83話 大丈夫
奇怪な夢から覚めて飛び起きると、部屋の中は薄暗かった。
カーテンから透けている暁を見て、夜明けが近いのだとシシノは気がついた。
「シエラは……?」
頭がぼんやりとしていて何かを忘れているような気がしたが、気を失う直前のことは覚えている。
シエラが自分を殺そうとしていたことは夢ではなかったのだと理解しているからこそ、彼女の存在を確かめようとする。
正気には見えなかった彼女が、水滴のような理性を振り絞って助けを求めたのだ。シシノはそれに生きて応えなければならない。
部屋の中を見回すとシエラは扉の前で膝を抱えていた。
暗くて表情はよく読み取れないが、彼女はシシノをじっと見て、声をかけるのを躊躇っているようだった。
「シエラ……おれは大丈夫だぞ」
シシノはベッドから降りて、ゆっくりとシエラへ歩み寄る。
だが、彼が一歩近づくたびに、彼女は何かに怯えるように、座った体制のまま壁伝いに身体を動かして、距離を取ろうとする。
「わたしに近づいちゃだめだよ。……わたし、シシノに酷いことを……とんでもないことをしてしまったもの。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
シエラはシシノを傷つけた自分自身に恐怖していた。首を絞めて殺すという行動を、自らの手で、最愛の友であるシシノに向けてしまったことに、畏怖と後悔、そして自責の念を抱いている。
部屋の隅まで逃げて行き場を失い、頭を抱え謝り続ける彼女は、シシノの目にはひどく可哀想に見えた。
「……なあシエラ、おれは怒ってないし、ほら、ピンピンしてるだろ?」
しゃがみ込んで、シエラと同じ高さの目線になると、彼女は微かに顔を上げてシシノの顔を覗き込む。
「……よかった。本当に、生きててよかった。目を覚まさなかったらどうしようって、こ……殺しちゃってたらどうしようって、ずっと怖くて……」
「でもおれは生きてる……ほら、確かめてみろよ」
シシノはシエラの腕を優しく掴み自分の左胸まで持っていく。
彼女の掌に、シシノの心臓がゆっくりと脈を打つ感覚が伝わった。
「ぁ……だめだよ。わたしにはもう、シシノに触れる資格なんてない」
シエラは呟いて手を離そうとする。だが、シシノはその腕を握り続けて、決して離そうとしなかった。
「やめて……離して」
「離さない。おれが大丈夫だって、シエラが分かってくれるまで」
真っ直ぐな眼差しでシエラを見つめる。見つめ続ける。
初めのうちは腕を振りほどこうと抵抗していたシエラだったが、やがて動きを止めると、その掌はシシノのティーシャツを力なく掴んだ。
「……シシノの身体、暖かい。ちゃんと生きてる」
「ああ、だからおれは大丈夫だよ」
ようやく顔を上げたシエラの顔には泣き腫らしたようなあとが残っていて、今も目に涙を浮かべている。
シシノはそんな彼女の柔らかい白銀の髪に優しく手を置いた。
「泣かなくていい、お前は悪くねえ。おれはちゃんと分かってるから」
「でも、シシノを殺そうとしたのは本当のことだよ……わけがわからなくなって、そういう気持ちが溢れて止まらなくなって……」
「ああ、だから分かってる。……それはきっと、『呪い』のせいだ」
ステージの上でキリが呟いた言葉に偽りはなかったのだ。
シエラの身体を呪いは何らかの制約によって動かした――そう考えれば、彼女の理性を失ったような行動にも説明がつく。
だがその制約の正体は分からず、シエラの言うように「いつ、また」発現するのかも掴めない。
あの殺人衝動が、もし日常の中で、公衆の面前で発現してしまったら――。
「シエラ、今日は……いや、しばらく学校は休んだほうがいい。ラッカフルリルがいつ襲って来るかも分からないし、それにまた呪いが発動したらまずい」
「呪い……。本当に呪いなのかな」
シエラはまた、力なく目を伏せる。
「もしかしたらこれが本当のわたしの衝動で、抑えてきたものが表に現れたものだとしたら……わたしは今すぐに、ラッカフルリルに帰った方がいいんじゃ――」
「それはダメだ……! お前をあんなところに帰すわけにはいかねえ……!」
弱気な言葉を吐くシエラの肩を揺さぶるシシノの脳裏には、シスルゥに見せられた彼女の過去が渦巻いていた。
ラッカフルリルにいた幼いシエラは、まるで籠の中の鳥だった。何も知らないうちに歪んだ教育を、歪んだ愛情を注がれ、彼女は無邪気な殺人者と化していた。
だが、今こうしてこの星で暮らすシエラにその面影はなかった。少なくとも先程の殺人行為をするまでは、彼女は普通に学校に通い、普通に友達と笑いあい、普通にシシノ達とご飯を食べる、普通の少女だったのだ。
だから、呪いが原因でシエラが殺人衝動に突き動かされたのだとしたら、シシノはラッカフルリルを許すことはできない。
幼いシエラを閉じ込めただけでは飽き足らず、ようやく自由を手にした彼女を、さらに呪いで縛ろうというのか――そんな怒りがシシノの中で渦巻いていた。
「シシノ……?」
シエラの不安げな声に、シシノは自分の顔が行き場のない怒りで引きつっていたことに気がつき、慌てて首を振る。
「いや、悪い、大丈夫だ。……とにかくシエラは学校を休もう。おれが学校に行ってる間は、デオドラさんに頼るといい。ネネさんも昼には帰って来ると思うし――」
シシノがそう言いかけると、シエラは突然彼の身体に抱きついた。
その反動で彼の身体は後ろ向きに倒れ、彼女はまた先程のような馬乗りの体勢になってしまう。
だが先程と違うのは、彼女の両手が彼の首ではなく、胸の辺りをすがるように掴んでいたことだった。
「お願いシシノ、わたしと一緒にいて……っ」
「シエラ……」
幼い子供が駄々をこねるように、シエラはシシノの胸にすがりつく。
「あんなことがあってシシノはわたしを嫌いになったかもしれないけど、お願い……。怖いの、また何かしちゃうかもしれないって、シシノが離れて行っちゃうんじゃないかって――」
「大丈夫だよ。おれはここにいる。嫌いになんてなるもんか」
言って、シシノは胸に顔を埋めるシエラの背を抱き寄せた。
「本当……? 嫌いになってない?」
「ああ、本当だ。嫌いだったらこんなことしねえだろ?」
「一緒にいてくれる?」
「当たり前だろ……そうだな、今日はゆっくり話をしよう、いろいろ話したいことがあるんだ」
「うん……わたしも……シシノと……」
何かを言いかけたシエラの身体から力が抜けていく。
シシノの無事と、気持ちを確かめて安心したのだろう。彼の身体の上で無防備に眠りについたのだ。
「……ったく、しょうがねえな」
シシノは呟いて天井を見上げる。
気持ちの良さそうな寝息と、胸に伝わる彼女の熱に、彼は思う。
――もう少し、このままでもいいか。
少しだけ、彼女を抱く手に力を込めて目を閉じる。
カーテンの外にはゆっくりと太陽が昇り、夜が明けようとしていた。




