南莉乃のどくがてき生活
第一話 7月某日 個人経営喫茶店にて
キリマンジャロの味に舌鼓をうちつつ、溜息をひとつ。時刻は午後3時というティータイムとしては最高のコンディション。悪くない。しかし私は若干の不機嫌さを我慢できなかった。
「どうしてこうも非自由的なカリキュラムに対して金銭的価値が生じるというのか。全くもって合理的でない。」
本来ならば今は3限の時間である。そしてそこでは私が一切興味を持つことの出来ない第二外国語の講義が行われているはずである。何が悲しくて専攻科目以外の講義を受講せねばならないのか。その思いのままに講義をボイコットし、今こうして快適な空間にいるわけだけれども、それでも何となく拭えきれない名状しがたい罪悪感のようなものに押し包まれて不快なのである。その不快感を語学を強制する学校側への不満に置き換えた次第だ。
「思いもかけない物が役に立つかもしれませんよ。」
ふとここのマスターが声をかけてきた。この人はまだ私とそれほど歳も違わないはずだが既に一人で喫茶店を営んで生活している男である。名は確か衛宮。下の名は知らない。
「仏語で論文を読む機会はありませんが。」
「違うんですよ。直接学問の役に立つかどうかという話ではなく言語の広がりを視野の広がりに繋げられるという話です。」
「そりゃマスターみたいに休業日にぶらっとフランスやらイタリアやら出掛ける人だからこそ言えることですよ。私はこれからも日本に住んで日本の行く末を見守るんです。語学が視野を広げたとしても日本人とフランス人との間に存在する差異も差別も価値観の溝も埋まりませんよ。」
「相変わらずお堅い……。」
マスターは苦笑しながらコーヒーのおかわりをついでくれた。
思うに、語学を習得し外国人と自由に話が出来たとしても先ほど述べたように根源的な考え方を習得出来るわけではない。日本国内でも内向的かつシャイで行動より考える方に時間を割くタイプの私はきっとフランスにおいても同様であることは疑う余地が無い。その結果日本国内でも浮いている点をフランスで解消出来るのかという問には大きな疑問点が浮上するのだ。私が語学を習得するというメリットがあまり無い。
「何も私は語学堪能になれば友達がたくさん出来るとか思ってませんし別に友達なんかいりませんからね!」
「僕は何も言ってないじゃないですか。」
今度はくつくつと笑いながら話す。この人の内側を見透かしたような笑みが憎たらしい。だがコーヒーは美味しいので通うのを止められない。
しかしそれにしてもテレビ等で見かける現地化した日本人はいかにも向こうの価値観に適応したように見える。それは私からすれば奴隷化した価値観であると考える。その価値観に染まらねば適応出来ないという点がどうにも納得いかない。押し付けられているような圧迫感があって非常に逃げ出したくなるのだ。その点は何も語学や現地化に限った話ではないのだが。
「……また余計なこと考えてるんじゃないですか。」
おかわりを置かれても全く手を付けない私にマスターはそう言う。
「なに、人間は1日に六万回思考するのです。そのうち余計でないことを思考するのはどのくらいでしょう。喫茶店では有用なことを考えねばなりませんか。」
私は自分でも憎たらしいと思う笑顔でそう答えた。マスターはやれやれといった具合に豆を見に行ってしまう。嫌われただろうか。
「難しいのですよ。人と人とが理解するということは。」
独り言を呟いておかわりのコーヒーに口をつけた瞬間、吹き出しそうになった。
砂糖じゃない何かが入ってる!
「新作のお味はいかがですか。」
ニヤニヤしながらマスターが戻ってきた。
「……塩麹、ですか。」
「正解です!いや甘いものと塩との相性はこれまでよく言われてきましたけど苦味との相性はいかがなのかとつい先ほど気になりまして。」
先ほど?
「え、さっき私の前で入れてたんですかこれ。」
「ええ、一応しっかりとお聞きしましたよ。」
「返事は。」
「んーーーむとか仰られてたので了解の意と。」
この悪魔め……。
「慣れるまでかなりの時間が必要と思われます。決して客がしっかり認識していない状態で入れないようご忠告申し上げます。決算日の繰越利益剰余金を貸方に書きたければ。」
「参考にさせていただきます。ありがとうございました。」
そしてこの無駄に丁寧な礼である。正直言ってかなりの不味さだがこう言ってしまった以上責任を持って飲まなければならない。
「あと、これの口直しにもう一杯キリマンジャロお願いします。」
「ありがとうございます。」
はめられていたのか。それはともかくとして、バカみたいなやり取りをしている間に少し講義のサボタージュに関する不快感は薄まったような気がする。今日は夕方までここで過ごすことになりそうだ。
私はカバンから専門書を取り出して、キリマンジャロを待ちながら再度塩麹コーヒーを啜った。
「……悪くない。」
第一話 End