調和神調教編
13.
数多の戦場を区切り抜けてきたこの戦友に、自分がしてやれることは僅かしかない。
だが、その最後を飾るに相応しい花道を用意してやることこそが、男の本懐であり――そして、戦士としての義務でもある。
猪野は、フライヤーの中に浮かび、キツネ色に揚がっていくメンチカツを真剣な眼差しで見つめていた。
極寒の戦場をくぐり抜けてきた戦士達を、一斉に戦場に突入させると、その輝ける戦場の温度が下がってしまう。だから、どれほどに将軍が命じようとも猪野はこの一線は譲らない。
フライヤーに、一度に投入するメンチカツは四つまで。
出来うることなら、一つ一つを始まりから終わりまで見届けてやりたいのだが、戦場の習いで、そんな贅沢も許されない。
「猪野く~ん、居るのバレてるよ。メンチカツカレー、またオーダー~」
緩い声が厨房に潜り込んできた。
声の主は願に話しかけられた、あのウェイトレスだった。願は確認できなかったが、ネームプレートには「鷹崎」とあった。
「たーかさき君」
妙な発音で、猪野は応じた。
「オーダー数を報告してくれないか?」
「5~」
「俺一番」江古田店は、なかなかの繁盛振りだ。
さすがに昼時だけのことはある。
猪野は鷹崎のオーダーに「むぅ」と唸った。
先読みで、4つほど揚げていたが戦いは非情である。
ちなみに戦いが非情になっているのは、例ののぼりが外に出ているからなのだが、当たり前に猪野は気付いていない。
あれは店長の諏訪の発案で、出されているものだからだ。
「猪野君はメンチカツに集中して。仕上げは私がやるから」
その諏訪が参戦する。
各店舗に配送された冷凍のメンチカツを揚げるだけ、という単純な作業手順であるはずなのに、江古田店はなぜかメンチカツの評判が良いのである。
なぜかもなにも、概ね猪野のせい――いや、猪野のおかげであることは自明の理なのであるが。
すでに、猪野はフライヤーの中のメンチカツに全神経を集中させている。
未だに客席では、多くの兵力を必要としている。気の緩みは許されない。
戦力の逐次投入は愚策の最たるものだが、敵戦力もまた逐次投入である場合、防御側は愚策と知りつつもそれに付き合うしかない。
つまり――昼食時のラッシュは過ぎたと言うことだ。
「猪野君、休憩~」
気怠げな声で、鷹崎が諏訪からの指示を伝えてる。
「おう。こいつを仕上げたらな」
未だに、メンチカツの要求頻度は高い。
手狭な店舗であるので休憩室は、同じビル内の二階に用意されている。
トントンと階段を上がって、パイプ椅子に腰掛けると同時に、鷹崎が猪野に話しかける。
「猪野君さぁ」
業務用の頑張りを完全に喪失し、本気で気怠そうな声だ。
「この前店に来た、アニメの人とは会ったの?」
「願か! 会ったぞ! 昨日も会ったぞ!!」
「へぇ、じゃあ声優の仕事が決まりそうなんだ」
「うん? ……ああ、そうなるな」
「さっすが~、猪野君だよ」
鷹崎の抑揚のない声からは、どこか先を見透かしたような響きがあった。
そのまま立ち上がると、小型の冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出した。
「猪野君のどれ?」
「俺は買ってない――買ってこよう」
「いってらっしゃ~い」
足下から力が抜けそうな声で送り出しされた猪野は、登ったばかりの階段を下りて近くの自販機へと向かう。
飲むものにこだわりのない猪野は、端に展示されてあったブラックコーヒーを選択。
休憩のために買いに来たという目的をすでに忘れてしまったのか、猪野はその場で一気に飲み干してしまった。
「猪野」
飲み干すために、反り返っていた猪野の背後から声が掛けられた。
猪野は反射的に振り返り、手にあった空き缶を――
「それをどうするつもりだ」
眼鏡を光らせながら声の主、願が猪野を威嚇する。
「……すまん。戦士故の反射的な行動だ――そちらは?」
願の斜め後ろには中肉中背、チェックのネルシャツにジーンズの男性。短めに刈り込んだ頭髪も含めて特徴らしい特徴が見受けられない。
しかし、その目が――
目が笑みの形に固まっている。
その奥の瞳とは無関係に。
「こちらは、例のアニメの監督候補の……」
「候補はいりません。僕はやるつもりだし、頓挫もさせません――よろしく細川です」
細川は、そのまま手を伸ばして握手――ではなくていきなりその手を打ち合わせた。
「“威厳に満ちたリーダー”が“慈愛の感情の発露に戸惑う”」
「ほ、細川さん?」
「エチュードだよ――わかるよね?」
願に答えながらも、細川はさらに猪野へと促した。
『捨てねばならぬ――』
その声は一瞬で周囲を圧倒した。
江古田の裏路地でしかない、ごちゃごちゃとした細い路地が、何か重要な一場面にすり替わったようだ。
『――それが正しいことだと、そう期待してはならぬ』
「“理解のある穏やかな性格の人物”が“見下していた相手の行動に怒る”」
『これは少し……本来あるべき状況ではないね。到底許容できない』
先ほどとは違って、今度は周囲に染み渡るような柔和な声だった。
そのまま、空気の中に溶け込んで包み込まれるような、そんな錯覚を覚えてしまう。
同じ人物――猪野から発せられているところを観ていなければ、確実に別人の声だと勘違いしていただろう。
「……“自分の力を恐れている人物”が“力の行使を決意する”」
細川の題材は、まだ終わらないらしい。しかも今度の題材におまけがあった。
「“女性”でお願い」
さすがに猪野も今度は、即座に対応できなかった。
「あ、ああ~」
と、何やらのどの調子を整えていたが、ふいにそれを止める。
『もう止めないと……』
声は普段の猪野と変わらない。
明らかに男性のそれだったが――雰囲気が女性の“それ”だった。
いや、むしろ“少女”と言っても良いかもしれない。
猪野がうつむき加減だった顔を上げた。
ごく自然に周囲を睥睨しているような濃い顔立ちの猪野であるのに、何故か涙を浮かべる少女の表情が、そこに重なって見えた。
『怖がることを止めよう! 私の力に意味があると信じよう!』
結局声を作ることなく、ほぼ地声のままで通した猪野の答えに細川は満足げに頷いた。
「“姑息である事を自認する人物”が“正しい行いをした場合の言い訳”」
だが、エチュードは続く。
猪野の伸ばされた背筋が、微妙に猫背になる。
段々反応が早くなってきていた。
『いいんだ。これで良い。結局はこれがもっとも効率的なんだ――そう、熱に浮かされたわけじゃない』
「“伝統を受け継ぐ頑固な人物”の“妥協”」
猪野の背筋が伸びる。
自己流とはいえトレーニングを続けている成果の賜物か「俺一番」の制服姿でも立ち姿は様になっていた。
『……無駄だ』
拒絶の言葉のようにも思えるが、その言葉に乗せられた感情は諦め。
そこには胸を張って、坂道を降りる老兵の趣さえあった。
「今までの登場人物で、会議らしきもは出来る?」
さすがに猪野の眉根が寄ったが、突如その口調が落ち着いたものに変わる。
どうやら、穏やかな性格と設定された人物らしい。それと、姑息な人物が会議を引っ張り――
「何の会議だ、これは……」
今まで、猪野に圧倒されていた願の突っ込みがようやく追いついた。
確かに会議は迷走している――というか、そもそも何を議題にしているのかわからない。
積極的に何かをしようとしているのが二名。
反対しているのが二名。
中立の立場が一名。
大雑把に分ければ、そういうことになる。
そして、それは今までの細川の題材を組み合わせれば必然的にそうなる流れでもあった。
しかしこれは何に対しての……
「――未生さんの設定か!」
突然に閃いた願が、思わず叫んでいた。
「そう。僕なりにちょっと考えてみたんですが、どうですか?」
何事もなかったかのように細川がそれに答えるが、あの設定を読んで一時間経ったか経たないかぐらいである。
「それを猪野に?」
「だってアテ振りなんでしょ? で、僕の思いつきがどれぐらい有効なのか猪野さんを知るついで、というのも変ですが、やってみて貰いました」
説明しながらも、細川は例の瞳で猪野を見つめ続けていた。
会議はどうやら、中立だったはずのリーダーが賛成に回ったことで動いたようだ。
だが、考えてみればただの一人でこの会議を演じて見せているのである。
今まで猪野のおかしなところばかり見てきた願であるが、これだけの技を見せられるとさすがに認識を改めるしかない。
――ただの中二病ではないと。
その時、細川の手が再び打ち合わされる。さすがに、このエチュードも終わりかと、願が内心で胸をなで下ろしたところで、
「最後――それらの個性に浸食されない人格」
その題材に、願は思わず生唾を飲み込んだ。
未生が猪野に会った結果生み出された最強キャラクター。
それが今、猪野に求められている演技だ。
今まで演じてきたのは、その余録でしかない。
最強キャラクターの真のモデルが猪野であると言うことならば――
(――普段のままの猪野が正解……か?)
いや、そもそも正解があるものなのか?
例えば細川に腹案があるとして、それが本当にこのプロジェクトにおいて正解なのか。
今の段階では誰にもわからない。
この題材に対して、猪野はどう応えるのか――自然と願の視線も猪野へと注がれる。
『……構わない』
普段の猪野の声とも違うか細い声。
しかし、先ほどの“少女”の演技ともまた違う。
『僕は全てを無くしても構わない――欲しい物に手が届くなら』
言葉それ自体は矛盾している。
だが、そこに乗せられた感情が矛盾を矛盾でなくしていた。
捨て鉢にも聞こえるその台詞に乗せられた感情は欲望――いや“飢え”か?
声だけで表現された、圧倒的な乾いた感触に願は思わず身震いした。
「おお~、猪野君凄いね~」
突如、頭上から声が振ってくる。
「ちゃんとお芝居する人だったんだ~。でも、休憩時間終わったよ」
鷹崎から無情な指摘。
いや、むしろ休憩時間の間にこれだけやりきった方が異常なのだろう。
「い、猪野、突然すまなかったな。休憩中だったのか……」
突如始まってしまったので、猪野がここにいる理由なども完全に置き去りだった。
さすがに無茶が過ぎたかと、願がそんな風に声をかけたが猪野からの反応がない。
いや、あるにはある。
確かにその瞳は願を捉えていて、願が声をかけたことにも気付いているようだが、反応が“猪野”のものでもない。
「お、おい猪野?」
重ねの呼びかけに、猪野の目が一瞬見開かれる。
「――……願ではないか」
「……僕だよ」
どうしても処理できない、緩んだゴムのような時間が空間に放り出される。
「い~のくん!」
きつめの声であるが、鷹崎の再びの呼びかけはまさに救いの女神だった。
猪野は一瞬で状況を察したのか、鷹崎に大きく頷いて願へと目礼を送る。
「ではな」
「お、おう」
ぎこちなく言葉を交わす二人の横で、細川は一人うなずいていた。
そして猪野を見送った後に願に向けて、
「彼は文句なしですね」
「そ、そうですか」
事務所で猪野に携帯を持たせるプランは、無駄にならずに済みそうだ。
「だから未生さんを呼んでください。あと……何でしたか? 萌え記号の漫画家さんを明日までに」
「あ、明日ですか? それも誰にするか決まったわけでは……」
「若井さんの許可がいるなら、顔をつきあわせる必要もないでしょう。電話越しで十分。自衛隊を動かせるという実績は、横車も引きやすくなるでしょうし」
「し、しかしですね……」
細川が例の瞳で願を覗き込む。
「事務所でも言いましたよね。“監督が仕事をする限り――”」
願は反射的に、その続きを口にした。
「ぷ、“プロデューサーは、監督の犬”」
細川は、それを聞いてにっこりと微笑んだ。
「もう若井さんには僕でも気の毒に思うぐらいの仕事をお願いしていますし、岸さんが頑張るしかありません――そうだ、未生さんには合流前に学園編の導入部を書いてきて貰いましょう。一見、学園コメディぐらいの導入が良いでしょう」
無茶振りがドンドン増えいていく。
「あ、あのさすがに時間が無さ過ぎると思うんですが」
「ふむ」
腕時計で時間を確認する細川。願が覗き込むと、おおよそ三時だった。
「集合を五時にしましょう。未生さんのお住まいは知りませんが、移動に一時間かかるということもないでしょうから、残り一時間“も”ありますね」
猪野とは別の意味で、細川は話が通じない――いや、ある意味では猪野よりも厄介だ。
明らかに無理と思われる結論を導き出しておきながら、それを無理とは判断しない。
「あ、あ、あのですね。実は今後のことも考えて猪野に携帯を……」
願は一応、主張してみたが、
「いいですね。是非お願いします」
と、あっさりと認可されてその話は終わる。
それで今まで振られた仕事を減らされるわけではないのだ。
確かに今日のスカスカな予定であれば、さほど無理ではない。
しかし、これから先を考えると――
「では僕は若井さんに合流します。それまでに漫画家さんの方は決めておいてください」
若井は今、作画するための物量の確保に動いている。
当初の若井の構想では、それはもう少し先の予定のようだった。
だが、細井は例の調子で理論的にまったく譲らず、
「せっかくお金があるんですから、打ち入りを大々的にやって早くに親和性を高めておきましょう」
と、若井を追い詰める。
「いや、けどな。この段階でスタッフ確定させたら……だいたい演者かて、まだまだ……」
「新しい人が入る度に、打ち入りをやりましょう」
この素晴らしく脳天気な言葉に、若井は転んでしまった。
願はそこで気付いた。
若井を気遣う必要性など皆無だということに。
「……何とかします」
願ははっきりと告げる。
犬であるなら、文字通り犬馬の労は厭わないものだ。
若井も、それぐらいの覚悟は出来ているだろう。
「それでこそプロデューサーというものです」
細井の瞳が満足げに歪んだ。
――未だ名も無きアニメの監督はこうして自らの足場を確保したのである。
さぁ、自分でも収拾が付かなくなってきましたよ。
しかし、この監督おかげで何とか話が前に進みそうです。
わかる方には、この監督のモデルというか元ネタの人がいることはおわかりいただけると思いますが、為人は全くの私の創作です。
その辺はご了承の程を。




