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配役説得編

23.


 その“現象”に名前は付けれらていなかった。

 日々、生き残るのに精一杯の荒野で、そんな当てにならないことに希望を抱くわけにはいかなかった。ましてや強者であることを義務づけられた世界で、弱者として生まれついてしまったのなら尚更のこと。

 一切の救いを捨て。

 一切の欲望を捨て。

 一切の未来を捨て。

 ただ、ひたすらに現在いまを生き延びるしかなかった。

 死ぬ勇気もなかった。自分の物だと唯一主張できる命を手放すことは、想像するだけで恐ろしかった。だから何もかに顔を背け、心を殺したままで歩き続けるしかない。

 事実そうして来なければ“おこぼれ”に預かれないのだ。

 それが強者が弱者を区別するための、気まぐれだったとしても。

 その気まぐれにすがらなければ、命を手放すことになってしまう。

 レンボルは、そんな生と死の曖昧な境界線上を歩み続けていた。だから“現象”が訪れたとしても、それがすぐに判明するはずがない。生き残るだけで精一杯の中で、能力を使用を望む暇があるはずがない。

 だが、その瞬間は訪れた。

 いつものように“ご主人様”と呼んでいる男の足下に跪いて靴紐を結んでいた時だ。

 持っていた靴紐がボロボロと崩れ、それに連れて“ご主人様”の鉄板入りのブーツも、その堅さの意味を消失したかのように崩れてしまった。

 何が起きたのか。

 それが何を意味するのか。

 先に気付いたのは“ご主人様”の方だった。

「ヒィ」

 と、今までひたすらに自分を罵っていたその口から悲鳴が漏れる。

 そこから先はほとんど無意識だった。レンボルはただ普通に右手を伸ばし、剥き出しになった男の足を掴む。

 男に対する感情を呼び起こす必要はなかった。

 この男は自分を裸にして酷い屈辱を与えるのを常としていた。

 向けるべき害意を間違えるはずもない。

 感情を込めて、ギュッと握りしめようとした時には男はすでに全身が崩壊していた。

 肉も骨も血も、そして声も。

 この世界に痕跡を留めることなく、一切合切が消滅してしまった。

「ほ、壊崩者エーテンだ……」

 どこからかそんな声が聞こえた。

 だが、それは世界が見せたほんの僅かな優しさゆだんだったのだろう。

 レンボルが気付いたときには、周りから人が消え失せていた。

崩壊者エーテン……?)

 確かにその噂は聞いたことがあった。

 触れる物を崩壊させる――異能力者。

 この荒野に現れる、力の象徴の一つ。前の崩壊者エーテンは暴炎ガラッシュに殺されたと聞かされていたが……

(無敵ではないんだ)

 レンボルは噛みしめるように思う。

 そして、突然宿ったこの力についても。

 レンボルはその場でかがみ込んで、足下の小石を拾った。

 先ほどのように崩れたりはしない。小石はその姿を保ったまま。当たり前の状態がそこにあるだけだ。

 レンボルはその小石に敵意を乗せた。

 途端に小石は形を無くして崩れ去っていく。

 つまりこの能力は、意志がないと発動しない。

(では、なぜ――)

 何故、靴紐は崩れていったのか。

 あの時、自分にはこんな能力が宿るという自覚も予感もなかった。

 今までの生活と同じように、ただ心を殺して、黙々と――


 ――だが、それは違うのだ。


 自分は常に望んでいたのだ。

 全ての滅びを。

 この忌まわしい世界の全ての崩壊を。

 そんな自分が壊崩者エーテンと能力を引き継いだ。

 こうなれば何が起こっているのか、考えるまでもない。

(間違えたんだ)

 レンボルは思う。

 その口の端から、響きそのものが歪な笑い声が漏れ出してきた。

 そもそもこの世界は間違え続けてきた。

 荒野に生きる人々がいる一方で、壁の向こう側では繁栄を享受している人々もいる。

 そいつらと、荒野とでは何が違うのか?

 そして、そんな荒野の中でも自分のような最下層に位置する自分は何が違うのか?

 いくら考えても、答えが出るはずもない。

 それはそもそも、世界が間違えているのだから。

 そして今、世界を呪う自分にこんな能力を与えてしまう――世界。

「間違えたんだ」

 レンボルはもう一度、今度ははっきりと声に出して呟いた。

 そして無くなってしまった。

 何もかもが無くなった。

 もう、自分の命の大切さもわからなくなった。

 こんな間違いだらけの世界で、自分の命の正しさを確信することが出来なくなった。

 レンボルは思う。

 ならば壊してしまおう――己の命ごと。

 何もかも間違っているののなら、他に選択肢があろうはずもない。

 壊すのだ。何もかも壊すのだ。そのためにうってつけの能力ちからはすでに、自分の両手に宿っている。躊躇する理由は何もない……

 ……壊す?

 間違った世界を壊す?

 それは“正しい”事なのではないのか?

「ィグィ」

 レンボルの喉の奥から何かが外れたような音が響く。 

 世界を壊そうと決意した瞬間に、それが正しさを証明することになる。

 なんという皮肉。

 世界はこんなにも間違っていたのか。

 もしかしたら、もうずっと前に壊れていたのではないのか?

 レンボルは思う。


 ――僕はいつから壊れていたのだろう。


 願は随分久しぶりに未生のイメージノベル――とでも言うべきだろうか――に目を通した。

 これが書かれた理由は、もちろん水戸にレンボルという役を掴んで貰うためだ。

 しかしこれは“母親”にはなかなかハードな役なのではないだろうか?

 水戸は三ヶ月ほど前に無事に出産を終えていたが、なんというかこのイメージノベルは命の尊厳が踏みにじられているような内容だ。

 もっとも、そういう個人的な事情を抜きにして演じることが出来るのが“役者”という物なのかもしれないが……

「どや? これ以上ないほどのサイドストーリーやろ?」

「サイドストーリー……なんですか?」

 このイメージノベルを持ってきた若井にそれがプリントされた紙の束を返しながら願は疑問符付きの返事を返す。

「細川君は、どこかでざっくりと挿入したいようなこと言うとったな。富山君が頭抱えとったけど」

「で、水戸さんには?」

「昨日、事務所宛に送ってある」

 「西方の尊き魔女」での水戸の演技を目の当たりにしたのが昨日の夜であるから、相変わらず瞬間最大風速的な速度は維持しているようだ。

 今の時刻は午後一時。

 水戸に直接会って口説き落とすために、今は例のハイエースを駆って水戸の自宅近くの喫茶店に出張ってきているところだ。

 住宅街の真ん中に突如出没したような、唐突さがある喫茶店で、指定されたものの見つけ出すのにかなり時間がかかってしまった。

 ハイエースを停めた駐車場も随分とここから遠い。

 そんな店舗であるので、店内は随分と狭い。

 カウンター席もなく、テーブル席が三つあるばかりだ。調度品の色はほぼ白で統一されており、採光のためか大きく設置された窓から入ってくる午後の光で今にもハレーションを起こしそうである。

 何だか色々とダメな感じしかしない喫茶店ではあるが、乳飲み子を抱えた水戸としては、他に選択肢はなかったのだろう。

 スタジオ蟷螂側としても文句の付けようもない。

 ほとんど趣味でこの店を開けているとしか思えない店主らしき人物は、普段着にエプロンを着けただけの中年の主婦で、あまり覇気のない表情から見ても「やっちまった感」が漂っている。

 こういう店で、あれこれと注文するは危険過ぎるので若井も願も、

「コーヒー」

 とだけ注文して、あとは極力メニューも見ないようにしていた。

「受けてくれますかねぇ……」

 ノベルの出来はともかくとして、内容としてどうにも嫌悪感を抱かずには居られない内容だ。

 そういう背景を背負っているキャラクターで、作劇上それが必要なのだとしても、そうそう受け入れられる内容ではないだろう。

 ましてや、それを演じるとなると、ある意味でそれを受け入れた上で役作りをしないといけないわけだ。

「岸君、そこは考え違いやで。『受けてくれますかねぇ』やのうて『受けてもらう』んや」

 願の呟きに若井が即座に反応した。

 プロデューサーとしては全くの正論なのだろう。

 それでも願には違和感がつきまとう。

 母親となったばかりの人に、これほど荒んだ役を依頼するのは倫理的に問題がある――ようにどうしても感じてしまう。

 自分でも、色々と役者に対して失礼なのではないかと自覚しながら。

「……そもそも、水戸さんのキャスティングに関してだけどうして僕が呼ばれるんですか?」

「君が見つけたんやないか」

「僕は思い出しただけですよ。それが若井さんや細川さんの助けになるかどうかは別問題じゃないですか」

「現に助けになっとるわけやから、すでに別問題とちゃう」

「その時点で、僕の手助けは終了でも良いのでは?」

「なに言うとんねん。あのミールというキャラクターをしっかり覚えとったわけやから、アニメの人気はともかく君には印象深かったわけやろ?」

「まぁ……そういうことになりますね」

 その割に肝心のタイトルを失念していた事実は、若井の中でどう処理されているのだろうか?

「昨日今日、見たばかりの俺の言葉に説得力なんかあるか。ここは熟成させた君の言葉が必要なんや」

「熟成って……」

 もはや絶句する以外に選択肢はない。

 そういう意図であるなら、例え黙りを決め込んだとしても良い具合に話のダシに使われることになるのだろう。

 願がため息をつきかけたその時、来客を告げるドアベルが鳴った。

 この店にそうそう来客があるとも思えない。目を向けてみると、そこには腕に赤ん坊を抱えたショートカットの女性がいた。

 もちろん顔はプロフィールで確認している。

 水戸真琴で間違いなかった。


 水戸の腕の中の赤ん坊は男の子。名前は「拓真」と紹介された。

 三ヶ月と聞いていたから、そろそろ首も据わり表情も豊かになってくる頃。

 可愛い盛りというよりは、可愛いくなるはじめと言うべきなのかもしれない。憎たらしくなるのもこの頃からなのかもしれないが。

 若井は、水戸に席を勧めると、やたらにこの拓真という名の赤ん坊を中心に世間話を開始した。

 口説き落とすための手段として選択しているのか、本当に子供好きなのか。

 そういえば相変わらず、若井の家族構成は謎のままだ。

「……で、こちらからのお願いの件ですが。目は通していただけましたか」

 そんな世間話の最中、唐突に若井が本題を切り出した。

 ちょうど腕の中の拓真がうつらうつらし始めていたところだ。水戸は僅かに息子を抱き直すと、小さくうなずいた。

「資料と……出演が決まっている事務所の後輩からも話を伺いました。もちろんレンボルという役の背景バックボーンを描いたあの短い物語も」

 わかってはいたが、こうやって直接耳にするとハスキーで、それでいて伸びやかな声だ。

 少年役が多い水戸であるが、納得の声質である。

 レンボルは見かけ上は“男の娘”という役所なので、真っ正面に少年を演じて貰うより時よりも幾分かは、声を高くしてもらうことになるかもしれないが――十分に対応可能だろう。

 何しろこうして向き合って会話している分は、落ち着いた大人の女性の声、という印象しかない。

 そんな水戸に、若井はテーブルに手をついて頭を下げた。願もそれを見て慌てて頭を下げる。

「水戸さんに是非ともレンボル役をお願いしたい」

「……ご指名は有り難いのですが……何故、私なんでしょうか?」

 下げた頭の頭頂部に、水戸の戸惑った声が振ってきた。

 若井が願の脇腹を肘でつつく。

 何を求められているのか誤解のしようがない。

 願は仕方なく顔を上げた。

「ミールです」

「ミール? 『西方の尊き魔女』の?」

「そうです」

 あまりにも単刀直入に過ぎたと反省すると同時に、水戸がちゃんと演じた役名を覚えていてくれたことに安堵する。

 時折、忘れてしまう声優もいることを知識としては知っていたからだが、水戸はそういったタイプの声優ではないようだ。

「レンボルという役は……」

 願は流れに身を任せるようにして、水戸に声を掛けようと思い立った経緯を説明した。

 水戸はいちいちうなずいて聞いてくれてはいたが、その表情はどこか冴えないままだ。

 そして、聞き終えてからの返事もあまり芳しい物とは言えなかった。

「私をご指名いただけた理由はわかりました……しかし……」

「何か問題が?」

 食い気味に願が尋ねる。

 ここまで来たら、あっさりと引き下がる方が流れ的には不自然だ。

「ミールには暗い情熱と共に、エネリーへのこだわりもありました」

 エネリーは「西方の尊き魔女」の主役である。

 ミールは禁忌とされていた知識を求める一方で、姉弟のように育てられたエネリーに対してだけは、どこか苦手意識を抱えたままでもあった。

 その意識の原点としては――やはりエネリーへの恋心があったと解釈すべきなのだろう。

 破滅に繋がるかもしれない禁忌にすら触れようとする意志と、エネリーの幸せを願う心。

 それらを抱えていたのがミールというキャラクターだ。

「……そういう相反した感情を内に秘めている。そういう理解の元に私はミールにたどり着いたんです。ですがこのレンボルというキャラクターにそういう要素はありませんよね。なのにミールの“ような”演技を求められても、そこには違和感が残ります」

「それは……」

「そこは水戸さんにも協力いただきたいんですわ」

 言い淀んだ願をフォローするように、若井が願のあとを受け継いだ。

「協力ですか?」

 水戸が戸惑った風に応じた。

「このレンボルというキャラクター、そもそもの原案ではもっとわかりやすく狂気を前面に出したキャラクターやったんですわ。やけど、監督の細川君がそれを嫌った」

「嫌った?」

「というか、能力を考えると狂気を周囲にわかりやすくまき散らしてるような奴やと、さっさと排除されてしまうんが荒野という場所やと」

「先ほどの説明にもありましたね。狂気を周囲に隠す必要性があると――それで私が協力というのは?」

 若井は訥々と語り続ける。

「送らさせてもろうた、レンボルの能力を獲得した瞬間の物語。アレはストーリー原案の未生さんが細川君の意を受けて、水戸さんにレンボルを演じて貰う助けになろうと僅かの時間で書き上げたもんなんですわ。面白くなるようやったら変更に躊躇せんでええところがオリジナルの強みやと俺は思います。そこで水戸さんにもレンボル役を引き受けて貰って……」

「演じた上で、気付いたことがあればそれもフィードバックされる、ということですか?」

「まぁ、制作上の兼ね合いもありますからそう都合良く行くかどうかは約束できませんが……」

 若井はニッと笑って、身を乗り出した。

「そういう意図があることは間違いようのない事実ですわ」

「ですが……それなら私でなくても……」

 ふとその視線が腕の中の息子へと向けられる。

 それがレンボルという役への嫌悪感からなのか。あるいは役に没頭しすぎることを危惧してのことなのか。

「……水戸さんしかいません」

 だが、そんな水戸の迷いを断ち切るように突然願が断言した。

 その急な割り込みに、二人が呆気にとられている間に願はなおも続ける。

「監督の細川さんには確かに見えているビジョンがあります。そして監督がそのビジョンを実現したいと望んでいる以上、プロデューサーの我々はその要望を叶えるために全力を尽くします。今、そのビジョンに一番近づけるのは、水戸さんです。水戸さんだけです」

「それはミールのイメージですよね?」

 ここに来て、水戸ははっきりと抵抗した。

 だが願はそれには構わなかった。

「もちろんそれはそうです。ですが、最初から出来ない人に無理は言いません」

 願は息を吸い込む。

「古くさい言葉を持ち出しますが、我々は水戸さんならきっとレンボルが出来る、と信じています」

 水戸は曖昧な笑みを浮かべて沈黙してしまう。

 だが確かにそこには迷いがあった。今までのような拒絶だけではない。

 水戸はやがてポツリと呟いた。

「……この子のことがありますから」

「それはご心配なく。なんやったら託児所作ってもええぐらいの勢いですわ。何せウチは金だけはありますから。なんやったらそのままスタッフ用の託児所継続しても……」

 若井が勢い込んで職場環境の充実プランを訴える。

「それですよ」

 だが水戸が若井の言葉を遮った。

「その資金力の元は、例の件が絡んでいるんでしょう? それに巻き込まれる可能性が……」

 水戸にしてみれば当然の反応だろう。

 “母親”として、僅かな危険でも回避したいと願うのは当たり前のことだ。

「あ」

「せやった」

 だが願も若井も、今の今までそんな水戸の心境に気付くことが出来なかった。

「あ……アニメ作るのに夢中になりすぎとった。そうやった。その危険性はあるわな」

「そうでした。水戸さんがオーディションに来てくれなかった理由をもっと考えるべきでした」

 そして、上司と部下で一斉に反省する。

 だが、それで水戸以外の声優に話を持って行く選択肢は選びがたいのまた事実。

 願は、今一度の説得を試みる。

「水戸さん、このプロジェクトでは確かに例の件に巻き込まれることを目標としていますが、その対策もしています」

「それは……聞いていますが、確実な話ではないのでしょう?」

「よし! そこは俺が掛け合うわ」

 今度は若井が割り込んできた。

「ぶっちゃけレンボルの能力で対応できることは、もっと対応しやすい能力持ちがおるやろうしな。他に話振って対応させる手もあるな」

「例えば?」

「……せやな……田島君とか?」

 なんという鬼の選択。今や身内と呼んでも差し支えない「カニバリゼーション」の座長に何てことを、とも思うがそもそもこのプロジェクトは、犠牲を差し出すことを前提としているのだ。

 今更といえば、今更の話だろう。

 だが、その前に検討すべき事柄がある。

「若井さん、悪役を演じた側が巻き込まれた事例はあるんですか?」

「あ? ええと、ちょっと待てよ……いやそれこそ田島君の<鎧袖一触>は?」

「アレは途中からヒーローと明言されてますよ」

「したら、ないんちゃうか……いや、無いな」

 慌てて断言する若井。

 そんな様子に、思わず笑い声を漏らす水戸。

 それが契機となったのだろう。

 今まで頑なだった水戸の表情から堅さが抜けて、どこか開放感さえ感じられた。

 その表情を見て、願は予感した。

 説得は成功したようだ、と。

「わかりました。そこまで便宜を図っていただけるならご期待に添えるように頑張ります」

 果たして願の予感は裏切られることなく、水戸は承諾の言葉を口にした。

「おお、そうですか!」

 そんな、ようやくの水戸の承諾に、若井が思わず歓喜の声を上げる。

 その瞬間に、腕の拓真がむずがりはじめ思わず若井は自分の口を手で押さえた。

 幸い、と言うべきか拓真のむずがりはそれきりで、再び眠ってくれたようだ。

 今しばらくは、持ちこたえてくれそうだ。

 そんな中、願は首を捻った。

「……水戸さん、こういうところにこだわるのもどうかと思うんですが、お伺いしても良いですか?」

 自分でも切りだしておいて要領を得ないなぁ、と願は思わず苦笑を浮かべた。

 若井がいらんことを言い出すなよ、と言う目つきをしているが水戸は笑顔でうなずいてくれる。

「水戸さんが巻き込まれるのを忌避されるのは、何よりももっともな理由だと思うんですが、何故それを最初に言ってくださらなかったんですか?」

 願はそこで一端、言葉切った。

「役に対するこだわりも重要だし、それも断るのに充分な理由だとは思いますけど」

 つくづく切り出し方を失敗したなぁ、とも思うが今更引っ込みがつかない。

 だが純粋に、水戸の断り方の順番が気になったのも確かだ。

「岸君、そないなことどうでもいいやろ」

 やはりと言うべきか、若井からストップがかかった。

 しかし、それを遮る形で水戸は願の疑問に応えてくれる気になったようだ。

 笑みを浮かべながらこう告げた。

「いえ……ちょっとびっくりしましたけど、順番に意味はありますよ」

「意味?」 

「まぁ……一番正確に言うなら“格好を付けたかった”ですかね」

「格好――ですか?」

「拓真は男の子ですから」

 水戸は愛しげに腕の中の息子を見つめた。

「あなたこそは、と見込んでくれている人達相手に『危なそうだからやめておきます』じゃ、いかにも格好がつかないでしょう? そこは男の子として頑張って貰いたいなと」

「それを身を以て示すために、ああいう順番になったと?」

 にわかには信じられない理由に、事の発端である願が思わず聞き返してしまう。

 若井に至っては、絶句状態だ。

 何しろ男の子は間違いないにしても、拓真はまだ乳飲み子なのだ。

 父親の背中を見て育つ、と言うような年齢では決してない。ましてや水戸が見せようとしているのは“母親”の背中なのである。

「ええ。結果として一番格好悪くなっちゃいましたけど」

 だが、水戸はあっけらかんと照れたような笑みを浮かべる。

 なるほど水戸真琴もまた“声優”という特殊な人間であることを忘れていた。

 程度の差こそあれ、どこか普通ではないのだ。

「ここはビシッと仕事をして、名誉挽回して見せます」

 そういって笑う水戸の姿は、何とも爽やかな――少年に見えた。

 実にレンボルとは真逆である。

 願はほんの少しだけだが、不安になった。


 そして三日後――

 三日後になったのは、水戸が役作りのためにどうしても必要だと申し出た日数だったからだ。

 そうして新宿はアコバスタジオに顔を出した水戸が、細川と藤原の前で、いくつかのレンボルの台詞、そしてあの奇矯な笑い声を披露した。

 そして幾らかのディレクションと、水戸のレンボルについての解釈との擦り合わせが行われ、ついにレンボル役が決定した。

「ふぅ、これでアフレコも順調に来ますね。ゲストキャラクターとか長老格への依頼は順調なんですよね?」

「まぁ、そこは普通の仕事やからな。レギュラーならへんかったら巻き込まれることはまず無いわけやし。ちゃんと手続き踏んだら難しいことあらへん」

 万が一のためにスタジオに顔を出していた願と若井は、キャスティングが上手く行ったことに胸をなで下ろしつつも、喜びに顔を緩めていた。

「それに岸君、これでもう一個楽しみが増えるで」

「なんですか?」

 油断していた願は思わず尋ねてしまった。

「決まっとる。第二次打ち入りや……なんや語呂が悪いな。打ち入り二回戦……は意味合いがちごうてくるし」

「……今度は声優の皆様も来るわけですよね」

「それだけやないで。藤原さんに藤田君。村瀬君ももちろん呼んでラジオスタッフも呼ぼうか。なんやすでにかなり好評らしいやないか――なんや浮かない顔しとるな」

「猪野と善常さんが……どうも上手く行かないようで」

「なんや、そんなことかいな岸君」

 願の深刻そうな声に、若井はあくまでも軽く応じる。

「猪野君と上手く行くようなの、そうそうおらへんて」

 まったく、一グラムたりともなんの慰めにもならない若井の言葉に、願は大きくため息をつくことで答えた。

 

 ――結局の所、問題は猪野の存在に集約されるのかもしれない。

 


サブタイトル候補として「人妻説得編」があったんですが、響きがいかがわしいので見送りました。

本来は、これとラジオの雰囲気だけでも書いてみようかと思ってたんですが中途半端になってしまうので、ここで一端切ります。

なので、次の編は時間が少し戻ることになるのかな?

なかなか、本編が始まりませんねぇ。

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