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異界探訪編

8. 


 店を出たのは午後二時ぐらいだっただろうか。

 一方で、猪野がフリーになるのは六時以降である。

 願は事務所、と言うか若井に経過報告を行うことにした。

 それには、この空白時間の間に一端帰りたいという、その許可を取るという目的もある。

 実際、今日は髭もあたっていないし、風呂にだって入った方が良いのは間違いないし、これはもう業務の一環と言っても差し支えないだろう。

『ええで。こっちはまだ選定終わってへんし』

 そんな風に色々と言い訳を考えて連絡してみると、あっさりと許可が下りた。

 家に帰さない宣言はなんだったのか? などと藪の蛇をつついたりはしない。

『当たり前やけど、報告は明日の朝、事務所で聞くわ』

「そちらの進み具合はどうですか?」

 このタイミングで猪野との交渉材料が増えるならば、それに越したことはない。

『なんや岸君。やっと前向きになってくれたな』

「僕はずっと、真面目に取り組んできたつもりですが」

 疲労が自覚できるせいか、口調が尖るのを押さえきれなかった。

『前は向いとったかもしれんけど、歩いてはなかったな――まぁ、しばらくはその方が有り難いんだけど』

 例のファン視点とやらのためだろう。

『一個、なかなか使えそうなアイデアがあるな。今のところ、これを屋台骨にして飾り立てて、はなれを継ぎ足して、まぁ、何とか』

 何とも頼りない話だが、最初から完成されたものが上がってくるものでもないだろう。

「それはどんな話ですか? ……ええと、キーワードらしきもの三つぐらい」

 一応は褒められたようなので、少し踏み込んでみる。

 自分が何のために、これを知りたがっているのかまでは説明しなくても良いだろう。

『せやな。まずは当たり前に“異能力者”』

 そういうのがいないとプロジェクトの目的を果たせない以上、これは当たり前。

『で、“学園”と“ファンタジー”』

「……それ、大丈夫ですか?」

 ファンだからこそ、そのありきたりな単語の羅列に危機感を覚えてしまう。

『ただまぁ、今のところの構想だと、猪野君にやって貰いたい役は学生にはならんかもな』

「そうなんですか?」

『この屋台骨、致命的な欠点があってな……まぁ、その辺は明日に話すわ。これも本決まりやないしな』

「……能力者役は間違いないですよね?」

『まあな』

 しかし、これは改めて確認するまでのことはない。

 連絡ついでに、武器を入手しようとした目論見は潰えてしまったらしい。


 本音を言えば横になりたかったが、一度ベッドで寝てしまえば起きる自信はなかった。

 目覚まし代わりに熱めのシャワーを浴びて、髭を剃る。

 これで心も体も、かなりさっぱりした。

(よし……!)

 願の部屋は中野区にある。

 そして諏訪にアドバイスを貰った場所は、港区だった。

 演出を考えると青山通りから向かう、というルートで行かなければならない。

 これはもう面倒なので、タクシーだ。

 経費で落ちるのだろうか?

 いや、それ以前に自分の給料はどこから出るのか。履歴書も用意したままだ。

 そのうちに若井が総務担当の誰かを連れてくる――と信じるしかない。

 扉を開けて、何となく目的の方角を見る。

 待ち合わせの場所は――明治神宮外苑。

 大雑把に言えば、その“辺り”になる。


 青山通りから、聖徳記念絵画館を望む。

 それは即ち、銀杏並木をほぼ一点透視で眺めることになる。消失点に位置するのは日本には不釣り合いに思える瀟洒な建物――それがつまり聖徳記念絵画館だ。

 今まで、こんな風に計算してこの場所を訪れたことはなかったので、新鮮でもあるし壮麗だとも思う。書店で時間を潰して――一応“ファン”としての情報収集という名目もあったが――現在は午後七時前後あたりだろうか。

 実のところ待ち合わせ時間からは、この段階で遅れている。

 もちろん演出のためだ。


 約束の場所に遅れてきた運命の相手に「遅かったな」と告げる――


 あるいは、


 約束の場所に遅れて到着し運命の相手に「あなたを待っていた」と言われる――


 同じ中二ならどっちを選ぶかという、ダメ性格診断が出来そうな気もするが、猪野が選ぶべきは前者らしい。性格診断するつもりはないが、より積極的な中二バカであることが伺える。

 そもそも、自分は“運命の相手”などという恥さらしな存在になるつもりはない。

 これから行うことは、あくまで仕事相手への接待の一形態だ。

 何しろ生半可な中二バカではない。

 猪野がチェーン店とはいえカレー店に勤めている理由。

 それは「数多くのヒーローがカレーショップとは縁が深いから」。

 確かに、特撮ヒーローはしばしば飲食店と友誼を結ぶことが多い……という知識だけはある。

 願も特撮はさすがに“卒業”しているので、そこで詳しく検証するだけの知識はないし――そもそも、検証する必要性を感じない。

 とりとめのない思考に囚われているウチに、銀杏並木を中程まで進んでしまっていた。

 いや、未だ中程である、とするべきか。

 見た目の通り……長い。よくもまぁ、都内にこれだけの贅沢な空間を残せたものだ、と改めて感心する。願は勉強、仕事に追われるだけの毎日で、近場でありながらこういう場所に足を運んだことがない。

 胸の中に少しばかりの――恐らくは後悔という感情。

 その傷みが、願の顔を上げさせた。雑踏と言うほどもない、まばらな通行人の存在に改めて気付く。

 それはつまり、これから衆人の前で痛々しい現象をさらすということに他ならない。

 また俯きそうになる願の視界の端に、その“異物”が現れた。

 赤。

 あるいは、日常とは相容れないほどの深紅。

 それは極端に丈を切り詰めた、ブルゾンの色。どう見ても市販品として供給出来る代物ではないから、自分で改造したのだろう。インナーはつや消しの黒。

 ボトムスは極端に細く絞られたスリムジーンズ――だろうか?

 あんな無茶苦茶なデザイン、それこそアニメ以外で見たことがない。

 首にわかりやすいマフラーのようなものを巻いていなかったことを、この場合は救いとするべきか。

 どういう風に整髪料を使いこなしたのか見当も付かない髪型が、その救いを色々と裏切っているが。

 常時、風が吹いているような――つまり、物理法則に喧嘩を売り続ける、その努力は他に向けられなかったものか。

 ただ、その立ち姿だけは褒めても良い。世界に対して何か斜めに、それでいて真っ直ぐに立っているよう不思議な塩梅だ。素人考えだが身体をきちんと鍛えているのだろう。

 なるほど――難物だ。

 願はもはや、その人物が猪野ではないなどと、そんな希望を抱くことは辞めていた。

 点景でしかないような状態からこれである。

 むしろ、ここでごく平凡な男が出てくるようでは拍子抜けというものだ。

 期待通り? ――いやいや期待以上だ。

 心の中に湧いてくる妙な高揚感に気付かないふりをしながら、願は距離を詰めていく。

 早足にならないように。

 歩幅が広がらないように。

 そして銀杏並木は、左右に分かれる。

 円形に象られたその分岐点の中央。

 赤い男がこちらを振り返った。まぁ、ハンサムに入れても良いぐらいの顔立ちだろう。濃いめだが。

 そのまま、スーパーロボットに乗せてやりたいぐらいである。

 その胸元には、剣に絡みついた一つ眼のドラゴンのペンダント。

 なるほど、それぐらいの自作ことはしてくるだろう。

 そんな相手を、半ば睨み付けるようにして近づいていった為か、向こうも確実に自分の存在に気付いた――願はそう確信した。

 だからといってここで回れ右をする選択肢はない。

 最初に話を聞いてから……さほど時間は経っていないのだが胸の内からあふれ出る感情は「とうとう」などという、やけに大仰な畳語がくっついている。

 相手――間違いなく猪野だろう――は、そんな願を見て歯を見せることなくニッと笑った。

 そして実に深みのある声で、こう告げた。


「遅かったな」

「まんまじゃねぇか!」


 あまりにも想定通りの出迎えの言葉に、思わず脊髄反射で突っ込んで――願は正気に戻った。

 

9.


 四日目の朝――

 などという表現はおかしいだろう。会社勤めに期限があるわけではなく、生きている限りこの生活は続けられるのだ。だから理屈で考えれば経過日数を指折り数える必要性はない。むしろ、出口が見えないことを再確認する、鬱への家内制手工業と変わらない。

 とにかく今日も願は上井草にたどり着いた。

 

 実のところ「スタジオ蟷螂」の正確な出社時間を願はわかっていない。

 世間並みに九時ぐらいだろうと当たりを付けて出社しているだけだ。

 そして事務所にたどり着くと、若井どころか有原まで揃っているわけだから、恐らくは遅刻しているのだろう。

 二人とも咎めはしないが。

「おはようございます」

「おう、おはよーさん」

「おはようございます」

 挨拶を終えたところで、願はどこから手を付けたものかと思案した。

「なんや岸君……やさぐれてへんか?」

 迷っているうちに、若井に先手を取られた。

 しかも半ば自覚している、己の変化を指摘された。俗に言う図星である。

「猪野と会いました」

「いきなり呼び捨てかいな」

 反射的に「会えばわかる」と返しそうになって、己の心の荒み具合を自覚してしまった。

「なんや、ご多分に漏れず人格的に問題ありかいな」

 その問いかけに願は、しばし猪野と会ってからのことを振り返ってみた。

「……人格という言葉で集約してしまっていいのかどうか、判断に迷います」

「とりあえず、立ち話もないな。ソファ座ろか」

 言いながら、若井も灰皿を持って立ち上がった。なるほど、何かしらの覚悟はしているようだ。

 願もうなずきながら一応尋ねてみる。

「そちらの予定は?」

「こっちはみんな昼からや。富山君も来て貰って、アイデア出してくれた未生君も呼んである」

 なるほど、少なくとも停滞はしていないらしい。

「それ、僕も聞いていて良いですか?」

「聞くどころか参加してくれてええで。なにしろ“ファン”代表やからな」

 何か都合の良いように使われているような気もしないではないが、あの猪野バカと戦うには、どうしたって武器は必要だ。

「……つまり、猪野君を巻き込むことを岸君はほぼ決定してるんやな?」

 察しよく若井が返し、二人は応接コーナーのソファに向かい合わせに座った。

「で?」

「仰るとおり、長所だけを見るなら猪野ほど適切な人材はいないでしょう。声優としての技量の善し悪しは諮りようもないですが、そのための努力は怠ってはいません」

「……つまり、レッスン受けたりという“努力”は続けとるわけや」

「あと、体力作り」

「体力? いやまぁ、それも声優には大事なことかも……」

「違います」

 若井の言葉を願は半ば強引に遮った。

「猪野の体力作りは、不測の事態に備えてのことです」

「は? なんや猪野君は元々、こっちの事情狙いかいな」

「それも違います」

 再びの否定。さすがの若井もそこで止まった。

「そもそも、最初から尻込みしないように緩くではありますが箝口令が敷かれていますよね? ド新人の猪野が、事情を知っているはずもない」

「ああ、それもそやな。したら、なんでや?」

 願はしばし瞑目して、ことさらにゆっくりとした口調で切り出した。

「――僕なりに“翻訳した”言葉で説明させていただきますが」

 少しの思案の後、願が最大限、適切な言葉を選んで前置きを挟んでみると、

「よろしく頼む」

 今まで聞いたことがないような真摯な声で、若井が応じる。そのままタバコに手を伸ばして、慣れた手つきで火を点けた。

「不測の事態というのは、どの段階で“ズレ”が元に戻るかわからないということらしくて」

「“ズレ”?」

「猪野がこの“世界”にいるのは何かがズレた状態らしくて、それがいつか戻る、と」

 若井がくわえるタバコの灯が一際明るく輝いた。

 どうやら、思い切りよく息を吸い込んでしまったらしい。むせなかっただけ不幸中の幸いと言うべきか。

「……ええで、ええで~、それからどした?」

 明らかに発音がおかしいので、強がりだということはすぐにわかるが、願はそれを追求したりはしない。むしろ頭ごなしに否定しなかった態度を“さすがだ”とも感じていた。

「ズレていなかった場合、猪野が本来いるべき場所は戦乱に満ちた世界であるらしく」

 そろそろ若井の目つきが危なくなってきた。

 その視線は是非とも猪野に直接ぶつけて欲しい。現状において、今の自分はただの外付け翻訳機にすぎない。機械にまで罪を求めるのは悪癖というものだ。

「だから戦闘訓練は怠れない――体力作りといったのは、オブラートに包みました」

 そこは素直に詫びておくと同時に、自分の仕事ほんやくをアピールしておく。

「……動けるんか?」

 まともな戦闘訓練を受けているわけではないと気付いてくれたようだ。現状の猪野の経済状況ではそこまでの贅沢は許されない。だが、それでも“身体を動かそう”としている人間と、それを怠っている人間の間には隔絶した差が生じてしまう。

「動けます」

 だから、まず断定しておく。

「実際の所、体力も底なしといっても良いでしょう……確認しました」

「確認……って、岸君」

 その二文字に隠された意味を、若井は正確に察したようだ。

「有原君、悪いけど茶ァ淹れてやってくれんか。あと、甘いお茶請けもあるかなぁ?」

 気を遣われてしまった。

「岸君、家には帰れたんか?」

「……帰れなくなると言ったのは若井さんでしょう」

「それは言葉のアヤやないか。現に昨日も……一度は帰れたやないか」

 言い訳がましくなってきたところで、有原がお茶とようかん三切れを乗せた皿を持ってきてくれた。

 まるで普通の会社のような振る舞いであるが、去り際に願へと視線を向けて、

「……会社とはそういうものです」

 と、相変わらずの会社観を呟いて去っていった。

「ま、糖分補給でもどや?」

 有原の差し入れついでに体勢を立て直した若井が、会話の立て直しを図る。

 願も実際に食物を目にすると、とりあえず食欲が優先してしまったようで、無言でようかんを口に運んでいた。

「猪野君とこに泊まったんか?」

「――他に選択肢がなかった……とは言いませんけど、色々と気力が残ってなかったんです」

「ということは体力作りとやらに付き合ったんか?」

「僕と会うのは予定にはない事だったので、それで自己鍛錬を休む理由にはならないと」

「真面目……なんやな」

 それを長所に数えるべきなのか、願は本気で悩んでいた。

「ということは、ズレたとかそういう話は猪野君の部屋で聞いた訳か」

「まぁ、ズレたと簡潔に話をしてくれれば、ここまで消耗はしないんですけど――」

 そこから死なば諸共の覚悟で、猪野の説明を再現していく願。

 とは言っても、特殊な設定に基づく独特な単語を一々は覚えていないから、それなりに平易な単語に落とし込んでの説明になるから、火力は半減というレベルだろうか。

 ズレという言葉から察せられるように、まず平行世界がある。

 ――あると言ったらあるのである。

 で、その世界は戦乱の世であり特殊兵器も多々開発されており、猪野はその余波を喰らって意識だけがこの世界に飛ばされてきた。

 猪野としては早々に戦線に復帰したいが、その手段はただごとではない。

 というのも、飛ばされた時に猪野の存在自体が変容しており、そのせいで謂わば鍵の形が変化していて、このままでは元の世界に戻ることが難しい。

 そこでチューニングの必要があるわけだが、自分一人の思いつきであれこれやっていても限界がある。

 こうなればなりふり構ってはいられない。

 他の人間の発想にも目を向けてみるべきだ――

「――で、声優」

 説明に要した時間はさほどではなかったはずだが、若井が持ってきた灰皿には結構な量の吸い殻がうずたかく積まれていた。

「……職業として役者を選んでないのは、アニメの方が元居た世界に近いことをやっている、ということになりますね」

 そこで、とりあえずの説明を願は終えた。ここからは若井の質問を受け付けた方が効率が良い。

 その若井は、まるで末期の水でも飲み干すかのように、深く紫煙を吸い込む。

 そして、それを吐き出しながらこう告げる。

「……こっちでも、彼の“仕事”は一応確認してみた」

「僕も観ましたよ。猪野の家で」

「うん……こちらとしては、過不足ない、という評価なんやけど」

「それは、卯河さんが頑張ったおかげなんですよ。どんな役か……覚えてますよね?」

「昨日の今日やからな。主人公をいじめる不良学生の子分その二、ぐらいの役やったか」

 名前もない端役、という意外に説明のしようがない役所である。

「猪野は、そこに過剰な設定を組み込んで、現場に臨んだようです」

 若井の眉がひそめられる。

「……それは悪いことやないやろ。何も考えんと現場に来る奴の方が――」

「過剰な、と言ったでしょう? 猪野の解釈ではその子分その二はやはり異世界からやって来ており……」

「ちょ、ちょい待ち!」

 願は、もちろん待ってやらない。

「異世界に戻るためのエネルギーを求めて、トラブルメーカーの不良学生を利用することに。そのために内々に反逆心を抱えて、明日のために泥水を啜る覚悟で堪え忍ぶ――真の戦士」

「そういう話やないやろ!」

 実際、猪野が出演した作品はそういう話ではない。だが、願がするべきはそれを指摘することではなく、もっと根本的な問題だ。

「あ、僕が言い出したんじゃないんで」

「せやけど!」

 若井は収まらないようだが、願にとって、そこはもう通過したポイントなのだ。

「で、まぁ、色々と過剰になったんで、卯河さんのディレクションで、反逆心が芽生えつつある子分、という具合になったそうです」

「う、う~ん、そないな演技やったかな? ――いやいや、そこでそんなドラマ作られたら演出がぼやけるやろ!」

 ギリギリで作り手としての意識が覚醒したらしい。

 あのシーンでは、主人公が理不尽な目に遭遇している、ということを強調するべきで、後の出番が恐らくはないであろう、子分その二にそういったドラマを付け足してしまっては、確かにシーンとしての意図がぼやけてしまう。

「だから、そのあたりは卯河さんが抑えたみたいですよ」

「まぁ、せやろな……で?」

 疲れたように、というか実際に話を聞くだけで疲れたのだろう。

 力ない言葉で促され、願はこの報告が最終報告に至ったことを悟った。

「とにかく運動能力はあります。しかも戦闘訓練を受けてないわけですから癖も付いてません」

「せやな」

「動機はともかく、仕事に対する熱意は確かです。力量は僕には判断できませんが、不足はないと思います」

 若井は無言でうなずく。

「結論としては、長所を見る限りこれ以上ない人材だと思われます」

「……それで、ええんか?」

「まぁ……ここで躊躇すると仕事にならないですし」

「これから、猪野君の“設定”と変わらんレベルの与太話聞くことになる可能性もあるで」

「若井さん」

 願は、真剣な眼差しでその言葉を遮った。

「そんなレベルあり得ないので」

「お、おう……」

「それで、全部僕が決めるわけにも行きませんので……」

「いや、決めてもうても……」

「プロデューサーが何を言ってるんです。僕にもう一つの方の仕事までさせるつもりですか。さすが、ブラック宣言を裏切りませんね」

「岸君、大丈夫か? キャラ変わっとるで」

「僕は設定なんか、抱えてない」

 完全に据わった目で若井を睨み付ける願。

「い、いや、そうは言うてへんやろ? キャラとかそういうのはもう、一般的な概念やないか」

 慌てて取り繕う若井。

「……とにかく、一度は会ってください。猪野は携帯持ってないのでまた面倒なことになりますが」

「携帯持ってない!?」

「はい。貧乏なのが一因ですが、それ以上に奴は契約書に様式美を求めるので……」

 若井がフリーズする。

 色々原因は考えられるが、説明している願自身がどこから突っ込もうか迷うほどであるから、こちらから手を伸ばすことも出来ない。

「よ、様式美ってなんや?」

 若井がようやくのことで、疑問点を一つに整理出来たようだ。

 妥当な選択でもあるので、願は即座に対応する。

「材質は羊皮紙がもっとも好ましく、もちろんアートっぽい縁取りも必要。“命を代価に”などというハイリスクな文言が含まれているとテンションが上がる」

「…………」

 返ってきたのは、再びの絶句。

 だが、そこからはさすがの回転の速さで、次の突っ込みどころを見つけてきた。

「――いやいやいや! あかんやろ。それやったら携帯だけの話やないで? 部屋は? 借りとるんやろ?」

「別の人格が引き受けます」  

 だが、そこすらも願にとっては通過点であった。

「……なんて?」

「元々の目的が、意識のチューニングですから。その応用で、日常生活に支障を来しそうな行為に関しては、別人格が処理するんです」

「そないな都合の良い……」

「そうですよ。粘り腰であたれば、奴とはコミュニケーション不全に陥ることはないんです。根っこに常識がありますから。ただ、普通は粘り腰で奴と接しようという、そんな致命的な動機を抱えた人間が存在しないというだけの話で」

 その言葉で、若井もようやくのことで、なぜ願がここまで荒んでしまったのか、その理由を完璧に悟ることとなった。

 若井は思わず、ポンポンとその肩を叩いていた。

 だが、それでも疑問は残る。

「……しかし、携帯とか事務所とかの契約を放っぽるのは、なんや致命的なような気もするけどな」

「その辺りの選択基準までは、突き詰めてませんし――知りたいとも思いません」

 プライベートの範疇でもあるし、実際に猪野を巻き込むとなってから聞いても済む話ではある。

 何よりも、それ以上踏み込むのは願の防衛本能が頑として拒否した。

 若井も、そのあたりは察したらしく、結果と長所だけを見るなら確かに願は見事に一つの仕事を果たしたとも言える。

 そうであるなら、雰囲気を変えるためにも――

「かなり早いけど、飯でも行ってくるか? 富山君達来るまで休憩言うことで」

「いえ、明らかに胃の調子がおかしいので、それは遠慮します――が」

「が?」

「話ついでに、ちょっと若井さんに提案が」

「おう、なんや随分積極的やな」

 若井は、笑顔で願の言葉に応じた。

 そこからの願の話は猪野とは関係なく、この事務所のあり方についてだった。

 若井がプロデーサー業に専念するためにも、雇われ社長を置いてみてはどうか? というのが願の提案だった。社長といっても、事務方諸々を引き受ける実質は総務部長的な仕事になるはずであるが、今のままでは「スタジオ蟷螂」は会社の体を為していない。

 何とも真面目な提案に、若井はタバコを燻らせながら、

(与太話聞かされとる最中に、こういう事考えて逃避しとったんかな?)

 と割と、正確なところ見抜いていた。

 それだけに、その逃避方法にも願の真面目さが伺えて涙腺が緩みそうになったが、真面目な話をしていくウチに、みるみる生気を取り戻していくその姿を見ると、不憫さよりも先に少し腰が引けてしまう。

 なまじ、提案の内容が有意義であるだけに何とも悩ましい。

 霞ヶ関からの監視員ということで。適当に利用するつもりだけだったが、割と拾い物かも知れんな、と若井が評価を改めたところで願の提案は終わった。

 建設的なことを行えた自覚があるらしく、あれほど荒んでいた願の表情が晴れやかなものになっていた。仕事のストレスを仕事で解消しているあたり、さすがに気の毒にもなってくるが、ここでやる気を殺いでも仕方がない。

「……何でしたら、僕の方の伝手で人を紹介して貰いますが」

「いや提案は有り難いけど、それは遠慮しとくわ」

「しかし……」

「確かに社長業を他に振った方がええというのは納得やから、それは何とかするわ。やけど、ここで岸君の伝手頼ったら、ここぞとばかりに強力な紐付きが送り込まれてくるわ」

「それはまぁ……ありそうですね」

 官僚がいきなりトップに居座って、ふんぞり返ってしまう話は、このご時世枚挙に暇がない。

「あと、有原君が一番長い時間接することになるわけやから、彼女の意見も聞いておきたいとこやな――有原君、今、ちょっとええか?」

「……ええ。昼休みに向けて調節中ですから」

 衝立の向こうから、すぐに返事が返ってきた。

 なかなか馴染んでいるようだ。

「そや。せやったら、鰻重でも取って、プチ歓迎会でもしよか。有原君の希望する社長像も聞いておきたいしな」

「お寿司にしましょう」

 応接区画に姿を現した有原が躊躇いなく要求を突きつけてくる。

「僕もお寿司の方が有り難いです。さすがに鰻を食べられるほど、胃の具合が回復してません」

「……何という遠慮のない連中や。ま、ええけど」

 フットワークの軽さを見せて、自らのスマホで寿司を三人前注文する若井。

 そこからしばらく、どういう性格の人間が傀儡にしやすいかという、甚だ非人道的な会話で盛り上がることになった。

 そんなこんなで12時を回り、午後1時過ぎ。

 まず、富山が顔を出した。

 応接区画に転がる寿司桶を複雑な表情で見つめたが、それよりも表情が明らかに変わったのは願の顔を見た時だった。

 あの寝オチした鑑賞会の時、よほど癇に障ったらしいが、猪野との接触を果たした願に死角はなかった。平然と視線を受け止めて、

「今日はよろしくお願いします」

 と、今から始まる会議のようなものに参加する旨を伝えておく。

 そうやって堂々と接したことが功を奏したというべきか、富山も鷹揚にうなずいて、それを受け止めた。友人になる必要はもちろん無いわけだが、これでAPとシリーズ構成候補の間に、ある程度のコンセンサスが取れたとみて間違いないだろう。

 それから十分後――

 一人の女性が「スタジオ蟷螂」に姿を現した。

 淡い髪色のロングヘア。踝まであるアースカラーのロングスカート。柔らかい布地のブラウスの上から、ダークブルーのベストを合わせた出で立ち。小脇にはかなり大きなトートバッグ。

 胸元には、大きなリングをつなぎ合わせたネックレス。

「よう来てくれた。みんな、こちらがものになるかも知れないアイデアを出してくれた――」

 若井が如才なく、その女性を紹介する流れに持って行く。


「――未生春、です。よろしく」


 酷く硬質な声でそう名乗った女性――未生春は深々と頭を下げた。

驚くほど8が短かったので、9もまとめて。

なので、連日上げはこれで一段落。また書き上がったら適当にあげます。

10は半ば以上は書いてますが。

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