5話、勇者タカシは自分が情けなくなった
タカシは手製の捕虫網を振ってスライムを捕えた。
網の中で跳ねまわるスライムを逃がさないようにトングで挟み、袋の中に入れる。
朝から始めて、太陽が頭上から少し西に移動している時間までに20匹を袋の中に捕まえてある。
「これで今日の生活費を稼いだな」
森の中、強い日差しを浴びながら、タカシは服の袖で顔の汗を拭く。
季節は春から夏へと変わり始めている。この地方は日本と同じような季節の体系をしていた。
スライムの捕獲の仕事を始めて数日、捕まえることにも慣れてきて、1日に2千リラ以上を稼ぐことができるようになっていた。
生活していける、飢え死にしなくても良いという生活基盤を確立して、タカシの気分はすっかり落ち着いている。
「もう2,3匹捕っておくかな」
タカシは森の奥に進んだ。
ピョンピョンと跳ねているスライムを見付けるのも上手になり、ゆっくりと近づき、3メートルほどの距離になったら素早く網を伸ばして捕まえた。
口の端を小さく上げてニヤつく。
網の中からトングでスライムを取り出し、左手で袋の紐を緩めた。
「ギャ!」
タカシは悲鳴を上げて袋を放り投げた。左手にはスライムが噛みついていた。おとなしくなっていたので油断していたが、袋の中でじっと機会をうかがっていたのだ。
タカシはスライムを振り払うと左手を押さえた。見ると小さな歯形があり、血がにじんでいた。放り出された袋から次々とスライムが逃げてゆく。
「あれ?」
タカシの視界が暗くなる。噛まれた小指の付け根がしびれてきた。
「やばい!」
急いで森の外を目指した。ここで失神したらスライムの餌食になってしまう。スライムには致死性の毒はないが、たくさん噛まれたらどうなるか分からない。それに吸血性なので出血多量で死んでしまうだろう。
足を速めると胸が苦しくなる。引きこもりによる運動不足のせいではない。胸が締め付けられるように痛くなり、心臓が激しく鼓動する。
森が切れて、先に明るい草原が見えてきた。
「もう少し、もう少しだ」
足がもつれて思考がぼやけてくる。夢の中にいるように現実感が薄れてくる。
やっと森を抜け出た直後にタカシは倒れて気を失った。
タカシが目を覚ましたのは日が沈んで暗くなってからだった。
上半身を起こすとめまいがした。まだ胸が痛くて心臓近くの筋肉が少し疼く。立ち上がると視界が回転して地面に倒れてしまった。深呼吸すると近くに落ちている棒を拾い上げて杖にする。ゆっくりと立ち上がって町の明かりを目指して歩き出した。
「スライムに殺されたら、町中が大笑いするだろうな」
宿に到着したタカシはベッドに体を投げ出した。
翌日なっても体のしびれは取れなかったのでベッドに寝たまま。食欲がなかったので、何も食べずに過ごす。3日目には食欲が出てきたので買い置きの食料を胃袋に入れた。
4日目になってもめまいがするので、町の薬局に行ってポーション(万能治療薬)を2000リラで買った。貯めていたお金を使って残りは300リラ。それで食料品売り場に行き、パンを一つ買った。
「やっと貯めたお金なのになあ」
片手にパンを持ち、杖で体を支えながら宿屋を目指す。
「タカシさん……大丈夫ですか」
それはギルドの受付嬢だった。服装はメイド服のような制服ではなく、落ち着いたロングスカートだった。今日は非番で、買い物に来ていたのだ。
「あ、ナターシャしゃん」
ろれつが回らないのは毒が残っているせい。
タカシはうつむいて黙り込んだ。男ならそんな姿を女性に見られたくない。
「あの、よろしかったら。いえ、あの、差し上げるというわけではないんですよ。そう……お貸しするという意味です」
細い指、白い掌に乗っているのは千リラの硬貨。
気分を害さないように気を使ってくれていたのだ。タカシは受け取りたくなかったが勝手にその硬貨に手が伸びる。
「すいません。じゃあ、ちょっとお借りしておきます」
硬貨を受け取って一礼すると、杖をつきながら、その場を去った。
タカシは宿のベッドに横たわる。
「みっともないよなあ」
情けない。本当に情けない。その言葉だけが脳を駆けまわる。
ベッド横のテーブルに置いてあった『マネジメント』を広げてみた。
寝たままページを適当にめくる。一つの文章が目に入りこむ。
人は弱い。悲しいほどに弱い。問題を起こす。手続きや雑事を必要とする。人とは、費用であり、脅威である。
人は弱い。悲しいほどに弱い。その文章が涙腺を刺激した。
静かで狭い部屋に嗚咽が小さく響く。
タカシが悔し涙を流したのは初めてだった。学校でいじめられても泣かなかった。しかし、今回は自分が情けなくてしょうがなかったのだ。