宣伝開眼編
19.
打ち入りが終わった――からといって大人しく帰らない者は確実に存在する。
余興という名の罰ゲームを終え、幾人かのアニメーターが猪野に関心を持ったらしく――対岸の火事であれば、いくらでも燃えさかれという者は結構いる――二次会に誘った。
そうなると“お守り”として、願は付き合うしか無くなる。
その後は朝までコース……になるかとも思ったが、猪野はトレーニングがあると言い出して、宴席の途中で抜け出すこととなった。願も当然それに付き合うことになる。
肝臓に負担のかかる宴席を回避できたことを、猪野のおかげ、と有り難がるほどの素直さを願は失っていたが、また猪野の部屋で一泊することになってしまった。
肝臓への負担と、精神への負担。
どちらを重要視すべきか悩むところではあるが、いい加減、猪野の相手をするのも慣れてきた願である。適当にあしらいながら、狭い部屋で雑魚寝。
この雑魚寝がHP最大値をガリガリ削っているように思えるが、健康に留意するほど老け込んではいないつもりだ。若井に会って以降、休日らしい休日も無かったように思うが気にしないことにする。
おおよそ八時に目が覚めて、すでに勝手知ったるユニットバスで、顔を洗い髭を当たった。
「猪野、飯行くぞ」
ネクタイを締めながら、未だに寝ぼけ眼の猪野をベッドから引きずり下ろす。
「ぬ~、頭が痛い。レッスンは昼からだから……」
「事務所の経費だぞ」
「俺が金銭で容易く魂を売ると思うな!」
いきなり跳ね起きて、願に指を突きつける猪野。
願は、そんな猪野を半目でにらみ返す。
「お前はもう、ウチの事務所と契約してるんだから、金銭で一部は切り売りしている状態なんだよ」
「何を? さては俺の知らぬ間に……」
「その方がお前が盛り上がるなら、そういうことにしてやっても良いぞ。どっちにしろ、こっちの世界の公権力に頼るのはお前の“戦士としての矜恃”が許さないだろうし」
「そうとも、貴様らを倒すのに他者の力を借りるつもりはない!」
相変わらず会話の方向性が定まらないが、要は正しい方向を向いたときにだけ相手をすればいい。
他はスルー。
スルーして、へこたれるようなメンタリティであれば、むしろその方が有り難いというものだ。
「そうかそうか、じゃあ俺達を倒すためにも朝飯はしっかり摂らないとな。さっさと着替えろ」
「おう」
もぞもぞと着替え始める猪野。
ここから、あの馬鹿な髪型を整えるまで待つか、強引にやめさせるか。
どちらの方が手間がかからないか毎回悩むが所だが、今日は時間的余裕がある。
すでに出社時間などという、一般的な社会常識は願の内で溶けてしまっていた。
「うん……何かおかしくないか?」
「やめろ猪野。そんな風に思い悩むのはお前らしくない」
スプレーで、見えない風を形成していた猪野が首を捻ったところで、すかさず願が軌道修正。
「昨日、あそこに集まった人達が協力してくれて、お前に能力を託すんだ。ここでお前が、飯代ケチって健康不良とか洒落にならない。戦士ならまず戦える身体を維持することが大事なんじゃないか?」
「そこまで困窮してないぞ」
「が、困窮の手前にあるのは確かなんだ。俺が言うのも何だが機会を掴んだんだから、自分に投資しておけ。悪いと思うなら、こちらが投資した分、返せばいいだろ。お前の本分が戦士であったとしても、声優としてこっちの世界と関わるつもりなら、そういう行き方を受け入れても良いはずだ」
自分は何を言っているのかな?
――などと正気に戻ってはダメである。
相手の土俵に登る覚悟さえ決めてしまえば、色々と打つ手も見えてくる。
猪野はそれでも首をかしげたが、とりあえずその場での反論は口にしなかった。
それが再開されたのは、駅前の「梅屋」について後のことである。
事務所が出すといってもこの程度なのだから、遠慮せずにおごられていればいいと願などは思うのだが、プライドが全くないのも、それはそれで問題なのかも知れない。
カウンター席に座る二人の目の前にあるのは、両方とも朝食定食だ。
甚だ、中身に幅を感じる表記であるが、俗に言う一汁三菜が守られているので、確かに健康には良さそうである。
「――声優としては確かに、お前の言うとおりかもしれない」
「まだ続いてたのか」
油揚げと豆腐の味噌汁を啜りながら願が応じる。
「しかし、戦士としての勘がお前らを信用しきれない」
「何?」
「稲葉さんのような、戦える能力を俺に与えるのがそちらの目的だよな」
それを聞いた瞬間――
塩鮭の身をほぐしていた、願の箸が音を立てて転がり落ちた。
「ど、努力って報われるんだな。お前がそんな簡潔に理解しているなんて」
「そうだぞ。日々の鍛錬が大事なのもそのためだ。だからこそ俺はこうして曖昧な状態であっても鍛錬は欠かさない。聖悟洲連邦では戦時下だったので、その努力を素直に讃えることは出来なかったが、結局、戦いに必要な力というのは――」
相変わらず、全速前進で脱線していく猪野。
一を聞いて百ほど脱線するのが、まったく始末に負えないが、始末をするという選択肢を捨ててしまえばどうということはない。
――無いと思いこみたい。
そのためにも願は、猪野の妄想を無視して強引に話を続ける。
「確かにお前の言うとおりだ。もともと身体能力の高いお前に意図的に“そういった”役所を振ることによって、他の声優が巻き込まれないようにする、と言うのがこちらの意図だ」
「何時だったか、まったくの小国だが剣呑な一団に国政を乗っ取られ、非常に危険な状態となったときがある。この時に問題となったのは、戦闘能力よりもむしろ機動力でな。そうなると問題になるのは、なんと言っても持久力だ。こればかりは天賦の才でも補えない。作戦を指揮されたドーリダン殿は、やはり日頃の鍛錬を重要視された」
もしここに第三者が居ても、二人が会話しているとは誰も思わないだろう。
何しろ、願本人が会話をしている自覚を持てないままだ。
今はただ、お互いに主導権争いをしているだけ。猪野風に言うなら、
「現実と異世界との戦い」
の代理戦争状態だ。
「つまり、最初からお前は囮であり生け贄であることは説明したはずだが。それを他の人間を守るための盾、と解釈するのはお前の自由だ」
「結局の所、努力とは本人の地力を上げるだけに留まらず周囲の信頼も獲得するものだ。俺も向こうにいた頃は、暇を見つけては鍛錬を欠かさなかったものだ。そうすることで、いざ実戦の場でも自信が――そうか自信さえも培うことができるな」
「聞けえ!」
割と簡単に願の自制心が折れた。
手慣れたつもりでも、それは初対面の時よりはまし、という程度に過ぎない。
「“努力”の言葉一つで、よくもまぁ、それだけ脱線できるな」
「しかし、努力は大事だぞ」
「“努力”とお前の“努力についての与太話”を適当に混ぜるな。話を……」
一端折れた心では、長い説教は無理だ。願はしばし瞑目する。
その間に、猪野が勝手にしゃべり出さないように指を突きつけておくのは忘れない。
「……そうだった、こっちが信用できないって話だったよな。理由説明できるか?」
「理由も何も、ここしばらくお前に呼び出されたら、秋葉原ので無茶苦茶な買い物、昨日の大騒ぎ、まるでアゲルマスト興国の滅亡前夜だ」
「肝心なところを、お前だけがわかる言葉で言うな。要は油断してるとか、そういうことを言いたいのか?」
「そんな単純な話ではないが……まぁ、それで良いとしよう」
猪野が、願の目を覗き込んだ。
「信賞必罰が正常に行われているとして、お前達は先に賞をもらっている状態なのだろ?」
猪野言語――というほどのことはない。
要するに、歴史小説を読んでいる気分になって解き明かせばいい――固有名詞が含まれていないのだから。
「つまり俺達は、プロジェクトを成功させた報酬を先払いで貰っている。そんなあやふやなもので、遊び回っているから信用できない?」
的確な訳だと思ったが、猪野は首を捻っている。
一瞬、奥歯が軋むのを感じたが付き合っていられない。
「俺も偉そうなことは言えないが、若井さんの仕事は信用できる。お前の理屈は未だにさっぱりわからんが、人を見ることから始めるのは同じだろ。お前、若井さんはどうなんだ?」
「若井って、あのチンピラのことか」
声優には敬意を表することを怠らない癖に、若井や自分にはこれである。
何かの勘違いで、こちらを上位と捉えてしまってそれに反発することが自分のアイデンティティだとでも思っているのだろう。
これだから、中二病患者は始末に負えない。
「見た目は確かにチンピラだが」
ここで若井の認識について訂正していたら、どれほどの時間を浪費するかわかったものではない。
若井の出で立ちについては、猪野の認識に寄り添うことにする。
「仕事していくと、先々まで準備が行き届いていることがある。上手くいきすぎて、はめられているんじゃないかと錯覚するほどに」
「なるほど、グレスリー伯だな」
「黙ってろ、俺の話が終わるまで」
「…………」
奥の手の“気合い”で黙らせる。
「俺は、アニメ制作に関わるのは初めてだがそれでもこの業界が異常な先行投資状態であることは、ただのファンでいたときからわかっていたことだ。若井さんは……その構造自体を変えることは許されてないから、士気だけは保とうとしる――それに秋葉原での買い物は若井さんの指示じゃなくて俺の策だ」
「お前だったのか」
こういうときだけ理解が早い。
「金でごり押しできるところはごり押しする。逆に言えば、アニメ制作においてはごり押しできないところが多々あるということ――じゃないかな?」
自分で言っておいて、その発言の愚かさに願は顔をしかめてしまった。
そんなことは、アニメ制作に限らず何でもそうだ。
猪野は結局それには反論することなく、そのまま朝食摂取に本格的に取りかかった。
それを……武士の情け、と感じてしまったのは自分も中二病に浸食されつつあるのか。
願は、その想像に身を固くした。
猪野と別れて、上井草の事務所に顔を出す。
いるであろう面子に、あまり期待はしていなかった。
有原に経費報告して……さてそこから何をするべきか。言われなくては仕事が出来ない、と思われるのも癪であるが、事ここに至って何をすればいいのかわからないのも事実だ。
素直に、若井に指示を仰ぐか――などと考えていたら、その若井が事務所にいた。
なんだかぐったりしているが、ここ最近の通常運行と言えなくもない。
その原因であろう細川――の姿はない。ここまでぐったりとなるからには、細川に無茶振りされたか、やり合ったかのどちらかのはずだが。
「……おお、岸君来たか。猪野君はどないや?」
すっかり猪野の相手がメインの仕事になってしまった。
「……いつでもアフレコ出来ますよ。それよりも僕たちに不信感を抱いているようですが」
「なんでや?」
「猪野にしてみれば、遊んでいるようにしか見えないんでしょう」
先ほどまで若井の弁護をしていたその口で、今度は猪野の立場になって物を言う。
なるほど、これが中間管理職か、などと他人事のような感想が心の中に浮かんだ。
「まぁ、猪野君は新人やからな。どういう段取りで事が進んでいくのか、ようわかってないんかもしれん……で、どうした?」
「そりゃ、さっき若井さんが言ったようなことを言ってなだめましたよ――細川さんは?」
これ以上、この話題を追求されるのも面倒なので強引に話題を振った。
「最前線や。とにかく一話の映像部分は完成させてまえ、というところでは意見が合った」
つまり他は合わなかったのか。
しばらく愚痴大会になるかな、と判断した願はもはや事務所の主と言っても良い有原に経費の申告を済ませる。
「音響監督と、劇伴……音楽担当は細川君にまかせることにした。細川君にまかせたからには出来るだけ現場の裁量に任せたい。目標のプロファイリングに因れば、そういた役職まで気にしているとは思えん」
少し前まで、願も確かにあまり気にしなかった。
もちろん「良い曲だな」とか、そういう風に感想を抱くことはあるが、アニメが始まる前に「この人が音楽担当か。じゃあ見るのやめよう」という判断をしたことはない。
「まぁ、細川君が望んだところで、その通りになるかはわからんけどな。細川君の依頼で駆け回ることになるのは結局俺らやし」
なるほど、仕事については心配しなくても良いらしい。
「岸さん、この朝食代ですが……」
「あ、はい」
珍しく、有原から声が掛けられた。
「猪野さんの分だけしかないようですが、ご自身の分は? 猪野さんが食べるのを黙って見てたんですか?」
「いえ、普通に食べましたよ。だけどそれは自分が朝食食べただけですから。経費にする必要ありますか?」
「会社の無茶振りで家に帰れていないわけですから。経費としてあげて貰っても……もっとも、私にそれを審査する権限はないんですが」
「しかし僕は普通に外で朝食済ませただけとも言えるので」
有原はそんな願の答えにしばらく沈黙したが、結局は僅かにうなずいて梅屋の領収書を受け取った。
「岸君さぁ……」
そんな願の様子をうかがっていた若井が声を掛ける。
「何か?」
「いや……」
若井は顔をしかめて、しばし瞑目する。
「ええわ。藪蛇なったら、目も当てられん」
「何なんですか。それで細川さんはスタジオにいるわけですね。富山さんと未生さんは?」
「ホテルで缶詰中。細川さんの無茶振りで、とりあえず25話で脚本全部仕上げることになった。期限は明日」
「枠、決まったんですか?」
「決まってないから無茶振りと言うンや。まぁ、放送枠ぐらい放送免許の停止ちらつかせたら、提供するやろ」
なるほど、そんなチート技も使えたか。
しかし明日?
つまり強引にでも叩き台を作らせるつもりなのか。
「青黄センセは黒板さんに捕まっとるわ。メインキャラ以外も、全員描かせる言うてたからな。まぁ、これも脚本急がせる理由にはなるな」
昨日のどんちゃん騒ぎの代償はキッチリ支払っているらしい。
ということは、昨日のアニメーター達も細川に……
「で、俺らは声優事務所に挨拶回りや。オーディションの案内もせなアカン」
「オーディション、やるんですね」
まったくしないわけにも行かないだろう、と昨日の余興の段階から考えていた願は、軽い確認程度のつもりだった。
「俺としては、狙い撃ちにして手応えのあった奴を引っ張ってきたかったんやが……」
若井の構想としてはもっと大胆だったらしい。
「細川君が、何としてもオーディションをやる言うてな。確かに俺もまったくしない、と言うつもりはなかったんやけど、ほぼ全部のキャラやると言い出してな」
「それは……困りますね」
「お、俺の苦労をわかってくれるか岸君」
思いの外嬉しうそうに若井が身を乗り出してくる。
「そりゃまぁ。僕みたいなライトなのは絵とキャストしか確認しませんから。そこに知った名前がないいと……最悪見ないかも」
「それは本気でマズイ」
なるほど、いきなりぐったりしていたのはその点で細川とやり合ったからだろう。
「オーディションで、例えばの話やけどどっち選んでもええ、と言うようなことになったら知名度の高い方を選んでくれるように、とはお願いしてる」
「“お願い”ですか」
「言うてくれるな」
結局は監督の胸一つで決められる上に、ここまで憔悴して引き出した条件が“お願い”止まりでは、慰めようもない。
「事態があまりにも深刻なことになるようならプロデューサー権限で監督の判断ねじ曲げなアカンやろな」
「……そうなると細川さんは」
言わずもがなという奴だろう。
だが、そんな暗澹たる空気を振り払うように若井が突然に明るい声を出す。
「まぁ、俺はそこまで今の声優業界を悲観してない。人気優先で実力不足の奴が一線で活躍してるなんてことはありえへんやろ。なんやかんやで上手いこといく……とええなぁ」
最後が尻すぼみになってしまった。
問題は、細川という監督がどういう人物を声優に選ぶかと言うことだが。
思い立った願は、スマホで細川が手がけた作品のキャストを調べてみる。
ヒロインには樹玲亜。主役には加納善人。
十分に人気声優だ。もちろん、演技に問題があるとも思えない。
「……何だ。そんな変な癖があるように思えませんけど」
「その時、樹さんはさほどネームバリュー無いけどな」
何を調べていたのかはお見通しらしい。
「でも、他のキャストを見ても……十分のような」
「あとは音響監督がどう出るかや……細川君も慣れた相手と仕事したいやろうから、多分ややこしいことには……」
「え?」
願が思わず声を上げる。
「音響監督? 音響監督とキャスティングって関係してるんですか?」
「…………実はそうなんや」
何だか若井が一気に老け込んだように見える。
「あとはもちろん“プロデューサー”もやけどな」
「なんだ。じゃあ後がないってわけでもない」
気軽に答える願を、若井が半目で見つめる。
「……この段階では何を言うても、皮算用か」
皮算用とはもっと楽天的な見通しが立っている時に使うべき言葉ではないだろうか。
だが願はその言葉を口にすることはなく、事務所を出て行く若井の背中に続いた。
若井が用意していたのはハイエースだった。
何かの冗談かと思ったが、本気で社用車としてハイエースを使い回すつもりらしい。
確かに、このペイロードの大きさは魅力的かも――使い道が思いつかないが。
願が慣れないワゴン車の運転で四苦八苦している横で、若井が次から次へと声優事務所にアポを取っていく。
そして取れた順番に、事務所めぐりをして企画書、そしてキャラクターのラフ画を渡していく。
その後、オーディションに来てくれるならば、さらに詳しい資料を渡す用意がある旨も伝えておいた。オーディションの日時は決まり次第連絡するとも。
昼食を挟み――ちなみに蕎麦だった――午後八時までかかった事務所詣では、大方の所を回り終えた。アポが取れなかったところは事務所も小規模で、慢性的な人手不足が原因で直接会うための時間が取れなかったという事情があるから、それを考えれば今日回れた事務所の数は異常と言っても良い。
だが――
「やはり、あまり良い反応はされませんでしたね」
事務所へと帰る車の中、願は呟くように助手席の若井に話しかけた。
その若井の声は、一仕事終えた満足感か随分と生き生きとしていた。今日の朝にぐったりとしていたのが嘘のようだ。
「偶々巻き込まれたなら仕方ない、と諦めることも出来るやろけどな。ギャラも入るし。けど、俺らは積極的に巻き込まれようとしてるわけやから……」
「避けたいと、そう考えてくれるのはある意味健全ですね」
“異常事態”に巻き込まれれば、声優個人にギャラが支払われるのはもちろんのこと、事務所への補償費も支払われる。
欲ずくで考えれば、巻き込まれた方が事務所としては利益が出る可能性があるのだが、今日回ったところは何処も大歓迎という手応えはなかった。
つまり、事務所としてタレントを護る意志がしっかりとあると言うことだ。
それを非難するわけにもいかない。
「そこで猪野君の出番、と言うわけやがそろそろ個人的に猪野君が自由意志で参加してるのか確かめる人も出てくるやろ――今日、岸君を連れ回した意味、わかっとるやろ?」
「猪野への苦情は僕に、と言うことですね」
「身も蓋もない……実質的に、猪野君のマネージャーやって貰うことになるやろうから、そういう側面があることは否定せんけどな」
若井は、ふうとため息をついた。
「このプロジェクトが成功したら、これがモデルケースになって、もう少しマシになると思うんやけどな。こうも博打を打ち続けなあかんのは……いつものことか」
猪野が心配していたようなことは、若井の経験の中に当然含まれていたわけだ。
どんな表情をしているのか――そんな好奇心に駆られた願が僅かに目を向けた瞬間、対向車のヘッドライトが若井の顔を撫でていく。
そこには随分と老け込んだ様に見える若井の顔があった。
願が思う以上に今日の手応えが悪かったのかも知れない。
すると声だけでも張っていったのは空元気か。自分を鼓舞するためか、願に気を遣ってのことかはわからないが、さすがに少しは慰めたくもなる。
「と、とりあえずオーディション拒否では無いわけですから、順調に進んでいると思いましょう」
「やけど、集客力のあるのは出してくれんやろな。そういうのはレコード会社とも契約しとるし」
「はぁ」
願は、胸の内でなるほど、うなずいていた。
声優とレコード会社の関係性がいまいちわかっていなかった願だが、若井の言葉で概ね理解できた。
つまり姫野さんや水藤さんは最初から無理、ということになるのか。
「固定ファン持ってる人に演って貰えれば、博打打つにしても勝率上げられるんやが……」
ファンであれば、とりあえず一話は見てくれるだろう。
登場シーンを遅くすれば……いや、その時になってから見始めるか。
このプロジェクトの目的は、売り上げを出すことではなく、作品が巻き込まれて猪野に能力が宿ることが第一であるから、とにかく話題にさえなればいい。
そうなると若井の戦略もわからないではないが、すでに問題はキャスティングの範疇ではなくて宣伝手段をどうするかがメインだろう。
そうであるなら、むしろアニメ誌への売り込みや……
「アニラジか」
左折のハンドリングに合わせるように、願は無意識に呟いていた。
「なんて?」
それを若井に聞き咎められる。
「……問題はキャスティングと言うよりも、すでに広報とか宣伝の問題ですよね」
仕方なしに説明を始める願。
「せやな。やけど、キャスティングも決まってないのに絵とスタッフだけで売り込んでも、さほどのインパクトは……」
「現状だと誌面の四分の一ぐらいでしょうかね。まぁ、さっき僕が言ったアニラジと言うのもキャスティング決まってから……」
「その、アニラジ言うのは何のことや?」
願は思わず視線を完全に若井に向けるところだった。
若井がこのプロジェクトに手を付けるまで、かなりの下準備と勉強をしていたことは明らかだ。
それなのに、アニラジを知らないというのは……
「最近のアニメは、キャスティングされている声優をパーソナリティにして、番組作るんですよ。基本的な目的は宣伝。放映前から始まって、映像ソフトの販売がある程度進むまでやるのが、僕の大もう一般的な……アニラジですね」
「それ内容は?」
「ええと……まず普通にアニメの感想を募集したり、それから思いついたことで声優がトークしたり、あとアニメの設定に合わせて――大喜利みたいなかんじのコーナーがあったり」
この食いつきはなんだろう? と内心首をかしげながら願は答えていく。
「それ面白いんか?」
「それは一概には言えませんよ。パーソナリティに選ばれた声優さんの相性もありますし、あとコーナーの面白さとか」
「岸君が思う面白い、そのアニラジの条件挙げてみ」
「そうですね……先ほども言いましたが、やはり一番は相性だと思いますね。あと、パーソナリティ能力というか、単純にラジオ上手い人いますから。そういう方がちゃんと回してくれると、面白い面白くないと言うよりも先に聞きやすいですね」
「回すって……まるで芸人やないか」
実際、そういうふうに言われている声優が何人もいる。
この若井の妙なズレ方は何だろう? と、首を捻ると原因に思い至った。
若井は少し前まで外国にいたのだ。そうであればアニラジや、ここ最近の声優の露出振りをいまいち理解し切れていないのかも知れない。
「……と言われましても、現状ではそういう事情ですから。それを僕に言われても」
若井の状況を想像しながらも、返答は余計なことを言わないでおく。
「じゃあ、そのアニラジ単独で人気番組になったりとかは……」
「はぁ、DJCDといって、放送まとめて――あとは色々特典付けて単独で販売したりもしますね」
「それパッケージは? 声優前面?」
「それは元のアニメですよ……僕の知ってる限りでは」
「岸君は、それをよう聞くんか? 放送時間に合わせて」
「いえ、最近はweb配信がほとんどですから。時間が空いたときに聞きますね。というか……」
願は口ごもる。
「何や?」
「はぁ、その法的にはまずいんですが僕が聞いているのは……」
一日働いたので、夕飯ぐらい栄養を付けようという流れだったはずだが、どういうわけか目の前にあるのはインスタントラーメンが入ったどんぶり。
まぁ、好きだから構いはしないが。
一方の若井はと言うと、事務所に帰ってきてから、ずっとノートの前でうんうん唸っている。
モニターには「スマイル動画」、それもアニラジの動画が映し出されているはずだ。
聞こえてくる音声は、随分前に配信されていたアニラジのもの。
古ければ許されるというものではないだろうが、気休めにはなる――少なくとも削除されてないという理由だけで。
「岸君! この流れてる文字は、見てる側が打ち込んでるんやな?」
「そうですよ」
随分と興奮気味の若井に意識して、殊更冷静に返事する。
「で、これ元は別のところで配信されとったんやな」
「はい。無許可でこのスマイル動画にUPされたものですね」
「わざわざ、そんな手間掛けたんは……」
「その文字――コメント見て楽しみたいんでしょうね。他に……いやこれは説明が面倒」
「いや、何でも知りたい。説明頼むで」
この若井の熱意に押されて、願はコメントを打ち込むためだけにUPされた動画の説明をした。
かなり特殊な動画であるので、最初若井はまったく要領を得なかったが、10分ほど説明に費やしてようやくコメント専用動画の主旨を理解してくれたようだ。
「そ、そこまでしてコメント打ちたいんか……」
理解の先に、戸惑いを生んでしまったようだが。
「まぁ、コメント見て他のアニメのこととか知ったりも出来ますし。他の解釈を聴けたりもしますし、コメント打ち込んで同意も得られれば嬉しいですし」
「つーことは、岸君も」
「僕はまぁ、テンプレ的なコメントするぐらいで……」
「ふ~む」
若井は背もたれに身体を預ける。
「最初からここでアニラジとやらを配信できれば、色々面倒なさそうなんやけどな」
「出来るんじゃないですか? 声優の生放送とか結構ありますよ」
「待て待て。続々と知らん言葉が出てくるやないか。その声優の生放送ってのは何や?」
「え~っとですね……」
基本的にはアニラジと変わらない内容だが、それを動画付きで配信。
コメントを打ち込むことも、もちろん可能。
その動画が後日UPされたりもするけど、それが法的に正しいのかどうかはわからない。だが、消されることはないようだ。
「……ちゅーことは、アニラジをスマイル動画で挙げること自体は不可能やない、ってことやな」
「そうなりますよね。何で少ないんだろ?」
「宣伝費が足らんのやろ。いや、足らんと言うよりも宣伝費を増加させて博打のリスクを高めるわけにはいかんいうことかな」
「そうか。宣伝費もアニメの制作費に含まれるんですよね」
「当然やな。その点、俺らはそこは気にせんでええわけやから……そのアニラジいうのは一番組に一つなんか?」
「大体そうですね」
「二つやったのもある?」
「はぁ、確かあったはずですが……」
言いながら、願はノートを操作。思い当たるアニメのデータを調べたら、確かに同時期に二本やっていた番組は存在する。
これで若井が気にする「表面に見えるところでは、極力異常事態を起こさない」という目的にも合致することとなる。
だが……
「結局、キャスティングに自由が無いならハンデは変わりないと思いますけど」
そもそもは、そういう問題だったはずだ。
「そこはもう覚悟し取る。やけど、こういう手段が残されている以上、チャンスはあるで」
「チャンス?」
「ラジオの方で思い切ったことをして知名度上げればええねん。人気者は自分たちで作ればええんや。細川君達が選んだあとで、ラジオのオーディションみたいなことをして、人材を選ぶ。あとは放送作家の腕や。おるんやろ? そういうのは」
「はぁ……居ますけど、それでも慣れてない人のモタモタしたラジオは辛いですよ。上手いこと回せる人が選ばれてくれれば良いんですけど」
「その時は……MC業してる奴を別口に――いや、さすがにこれはあかんか」
「若井さん」
「なんや、ダメなのはわかってるで。さすがにアニメに関係しようの無いのを……」
「そういうアニラジ、すでにあります」
実は知ってるんじゃないか、と疑えるほどに若井の戦略には先例があった。
そう。
若井がこだわる“先例”だ。
「あるんか!」
必然的に、若井は喜色満面で食いついてきた。
「なんや、やるやないか。それやったら事態がどう転んでも遠慮はいらん。この作戦で進めてまおう」
「若井さん、それならそれで宣伝担当の人材を……」
「ダメや。そいつらの腕がどうこういう話やなくて、そもそも従来の方法論とは話が違うンや。資金やりくりして最大の宣伝効果を、と言うことではないからな、この場合」
売って資金回収、ではなくて、知名度を上げて巻き込まれる、が目的だから――なるほど、だいぶん話が違う。
これ以上、若井のやる気に水を差すのも気が引けたので、願は非常に重要なことを確認しておくことにした。
「わかりました。ですが、猪野はダメですよ。協力させません」
「……わかっとるがな」
その若井の返事は、なによりも滲み出た苦さで信用できるものだった。
思ったより手間取りました。
番外編だと思っていた、前二つのダメージが大きかったようです。
で、次も手間取る予定。
本気で、自分の脳内オーディションをしなければならないようなので。
不毛の極みです。




