59話 願いは、たった一つ。
お目に止めていただき、ありがとうございます。
ナイフが体を少しかすめる程度でもよかった。
『闇討ち』がわざとシシノに奪わせたナイフには特殊な仕掛けがしてあったからだ。
二種類以上の血液が混じり合うことで、そのナイフに仕掛けられた特殊な毒が反応する。
つまりは、シシノの血液を帯びたナイフが『闇討ち』の身体を傷つければ、毒は発現するのだ。
『闇討ち』はこの毒の仕掛けをこしらえるために、自分の持つ全ての財産を投資した。
それほどに高価で特殊かつ強力な神経毒だ。少しでも体内に入ってしまえば、血管の血が一巡するうちに死に至る。
『闇討ち』の計画は、この毒によって終わるはずだった。
はずだったのだが――。
「……やっぱり、おかしいと思ったんだ」
『闇討ち』が自らの死を悟った瞬間から数秒後、か細い声でシシノは呟く。
その目の前で、『闇討ち』は未だ目を見開きシシノを見つめている。
真っ直ぐに向けられたナイフの軌道は、『闇討ち』を一切傷つけることなく、首筋に触ることもなく、シシノの意思によって止められたのだ。
「な、なぜ……? なんでッス? どうして手を止める……?」
――あと少し、ほんの数センチだけなのに、それだけで終わりにできるのに――。
計画は稚拙だったが、うまくいきそうだったはずだ。
演じた。より悪人らしい悪人を、シシノの前で演じていたのに。
真名も隠して、シシノ自身に『闇討ち』の正体へたどり着かせることで、強い敵意を引き出したのに。
――ダメだ、ダメだダメだ。アタシはここで死なないと――。
『闇討ち』はどうにか傷つけられようと、首をナイフに近づけようとする。
しかし、呪いの制約によってそれさえもできず、ただ身体を震わせるのみ。
あまりに奇怪で、哀れにも見えるその様に、シシノはナイフを持つ手を下げ、戦闘の意思さえも放棄した。
「なあお前……おれを殺すつもりがないだろ」
「はあ……? 何を、バカなことを……」
「考えてたんだ……そして気がついた。最初から、お前の行動はおかしかった。隙は多いし、挑発しておいて簡単にやられるし、おれが逃げても追いかけてこないで待ってるし、今の攻防だって、おれに大ダメージを与えるような攻撃は渋ってただろ……そして今、おれがナイフを取り出したとき、お前は明らかにその攻撃を受けようとした……違うか?」
「……なァに言ってんスか? 今のは油断しただけッスよ。危なかった……今アタシを仕留められなかったことを、後悔することになるッスよ……!」
『闇討ち』はシシノに狂気的な笑みを向け、演技を続ける。
辞めるわけにはいかない。
この計画が失敗することは許されない。
だがそんな挑発をしても、シシノに敵意が宿ることはもうなかった。
ただ目の前にいる『闇討ち』に、不審な目を向けるだけだ。
「認めないなら、おれが気がついたこと全部言ってやるよ。……この草原を見えない壁で覆ったの、おれをここで確実に殺すためだと思ったけど、本当は逆なんだろ? おれにお前をここで殺させるために、おれを逃げられなくしたんだろ?」
「……違うッス。アタシがお兄さんをここで殺すためッス」
『闇討ち』は否定する。
目を伏せず、冷酷に、演技を続ける。
それでもシシノは言葉を紡ぐのをやめない。
「お前は何か理由があって、死のうとしてるんじゃないのか? そうだ……お前、ラビコのためにやってるんだろ? やっぱりお前は、ラビコをずっと守ってきたんだろ?」
「違う……! ラビコはただのアタシの道具だ! 利用してるだけッス!」
激しい否定。
それを聞いて、シシノは悲哀と怒りが入り混じった表情を浮かべ、叫ぶ。
「嘘をつくなよ! お前、夜に言ってたじゃねえか! おれがラビコを家族みたいに思ってるって言ったとき、お前は扉越しに「嬉しい」って言ってくれたじゃねえかよ! お前なんだろ⁉︎ 夜中、おれと話してたのは、お前だったんだろ⁉︎」
「な……」
なぜそれを? と込み上がってきた言葉を、『闇討ち』は言いかけてやめた。
このとき彼女の心に浮かんだ感情は、こんなときだというのに――嬉しさだった。
ドッペルゲンガーは影であり、もう一人の誰かがいなくてはその存在は無である。
影としてラビコを騙ったそんな自分の存在に、シシノは気がついた。
見つけてくれた。
そんな事実に、どうしようもなく嬉しさが込み上がってしまう。
――ああ、だけどダメだ。認めるわけにはいかない。
「……そんなことは言った覚えがないし、アタシはお兄さんに直接会ったのは、今日が初めてッスよ」
自分の感情すら、殺す。
『闇討ち』はプロフェッショナルだ。
シシノの言葉を認めず、自分の感情も否定する。
まだ彼女は、シシノの手によって殺されることを諦めていない。
そして、シシノも信じるのを諦めない。
自分の信じたものを、最後まで信じ通したかったからだ。
想いをぶつける。「重い想い」と言われたのも記憶に新しいその想いは、『闇討ち』にすら、もうすでに抱いてしまっている。
「動物アレルギーはお前なんだろ⁉︎ それでバレちまう可能性もあったのに、どうしてチャッピーを排除しなかった⁉︎ ラビコが悲しむと思ったからじゃないのか⁉︎」
「知らない、知らないッスそんなこと! なんスかチャッピーって! そんな名前は知らないッス!」
「やたらと人を馬鹿にして、饒舌なのはお前なんだろ⁉︎ ラビコとは全然違う、あれがお前の性格なんだろ⁉︎」
「違う! アタシは饒舌なんかじゃない! 誰とも喋らない! 一人で生きてきたんだ!」
「それこそ嘘だろうが! お前は、少なくとも四年は、ずっとラビコと繋がってただろ! 利用してたとか道具とか関係なく、お前は、ラビコの側にいたんだろうが!」
「ち、がう……違う、違う……違う。ラビコはただの、道具ッス……」
「お前は、本当は……ラビコのことが大事なんだろ? だから今、そんな顔をしてんだろ?」
「……はぁ? 顔がなんなんッスか……。――?」
言われて、頬を伝う感触に気がつく。
涙――気がつかないうちに、『闇討ち』の頬には、涙が伝ってしまっていた。
生まれて初めて流した涙に困惑する。どうして涙が出るのか、彼女には分からなかった。
シシノが自分の存在に気がついてくれた嬉しさからか。
計画が失敗しそうだという事実への悔恨か。
それとも――ラビコを何度も、道具だと言ってしまったからか。
その嘘が、泣くほどに心苦しかったというのか。
「なんで、なんでアタシ……」
拭っても、拭っても拭っても、とめどなく涙は溢れてくる。
――嫌だ、見られたくない。恥ずかしい。……こんな顔を見られてしまっては、もう誤魔化しようがない――。
『闇討ち』は、その顔を隠すためにうずくまる。
シシノも、その顔を覗き込むように、しゃがみこんで語りかける。
もうその手には、ナイフは握られていなかった。
かわりに、いつかラビコにしたように、『闇討ち』の頭を力強くひとなでする。
「なあ、『闇討ち』……事情を話してくれよ。何も言ってくれないんじゃ分からねえ。もしかしたら、おれたちにできることがあるかもしれねえ」
シシノのその言葉は、優しくて、残酷だった。
『闇討ち』は事情を「言わない」のではなく「言えない」という呪いをかけられている。
その呪いは近いうちに、『闇討ち』とラビコの命を確実に奪う。
そしてその呪いを解くためにシシノにできることは、一つだけ――。
「……お兄さんに、できること?」
「ああ、できることならなんでもやる。ただ、もしお前が死にたがってるってんなら、なにか別のやり方を……」
言いかけたシシノの言葉を、『闇討ち』は遮った。
涙を浮かべたまま、シシノの頬に手を触れて見つめる。
「別のやり方なんてないッスよ。もうここまできたら、お願いするしかないッスね」
その表情は、優しい笑みだった。
最後の手段は、これしかない。
シシノが自分を殺さない可能性は、低くはないと理解していた。
それでもたった一つの願いを、最後のわがままを、どうにかして叶えたかった。
「お願いしますお兄さん。アタシを、殺してください」
「いや、待てって、だからそれは、何か事情があるなら聞くしさ、ほら、言ってみろって……」
『闇討ち』のただならぬ様子に、シシノはまたも残酷な言葉をかける。
それは無理なことだと、理解することはシシノには難しい。
『闇討ち』自身、すでに何度も伝えようとしている。
だけどそれは不可能なのだ。
呪いの制約は、強固で揺るぎない。
事情も伝えられず、懇願するしか方法はない。
「お願いします! これしかないんス! お願いだから、アタシを殺して! お兄さんの手で、殺してください……!」
「ど、どうしてそこまで……? お前は一体、なにをしようとしてるんだ……?」
「なにも、言えないけど、だけどお願いッス! これが――たった一つのお願いだから、他にはなにもいらないから、だから――」
懇願が、虚しく草原に響き渡っていたその時。
轟音とともに、突然、世界が止まった。
『闇討ち』の言葉が、思考が、止まる。
その原因は、痛みだ。
――どこが? あ、脇腹だ。脇腹が痛い。
どうして? あれ、なんで? なんでアタシの脇腹から、血が流れ出てんス……?
思考は、痛みの理由を探る。
しかし、一目見ればその原因は明らかだ。
『闇討ち』の目に映ったのは、自身の脇腹が丸く抉られた様だった。
――ああ、なるほど。また生き延びたのか、あのせっかちバカをナメていた。
『闇討ち』は、シシノの胸へ倒れこむ。
「な、んだ? おい、どうしたんだよ! なんで急に……こんな、こんな……!」
シシノは『闇討ち』を受け止めると、上着を脱いで傷口を塞ごうとする。
だが、そんな行為に意味があるのかも分からないほどに、その傷は絶望的だった。
クッキー生地を型抜きでくり抜くのを失敗したように、半円形に脇腹が抉られている。
上着はあっという間に血に染まってしまった。
そんな応急処置にシシノが奮闘していると、その背後から、怒声が響き渡ってきた。
「そんなによおお! 死にてえって言うからよお! やってやったよ、ざまあみろ! もう、呪いなんて関係ねえ! は、はははは、ははははははは‼︎」
その声に振り向いて、シシノは我が目を疑う。
その視線の先にいたのは、青い炎に包まれ燃え上がる、『豪速跳弾』ファスファ・ストレートだった。
「どうしてお前がここにいる、どうして燃えてんだ⁉︎ どうして『闇討ち』を攻撃したんだ……⁉︎」
「うるせえ、うるせえよ……! もう、なんもわかんねえよ、おれにはよお! は、はは、はははははは!」
ファスファはすでに、思考を放棄していた。
身体が燃え上がり、血液が沸騰し、もうすでに、生きることは不可能だと諦めていた。
炎に包まれたまま、すぐにファスファは倒れこみ、そしてそのまま、動かなくなった。
その命は、燃え尽きて終わったのだ。
「なん、だよこれ……。わけがわかんねえよ……! おい、『闇討ち』! 死ぬな! まだ死ぬなよ! おれはまだお前の話を聞いてねえ! 諦めんなよ! 血を止めれば、まだなんとか……!」
シシノには理解できない出来事が立て続けに起こった。
それでも、今できることは『闇討ち』の命をなんとかして繋ぎ止めることだと、シシノはそう考えて行動する。
まだ、生きている。
『闇討ち』は呼吸をして、その胸はまだゆっくりと動いている。
ならばまだ希望はあると、シシノはその傷口から溢れる血を塞ぎ止めようとする。
そんなシシノを虚ろな目で見て、『闇討ち』は力なく、口を開くのだった。
「お兄さん……アタシ、多分死んじゃうッス。血ィどばどば出ちゃってますから」
「待て、諦めんな、喋んな! 今助けを――」
シシノがポケットから携帯電話を取り出そうとする腕を、『闇討ち』は力ない手で制止する。
「アタシ、一応プロの殺し屋ッスからね、分かるんスよ。……これ、死にます。アタシ死にますから。ねえ、最後だから、お願い聞いてくださいよ」
「嫌だ……! 死なせねえ……! お前は、きっと――」
シシノの腕を掴む『闇討ち』の手に、少しだけ力がこもる。
「……ありがとうお兄さん。でもね、アタシの願いはこれだけなんス」
あまりに優しく放たれるその一言で、シシノもついに悟ってしまう。
――『闇討ち』は死んじまう。もう、時間はそんなにない。
だから、せめて願いを聞き届けてやりたかった。
「――言ってくれ。『闇討ち』、お前の願い……もう一度。おれ、どんな願いでも聞くから」
シシノはもう、『闇討ち』がなにを願うかを知っていた。
今さっき、「それだけだ」と告げられた願い。
それを承知で、頷いた。
『闇討ち』は安堵したように笑うと――。
「お兄さん、アタシを殺して。お兄さんの手で、そのナイフで、安らかに殺してくださいッス」
あまりに儚い、最後の願いを口にした。




