その日(1)
28.
その日――
――と言っても午前中は計算に入れなくても良い。
それに昼も夜もない状態の制作陣の方が多かった。スタジオ蟷螂名義で手配されたスタジオの中では、今日も監督の細川を筆頭に順調に返事が出来る屍を生産中だ。
「カニバリゼーション」の放映がクールを半分終えているのだから、単純に想像すれば最終回直前辺りを制作していなければならないはずだが、現実はいつだって非情である。
今日も、在宅アニメーターの仕事をかき集めてきた制作進行に、無情な「リテイク!」の声がかけられる。
だが、この状況を作り出した大元の人間はこの地獄には付き合わない。
他にやるべき事がある。
新しい地獄を作り出すという、ある意味では因果な行動を起こさなければならない。
現在の地獄に付き合って未来を見ることを忘れては、そもそも生きていくことも出来なくなる。
「未生さんに、青黄センセ。久しぶり……なんかな? まぁ、ええわ。で、こちらが相川出版の黄名口くん。こちらが『月刊コンロン』の編集の枕崎くん」
雑居ビルにあるスタジオ蟷螂の事務所には若井が集めた四人が集まっていた。
黄名川は眼鏡をかけた怜悧な印象の女性。枕崎は随分と砕けた服装の中年の男性で、若井ほどではなかったが、チンピラっぽいと言うか業界ゴロの匂いを隠しきれていない。
そこにチンピラそのもののアロハシャツの若井に、ゴテゴテした装飾過多な未生。そしてふくよかすぎる青黄がいるのだから、もはや事務所は常識の通用しない異空間と呼んでも差し支えないだろう。
時刻としては、午後六時を回ったところ。
引っ越す暇などありはしなかったから、パーティションで分けられた応接区画はさすがにこの人数では手狭なので、お互いにスチール机を挟んでの極めて事務的な雰囲気の中での対面となった。
それに拍車をかけているのが、淡々と帰り支度を進める有原の存在だろう。
とても、これから新しい企画の最初の打ち合わせをしようという雰囲気ではない。
「あ、あの、この状況は一体……」
かなり酷い目に遭ってきたはずだが、青黄は結局痩せることはなかった。
古い表現をするなら“筋金入りのデブ”ということなのだろう。青黄の肉塊のような身体は些かの翳りも見えなかった。
「君ら二人に、仕事を頼むときにこちらが提供できる報酬を提示したやろ。青黄センセは漫画家として『カニバリゼーション』のコミカライズを」
「す、すると……」
「せや。なんや、こっちはなんのしがらみもない状態やからな。逆に苦労もしたんやけど、今度、磯川書店さんが漫画雑誌創刊する、という話を聞きつけてな。お互いに渡りに船、ちゅうやっちゃ」
「い、磯川……」
それを聞いて肉塊を揺するようにして、腰を引いた青黄。
無理もない。
何しろ磯川書店と言えば、お堅いことで有名な出版社だ。
そもそも漫画雑誌を創刊すること自体が天変地異と言っても良いのに、青黄が得意としてきたタイプの漫画はどう考えてもそぐわない。
「わかっとる。そして青黄センセもわかっとるやろ。センセは自分でストーリー考えて描くタイプの漫画家やない。そうなると答えは一つや」
青黄はしばらく目を瞬かせていたが、やがて傍らに座るでろっとした出で立ちの未生を発見する。
「そういうこっちゃ。そういう段取りで二人にも話してある。未生さん、事実上二本書くことになるけど、それはかまへんやろ?」
無謀にも若井は、当事者である二人にまったく根回しせずにこの会合をセッティングしていた。
そんな事情であるので、未生にとっては寝耳に水の無茶振りであるわけなのだが、未生に動揺は見られない。いつものことと言えば、いつものこと、であるのかも知れないが、ここまで黙り込んでいるのは、いささか不気味でもある。
だが、ここで未生から何らかのリアクションが出ないと、話が先に進まないのも事実。
「……一つ……」
いつもの如く話し始めようとした未生が、そこで言い淀んだ。
「わ、わ、私は……」
だがそこで未生は話すことを諦めなかった。
「は、は、は、話を作り続けることを、め、め、面倒に思うことはない。だ、だ、だけど……」
「安心してくれてええで。なんぼ成果は出んでも『カニバリゼーション』は俺が版権握っとるんや。この二人がええ加減な仕事しとったら、遠慮無く告げ口してきぃ。俺が直々にネジまき直したる」
突然、差し込まれた若井の言葉。
未生はその意味を一瞬理解できなかったのか、珍しく惚けたような表情を浮かべるがやがてニヤリと笑みを浮かべた。
「そや。岸君からの話聞いてると、どうもろくな編集にあたっとらんかったみたいやけど、その点この二人は信頼してくれてええで。まぁ、逆の意味で厳しいかもしれんけど」
そんな若井の改めての紹介に、黄名川は眼鏡を光らせ枕崎は悪党そのものの笑みを浮かべた。
「黄名川くんは見た目の通り博覧強記の才女や。圧倒的にダメ出ししてくるが、それを突破できれば結晶みたいな話が出来上がる。こっちの枕崎くんは、磯川が漫画に色気出して、それで白羽の矢を立てた漫画雑誌製作のノウハウを抱えとる……ちゅう、ふれこみで業界渡ってきた人間やからな。自分の評判のためにもキツイで~」
「若井さん、無茶苦茶言うわ」
枕崎が、そこでようやく言葉を発した。
その声は見事なほどのダミ声で、なるほど幾度となくその声と言葉を使ってきたことが伺える。
指揮官が無口では、そもそも物事は始まらないのだから、その声は枕崎の勲章だった。
「そんなわけで、青黄先生と協力して、いい漫画作っていきましょう未生先生」
「一つ、この男は絵は上手いが話は作れない。
二つ、そもそもストーリーというものを理解できるか怪しい。
結論、尋常じゃないほど苦労するぞ」
未生のいつもの調子で語られた、ほとんど脅し文句のその言葉に枕崎は破顔一笑、
「それは、俺に任せてもらいましょう。そういう漫画家さん多いですから。しかし、そういう事情なら未生先生の負担は大きいでしょうに。それは大丈夫ですか?」
「望むところ」
そう返事をする未生の目は爛々と輝いていた。
これでようやく、未生は自分の望むべき未来に一歩を踏み出すことになるのだから当然だろう。
「ま、待ってください。か、描くのは全然良いんですけど、それはコミカライズですよね。つまりにアニメの内容を漫画にするわけですよね? 未生さんにまかせなくても富山さんに……」
「富山君には引いてもらう」
若井が厳しい声で、それを否定する。
「気概を買ったし、確かに伝手もあるようやけどまだまだ力量自体が足らん。結局、ストーリー構成の仕事をストーリー監修という名目で未生さんに任せてるのが現状や」
「ですけど、もう出来上がっているわけですし……」
「やから、アニメとは違う話を漫画にするんや。まぁ、違う時代の話と言った方がええのかもしれんけど」
「へ?」
「青黄センセ。俺はなコミカライズと銘打って、同じ話を発信元がちょっと媒体変えたくらいで世に送り出すのは間違うとる、と思うとるんや」
「…………」
「いっぺん送り出した話は、受け手の解釈にまかさなあかん。それをコミカライズやノベライズやと複数の解釈の可能性を発信元がやらかしてどうすんねん? やるんやったら、同じ世界観での別の話や」
そこで未生が片手を挙げた。
若井は我が意を得たりとばかりにニヤリと笑うと、黄名川にうなずきかける。
「この若井さんの考え方に私ども相川出版は、全面的に賛同しております」
眼鏡を、クイッと持ち上げながら黄名川は未生を睨み付けるように視線を向けた。
「私どもとしては、そもそものあれらの武具に力が宿った経緯などを、ぜひとも未生先生に描いていただきたいと考えております」
黄名川がそう告げた瞬間、未生の顔が微妙に引きつった。
「……未生さん、痛い所突かれたやろ。多分、漠然としか考えてなかったやろからな」
「…………」
それに反論しない――いや、出来ない未生。
「大丈夫やって。そのための黄名川さんやから。たっぷりダメ出ししてもらって、そのあたりを固めてくれ。作品続くにしても、それはきっと財産になるやろから」
「つ、つ、“続くにしても”?」
今度は即座に反応する未生。
「俺が何時までこのプロジェクトの関わってられるかわからんからな。村瀬君がお気楽な見通し立てとったけど、いつまで保つやら……」
若井の口元に自嘲の笑みが閃く。
しかし一瞬にして、その表情はおどけた笑みにかき消された。
「二人には世話になったからな。プロジェクトから外されてもキッチリ面倒は見たる。この二人がええ加減な事したらいつでも言うて来てくれ。地味な嫌がらせぐらいはしたるからな」
「大丈夫、大丈夫。やり始めた人間いなくなっても続いてる企画はゴマンとあるから」
枕崎が豪快に笑いながら、若井を崖から突き落とす。
「まぁ、そういうこっちゃな。じゃあもう具体的な話に行こうか。まずは青黄センセの方のアウトラインでも決めとかなな。青黄センセは希望あるか」
「オジサンが描きたいです」
ほとんど即答だった。
しかも、あまりにも意外性のある言葉。
「アーーー!?」
即座に枕崎が切り返したのは付き合いが浅いからだろう。
返し方が果てしなく下品であったが。
「な、なんや女の子ばっかり描きたかったんちゃうんか?」
その下品な切り返しには構わず、若井が慌てて青木の発言を問いただす。
すると青黄は得意げな表情を浮かべて、こう切り替えしてきた。
「そこは自己分析しまたよ。思うに俺は線入れを多くしてキャラを飾りたかったんですよ。女の子にはその点、線を入れて飾り立てること一杯出来ましたから。下着の皺とか」
「…………さよか」
かろうじて返事が出来た分だけ、若井を褒めても良いだろう。
「俺は今までそんな理由で男描くのいやだったんですけどね。強制で色々描かされている内に、目元の皺とか、使い込まれた手袋とか、色々修飾できることに気付きました」
その理屈で行くと、女の子の下着の皺とオジサンの目元の皺が同価値という斬新な結論に達するのだが、結論としては青黄が描ける人物に幅が出来たということになる。
それだけをポジティブに捉えて話を先に進めた方が建設的だ。
「と言うことやけど、未生さん」
「……一つ、年配者を多く描きたいなら主役に据えればいい
二つ、一つめの条件に従うなら生存が比較的容易い秩序側を主軸に構築する方が無難
提案。学院側教師の物語はどうか?」
ほとんど、即座と言っても良いタイミングで未生からの答えが返ってきた。
青黄の要求が意外すぎたせいで、逆に創作のためのスイッチが刺激されたのかも知れない。
その提案に、即座に枕崎が乗ってきた。
「その案は良いように思いますが、青黄先生の女の子の魅力を捨てるのは惜しいですな」
「出さないとは言ってない」
「例えば?」
「……の、の、の、能力喪失した後の話、とか」
「ふ~む」
枕崎が腕を組んで唸ったところから、本格的な議論開始となった。
未生の案を素直に膨らませていくと、アニメ終了後の話――それも直後という状態になりそうであったのだが、それに若井が難色を示す。
「せっかく、ああいう終わり方するのに、そんなことしたら残ないわ~」
と言うのが主な理由であるのだが枕崎はそもそも「カニバリゼーション」がどういう終わり方をするのかは知らないのである。黄名川ももちろんそうだ。
そこで説得するためにも、ラストシーンの説明をすることになる。
だが未生は例の調子であるし、青黄にいたってはこの段階に至っても話をちゃんと理解しているかは怪しいところだ。
そこで、消去法的に若井の出番となるわけだが――
――まさに、そのタイミングで若井の携帯が震えた。
一同に断りを入れて電話に出ようとする若井。
だが、その表示されている連絡元を見て表情が一変する。
「もしもし」
それでも繋げて携帯を耳に当てた若井は、しばらく黙ってうなずいていたが、
「なんやて!?」
と、突如声を荒げた。
そんな若井を見て他の三人は固唾を呑んで見守ることとなり、誰も声を発しない。
元より会議が出来る状況ではないのだが、三人が三人とも「カニバリゼーション」という作品の本来の目的に関わる連絡だと察したのだろう。
そして、その予感めいた三人の考えは的を射ていた。
「――すまんが緊急事態や……鍵を預けるほど無責任にもできんから、悪いが今日はこれでお開きいうことで頼みたい。次はちゃんとした食事のでける店手配するわ」
「それは構いませんが……何か?」
黄名川が代表するように声をかけた。
若井は照れ笑いのような曖昧な表情を浮かべる。
「なんや、まだチャンスはくれるらしい。過去最大規模の“現象”が発生するそうや」
「じゃあ……」
「せや。猪野君呼ばなあかんと言うことは、まず岸君やな」
未生の相槌にも似た呟きに、若井は無慈悲な決断を下した。
その願がこの時刻どこにいたのかというと居酒屋である。
居酒屋という響きで連想されるようなごくごく一般的なチェーン店――ではない。
個室完備の、もうちょっとはグレードが高そうな店舗である。
場所は三軒茶屋。駅前であることに代わりはないが、願には初体験の店だった。
元より、居酒屋の個室で友人と飲むという発想がないし、物理的に不可能であるという事情もある。
さて、そんなこんなで目の前にいるのは再びの古地であった。
あの時とは違い、能登はいない。その代わりに別の人物がいる。
前野賢治。
ぎょろっとした目が特徴的な当代の人気声優である。個室で会うこととになったのは、概ね前野がいることが原因だろう。何しろ個性的なキャラクターで露出の多い人物でもある。
そして古地にとっては事務所の先輩にあたり、つまりかかつては猪野の先輩でもあった、ということになる。
「この度は、お呼び立てして申し訳ありません」
前野はいささか大げさに感じるほどの腰の低さで願を出迎えた。
ファン目線として感じていた前野の印象のまま、と言っても良いだろう。
「『カニバリゼーション』面白いです」
願は常々、前野と言う人物は「よかった探しが上手い」と感じていた。
そしてその感想は裏切られることなく、前野によって「カニバリゼーション」はどんどんと持ち上げられていく。
今のところ、願が製作に関わったのはまがりなりにも「カニバリゼーション」だけなので、褒め殺しの可能性もあったが、あまりにもディープな視点からの感想は視聴してくれていることだけは間違いなさそうだ。
唐揚げ、揚げ出し豆腐、焼き鳥、冷や奴、小さな舟盛りと男三人だけの空間に、定番のメニューが並んでいき、主に古地がそれを平らげていくのだが、実のところ願はほとんど味もわからず喉を通らなかった。
この場に呼び出された理由が痛いほど思い当たるからだ。
だから前野が「カニバリゼーション」のみならず、願の好みのアニメについても褒め殺しにかかってもまったく安心できない。
古地が持ち前の明るさで、必死に場を盛り上げようとしているが己の推測を信じて疑わない願には役に立たない。
「それで……『カニバリゼーション』の裏目的? 表沙汰に出来ない企みの方が上手くいっていないという話を伺いましたが」
唐突と言っても良いタイミングで、ついに前野が覚悟していた話題をかすっていった。
「ええ、まぁ、そのような状態です」
この件に関して箝口令を受けた覚えがない願は、その話題を避ける名目がない。
そのために、このような曖昧な状態になる。
「色々聞いていく内に、猪野を積極的に事態を巻き込ませようという計画だったと思うんですが、それはどうでしょう?」
「それは……」
確か古地と会ったときにすでに話しているはずだ。
あの時は猪野を参加させるかどうか未確定な状態であったが、現状として猪野が「カニバリゼーション」に参加している以上、猪野が巻き込まれていることは誤魔化しようもない。
助けを求めて、思わず古地に視線を向けてしまうが返答のしようがないだろう。
願としても古地が前野に事情を話したことを非難するつもりはない。
「猪野に、そういう期待がかかっていたことは事実です」
結果として、正直に答える以上の有効な方法を思いつけなかった。
「――かかっていた。ということはそちらはもう失敗だと判断してるんですか?」
「あ、いえ。これは僕の早合点というか……何となく空気を読んだ結果と申しましょうか」
「では、絶望的ではあるんですね?」
「は、はい」
声優の本気、と言うわけではないだろうがその舌鋒は鋭い。
もはや願は心情的に全面降伏状態だ。
ここで古地を見ることは、もはや散弾を周囲にばらまくに等しい行為だろう。実際、見ずとも脂汗を流している古地の姿が目に浮かぶ。
「……すると猪野は遠からず、お払い箱、ということに?」
「そこまで無責任なことはするつもりはありません――少なくとも僕とウチの若井はそのように考えています」
だが、空気を悪くしてでも後輩の行く末を心配する前野にも非があるわけではない。
むしろ、そういった点を追求する心根は真摯であると断言することも出来る。
だからこそ、前野の舌鋒が緩むことはなかった。
「それで具体的には?」
「…………」
ここで、ちゃんと答えることが出来ない「スタジオ蟷螂」の方に間違いなく問題がある。
だが願としても、全くの放置でここまで来たわけではない。
「あ、あのですね。仕事の依頼――もちろん声優としてですよ――があることは、ちゃんと猪野には話してるんですよ。もちろん断るように言ったりはしてません。むしろ、受けてくれるように言ってはいるんですが……」
「――応じませんか」
前野の声が急に変わった。
今までは責める口調であったのに、何処かしら諦観の滲む声音に。
そしてそのまま頭を下げた。
「すいません。責めるような形になってしまって」
「え? あ、い、いえ……こちらが不甲斐ないのも事実ですから」
あまりの急展開に、願は目を白黒させる。
「不甲斐ない……ですか?」
「猪野は、未だに“事態”に巻き込まれる可能性を考えて、声優としての仕事を絞ろうとしてるんです。先日『カニバリゼーション』で、あまりよくない展開が放映されたというのに」
「良くない?」
オウム返しに――いや、オウム返しだからこそだろうか。ここで古地がようやく割り込んできた。
「ルキングが負けたでしょ」
「ああ……いや、でも負けたからといって、それで失敗と言うことにはならんだろ」
「もちろん、それで即失敗と言うことなら『カニバリゼーション』のシナリオ自体が変更されていたでしょうけど、実際≪鎧袖一触≫も負けているわけですし……」
「なるほど」
前野が、ポン、と実際に手を打った。
「それでもシュウは巻き込まれたままだ。ということは確かに負けたことは失敗にはならない――となるとシュウはいつ巻き込まれたんでしょうね」
「若井さんも、そこを凄く知りたがっていましたが……事態に実際に対応している部署も、わからないみたいですね」
「そして猪野は巻き込まれないまま、ここまで来てしまった。なるほど確かに岸さんや、お会いしたことはありませんが若井さんが現状を絶望視するのもわかる気がします」
「――ええ。なので、本当に僕もせめてオーディションは受けに行くようには勧めてるんです。声をかけていただいたものはもちろん、藤原さんの伝手で教えてもらったり……」
「俺も元後輩と言うことで尋ねられる事が多いんですよ。それで、曖昧な答えを返すことも出来ませんから現状を知っておこうと思いまして」
前野のその説明に願は、この会合が開かれた経緯について納得することが出来た。
「ショーリ。お前にも面倒をかけた」
「い、いえ、いいんですよ。俺がやったことといえば岸くんに連絡とって、この場をセッティングしただけですから……」
「それもなかなか出来ないよ。俺なんかホントダメ人間で、最近は年のせいか物忘れも酷いし」
動画などでたびたび見る前野の自虐が、願の目の前で繰り広げられている。
「またまた。そんな自虐を……」
「あ、あの、そういう事情なら一度前野さん、もちろん古地さんからも猪野を説得して貰えませんか? 僕らとしても不本意な状況であることは説明したとおりですし」
その願の訴えに二人は顔を見合わせる。
そして、同時に溜息をついた。
「実は岸さん。それはあいつがアンバックにいたときに結構やったんですよ」
「そうなんだ」
古地が乗ってくる。先輩の前野が敬語を崩さず、後輩の古地が敬語を使わないので何とも妙な塩梅だが、これは仕方がないだろう。
それよりも問題は、猪野がオーディションを避けているのが今に始まった話ではないという点だ。願は猪野があくまでプロジェクトを諦めないからこそ拒否しているのだと考えていたが、こうなると別の事情もあると考えるべきだろう。
「それは……そもそも猪野が声優としての仕事を拒んでいる――いえ、でもトレーニングとかレッスンとかはずっとしてましたよ」
「そうなんです。あいつはほら……色々ややこしいでしょ」
その前野の言葉にはうなずく以外の選択肢がない。
「けれど、そのややこしさもあいつの行動の原動力になっていると思うんですよ。しかし、それがウチの事務所辞めるあたりから噛み合わなくなってきた」
「なんというか……まぁ、実際には五月病みたいな感じだと思う。新しい環境と自分の理想が噛み合ってなかったというか」
前野と古地二人がかりの説明に、願も問題のアウトラインが見えてきたような気がした。
猪野が他の仕事を断り続けている理由は、事態に巻き込まれている、というだけの一点ではないようだ。そもそも声優という職業に見切りを付け――
――本格的に中二病の道へと進む。
その未来予想図は願の心の内に苦いものを生み出した。
そういった心境に陥ることが不可解であったが、どこかで納得する気持ちはある。
なぜなら目の前の二人も、恐らくは同じ心境なのだと感じることが出来たから。
だからこそ、二人は忙しい最中に時間を割いてまで願との面会を望んだのだ。
「猪野は――声優を続けるべきだと思います。僕なんかまだまだ素人ですけど、猪野は凄いと思う。あいつの演技をもっと聞いてみたい」
だから結論としてはこうなるし、この場に二人が現れた理由もはっきり理解できた。
このまま、猪野をただの“おかしな人”として扱わなければならないのは――あるいは“おかしな人”に追い込んでしまうのは、どう考えても不本意に感じている自分がいる。
「うん、岸さん。それは俺らも同じだ。ルキングというレギュラーキャラクターを演じている猪野に触れて確信したよ。猪野は声優を続けるべきだ」
「前野さん!」
感極まった願が思わず熱く応えてしまう。
「あ、俺もそういう感じで」
古地がこっそりと参加してくる。
前野もそれに笑顔でうなずいて、話し合いを次の段階に進めた。
「じゃあ、ここからは建設的な話し合いにしましょう。猪野になんとか他の仕事……いやそこでズルは良くない。なんとかオーディションに」
「そ、そうですね。今、声をかけてもらっている仕事は……」
――このタイミングで願のスマホが震えた。
思わず内ポケットを抑えた仕草を前野も気付いたようだ。視線で出るように促した。
それに会釈をして、取り出してみると表示されている名前は「若井」
連絡があること自体は珍しい事でもなかったので、願は特に不思議に思うことなく繋ぐ。
すると、そこから語られる若井の言葉に願は動揺する。
だから思わず声に出してしまった。
「大岩さん? 大岩さんも呼ぶんですか?」
目の前に誰がいるのか。それを完全に失念していた。
「しかし、僕は大岩さんとは面識は……」
そんな願の肩に、前野の手がポンと置かれる。
思わず視線を向けた先には、満面の笑顔でサムズアップしている前野と、その後ろで大げさに首を振る古地。
そうだった。
前野という人物を前にして大岩――大岩雄景の名前を出したらそれはこうなるに決まっている。
「わかりました。まずは猪野と連絡――大岩さんは、どういうわけか今、何よりも強力な伝手がありまして。ええ、マジックアルファからは連絡して貰えるんですね」
それから細々な事をやりとりして連絡を終えたスマホが提示している時刻は――
「――21:30か」
このあたりで、一応考えていた展開のラストにさしかかります。
さしかかるのは良いんですが、その前段階をまったく考えてなかったことが災いしましたね。
まぁ、次はもう書き始めているのでそんなに遅くはならないかと。




