情報収集編
3.
翌朝、上井草の駅前にたどり着けた事を、願は奇跡だと感じた。
願の服は昨日と変わっていない。
とかく時間に不規則な業界とは聞いていたが予想以上だった。
時間にルーズ、ということではなく収録が長引けば当然何もかもが後回しにされる。
そういうシステムで、そういう料金体制になっているのだ。
アポを取っていても、それでごり押しするというわけにもいかない。
“国家の緊急事態”と、更なるごり押しも、これから先、この業界の協力が不可欠である以上、それを選択することもありえない。
実際、そういうことを一切行わず、じっと待ち続けた願の前に現れた音響監督達の態度は友好的とは言い難かった。
これも当たり前といえば当たり前の反応だ、と願も半ば諦めている。
願の――というより若井のプランで行くとするなら、ここでの情報提供は「声優を売る」という事と変わらないように感じていても無理はない。
実際、ここでペラペラ情報提供する相手とはあまり仕事はしたくないな、と願自身が感じているので突っ込んだことも聞けないでいた。
が、どの業界にも異分子はいるもので、最終的には一人の音響監督に捕まって夜が明けるまで付き合わされてしまったのだ。もちろん酒付きで。
名を卯河という音響監督は、これから先の仕事は大丈夫なのかな? と心配してしまうほどに無防備に色々教えてくれたのである。
話を聞く中で、願はこの人物なりに若井のプランを最善とは言えないまでも次善だと感じて協力していくれている事に気付いた。確かにそういう考え方もあるだろう。
あるいは、こういう態度の方が業界全体を見渡せばいいのかも知れない。
非情なようだが、それによって守られるものも確かにあるからだ。
このプロジェクトに爪先だけを差し込んだ段階で、この統一性の無さである。
願は自分が飛ばされたこの仕事の難しさを肌で感じることとなった。ついでに肝臓への負担具合も。
そんなわけで肝臓を痛めつけ、一睡も出来ない状態で通い慣れない上井草に兎にも角にもたどり着いた瞬間に、願が奇跡を感じても無理からぬ事だと言えよう。
現在も朦朧としている自覚もあり、朝の光の加減もおかしな具合に見えるのであるから。
全身を支配する睡眠欲に抗いつつ、何とか事務所までたどり着くと、部屋の中は昨日とは様子が違っていた。
スチール机の数が増え、入って左手には曇りガラス付きの衝立に囲われた応接区画らしきものまで設えられている。
自分は本当に初期から参加できたらしいな、願がいささか的外れなことを考えていると、設備が増えたせいで願の視界からは死角に居たらしい若井から声が掛けられた。
「岸君、おはようさん。なんやヒドい顔やな」
「若井さんこそ」
そう答える願の言葉に嫌みはなく、若井は実際疲れているようだった。
昨日はかなりはつらつとした印象を受けたが、一気に老け込んだように見える。
「酒やな」
「ええ……酒です」
お互いの原因を自己申告に似た形で報告し終えた後、若井はそれだけは変わらない笑みを浮かべて告げた。
「覚悟しとき。今にこっちの方が普通になるから」
嫌な未来を予見されるが、それにリアクションをとる元気もない。
「……ええと、どっちから行きますか?」
お互いの進行状況を報告する、という目的があったことはかろうじて覚えている。
「俺の方は、本人がそこにいるから……」
「え?」
若井は視線だけで、いきなり出現していた応接区画を示してみせる。
恐らくはそこで酔いつぶれている、ということなのだろう。
「……岸君から聞こうか」
「会えたのは三人」
うなずきながら願は始める。
「そのうち、お二人からはあんまり良い反応はされませんでしたが、卯河さんからちょっと様子のおかしかった新人の話を聞けました」
「おかしかった?」
「何というか……役者馬鹿というか……日常生活も危うい感じの……」
何しろ、酒の席での、さらに人伝なので要領を得ない。
若井は顎をさすりながら、少し首をかしげ、
「そいつに会ってみるか? それとも、もっと情報を集めるか?」
実際、そこは迷うところだ。だが、この質問は予測できていたので願も答えを用意してある。
「会ってみようと思います――上手くいかないとしても、経験にはなるので」
「そいつの名前は?」
「猪野。猪野智大です」
「わっはっは、よっしゃ、全然知らん」
一年ほど前に、ラノベ原作のアニメ「プラグ・ハート」に男子学生Aとして出演しているのだが、元々そういう条件で探していたのだから、これは仕方がない。
「それで、そちらは……」
「それそれ。ちょっと岸君に協力して貰いたいと思うとってな」
「はぁ……なんですか?」
正直言うと、一端帰って寝たい。というか、この場で眠りたいぐらいなのであるが。
「俺は君を、一般的なアニメファンとしてのサンプルしようと思うとるんや。もちろんずっとではあらへんけど」
願は少し首をかしげるが、異論と言うほどのものは出てこない。
「そういうファンからの声をガツンと聞かせてやって欲しいんや」
言いながら、若井は衝立をガタガタと派手な音を立ててずらした。その向こうには茶色のソファの上で眠りこける痩せぎすの男。質素、というよりはむしろ粗末と言っても良い出で立ちで、もちろんそれが寝乱れている。こういう状態であるので無精髭は仕方のないところだろう。
「俺が見込んだ脚本家の富山球君や」
見たところ、なんとかまだ二十代であろうこの男のどこに若井は目を付けたのか。
一般的なファンであるため、脚本家の名前などほとんど知らない願は、ピンと来ないままの表情を素直に浮かべた。
この段階になって、ようやく富山が目を開けた。まだ意識は覚醒していないらしい。
そしてもの凄く酒臭い。
「……なんや、少し前にこういう話があったらしいやんけ。放映中のアニメのDVDの売れ行きが好調で、やけどそれが気に食わん脚本家が『あんなのが売れるなんてどうかしている』と呟いたとか何とか」
「あ」
と、願は思わず間の抜けた声を上げてしまった。
その件なら確かに記憶にある。名前は忘れてしまったが、ほんの少しの間だけ話題になったニュースだ。ということは、この富山という脚本家が……
その頃にはようやく、この問題の男の意識もはっきりしてきたらしい。若井の顔を観て、一瞬ギョッとなった後、周りを見回して現状をようやく確認できたようだ。
「…………富山です」
そして蚊の鳴くような声で挨拶。
「あ、はい。私はこのスタジオの――」
「APな」
「――で、岸と言います……ってAPって会社の役職としておかしくないですか?」
「ええやんけ。このスタジオで手がける作品は現状一つにするつもりやし」
そのプランについては言いたいこともあったが、願はそれよりも目の前の事を片付けることにした。
「話の流れからすると、富山さんが呟いた方ですか?」
「せや。名前隠してなかったしな。調べるまでもなかったわ」
「じゃあ、若井さんもその呟きに同意ってことですか?」
「そこは問題ちゃうやろ。大事なのは、そういう気概を持ってるちゅうこっちゃ」
「はぁ……」
“話題になるアニメ”を制作することが任務の一つ――話題にならなければ、そもそも巻き込まれない――である以上、売れたアニメを否定する流れはあり得ない。
すると、本当に気概だけで見込んだと言うことなのか。
「何しろ、無茶なアイデアを三十分ごとに収めて、山場作るように構成せなあかんわけやから、並大抵の根性やとでけへん。おまけにこいつは例の呟きで退路断っとるからなぁ。ダメ出しのしがいがあるあるいうもんや」
つまり求めているのは、クリエイターとしてではなく、職人としての腕なのか。
と、そこまでは合点がいった願だが、根本的な問題がある。
「ラノベとか、マンガを原作にするんじゃないんですか?」
今現在も、多士済々の能力者達がしのぎを削っているのがこの界隈だ。新たに考える手間もかけないですむし、何よりそもそものファンがいるから、話題作にもなりやすい。宣伝においては出版社の協力も得やすいだろう。それになにより、能力を使っての作劇プランはすでに行われている状態で世に出ている。
願は、当然そういう原作を探すことになると思っていた。
昨日、若井がアイデアを練らないと言ったときには確信していたと言っても良い。
「それでは伝説にならん。オリジナルで作らな、限界がある」
納得できるような、出来ないような。
「それに、原作の後追いになったらどうしても空白期間できてまうやろ。オリジナルで始めれば、続編アニメ作ってる間に――もちろん続編やるつもりで作るんやで――小説出したり漫画出したりで熱量の維持が出来る」
行動に必ず二つの理由を用意している周到さは見習うべきだろう。
確かに、ストックが切れてしまう可能性があるのが原作ものを選んだ場合の最大の弱点だ。
それに、これ以上の理由にも思い当たる。
「……あとは気概の問題ですね」
「せや」
「だからそのオリジナルを俺にやらせてくれ、と言ってるんだ」
突如、富山が割り込んできた。願と若井が話をしている間にしっかりと目は覚めたようだ。相変わらず表情はくたびれているが、眼に強い光が戻っている。
「アイデアは昨日話しただろう? 条件は満たしているはずだ」
「その話は、昨日さんざんやったやろ。すれた俺達で言い合っとってもしゃあないわ」
「……それで彼?」
「おおよ。昨日、霞ヶ関から来たばっかりで、まったくすれとらん。君もプロやったら、その素人の感想は無視せんわな?」
「…………」
その言葉で、富山は黙り込んでしまった。
素人に何がわかるか、とか言うのが常套文句かと願は考えていたのだが、どうも勝手が違うらしい。
だが何かの裁定を自分に委ねられるのは、どうにも尻込みしてしまう。
「い、いや、私は――」
「ちぃーっす! ご注文の品、お届けに上がりました」
「お、その辺にまとめて置いてくれ」
遠慮無く、事務所に踏み込んできたのはつなぎ姿の男達。胸元には見慣れた家電量販店のロゴが。
持ってきた、家電はいわゆるAVセット一式だった。
タイミング良すぎだろ、と願は内心突っ込んだが、若井の指示でそれらは次々とセッティングされていく。
「経理が早いとこ来てくれんと勘定がワヤになるなぁ」
領収書を受け取りながら若井が泣き言を漏らす中、願は気が引ける以上の、この企みに乗りたくない理由が自分にあることに気付いてしまった。
眠い。
その一言に尽きる。
こちらも二つの理由が重なったので、願は遠慮することなしに要求を突きつけてみることにした。
実際、空気や人の顔色に頓着してはいられないレベルの睡魔が襲いかかってきている。
「……若井さん、ちょっと眠っておきたいんですけど」
「おお、そりゃええな。朦朧となってるところで、忌憚のない意見を頼む」
話が噛み合わない。
「えっと、ですから……」
「岸君、ウチの事務所はブラックで行く」
「は?」
「元々、設立目的が御国のためやで。ここに来たのを不運やと思って、諦め。もちろん退社の自由なんかあらへんからな」
ブラックじゃ追いつかないほどの暗闇加減だ。
だが、微妙なところに首を突っ込んだ――突っ込まされた自覚もあるので反応が遅れてしまう。
「さて、時間を無駄にする必要はないわな。安心してええで。今からあるアニメを観て、忌憚のない意見を言ってもうたら、後はそこのソファで寝てもええから――それと君の家のことは忘れてしまえ」
格好良いことを言われたような気になるから始末に負えない。
それほどに眠いのだ。
もはや、抵抗する気力も失くした願はその場にへたり込み、若井が組み上がったばかりのAVセットで流すアニメを鑑賞することになった。
若井が「なんとシリーズ構成が存在しないという、ここ最近ではわかりやすい捨て鉢な作品や」と前振りするので「“シリーズ構成”って何ですか?」と素直に質問すると、若井は感極まったような表情を浮かべて、何故か富山の背中をバンバンと叩く。
富山の顔色が何故かそこで土気色になったが、睡眠欲が全身を覆いつつあった願はその理由を詮索することを選ばなかった。何より、アニメが始まっている。
モニターに映っているのは、去年放映されたアニメだ。一話の展開がわけがわからなすぎて、願は早々に観るのを辞めてしまったが、暗闇事務所の仕事であるというなら仕方がない。
何とか重いまぶたをこじ開けながら観ていくと、若井が次々と質問してくる。
すでに朦朧となっていた、願は問われるままに感想を並べていった。
「何故こうなるのかわからない」
「大げさすぎる」
「どこか面白いところがありましたか?」
言うたびに、空気が悪くなっていくような気がしたが、それもすぐに気にならなくなった。
――何しろ意識が途切れたのだから。
低血圧だから寝起きが悪い――などという理屈は迷信だと知っている。
その理屈を知っているから寝起きが良いというわけではないだろうが、願は目を覚まして即座に状況を理解した。
自分が寝ているのは事務所のソファ。眼鏡は――すぐ近くのガラステーブルの上。上着は壁際に吊されている。そのついでのように“下”も吊されている。つまり、今は下はパン一ということになるが、どうせ居ても若井ぐらいのものだろうし、そもそも脱がしたのも若井だろう。
痛みは感じないがやけに重く感じる頭を振り、さすがにおぼつかない足取りで応接区画から這い出てみると、どういうわけかすぐに気配を感じた。
視線を向けてみると目が合ってしまう。
もちろん相手は人間。それも女性。
事案発生――という単語が願の頭の中で明滅するが、女性の方は取り乱すそぶりすら見せない。
入り口近くのスチール机に陣取って、左手に持った紙束を次々と分類している。
出で立ちはと言うと、恐らくは長いであろう髪をひっつめて、ブラウスの上から紺のカーディガンを羽織っていた。
「岸さんですね。社長から聞いてます」
思わず思考停止する願へ怖くなるほど冷静な声で挨拶。どうやら面倒な事態は避けられたらしい、と願は少しだけ安堵する。
「私は経理を担当することになった、有原です」
「ぼ……私は――ご存じでしょうが岸です。岸願」
何とか自己紹介を返すと、とりあえずまともな格好になろうと応接区画に引っ込んで、身だしなみを整える。最後にネクタイを締めながら、段々と出来上がってくる事務所の陣容に感心もするが、何だか段取りの悪さも感じた。
段取りが悪いプロデューサー。
何か、致命的な弱点のような気もするが、現状でそれを理由に若井を不適格だと断ずることも出来ないだろう。
アニメ制作については、ちゃんと動いているし、今もどこかで活動中のようだ。
その為にいらぬ恥をかいたが、とにかく今は覚悟を決めて目の前の自体にちゃんと対応しよう。
「……申し訳ない、見苦しい姿を」
とにかく謝りながら、もう一度顔を見せると有原は涼しい顔で、
「構いません。会社とはそういうものですから」
そうだろうか、とも思うがあの失態を忘れてくれるならそれに越したことはない。なにより、願は民間の会社で働いた経験はない。
そうやって言葉の接ぎ穂を探していると先に有原から声がかけられた。
「それで岸さん。社長の話では、スマホを購入されているはずですよね。領収書はありますか?」
「あ、はい」
どうも主導権を握られっぱなしのような気がするが、出会いの不利がある。領収書を引っ張り出したところで、入れ替わりのようにさらに告げられた。
「社長から番号とアドレスを預かってますので、それを岸さんのスマホにも登録を」
「はい」
「よく事情がわかりませんでしたが、どなたかと会う予定だとか」
「はい」
「上手くいかないようであれば、アテもあるので遠慮をしないで連絡をくれとのことです」
「はい」
「…………」
途中で生返事しかできなくなっていることも自覚していたが、他にどうしようもない。
有原に軽く睨まれて、さらに居心地が悪くなる。
「で、わ……しゃ、社長は?」
「少なくとも、今日はお戻りになるつもりはないようです。私も定時で帰宅するように言いつかってます」
「そう……ですか」
初対面の不具合だけでは説明が付かない、何か格の違いを感じてしまう。
何才なのかな? とごく自然に疑問も湧いてくるが、それを口にする勇気は湧いてこない。
「あと人に会うと言うことであるなら、余計なお世話かも知れませんが髭はあたられた方が良いんじゃないですか?」
「あ、そうですね。一端家に帰るか……」
「社長から洗面用具預かってます。洗面台は事務所を出て階段脇に。もちろん、それをお使いになるかは岸さんの自由だと思いますが」
その言葉を受けて、願は大きく息を吸い込んだ。
そして、細心の注意を払い、手を伸ばして洗面用具を受け取りながら、こう返事をした。
「はい」
生返事にはならなかったと思う。
区切る必要あるのか? というぐらい短いですが、こういうものなので。
しばらく毎日投稿することになるので、ご勘弁を。