混沌囲込編
15.
それはまさしく肉塊であった――
そんな「バーサーク」冒頭の一節のパロディが、思わず願の脳裏に閃いてしまう。
昼を過ぎ、約束の時間から十五分ほど遅れたところで事務所に姿を見せた青黄は大きかった。
縦にではなく、横に。
ついに来るべきものが来たか、という感想が願の偽らざるところだった。
元々、身体を動かすことのないインドア主体の仕事である。
運動不足による肥満体の業界人に会う事はどこかで覚悟するしかない。
青黄は顔が丸く、よく稼働している上半身は許容範囲。そして下腹から下は肥満体という、かなり特殊な体型の持ち主だった。
水滴型、と表現するのは好意的に過ぎるだろうか。
薄いピンクのポロシャツ。特注品にしか思えないボトムス。
もちろん黒縁の眼鏡は標準装備であることは言うまでもない。
「はじめまして。……青黄墨です」
名乗るまでの間に、間があったのは何か肩書きを付けるべきか悩んだのだろう。
それにしても声だけは、とても魅力的だった。
「お呼び立てして申し訳ありません。私が先生にご連絡さし上げた岸です。当事務所のAPでもあります。本当であればプロデューサーの若井、それに監督の細川さんもこの場にいるはずだったんですが……」
細川の積極策が裏目に出たと言うべきか、都心の渋滞に巻き込まれるのは必然だったと言うべきか、人集めに奔走している二人は、この青黄とのファーストコンタクト間に合わなかった。
今、事務所にいるのは、有原を別にすると富山と未生である。
願は続いて、その二人を紹介する。
「そんなわけで、若井は間もなく戻ってくると思いますが先生には新しいアニメの企画に参加していただけないか、というのがご足労願った理由です」
「新しいアニメ?」
さすがに、きょとんとした表情を浮かべる青黄。
願も、実はそこからの対応に迷っていた。
単純にアニメを作ろうというプロジェクトではない。その向こう側に、
「無敵の能力者」
を顕現させるという目的があるのだ。
あまり好き勝手にやられて、それが台無しになるようでは問題がある……と思うが、最初からそういう制限を意識させた方が良いのか。
「とりあえず参加するかしないかは別にして、企画書に目を通してくれないか、青黄先生」
願が迷っている間に、富山が話を先に進めてしまった。
未生は、どこか虚ろな視線で青黄の観察を続けている。
「“先生”は、いいですよ」
富山の申し出に、青黄は相変わらずの良い声で応じる。
「じゃあ青黄君よろしく頼む――あと、これは念のためだが、企画書を読んだからと言って、それを持ち出して漫画を描いてもらっちゃあ困る。若井さんの構想では、コミカライズも考えているみたいだから、君が望むならそれを改めて依頼する話もあるからな」
富山の言葉に、一瞬だが青黄の目が光る。
恐らくは新連載の話が上手く進んでいないのだろうと、願は直感した。
あの編集部の態度をみると難航しているのだろう――もっとも、あの雑誌に掲載するとも決まってないが。
「もちろん」
青黄は真摯にうなずいて、企画書の束を受け取った。
「あ、え~と……」
青黄の体格では、この事務所の椅子では色々と問題があるように願は感じてしまう。
「狭いですが、こちらのソファで。一応間仕切りされてますので集中できますし」
願は、青黄を応接区画に導いた。
「はい、ありがとうございます。それで何に気をつけながら読んでいけば良いんでしょうか? 感想を言うためだけに呼ばれたわけじゃないんですよね」
「あ、えっと……その、キャラの個性付けの知恵をお借りしたいと考えています」
「なるほど。では――」
青黄はソファにどっかと腰を下ろす。
そして、真剣な眼差しで企画書に目を通していく。
ちなみに、企画書などとは言っているがこれも昨日の富山と未生の一夜漬けのでっち上げだ。
その二人は、細川の手が逃れられたこの時間を満喫するかのように何もしていない。
ただ、並んで座っていた。
「……なんか思ったよりも、普通ですね」
特に会話をする必要性も感じなかったが、細川が何時戻ってくるかわからない制約がある以上、うかうかと寝てもいられない。
無益でも何か話ておいた方が良い。
「普通?」
未生が片眉を上げて反応する。
その声音には明らかな非難が含まれていた。
「え? だって、何というか会話も普通に出来るし、横暴でもないし」
「そもそものハードルが低すぎる。連載してたんだから、あの程度の外面は当然持ってるだろ」
富山から、もっともな指摘。
言われてみれば青黄の外見の印象に引っ張られすぎていたような気もする。
「質問。
一つ、『俺の赤血球だけが目的だったのね!?』は最後まで読んだのか?
二つ、感想は?」
未生が、何だか怒っているような――というか確実に怒っているのだろう。
珍妙なタイトルは青黄のプロデビュー作だ。話の骨子は最初に読んだ「エラって、宇宙人!」の宇宙人部分を吸血鬼に置き換えただけと言っても良いだろう。
次から次へと登場する吸血鬼が女の子“だけ”であることは言うまでもない。
主人公の血を飲むと圧倒的な力が手に入り、バトル漫画の要素があるところが、青黄の漫画としては異質と言ってもいいだろう。しかし、ある意味では「宇宙人」よりは普通の漫画だ。
それに未生がここまで拒否に近い反応を示したのは――
「やっぱり、ラストですか」
「あの投げ出し方は酷い」
「あれはラストというか、ただのゲームオーバーだからな」
「赤血球」のラストは、主人公が血を吸われすぎてショック死という、編集部ごと正気を疑うような斬新すぎるものだった。
「一つ、バトル要素を嫌々付け足したのが見え見え。
二つ、そのために後半には矛盾を誤魔化しきれなくなった。
……結論、このプロジェクトには不向き」
的確な指摘だと思うし、そうなると導き出された結論にもうなずきそうになるが、願としては安易に同意するわけにも行かない。
「そこを未生さんに戦って貰わないと」
いつかの若井の言葉を引用して、焚き付ける願。
青黄を選んでしまった経緯を詳しく説明するわけにもいかない。
何しろ急場しのぎと誹られても、反論が難しい現状だ。
「まぁ、実際にいくら設定詰めても未生君のアイデアには“萌え”の欠片も出てこないからな。絶対に彼のような“素養”の持ち主の参加は必要だよ」
言葉選んでるなぁ、と願は内心で苦笑を浮かべながら富山の意見にうなずいた。
だが、未生はそんな富山の言葉に反論する。
「しゅ、しゅ、しゅ、主人公はいかがわしくした」
「……いかがわしいって」
「いやエロいのと“萌え”は違うぞ、未生君」
未生が言っているのは、例の冒頭シーンなのだろうが、確かにあの怒濤のごとく並べられたエロシチュエーションに萌えは何もなかった。
「とにかく未生君のアイデアのままじゃコンクリートうちっぱなしの、四角四面の建物でしかない。荒療治でも人が住める空間にリフォームしないと。そういう自分の問題点はわかってるんだろ?」
さらに富山に、詰め寄られて未生は渋々うなずいた。
しかし、コンクリートうちっぱなしとは上手い表現だ。
確か若井は富山のことを“批評家”の才がある、とか言っていたがこういった部分のことだろうか。
「あの、すいません」
「わ!」
突然に良い声が降ってきた。
青黄が応接区画から出てきたらしい。それにしても早すぎる。
「さっそく提案があるんですが」
「は、はい」
思わず声が裏返る。
「このフェンサーのパンツは是非とも見せる方向で行きましょう。色は薄い水色。そこからの恥じらいで、しばらく迷走させた方が魅力的です」
一瞬、青黄が何の話をしているのか願は本当にわからなかった。
「そうですねぇ、こんな感じで」
青黄は、願の戸惑いなどまったく無視して散らばっていた紙切れの端に、すらすらとボールペンで少女の姿を描いていく。
白抜きの髪、凛とした眼差し。軍服姿にも見えるキッチリとした出で立ち。
そして風に煽られて、めくれあがるスカートとその奥にある可愛らしいデザインのパンツ。
何だこれは――いや……
「あ、もしかして剣奉主のことか」
ようやくのことで願の理解が追いついた。その理解が思わず声に出てしまった。
「ええ、フェンサーです」
青黄が、その声ににこやかに応じた。
「ちょっと待ってくれ。青黄君がフェンサーと言ってるのは、もしかして『DESTINY』の“フェンサー”のことか?」
富山が、まず単語の確認から始めた。
青黄がそれにあっけらかんと応じる。
「ええ。だってそうじゃないんですか?」
あっけらかんと青黄は答えるが、それは未生にとっては侮辱でしかなかった。
「な、な、な、何の根拠があって!」
「知ってるって事は、影響受けてるってことでしょ? 俺にはフェンサーに思えましたもの。剣を振り回す金髪少女。萌えますね」
柳に風とはこのことか。
それに……
「うん、まぁ、俺もそれはちょっと思ってた」
「実は、僕も……」
男二人の突然の裏切りに未生が真っ赤になる。
さすがにマズイと感じた願が、フォローするべく青黄に声をかける。
「しかし、企画をお読みになったのなら、そのフェンサーとは違うことも……」
「読んでません」
「は?」
「難しくて理解できなかったので、読みやすいところから済ませました」
キリキリとこめかみから軋んだ音が聞こえてきた。
知らず知らずのうちに、願は歯ぎしりをしてしまっていたらしい。
「え? あ? あの、難しいって……」
「あんなに設定考える必要ありますかね。もっとキャラクターの魅力を……」
「あ、あ、あんたの話は、そんなんだから破綻するのよ!!」
未生は突如立ち上がって、青黄を遠慮無く指さした。
「え、えっと未生さんでしたっけ、いきなり失礼ですね」
「私が作った設定を頭から無視して、パンツとか言い出す方が、よっぽど失礼でしょ!」
「じゃあ、あの話もあなたが書いたんですか? あれほどパンツを期待させておいて、どうしてパンツを出さないんです?」
「どうして優先順位がそこになるのよ!」
酷い会話だ。
もちろん、酷いだけにしばらく収まりそうにない。
未生の吃音癖も、どういうわけか引っ込んでいる。
「責任逃れと思われるかも知れませんが……あまりにも正反対すぎましたかね」
「若井さんの構想通り、とも言えるかも知れないが……」
返事をする富山の視線が 先ほど青黄が描いたフェンサーもどきに注がれていた。
願も改めてそれを見つめ、ある事柄を再確認する。
「……上手いですね」
「まぁ、漫画家だから当たり前――なのかも知れないが、何もないところから、これだけ瞬時に組み上げたのは凄い」
「フェンサーに似ている……にしても似すぎではないですし」
特に、この制服のデザインは何処の引き出しから引っ張ってきたのか。
アンシンメトリーで、ボールペンで描いただけの代物なのにシャープな印象を与える。
それだけに、パンツが見えている状態がシュールに過ぎるわけだが。
「男の娘は必要ですよ。あと百合要素を……」
「私は、そういうのキライなの! 同性同士で恋愛感情とか、どっちかわからない……」
言い争いを続けていた未生の言葉がそこで止まる。
「ね? あなたも男の娘の曖昧さには惹かれているんですよ。“可愛いは正義”ですから」
我が意を得たりと青黄が、さらに被せてきた。
だが、未生はそれに反論しない。
「お、お、お、男の娘はともかく、性別がわからないのは組み込んだら面白そうかも」
創作意欲が刺激されてしまったらしい。
「そうでしょう、そうでしょう。こんな感じで……」
またもさらさらと、描いていく青黄。
確かに、この即興性はとんでもない。
「ち、ち、ち、違う違う。制服着せないで」
「しかし学校の話でしょ?」
「せ、せ、せ、設定を――ああ、こいつは読んでないんだった。とにかく民族衣装っぽいのを」
「まったく失礼な人だな。はいはい、民族衣装ね」
言いながら青黄は淀みなく右手を動かし、キャラクターを描き上げていく。
幾何学模様の縁取りの付いた、目の粗い布地をベールのように被ったうつむき加減のキャラクター。
ほとんど口元しか見えていないのに、やけに蠱惑的だ。
そして華奢な体格と、たしかに一見性別不詳である。
「何か……凄くないですか?」
「勝手にキャラデザ始めてるしな……」
だが青黄のボールペンによって、一気に“アニメを作っている”という手応えを感じてしまったことも事実だ。
それに人としての相性は最悪のようだが、創造者としての相性は悪くないよにも思える。
喧嘩しながらも、確実に何かが形を成しつつある。
もっとも、青黄の描くキャラには偏りがあるので一向に男だとわかるキャラクターが出てこない。
未生も、まずは青黄に抵抗することが第一なので、色んなキャラクターを描かせてみようという発想にはならないらしい。
今は青黄が主張する百合設定を巡っての攻防となっていた。
生産に余裕のない蛮地では、受け入れられない。
それなら学院で。
だけど、禁忌としてみられる傾向が強い蛮地の方が……
割と真面目な議論になっているように思えるのが凄い。
「待て待て。そんなピンポイントで話をするな。これはバトルアニメ――青黄君、やっぱり設定読んで来てくれないか?」
先に忍耐力の切れた富山が二人に割り込んだ。
「え~~~~、それは良いですよ。面倒ですから」
「しかしなぁ」
願は再び襲ってきた頭痛を無視して、状況を理解しようと思考を巡らせた。
編集部に一度顔を出して、その為人を間接的にでも感じてきた願には、青黄に対して当たり前の対応をする迂闊さに気付くことが出来た。
こうして、何かを話のネタにしてグダグダと話すことに青黄はストレスを感じないのだろう。
謂わば、放課後の部活の延長がそこにあるからだ。
利害の発生しにくい緩い空間。
だが、ここにプロとして当然の対応を求められたとしたら――
(――多分、この段階だと青黄は放り出して逃げる)
新しい仕事のチャンスだとか、そういう打算は働かないのだろう。
性質としては、とにかく逃避する。
「青黄君、これは……」
願が考えている間に富山が“言ってはならない”一言を、口にしようとしていた。
願は慌てて、富山の肩を掴んだ。
そして、そうやって動いてしまった以上は、例え見切り発車でもまずは富山を納得させなくてはならない。
願は富山の耳元で、とりあえず必要であろう事を端的に告げた。
それは功を奏して富山が一歩引いた。
止める者がいなくなった未生と青黄は再びやり合い始める中、願は未だに戻らない若井に連絡を取る。いつもは、こちらの提案に無条件で応じていたようにも思える若井がさすがに今度の提案には難色を示した。
そこで願は、青黄の走り書きのようなキャラクターの落書きをメールに添付して送り、それと同時に青黄が未生にもたらしている影響も説明。
向こうに、細川もいることも好材料だったのだろう。
結局はゴーサインが出ることとなったが、そのプランの実行に当たっての障害は、全て願が引き受ける流れになってしまう。
さしあたっては朝に引き続いて、有原との交渉が仕事となるだろう。
その事件は後に“根こそぎ(オペレーション・ワイルダネス)”と呼ばれる惨事となった。
端的にこの惨劇の概要を述べると、以下のようになる。
「日本の二次元歓楽街、秋葉原に出現した集団が金銭によって、あらゆる店舗が品揃えに大ダメージを食らった事件」
ということになる。
書店、大手同人ショップはそこまでのダメージは食らわなかったが、中古品、主にレアものを高値で取引しているような場末の店舗は、看板商品とも言える稀少品を失い再開の目処すら立たなくなってしまった。
その集団が、秋葉原に姿を現したのは午後三時頃と伝えられている。
まず向かったのが「あとのらな」
全国に展開する、同人作品を主に扱う店舗である。コミック、ラノベの品揃えも豊富だ。
そこが第一目標だったことから、まず初期の目標が一応漫画関係だったのだろうと、まことしやかに囁かれることとなる理由だ。
確認されている限り一行の構成は、男性五人に女性一人。
その内の、個性的な体格の男性が一行を主導していたらしい。
もっとも被害を決定的にしたのはその男性ではなく、アロハシャツを着た金髪の男の差配による。
アロハシャツは店内に入ると同時に、店長を呼び出し一人店員を付けるように要求。
その店員には台車を用意させ、個性的な体格の男が選ぶ商品をまとめて運ぶように要求。
一方で、個性的な体格の男には、
「値札、見んでええで」
と、豪気なことを言い放った。
それを素直に受け取ったらしい男性はリアルに、
“棚の端から端まで”
を実行した。
当初、残りのメンバーはアロハシャツも含めて一歩引いた状態でそれを見守る構えだったらしいが、一行の中でも一番若そうに見えた、アンダーリムの眼鏡の男が唯一の女性に何事かを囁いた。
そこから状況が変わったらしい。
最初、この二人は半ば言い合い状態になったらしいが、アロハシャツに痩せぎすの男までがアンダーリムに加勢したらしく、渋々という体ではあったが“根こそぎ”作業に加わったのだ。
たびたび、店内を模様替えする「あとのらな」の現在の使用は、5階に男性向け同人誌。
4階に女性向け同人誌。
5階はすでに暴風に晒され、僅かながらに参加していた女性の本気は4階か? とも思われたが、それはあっさりとスルー。
特に年齢制限のない、ゲームや音楽CDなどが集められた三階も比較的軽めに。
女性の本領が発揮されたのはここからだった。
二階はライトノベルなど書籍が中心なのだが、中にはマニアックな資料を集めた大判書籍などもかなりの数が揃えられている。
女性はこれを丸ごと要求した。
書籍が並べられた本棚に、ぽっかりと大きな穴が開く。
この時点で、付き従う店員の数は三人になっていた。痩せぎすの男がフィギュアを買い始めていたからだ。もちろん、これも“根こそぎ”だ。
この段階で「あとのらな」に来店していた客達も、当初の目的を一端棚上げしてこの無法者の一行の行く末を注視し始めた。
それどころか、情報の拡散手段には恵まれた現代。
ただ、この一行の見物のためだけに秋葉原に人が集まり始めた。
そして一階のコミックコーナーでも、一行は本棚にいくつもの穴を穿つ。
次に向かったのは同じく大手同人ショップの「バナナブックス」であったが、「あとのらな」で大方の欲求を満たしていたためか、被害は少なめであった。
次に向かったのが、定番のラジオ館。
ここで主に狼藉を働いたのが、アロハシャツと一見特徴のない男だった。
もちろん特徴的な体型の男はまんべんなく酷いわけだが、アロハシャツはもはや絶版であろう古い邦画の映像ソフトを中心に。特徴のない男は同じくほぼ絶版であろう海外B級ホラーをかっさらっていく。
特徴のない男のは特に店主から、
「あれは獣の目だった」
と言われるほどの瞳の強制力で、店主達が奥にしまい込んでいた秘蔵のソフトまで提出させてしまう始末。
この二人は根こそぎ、と言うほど買い漁った訳ではないが、価値ものばかり選んで持って行く様は、半ば趣味で店舗を開いている店主達を恐々とさせた。
何しろ、本気で金に糸目が付いてないものだから売る気もないのに冗談で付けていた金額を、そのまま渡されるのである。
そうなると、職業倫理上何とも抵抗しがたい。
結果としていい年したおっさん達の嗚咽が、館の中に鳴り響くことになる。
それに比べれば、肌色多めの冊子ばかり買い漁っている方がまだマシに思えるから不思議だ。
もっとも、そちらも中古同人ショップで似たようなことを行うことになる。
「あとのらな」等の、同人ショップに冊子を卸さない事を旨としているサークル。
こういったサークルの同人誌は必然的に高値で取引されることになり、代表的なところで「スラッシュ&ハック」というところだろう。
コミフェスの時期には、転売の嵐が吹き荒れネットオークションを賑わす大手サークルである。
特徴的な体型の男は、それらを“根こそぎ”収穫していった。
中には、価格が六桁に及んでいる法外とも思える商品もあったのだが、まったくお構いなし。
ここに来たさらに質が悪くなるのは、すでに入手した冊子であっても、かまうことなく買い始めたという点だ。
“読みたい”から“独占したい”に欲求がシフトしたらしい。
こうなると、当初の目的とは違ってくるので一度は災厄が通り過ぎた店舗にも再び来襲。
微に入り細に入り、舐めるような執念深さで商品を確認してはドンドンと買い込んでいく。
だが、男の欲求は留まるところを知らなかった。
今までは漫画関係に絞られていた購入品目が、ありとあらゆるグッズに食指を動かし始める。
18禁ゲームは言うに及ばす、特殊な形状のマウスパッド、キャストオフ仕様のフィギュア群(ちなみに痩せぎすの男が購入していたのは、ロボットやヒーローものである)。抱き枕カバーに、シャワーシート。これらも限定品が多々ある品目ではあるが、尽きることのない補給物資の前には、何もかもが白旗を揚げるしかない。
それに加えて、ボックスが空になるまでガチャガチャを回す。
ゲームセンターのグッズを、これまた資金力にものを言わせて全て持って行く。
購入した物品が重量的に探索の負担になると迷うことなくコンビニに駆け込み、そのまま宅配便に発送依頼。
そのコンビニのカウンターが、その手の商品であふれかえるという異常事態を引き起こした。
そして、これらの侵略活動が一応の終息を見せたのは午後八時前後。
残されたのは、商品を空にされた各種店舗とその店主達のどこか狂気を孕んだ笑い声という惨状だった。
自然発生的に、とは言えないこの一行の追っかけの中には妙なスキル持ちも含まれていたらしく、一目見ただけでおおよその市場価格をはじき出せる者。
そして、それらを瞬時に合算できる者が協力した結果、この僅かの時間に一行がばらまいていった金は二千万を下らないであろうことが確定する。
そうなると、この一行の正体が一体何であるかを知りたくなるのも人情なのであるが、人員構成が謎すぎる上に、どう考えても危険な匂いしかしない散在振りである。
一言で言うと堅気には見えない。
わざわざ調べて虎の尾を踏もうという、物好きはその場にはいなかった。
さらに、この一向に見かけからして非常に濃い男が乱入する。
よく言えば“生まれる時代を間違えた”としか表現の仕様のない出で立ちの男は、その外見を裏切ることなく、聞こえてくる単語からしても、まずまともな人間ではない。
これでますます、一行の追っかけの腰が引けてしまった。
元々、興味本位しかない追っ掛け達であったのだ。一行が秋葉原の駅に向かうと、これを見送って、
「嵐は去った」
「謎の集団、闇の中に消える」
「皆さん、お疲れっした~」
等と様々なことを呟いたり、流したりしながら解散となったのである。
一行がもたらした影響の大きさ気付くのは、翌日の開店休業状態に追い込まれた店舗の数々をさらに多くの秋葉原の来訪者が目にしてからとなり、実際には見ることの無かった連中の間で、一行は半ば都市伝説のように扱われることとなった。
荒野と化した秋葉原の街で――
もちろん、改めて説明するまでもなくその一行とは「スタジオ蟷螂」の関係者である。
事実上、無制限になるであろう経費使用の申請に有原は特に文句を言うことなく、ただうなずいただけだった。
「私の仕事は、お金の流れを目に見える形にするだけのことで実際の運用方法にまで口を挟む権利はありかせんから」
というのが彼女の理屈であり、それはまさしく正論だった。
実際、そこに留意すべきは若井の仕事であって、その若井も途中からハメを外したのだから、到底他人を制御する資格はない。
さらに言えば、散財は秋葉原で終わらず上井草に戻ってきてからも続き、なし崩し的に、細川が望んでいた第一回目の打ち入りが開催される運びとなったのである。
次から次へとアニメーターがやってきて、事実上一つの居酒屋を貸し切り状態にし、飲めや歌えの大騒ぎ。
慣れないアルコール。そして秋葉原を散々歩き回った疲れも手伝って、青黄が早々に眠りに落ちたとしても無理からぬことであっただろう。
しかし青黄は忘れてはいけなかったのだ。
悪事とは人が眠っている間に行われるものだということを。
スタジオ蟷螂のソファは、幾人の男に身を委ねることになるのか――
ギシギシと大きな音を立てて、青黄はソファの上で半身を起こした。
目の前にいるのは、銀縁アンダーリムの怜悧な印象を与える青年。
名前は……名前は……岸だったかな?
未だにはっきりしない脳の奥で、青黄は呑気にそんなことを考えていた。
「青黄先生、改めてお願いします。新しいアニメの資料です。全てに目を通してください」
応接区画のガラステーブルには、分厚い紙の束が相も変わらず鎮座していた。
「え……えっと……」
一体、いきなり何の話だ?
青黄の混乱はなおも続いている。
起き抜けにそんな話を振られても、知ったことではない。
まず冷たい水の一杯でも――
「やはり、読んで理解していただかないことには話が効率的に動きませんので」
青年はまったくブレずに追い込んでくる。
これはマズイ。
青黄の“闘争”本能ならぬ“逃走”本能が目を覚ました。
イヤなことからは徹底的に背を向けてきた青黄である。
「だ、だから言ったじゃないですか。そんな面倒なことはイヤだって。どうしてもやれと言うなら、昨日ぐらいのことが精一杯だよ」
青黄は寝ぼけ眼をこすりながら、それでも青年の申し出を拒否した。
「大体、俺はこの仕事を受けるなんて言ってないんだ。今から降りたって……」
「何や何や。話が違うや無いか岸く~ん」
絶妙なタイミングで乱入者が現れた。
記憶が確かなら、確か名前は若井。この事務所の代表とか名乗っていたはずだ。
見かけは完全にチンピラで、それに加えて今はやけに鋭角的なサングラスを引っかけている。
「青黄先生とは参加してくれることで話がついとったんやないんかい?」
「困りましたね。僕の確認が甘かったようです」
もちろん、二人のこの台詞は完全に棒読みである。
「まぁ、そういうことやったら困るのは青黄先生やけどな」
若井の声が、確実に一オクターブ下がる。
「こ、困るって、なにが……」
「先生が参加してくれてるいう話やから、昨日の散財は経費で済んだんやで。参加してへん言うことなら、話が違ってくるわ」
一瞬にして、青黄の顔から血の気が引く。
さすがに昨日の大暴れの記憶は、いくら寝ぼけていても青黄の目を覚まさせるには十分だった。
「有原君。昨日の青黄さんの経費、本人がお支払いや。いくらやったかな?」
一方で若井は“青黄が支払う”という流れで、ドンドン話を進めていく。
「総額で、一千……」
「ま、待ってください!」
青黄が有原の無表情な宣告を押しとどめた。
細かな数字を聞くまでもなく、昨日使用した金額を要求されれば、非常に厄介なことになる事は、どんな未来よりも確実なのだ。
青黄は、大きく息を吸い込みながら、まずこう告げた。
「は、謀りましたね!」
さすがにこの台詞は言っておかねばならない。
こういう事態で、口にしなければならない様式美というものだ。
そんな青黄の反応にうなずきながらも、若井には一ミリも怯むところがなかった。
そして、青黄の言葉をあっさりと肯定する。
「謀ったで、この岸君がな」
突然、罪を押しつけられた形になった青年――願ではあるが、こちらも泰然としたものだった。
ごく自然な表情で青黄を見つめ続けている。
若井は、サングラスを外し猫なで声で青黄ににじり寄る。
「なんも難しいことあらへん。センセは子供みたいな事言っとらんで、このプロジェクトに参加してまえばええねん。そしたら昨日の散財は経費で落とせるんやから」
「プロジェクトに参加して貰う以上は、よりにもよって設定資料を読みたくない、等という我が儘はあり得ませんけどね」
上司部下で、青黄を追い込んでいく。
「こ、こんな事が……」
しかし青黄はまだ納得しようとしない。
若井は、ふぅ、とわざとらしくため息をついて、
「あのなセンセ。ここのいる岸君にセンセが連載しとった『PUSH!』編集部へ改めて行ってきてもろうたんや。で、推測やけどもあの雑誌、センセの新連載は見送りたいみたいやったわ」
一気に押し寄せてきた情報量に青黄はパニックになる。
まず、今の時間。
大あわてでスマホで確認したところ、すでに正午は大きく回って午後二時であった。
そして、薄々自分でも感じていたことが第三者の口から告げられた、漫画としての緊急事態。
「エラッて、宇宙人!」
の連載が早々に終わってしまったことで、本人もイヤな予感はしていたのだ。
「センセ、ここが踏ん張りどころやろ。幸いにして、センセが片手間で描いたキャラクターについては監督も気に入ってな。こっちの仕事に参加してくれるんやったら、何の遠慮もいらへん、堂々と仕事してくれればええ」
若井は、そこでポンと青黄の肩を叩いた。
「盗人猛々しいと思うかもせんけどセンセ。謀ってまで欲しいと思われるような腕があるんは幸せなことやで。それにやな……」
若井はそこで、する必要もないのに青黄の耳のそばに口元を寄せてぼそぼそと何事かを呟く。
漏れ聞こえてくる単語に、きっぱりと「自衛隊」という言葉が入っているのだから、何を言っているのかは自明の理というものだ。
まず金で縛り、次に暴力で脅す。
見事なまでのブラック振りだ。
そして、ブラック企業という言葉が存在してしまうのも、一時的にでもその手段が有効であり、その手口を模倣する者が後を絶たないからでもある。
青黄には、こんな悪党共の罠を打ち破る術は持ち合わせておらず――結局はプロジェクトへの参加を宣言することとなった。
(それにしても)
と、青黄を罠にかけた張本人である願は思う。
(参加の障害になったのは、設定書を読むことだけ、のはずなんだけど何がそんなにイヤなんだろうか?)
この疑問は、ほとんどすぐに判明することとなる。
青黄には論理的に物事を整理する能力が著しく欠けていたのだ。
つまり設定上新たな情報が出ると、今までの前提条件を全て無視してしまって、その情報で自分の都合の良いように設定を組み替えてしまう。
もちろん、そんなことをすればドンドンと矛盾が生じ――
「なるほど、どんな漫画も終わり方がカオスになるわけだ」
未生にひたすらにダメ出しされる青黄を見て、富山がボソリと呟いたこの言葉が全てを物語っていた。
これではあの企画書を読むことも苦痛だっただろう。
何しろ自分で作り出した矛盾に、自分ではまりこんでしまうのだから。
しかし、今の青黄は金と暴力で縛られているので、なんと言われようとも逃げ出すこともままならない。本当は描きたくなかったらしい男キャラもちゃんと描いていく。
そして、たった一つだけ抑圧されなかった、作品への“萌え記号”導入に情熱を注いでしまったらしく、しばしば未生の設定を覆してまでも、細川や富山がそれを採用する事態をも生み出すこととなった。
もちろん、未生がその都度細かく設定に修正を入れるので大きな矛盾もそこには生じない。
実に上手い具合に、青黄の持ち味を新しいアニメに導入することに成功してしまったのである。
そうしておおよそ一週間後――
外向けにも持って行けるような企画書が完成した。
企画意図、狙い、利益見込み、商品展開など、この辺りはプロジェクトの性質上、表と裏があるわけだが、かなりあっさりとした内容になっている。
一方で作品を純粋に紹介する部分では、かゆいところに手が届く、索引まで付いた親切設計となっていた。
中身よりも、それがどれだけの利益に繋がるかに重きをおく相手にはおざなりに。実際の制作に関わる人間には丁寧に、ということである。
通常ならば利益を重視する相手は出資者、もしくはその代理人であるのでこちらに力を入れるのが企画書というものだが、もちろんこのプロジェクトに関して、そこはあまり重要ではない。
「それらしく見えて、相手に仕事をしているという気分になってもろうたらええんや」
というのが、若井のそもそもの発想であるから、こんな仕様も仕方がない。
そして。その企画書の表紙には作品タイトルが記されている。
「カニバリゼーション」
……安易に英語を使用することに未だ納得いっていない未生の抵抗によって、その後ろに(仮)と添えられていたこと付記しておかなければならないだろう。
これで、先に考えていたメンバーが概ね出ました。
しかし自分でも重要と書いているキャスティングは、腹案すらありません。
それで遅れるかも知れませんが、まぁ、それが決まる話は次の次ぐらいでしょうかね。




