旅立ち
僕が生まれてから、世界が豊かであったことなど一度もなかった。負の力が強い、負の神がいる世界が普通だった。
けれど、普通に学生をして、親友がいて、家族に囲まれて――こんな世界でも幸せはあったんだ。
邪力の恐ろしさを知らなかったんだ。
優しい兄が邪力に襲われた。
こんな世界だから家族で農作業をしていた、そんなときだった。
兄は年の離れた妹を襲い、かばった母もろとも殺した。
そんな兄を葬ったのは父だった。
「青。おまえは大丈夫なんだな」
その問いに僕は静かにうなずいた。
「そうか。おまえは負の力がないんだな」
父さんは困ったように笑い
「すまない。青」
謝った。
なにに対してかはわからない。
なぜなら、父さんはすぐに自ら命を絶ったから。
邪力に襲われるその前に・・・・・・。
その後、どうしたかなんてほとんど覚えていない。
言えることは、賢者になったばかりの親友の彩斗に助けられたということ。
邪力によって、壊れ、壊された僕の家族は世界へ還っていった。
小さな家に一人になって、この世界を本当の意味で理解した。
そして・・・・・・自分が持つ力も――。
1つの決意を持って、教会の扉を開いた――。
教会というより居住スペースに彩斗は通してくれた。
「なあ、彩斗。俺はなにもわかってなかったよ。本当に愚かだよな」
「――青は愚かでないよ。それにまだ17だろう。ぼくだって20歳で賢者としても、人間としてもわからないことだらけだ。だから、青がわからないことは愚かではないよ」
「ありがとう、彩斗」
彩斗は穏やかに笑った。そこに悲しさがまじっていることを知ってはいたが。
彩斗も邪力によって家族を失ってる。僕よりももっと幼い頃に。目の前で亡くなる姿を見たわけではないとしても、邪力の恐ろしさを知ってる。この世界の誤りをたぶんずっと僕よりも知ってる。
「彩斗。あのときの状況をわかってるのは俺しかいないから、信じてもらうしかないけどさ」
「うん」
「邪力に直接襲われたのは兄さんと俺なんだ」
「――そうか」
「? 驚かないのか?」
「ぼくはこれでも賢者だ。青の正の力が大きいことはなんとなくわかっていたよ。負の力がないとまでは思っていなくても、納得はできるよ。青の心の在り方からもね」
「俺はそんなに立派な人間じゃない。それに――正の力しか持たない者が邪力に染められないことを知ってったって、自分がそうだって理解するのに今の今までかかった」
そう、あのときから1ヶ月経っている。
あのときのことをはっきりと想い返すことは、これから一生ないだろう。でも、黒いもやのような邪力に襲われたことは事実なんだ。そして、壊れることがなかったことも・・・・・・。
「今はもう理解したと思ってる」
「うん・・・・・・」
「だから俺は、勇士になる。世界はこのままではいけないだろ?」
「――それは、もちろん」
「こんな世界を楽しむ負の神の気持ちが俺にはわからないし、許せない」
「――青・・・・・・」
少しだけ不安な顔をする彩斗に僕は笑った。
「彩斗は性格も全部賢者だけど、人間味あふれてるよなぁ」
「どういう意味だよ」
「ん、ずっとそのままでいろよ」
「青も――青のままで」
「ああ。じゃあ、俺、行くよ」
「うん。元気で」
「そっちもな」
また明日、と同じように僕たちは別れの挨拶を交わした。
彩斗が「いってらっしゃい」と言えなかったのは賢者だから。僕が「いってきます」と言えなかったのは、守れる約束ができないことを言うのは嫌だったから。「さよなら」を言わなかったのは――なぜだろう。
「さよなら――か」
僕は街を歩きながらつぶやいた。
生きて帰ることはないのかもしれない。けど、わかってしまったから、わかって目をそらすことはできないから、僕は行く。
このとき、僕が持ってたものに希望はあっただろうか? この世界を救う自身はあっただろうか?
たぶんあったのは、強い意思だけ。
負の神を倒すという決意だけ。
今日も空は紫がかった灰の色。これが普通。
子供たちが笑顔で遊んでる。空が青かった頃を知る者は不思議かもしれない。
でも、僕にとってこの豊かでない世界は普通だった。
けれど、このままではいけないから、この日常にさよならを告げる。
もう、あの日常は戻ってこない。戻れない。僕は前に進む。
だから、きちんと告げる。
「さよなら」
と。
誰に対してでなく、ほかならぬ自分に。
これまでもこの世界を正しいと想ったことはなかったが、家族を失うことで深い理解を得た。
負の神に対して、なぜと問いたい。許せない気持ちがある。
だから、勇士となって旅に出ることは正しいことだと想った。
でも
この世界を全然わかってなかったんだ、本当は。
それは罪なんだ・・・・・・。