクと心臓をイヤな感じに脈打たせながら、そっとドアを開ける。

 隙間から見える景色は、高い石垣に囲まれた、落ち葉が散らかり放題の裏庭だった。

 そしてその中央で、彼女はブレザーの胸ポケットに手を突っ込み短い棒状のもの────タバコを、取り出した。

「ちょ! 何してるの恵莉さん!?」

 二枚扉のドアを大きく開き、悪行に走ろうとする恋人を慌てて止める。

 不良になりそうだ、とは言ってたけど、本当に不良のようなことをするなんてそんなバカな話があってたまるもんか!

「なっ、なんだよ、お前!」

 尾行には気付いていなかったのか、恵莉さんは突然現れた僕の剣幕に驚いていた。

「お前じゃないよ! とにかくそれ渡して! っていうか捨てて!」

「落ち着けって! 何と勘違いしてんだ、お菓子だよお菓子!」

「だから……っ、え、お菓子?」

 しがみつくように握った彼女の腕から力を抜き、手の中にあるタバコに見えた棒状のものをよくよく眺める。

 タバコというよりはチョークに近い、有名なラムネのお菓子だった。

「……ったく、このメガネが」

 お菓子だとわかり気の抜けた僕の手を乱暴に振り払い、けなしているんだか何だか良くわからない言葉を吐いて口にくわえる。

「あの、恵莉さん。お菓子だとしても、学園に持ち込んじゃ……」

「うっせーな。いーだろコレぐらい。優等生やりまくって疲れているんだよこっちは」

 お菓子を口にくわえながら、尖った目つきで見下ろしてくる。

 ひょっとするとコレが彼女の本性なのかと一瞬疑いかけたけど、そんな考えはすぐに追い払った。

 真面目で、優しくて、とても照れ屋ですぐに赤い顔をする三坂恵莉という女の子が演技だったなんて、信じられるはずがない。

「あの、恵莉さん。訊いていいかな」

「あー、ちょうどいいや。こっちもお前に言っとくことがあるんだ」

 そう言いながら、恵莉さんは手を後ろに回して朝からずっとヨレヨレだったお下げを乱暴にほどいていった。

 スラリとした、細く艶やかな黒髪が彼女の背中でふわりと舞い広がる。

「ミナキ」

 そう、僕の名前を呼び捨てにした彼女は、秋晴れのような笑顔で。

「別れようぜ、"俺"ら」

 僕の日常を決定的に叩き壊す一言を、さらりと突きつけてきたのだった。



 生まれ変わりという、その単語や意味は知っていても僕はそれを信じていなかった。

 これまでの人生でそんなものを気にする必要はなかったし、これから先も特に意識せず雑学の一つとして知っているだけの言葉────そのはずだった。

「俺は、恵莉になる前は男だったんだよ。前世の記憶ってやつだ」

 なのに今日、付き合っておよそ半年になる恋人から突然そんな話を持ち出され、僕は混乱していた。

 なんだそれは。まるで意味がわからない。

「男だったときの名前も、死んだときの記憶も、ちゃんと思い出せる。そんな俺が、男と付き合ったりなんかできるかって。わかるだろ?」

 古風なお下げ髪をやめてストレートロングになった三坂恵莉さんは一方的に、言葉通り男みたいな口調で僕をそう説得していた。

 もちろん納得なんてできるはずがない。まだ、僕に嫌気が差して別れたくなったという方がわかりやすい。

「悪いとは思ってんだぜ? 一応、恵莉として生きてきた記憶だってあるんだ。お前が恵莉を好きで、恵莉もお前が好きだった記憶は確かにある。だけど、"俺"は無理だ。俺は男とは付き合えねぇ」

 けど彼女は、自分は前世では男で、男と付き合ったりはできないと、そればかりを繰り返していた。

 タチの悪い冗談だと思う。

 だけど、心のどこかでそれを信じる自分もいた。

 髪型。利き腕。喋り方。

 どれをとっても、僕の知る恵莉さんとはかけ離れている。同じなのは容姿のみで、それでも言動や表情の動かし方が違うせいか良く似た他人を見ている気分だった。

「ま、なんつーか……お前の知っている恵莉は、昨日、死んだ。そういうことにしてくれないか」

 ぱき、と口にくわえていたお菓子を噛み砕き、最後まで食べきる。

 とても長い時間、こうしていたような気がする。だけど実際は、小さなラムネ菓子一本分を食べ終わるだけの時間しか経っていないことに愕然とした。……いやいやいや、そうじゃない。

 驚いたのは、『恵莉さんが昨日、死んだ』という彼女の台詞に、だ。

「昨日?」

「ああ。熱、出したろ? で、お前に看病してもらって……目が覚めたら、"俺"だった頃を思い出した」

「それじゃあ」

 ふいに、希望の光が見える。

 まだ彼女は、変わったばかりだ。なら、元に戻せるかもしれない。

 優しくて真面目な、僕が好きな三坂恵莉さんに。

「僕、絶対に諦めないよ。必ず君を元に戻す!」

「おいおい…………まるで悪霊扱いだな、俺」

 恵莉さん(偽)は煩わしそうに頭を掻き、徐々に苦笑いらしきものを浮かべる。

「ま、とりあえず恋人関係は終わりってことでいいな?」

「……いいよ」

 いまの彼女と恋人関係を続けていくのは、僕も無理だと思う。いったんリセットして、全てが元に戻ったそのとき、もう一度キミに告白をしよう。

「名前は?」

「あ?」

「君は恵莉さんじゃないんだろ。男だったときの名前、教えてよ」

「…………エリタだ」

「そう。よろしく、エリタ」

「ダチとして、な」

 恵莉さん……エリタが拳を突き出し、僕の胸を小突く。

 彼女の顔は元の彼女とは違う、元気で、どこかいたずらめいた笑顔が浮かんでいた。


 こうして僕の幸せな日々は、恋人の前世に振り回される奇妙な日々へと変わっていくのだった。



***


 体育館のバスケットコートの隅に立ちながら、どうすれば彼女を元に戻せるのか考える。

 僕はオカルト話が苦手だし、そういうのが詳しそうな知り合いだっていない。いっそのこと神社でお払いをして貰おうかとも思ったけど、恵莉さんは別に『エリタ』に取り憑かれたわけじゃないし行っても意味はなさそうだった。

「うーん……あ、そうだ」

 体育館シューズの足音やボールの弾む音、クラスメイトたちの応援の声を右から左へと聞き流して、とりあえず図書館に行ってみることを思いつく。

 オカルトとか、生まれ変わりとか、あるいは多重人格の本とか。そういった、いまの恵莉さんに関係しそうな本をとにかく読み漁ってみれば何か解決の糸口がつかめるかもしれない。

 学園にも図書室はあるけど、蔵書の数は図書館の方がずっと上だ。当たり前だけど。

「永倉ーッ、行ったぞー!」

「え?」

 自分の名前が呼ばれハッとなった直後、目の前にバスケットボールが飛んできた。

 とっさに避ける間もなく薄茶色の塊が顔に直撃する。

 てん、てん、と足元でボールの弾む音が聞こえるけど、そんなものに構う余裕はない。この場でうずくまってしまいそうなほど、鼻先に激痛が走っていた。

「いっ……たぁ~……」

 泣くほど痛い。って言うか泣く。

 チームメイトから罵声が飛んでくるけど知るもんか。何もせずここに立ってろって言ったのはそっちじゃないか。

「なにやってんだ、お前」

 敵チームに回っていた輪島が僕の足元からボールを掠め取り、ドリブルを始める。

 一人、二人、三人。

 痛みも忘れかける、目をみはるような素早いドリブルテクニックで次々に僕のチームメイトを抜いていく。

 あっという間にコートの半分を通り過ぎて、そのままゴールポストへと直行するかと思っていた輪島の足が急に止まった。

「シュッ」

 ボールを高く掲げたかと思うと、流れるような動作でロングシュートを放つ。

 輪島の手から離れたボールは、綺麗な放物線を描き────そのまま、吸い込まれるようにゴールポストの中を潜り抜けた。

「うっしゃあ!」

 ガッツポーズを取り、それと同時に試合終了のホイッスルが鳴る。

 点差は圧倒的で、そのほとんどが輪島のファインプレーによる功績だった。

 バスケ部でもないのに、この運動性能は凄いと思う。まぁだからこそ、女の子に人気なんだろうけど。

「いてて……」

 鼻先の痛みがぶり返し、顔を手で押さえながらよろよろと壁際に向かう。僕や他のメンバーがコートから出て行くのと入れ替わりに、次のグループが試合を始めた。

「よ、平気か」

 肩を叩いて、輪島が隣に来る。爽やかとしか形容のしようがない、男の僕にも好感が持てる笑顔を浮かべていた。

「まぁ、ね」

 手のひらを見ると、少しだけ血がついていた。口でも切ったか、それとも鼻血か。どっちにしろ大したことはない。

「大活躍だったね」

 念のため外していた眼鏡をかけ直しながら、一人舞台も同然な活躍を見せていたクラスメイトを素直に褒める。

 輪島は一瞬だけきょとんとしたが、何も言わずすぐにまた同じ笑顔を浮かべた。

「んなことよりさ。お前と三坂、何かあった?」

「え」

「あいつ、今日、なんかおかしくね? っていうかお前も」

(……鋭いなぁ)

 さて、どうしよう。彼女のこと、輪島に相談してみようかな。

 生まれ変わりだとかそういう話をしてもバカにはしなさそうだし、少なくとも僕よりずっと交流は広い。力を貸してくれるなら、これほど頼もしい男もいない。

 だけど……。

「なんか、僕たちのことよく見てるね」

 この前だって、僕と彼女が付き合ったきっかけとか聞いてきたし。結局最後はノロケになって呆れられたんだけど。

「そうか? まぁお前ら、おもしれーからな」

「面白い?」

「よし、じゃあお前に三坂の最新情報をやろう」

 僕の疑問には答えず、輪島が内緒話をするように声の大きさを一段落とすと耳打ちをするように近づいてくる。

「あいつ、いま保健室にいるぜ」

「え、どうして? っていうかなんで知って……」

「なんかな、体育の着替え中に倒れたんだとよ。女子から聞いた」

「…………ッ!」

 その言葉を理解した瞬間、ざわっと心が騒ぐ。

「ぼ、僕、ちょっと保健室行ってくる」

「おー、いけいけ」

 輪島は笑顔のまま送り出してくる。たぶん、お見舞いをして好感度を稼いでこいって程度の意味で彼女のことを伝えたんだろう。ちょうどケガもしているし、言い訳は作りやすい。

 でもそのとき僕は、まったく別のことを考えていた。

 "今"の恵莉さんは男で、保健室に運ばれた本当の理由が同級生に興奮していたんだとすれば、きっと自分自身のカラダにだって────。

「うわあああああーーーーッ」

 僕もまだまともに触ったことのない彼女の柔肌が弄ばれるのを考え、その想像を振り払うように叫びながら走った。



「エリタぁ!」

 飛び込むように保健室のドアをノックもなしに開けると、部屋の中央で保健の先生と向かい合うように椅子に座っていた恵莉さんが振り向いた。

「な、なんだ、どうした」

「ドアはもっと静かに開けなさい」

 驚いた顔をする彼女と、美人だけど目つきの鋭いことで有名な先生に睨まれ、沸騰していた頭が急激に冷めていく。

 恵莉さんは教室で別れたときと同じブレザー姿のままで、服が乱れている様子はなかった。

「それでどうしたの。急患?」

「あ、いえ…………ボールに、当たっちゃって」

「はぁ?」

 先生はますます眉間にしわを寄せて、僕を睨みつけてきた。

 蛇を前にしたカエルみたいな状態が数秒間続き、やがて先生は白衣の中から出したポケットティッシュを投げつけるように渡してきた。

「これでも詰めておきなさい。ほら、帰った帰った」

「あ、じゃあ、"わたし"も」

 ……え?

「本当に大丈夫? 無理したらダメよ?」

「いいえ、本当に平気ですから。じゃあ、失礼します」

 ニコニコとしたまま、少しだけ早口に言って恵莉さんが椅子から立ち上がる。

 入り口で棒立ちになっていた僕は、慌てて廊下に出た。……乗り込んできたときの勢いは、すっかり萎えてしまっていた。


「怒られてやんの。ばーか」

 保健室のドアを閉めた途端、恵莉さんが笑いながら僕をからかってきた。

「うるさいな。それより、さっきと話し方違ってない?」

「あ?」

 笑っていたかと思ったら、さっきの先生ほどじゃないけど鋭い眼光を向けてくる。彼女の方が背が高いから、そういう顔で見下ろされると余計に怖い。

 付き合っていたときは身長の差なんて気にしてい……なくはなかったけど、『エリタ』になってからはそれが印象の悪い方向にばかり働いている気がする。

「あー、『わたし』か? そりゃお前、言えるよ。俺は恵莉だぜ?」

「……じゃあ、僕の前でもそう言っててよ」

 恵莉さんの綺麗な声で"俺"とか使われると、違和感がひどい。自分の理想像を無理に押し付けるつもりはないけど、やっぱり彼女には似合わないと思う。

「つまんねーヤツだなお前……ほら、ありのままの自分を見せているんだって考えれば、グッとこねぇ?」

「こない」

 それにしてもこの『エリタ』はいくつなんだろう。前世ってことは少なくとも『エリタ』という人間はずっと前に死んでいるはずで、だけど目の前にいる彼女の仕草や言葉遣いは普通に若々しい。……もしかして、僕と同じぐらいの歳なんだろうか。

「あっ、そういえばどうして保健室に?」

 僕がここに来た理由を思い出し、また怒りが再燃する。

 近い歳ってことはつまりその、思春期的なあれなわけで、さっきの自分の想像もあながち的外れじゃなかったかもしれないわけで。

「あー、その…………仕方ねぇだろ! あそこはパラダイスだぞ!?」

 ビンゴ。っていうか、足元に穴が開いたみたいに絶望する。

 何が『俺は恵莉だぜ』だ。しっかり男じゃないか。

「ま、まさかお前、恵莉さんのカラダに……い、いやらしいこと……っ」

「あぁ?」

 何を言っているんだという目で見られる。けどすぐに彼女は相好を崩し、バシバシと乱暴に僕の肩を叩いてきた。

「ばぁっか、ナニ想像してんだよお前は。エロイなおい!」

「痛っ、痛っ」

「安心しろよ。自分のカラダに興奮するほど俺はナルシストじゃねぇって」

 本当だろうか。

 そもそも彼女はいったい、今どんな状態なんだろう。口調や仕草はほとんど別人だけど、三坂恵莉としての思い出とか知識はそんなに変わったわけでもなさそうだ。

 いや、でも同級生に興奮しているしなぁ……。

「何、難しい顔してんだよ。……わたしのこと、信用できない?」

「!?」

「ぷっ、はははっ。ちょろい」

「そ、そういうのやめてよ!」

 わかっていても、彼女が元に戻ったんじゃないかと期待してしまう。心臓に悪い。

 さっさと『エリタ』を追い払えばいいのだし、もうあれこれ考えるのは止めにしよう。

「心残りとか、そういうのはないの? 誰かを恨んでいたとか」

「いやだから幽霊じゃねぇって…………あー、でも」

「うん?」

「気になることなら、あるな。うん」

 自分自身の言葉で説得されたように頷いた彼女の苦笑いは、『エリタ』になってから初めて見せる、わずかな陰りを帯びていた。

「何?」

「…………人探し、手伝ってもらえるか?」

「いい、けど」

 誰を?

「歌谷美優。生きてりゃ今は、30ぐらいかな」

 昔を懐かしむように、どこか遠い目をして紡がれたのは僕の知らない名前で。

 だけどその表情や口調が、歌谷さんと『エリタ』の関係を十分すぎるほどに物語っていた。

「俺の、カノジョだった女だ」

 照れながら笑った恵莉さんの顔は、どこか寂しそうでもあった。



***


 彼女の前世で恋人だった女性を探す。

 まるで雲を掴むような話だけど、詳しく聞くとそれほど不可能でもなさそうだった。

 どうやらエリタが住んでいた街は今とそう変わらず、さらに僕らと同じ朱城学園の生徒でもあったらしい。

「つまり俺はお前の先輩だ。もっと敬え」

「今は僕と同い年でしょ」

 肝心の探し人である歌谷さんも同じく昔の先輩だったようで、それなら彼女が三年生だった時の担任から話を聞けば、何かわかるかもしれない。

「どーだろーなぁ、十年以上前のことだぞ? ってか、美優の担任なんて知らねぇし」

「そっか……あ、でも卒業アルバムに載っているんじゃないかな」

「それだ!」

 そんなやり取りがあって、僕たちは放課後に二人で図書室を目指すことになった。


 朱城学園の図書室は、教室三つ分があるかないか程度の大きさで、入り口からなら全ての本棚が見渡せるぐらいの広さだ。

 利用する生徒たちの数はまばらで、窓の外から聞こえる運動部の賑わいもどこか遠くのように思える。耳を澄ませば、本をめくる紙擦れの音まで聞こえてきそうだった。

「こんにちはー」

 その静寂を打ち壊すかのように、入り口のすぐ隣にある受け付けカウンターから女の子の明るい声がかかる。

 振り向くと、図書委員と思われる女の子が笑顔を見せてひらひらと手を振っていた。

「……誰だ?」

 なんとなくそれに応えていると、エリタが妙に低い声で問いただしてきた。

「さあ?」

 可愛い子だけど、見覚えはない。

 制服のリボンは一年生を示す赤色だし、この子が単に社交的なだけだと思う。

「ふぅん……へぇー」

「何さ」

「別にー」

 なんだか急に不機嫌になった。

 けどそれも一瞬のことでエリタはいま声をかけてきた女の子に近づくと、卒業アルバムはどこかと訊ねていた。

「昔の卒業アルバムですか? 奥の棚の一番右下です。あ、貸し出しはできませんのでー」

「そっか。さんきゅ」

 短いやり取りを交わし、僕の傍に戻ってくる。

「行こうぜ」

「うわっ」

 ぐいっ、と乱暴に腕を引かれる。いきなりのことで足が少しもつれ、僕はヨタヨタとしながら彼女の後に続いた。


 図書委員の子が言っていた棚の隅には、『朱城学園卒業アルバム』という背表紙が年代別にキチンと陳列されていた。

 目立ったホコリこそ被っていないものの、日焼けして色褪せた表紙には時代を感じると共に、おそらく滅多に人の手に触れられていないだろうことが窺わせられる。

「あいつが卒業した年は……コレか?」

 エリタは身体を屈めて、一番下に並んだ『99』という年代が振られた背表紙に手を伸ばす。

「ん、固いな」

 詰め込まれているのか冊子は簡単に抜けず、てこずっていた。僕はそれを後ろから眺めていて、だけどすぐに顔をそらす。

 恵莉さんの制服はキッチリしている。だから、屈んだぐらいでスカートの中が見えるはずはないけど、彼女のオシリが目の前に突き出され揺れていることに気付いたらもう直視できない。顔はたぶん、真っ赤だ。

「よし、取れた。……何してんの、お前」

「べ、別に」

 エリタはあまり気にした様子もなく、卒業アルバムを持って手近な机の方に移動した。

 ……今の自分が女の子だって自覚、本当にあるのかな。ちょっと無防備すぎない?

「ほら、お前も探せ」

 アルバムを叩いて、手伝いを要求してくる。中身はともかく外見は僕の好きな女の子のままだから、真横に座るのは恥ずかしくて逃げるように向かい合わせの席に座った。

「それで、歌谷さんって何組?」

「さぁな」

「はい?」

「俺って、三年になる前に死んだからな。アイツがこの年に卒業していない場合もある」

 エリタの口調はあくまでも軽いままだったけど、どこか寂しそうに感じた。

 ……そうか。エリタは、僕とほとんど変わらない歳で亡くなっているんだよね。

 卒業をする前に死ぬなんて、そんなこと考えたこともなかった。

「あ、懐かしいな。……こいつら、ちゃんと卒業できたのか」

 エリタは悲壮感など微塵も感じさせず、アルバムを見て顔を綻ばせている。

 机の上に広げられたそのページには、『部活動』という見出しと写真が載っていた。

 野球部、サッカー部、バレー部にバスケ部。

 たくさんの運動部の先輩たちがそれぞれカメラに向かって笑みを浮かべ、生き生きとした表情を浮かべている。

「…………こいつら、今どうしてんのかな」

 恵莉さんの細い指が、一枚の写真を小突く。『バスケットボール部』というタイトルが付けられたその写真には、ボールを持って笑うユニフォーム姿の男たちが写っていた。

「バスケ部だったの?」

「まぁ、な。っと、それより美優だ美優」

 ごまかすように笑い、ページをめくっていく。

 だけど、その手はすぐに止まった。

「…………いた」

 身を乗り出して、彼女の手元を覗き込む。

 そのページはクラス別のものじゃなくて、『委員会』という見出しが付けられた、さっきのページとほとんど同じ構図のものだった。

 エリタはその中の一つを指差して、僕に見るよう促してくる。

「真ん中にいるのが、歌谷美優」

「え……」

 そこには、ショートカットの女性がカメラを睨みつけるようにして写っていた。でも僕が驚いたのは、その写真のタイトルだ。

「『風紀委員会』……」

「偶然って、すげぇよな。学園の後輩として生まれ変わったどころか……この俺が、カノジョと同じ風紀委員をやってるなんてさ」

「……本当に偶然、なのかな?」

「決まっているだろ。じゃなきゃ、運命か?」

「偶然でいい」

 運命と聞くと、途端にロマンチックな印象になる。

 自分の恋人の前世が男だった時点で、ロマンも何もない。

「にしても、ずいぶん目つき悪くなったなぁ、お前。……はは、懐かしいわぁ」

 さっきのバスケ部を眺めていたときよりもずっと優しい顔をして、エリタが写真の歌谷さんを撫でる。

 恋人だった女性の見ることの叶わなかった姿を見て、いったい何を思っているんだろう。

「あの……」

 どうしてエリタは死んだのか。

 ふとそんなことが気になり、僕は口を開いた。

「!?」

 僕が言葉を続ける前に、恵莉さんの身体がビクッと震え、前屈みだった姿勢がピンと正される。

「うわ、ちょ、な、くすぐ……あ、やめっ」

 いきなりくねくねと身もだえ、どきっとするような艶かしい声まで出してくる。

 僕は慌てて席から立ち上がったけど、傍に行く前に彼女はブレザーの胸ポケットから携帯電話を取り出した。

「え、えっと、どうすりゃいいんだこれ」

 振動する電話を見据えて、恵莉さんの顔がぐるぐる百面相をしている。

「ちょ、落ち着いてタップしなよ」

「タップ!? タップってなんだ! 新しいラップか!?」

「恵莉さんの記憶あるんでしょ!? ちょっと、貸して!」

 どうやらスマホの操作を知らないようだ。

 軽くパニクっている彼女の手から携帯をひったくると、マナーモードで震える電話を急いで止めた。

「はぁ……メールが来たみたいだね」

「お、おう。さんきゅ」

 恐る恐る僕の手から携帯を受け取り、まるで初めて触ったかのようにぎこちなく操作する。

「……恵莉さんの記憶、あるって言ってたよね」

「知識があるのと、実際にやるのとじゃ大違いなんだよ……あ」

 ようやくメールが開けたのか、画面を見て短い声を上げる。

「何?」

「風紀委員集会……だってよ。早く来いって」

「そっか」

 ちゃんと恵莉さんらしく振舞っているのか心配になるけど、少なくとも今朝は普通に仕事をしていた。

 恵莉さんの知識を上手く使っているのか、それとも風紀委員だった恋人の真似をしているだけなのか。

「しょーがねぇ、行ってくるか。あ、先に帰ってていーぞ」

 さっぱりした口調で、エリタは僕にアルバムを押し付けるとそのまま図書室を出て行った。

 彼女の後姿を見送っていると、入り口にいた後輩の子と目が合う。

「う」

 笑顔のまま、女の子は口元でバッテンを作った。さっき騒いだせいだろう。

 笑っているけど、それが逆に怖かった。

「ご、ごめんなさい……」

 小声で謝り、いたたまれなくなった僕はアルバムを元の場所に戻すと急いで図書室から出て行った。



「はぁー」

 夕暮れの校門を抜けて、秋空に息を吹きかける。

 以前なら委員会が終わるまで適当に時間をつぶしていたけど……今はとても、彼女を待つ気になれなかった。

 変わってしまった恵莉さん。

 前世の記憶。

 恋人関係の終了。

 エリタと、歌谷さん。

 問題は沢山あるようで、結局、僕が目指すものはひとつだけだ。

 彼女ともう一度恋人同士になる。

 そのために、いま出来る限りのことをしよう。

「…………よしっ」

 拳を握り締め、足早に歩き出す。


 ────図書館の閉館日を知ったのは、入り口の前までやって来た後だった。


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