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香辛料根回編

7.

 上井草の駅前からバスに乗って、西武池袋線の石神井公園駅へ。

 そこからのぼりの電車に乗りかえ江古田まで向かう。

 江古田駅前のカレーチェーン店『俺一番』が猪野のバイト先なのである。

 スマホの検索によると所要時間36分。車で移動するならもっと早く着くかも知れないが、無い物ねだりをしても仕方がないし、都内の移動なら電車の方が早い場合もある。

 真昼の日差しは、バスの車内にはほとんど入り込んでこないが、その代わりに周囲のなんということもない風景を、やけにキラキラと魅力的に輝かせている。

 ――何か、死にたい。

 と、窓枠に頬杖をついてバスの揺れに身を任せていた願のテンションは、周囲の美しさに反比例してドンドン沈んでいく。

(二日連続で飲み明かして……今日は帰れるのか……)

 身体に変調は感じないが、心が折れかかっているらしい。

 そうやって自己分析できてしまうところが、どうにも自嘲的だ。

『――今やったら、アテ振りも出来るで』

 耳の奥で、若井の言葉が甦る。

 アテ振りとは、役者自身の個性を見極めて作品にそれを投影するやり方――らしい。

 未だ、声優としての力量がよくわからない相手であるから、他の条件をクリアしていた場合、そうして貰った方が助かるかも知れない。

『やけど、古地君も役者やなぁ』

 実際、その通りなのだが。

『事務所辞めて、今フリーって事は晒す連絡先ぐらいはあるやろ。連絡方法を教えんで、バイト先に行かせよういうんは、まだ岸君を試しとるんちゃうか』

 ますます落ち込んできた。

『もっとも、単純に面白がっとる可能性もあるわな』

 フォローのつもりだったかも知れないが、とどめを刺された気分だ。

『でもま、そういう隙のある……いやいや、人のええところは逆に好まれるんやないか?』

 さらに死体を蹴ってくる。

 一番落ち込んだ辺りで、バスが石神井公園駅に着いた。

(カレーか……)

 荒れた胃には、良いかもしれない。

 何しろスパイスのほとんどは漢方薬だということだし。

 

 江古田駅南口から出て、迷うことなく目的の「俺一番」にたどり着く。

 無断なのか放置なのかやたらに自転車に囲まれた中、雑居ビルの一階にある小さなチェーン店。

 店の前に、やたらめったらのぼりが立っているのがさらに店の前をごちゃごちゃとさせている。

「…………」

 その、のぼりの一本を願はマジマジと注視してしまった。


『俺は、ここにいる!』


 何だ? 馬鹿か?

 思わず、のぼりに突っ込みそうになったが、それは何とか思いとどまる。

 丁度そのタイミングで、店から近場のOLらしき制服姿の女性二人が店から出てきた。

「王子が居てラッキーだったね~」

「でも、メンチはちょっと重かった……美味しかったけど」

 楽しげな会話の中、不穏当な単語が混ざっていることにも気付いたが、味の評価が高いことに、むしろ興味が引かれてしまう。

 食欲――と言うより飢餓感を感じている自分に驚く。

 このダウナーな気分の原因は、空腹が極まっているせいなのかも知れない。

 それに、まず店の人間に話を聞くにしても、注文してからの方が良いだろう――安いアウトロー映画の手法のような気もするが。

 扉を開けて、ザッと店内を見渡す。さほど広くはない。昼食時とあって結構混んでいる。

 カウンターに腰掛けると、すぐに注文を取りに来てくれた。

「いらっしゃいませ~」

 語尾の伸びた挨拶。そして、性別は女性。この人は猪野ではない。

「御注文、お決まりになりましたらお呼びください」

「あ、もう注文しても良いですか?」

「はい、どうぞ~」

「メンチカツ……カレーというのが……」

「はいメンチカツカレー。ありがとうございます。辛さはどうなさいますか?」

「普通で……いや、一段階辛く」

「かしこまりました~しばらくお待ちください」 

 そこで一区切りがついたので、改めて店内――主に店員を中心に確認していくが、そもそも男の姿が見えない。

(厨房スタッフなのか……?)

 と、推理とも言えない思考を巡らせると、先ほどすれ違ったOLの言葉が思い出される。

 “王子”と言われている人物が猪野だとすると、確かに厨房スタッフと考えた方がしっくり来る気がした。こういった店のバイトの形態がどういうものなのかはわからないが……


 グゥウウウウウ……

 

 思考を進めるためのエネルギーが根本的に足りていないようだ。

 願は、注文の品が来るのを待つことにした。


 注文したメンチカツカレーは普段であれば結構なボリュームだと感じていたかも知れないが、ものの数分で平らげてしまった。

 それどころ、お代わりを注文しようか真剣に悩んだほどだ。

 最大の誤算だったのは食べるまでにかかった時間だ。

 食べ終わる頃には、客も引いて色々と面倒事を切り出しても迷惑を掛けないだろう、とそんなことも目論んでいたのだが、店内にはまだまだ人が多い。

 とりあえず、水を一口含む。

 相変わらず店内には男の店員の姿がない。

「お冷や、お注ぎしましょうか~?」

 視線を他の意味に捉えられたらしい。実際、もう少し欲しかったのでそこはお願いしておいて、

「あ、あの……」

「はい?」

 思い切って話しかけてみる。

 先ほど注文を取りに来てくれた娘と同じなのは偶然なのか必然なのか。

 何だか身構えられてしまったが、こちらに疚しいことはない。

 なかなかの美人であるから、ナンパを警戒しているのもわかる。

「こちらに猪野さんという方は働いておられますか?」

「へ? 猪野君?」

 当たりであることは――まぁ、疑うまでもなかったが反応が少し意外だった。

 そして、何か微妙な目つきでこちらを見つめてくる。

 何かを疑っている、というのとは少し違う。

 これは……

(やべ……腐ってる)

 そして、そんな腐った妄想を止めることが出来ない理不尽さ。せめて、一度も会ったことがないということぐらいは主張しておきたい。

「私は、スタジオ蟷螂の岸と言います。猪野さんに仕事の――」

 と、この相手に事情を話しても仕方がないことに気付いた。

 あくまで彼女はバイト仲間であって、猪野のマネージャーではないのだ。

 しかし、ここに至っては躊躇もしていられない。

「あの猪野さんか……いえ、やっぱり店長を」

 手順としては、そちらの方が妥当だろう。

 ただのバイト仲間では、猪野の本業が何か知らない可能性もあるし、いきなり猪野にコンタクトを取るのも仕事中であるなら、なにより本人迷惑だ。

「私はしばらく待てますので、お時間の都合が付き次第お話しさせていただきたいと」

 願はそこで慌てて名刺を取り出した。

「え~っと、アニメ制作会社です」

 名刺にはスタジオ蟷螂としか書いてなかったので、足りない部分を申し添える。

「ああ、はいはい。そうですか。わかりました」

 すると何だか事情を知っているかのような受け答えで、その店員は名刺を持っていった。

 変わりに水は注いでくれなかったが、まぁ、それは良いとしよう。

 どちらにしろ、時間を潰すためにももう一品ぐらいは注文しないと、間が持たない。その時にまた水を貰えば済む話だ。

(常識的に、デザートかな)

 メニューを広げて、一瞬でコーヒーゼリーに決めた。

 他のメニューは白すぎたからだ。

 クリームを受け入れられるほどに、胃腸の具合は回復していないようである。


 果てさて――

 この規模の店に、気の利いた応接セットなどあるはずもなくおよそ一時間程で客が引いた後に、願はテーブル席に移動して、その向かいに四十絡みの男が座った。

 職業倫理的に、どうかな? とも思うが、それぞれの店舗でそれぞれの事情というものがあるだろう。

 ネームプレートからすると「諏訪」という名前らしい。応対してくれたウェイトレスの名前は何だったかな? と益体のない考えに囚われながら、まずは名刺を受け取ってからの一連の儀式を済ませておく。

 が、正直ここで話し込むほどの必要はないはずだ。猪野がいるかどうかを確かめて、仕事が終わる時刻を聞いて、その時に確実に会えるように伝言を頼むだけ――という事でOKのはずだ。

 別に、保護者に許可を取ろうという話ではないのだから。 

「猪野君に、お仕事の話とか」

「はい。今度、新アニメが制作されることになりまして……猪野さんに――出演をお願いするかも知れないという流れになりまして」

 我ながら、何と曖昧な話だと思うが、ここで全部を詳らかにする必要もないだろう。

「その、お話“例の件”が絡んでるのかしら?」

 唐突なおネェ言葉――ではなくて、肝心なのは何だか事情を知っているっぽい発言だ。

 願の視線が、諏訪を探るような厳しいものに変化した。

 その視線をうけた諏訪がすぐにそれに反応する。

「あ、ごめんなさい。ウチは生活苦しい新人の人を雇うことが多くて、それで自然にちょっとそっちの方面に顔が広くて」

「……なるほど」

 言われてみればさほど不思議ではない話だ。言葉遣いを除いては。

 しかし、これはこれでやりやすくなったのは事実だ。

 機密保持は、どう考えてもこちらの請け負うべき分野ではない。何しろ裾野を広げる仕事なのだ。すでに漏れた機密を有効に活用して悪いはずもない。

「――そう言うことなら話が早いです。猪野さんが、いろんな意味で適任なのではないかという話――いや可能性を感じましてですね」

 願は目力を込めて、じっと諏訪を見据える。

「会わせてください。ここのバイト終わるの何時ですか?」

 回りくどいことは辞めて、単刀直入に踏み込んでみる。

 何だかこの状況に至るまで、かなりの遠回りを強いられたような気分になっていたことも一因だろう。

 諏訪は大きくうなずき、

「バイトが終わるのは六時よ」

 と、まずは簡潔に答えてくれた。さすがにここで、

「猪野君に会いたければ、私を倒してからいくことね!」

 という超展開にはならないようだ。続けて発せられた諏訪の言葉も、恐らくはごく自然なものだった。

「伝言しておくわ。何処で会うことにする?」

「え? はぁ、そうですね……まぁ、その辺の喫茶店でも指定してくれれば、それで……」

 無難な選択だったはずだ。

 というか、他にやりようがない。まさかいきなり家にまで押しかけるわけにもいかないし、かと言って街中で立ったまま仕事の交渉となど論外だ。

 せいぜい喫茶店がファミレスに代わるぐらいだろう。

 しかし諏訪の反応は、頬に手を当てて哀しげな表情で首を振るという、願の選択を徹底的に否定するものだった。

「……あなたね」

「は、はい」

「それだと、素直に解釈すると『貧乏な探偵稼業を営む主人公に、思わぬ依頼が舞い込んだ』というシチュエーションになるでしょ?」

「な、なるでしょ、と言われても」

 その指摘に願は、戸惑う以外のリアクションを取りようがない。

 全く予測も付かない答えだったからだ。

 一体、何の話をしている? と願が疑問を抱いても無理からぬところだろう。

「あなたアニメ業界の人でしょ? どうしてそういうところがわからないの?」

 だが、さらに重ねられたのは酷い無茶振りだ。

 そもそも、この業界に踏み込んでから一週間も経っていない――というのは言い訳にもならないだろう。

 だが、今要求されていることは業界の人間なら対応できることなのだろうか?

 願は頭痛を感じながらも、この一連のやりとりの要点を考えてみる。

 つまり――

「――出会いの演出シチュエーションを、考えなければいけないんですね?」

 段々と、猪野という男の面倒くささがわかってきた。

 そして、古地の本意も。

 そもそも通常の手続きを踏んで、会う段取りを整えることが出来ない相手なのだ。

 だから、古地のやり方はそこに何の含みもなく、本当にただただ親切心だけで、ここを紹介してくれたに違いない。

 諏訪に会うことが何よりの近道なのだ。

 ……と言うことであれば、ここはもう頼り切っても良いだろう。

「お勧めの場所を、伺っても良いですか?」

 ここまでの前振りがあったせいか、自分でも驚くほど素直に諏訪に尋ねることが出来た。

 若井の古地の真意への読みが外れたおかげで、その厚意を感じ取れたことも大きいだろう。

 その申し出に、諏訪の表情も大きく緩む。

 確実に、こういう流れになることを望んでいたに違いない。

 さて――


 ――覚悟を決めるか。

一日空きましたが、これはこちらの事情。

やっと、本格的に名前が出てきました。まぁ、登場はしませんが。

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