ことなかそのに。
生まれて初めて見る外の世界は、何ものにも変えがたく美しかった。
「とり」
木の間をすり抜けて羽ばたいてゆく鳥を見上げてエヴァリーサは小さく感嘆の声を漏らした。
物心ついてからの彼女は祠の中の記憶しかない。もちろんいつも来る村の獣人しか見たことがなく、森が緑色をしているということすらもつい先ほどまで知らなかったほどだ。
アルベルトも何を見ても目を輝かせているエヴァリーサを見て満足していた。彼女の表情ひとつひとつが愛おしい。
――愛おしい。
その単語がぴったりと当てはまって、アルベルトは自身の顔が赤くなったのを自覚した。
「どうしたの?」
「いやっ、なんでもない」
慌てて彼女から顔を背けたが、それは帰って怪しむ要因となったようだ。ほとんど変わらない表情ながらにむっとした感じのエヴァリーサ。
「ねえ。もっとこの島を探検しよう。今度は海のほうに行って見ない? 海は青いんだ」
気にくわない様子ではあったが、エヴァリーサの興味は海に移ったらしい。アルベルトに早く連れて行けとせっついた。
海までは意外と遠かった。
多分二人は遠回りをしていたのだろう。土地勘が無いもの同士が迷い迷って歩いていたのだから、ついたころには日がとっくに暮れていた。もしかしたら、島の端から端まで歩いてしまったのかもしれない。
だとしてもしれはそれで、二人は満足だった。
赤く反射している海水に嬉しそうに、白い質素なワンピースが濡れないようにたくし上げながら、足をつけて遊んでいるエヴァリーサにアルベルトはひとつ疑問を投げつけた。
「この島には、エヴァリーサの他に“人類”は居ないの?」
「いないね」
「エヴァリーサはいつから祠に居るの?」
「生まれてすぐからじゃないの? そんなの私だって知らない」
引いては押し寄せ、足元から砂がなくなる感覚に驚きながらもエヴァリーサは応える。
どうやら波の前では重要な質問も彼女にとっては大したことではなくなるらしい。
「それっておかしくないか。だって、エヴァリーサはただ一人の“人類”だろ」
“獣人”しか居ない島で、“人類”のエヴァリーサがありえるはずが無い。この島に人類が居なければならないのだ。種族がもうひとつ。
「そんなの考えるまでも無い」
ぴたりと動きを止めたエヴァリーサはしっかりとアルベルトを見た。
「私は、この島に流れ着いたよそ者だから」
口調から幼さが消えうせ、いつしかの硬い口調が戻ってくる。
「話してあげましょうか。この島の歪んだ話」
☆☆☆
赤子だったエヴァリーサが置き去りにされていたのは、島の海岸だったらしい。
それが、たまたま何らかの理由で流されてしまったのか、それとも意図的に置き去りにしていったのかは誰にも分からない。
ただいえることは、この島にはもとより“人類”なんて種族が居なく、“獣人”だけが繁栄していた。もちろん島の中だけで繁栄を繰り返し、外来とは一切の関わりを持たない。つまり、この島に居る赤子は例外なく獣人だったというわけだ。もちろんどこかの別のところから流れ着いたなんて発想は出てくるわけが無い。
そしてごくまれに、この島では生まれたばかりの赤子が、本来獣人ではありえない箇所に身体の一部があるということもあったそうだ。
今回は数百年ぶりにおかしな赤子が見つかって、当時村を治めていた長老は過去にあった書を読んだ。そこには『イショクドウゲン』と呼ばれる治療法が一番だと書かれていた。この島に彼女と同じものは居なかった。つまり外から確保してくるしかない。
取り敢えず他の住人に見つかると面倒なことになる。そんな理由で、祠に閉じ込められる。
長老は迷った。この島が自給自足できているなか、外部にみすみす出たら、よからぬことが起きるのではないだろうか。
それでも、仲間であるはずの彼女を助けてあげたかった長老は、良くも悪くも善い人だった。考え抜いた末に、船を作り贄とする“人類”を誘拐してきてエヴァリーサに与えた。
そこまではよかった。そしてその時から、島の住民は静かに狂いだしていた。
ある日、長老は何者かに毒殺される。この島には毒草も多く長老の食事に紛れ込ませてあったようだ。
次に村長の座に着いた獣人が、今の村長である老人だ。
彼は生まれたときから姿形が違う彼女のことを心底嫌っていた。
無理やり彼女に贄として連れてきた人間を殺させ、食べさせる。
時には浄化という名目でエヴァリーサを杖で叩いたこともあった。
火を押し付けて、火傷も負わせた。
いつしかエヴァリーサは老人の歪んだ欲望を押し付けられる人形のようになっていった。
それでも“人類”である彼女が“獣人”になれることもなく、時は無常にも過ぎていった。
☆☆☆
「最初は泣いて抵抗した」
今でも最初に殺してしまった人の感触が手に残っているとエヴァリーサは言った。
「だんだん血の臭いにもなれて、人を刺してしまうことに躊躇いなんてなくなった。そうしないと私は余計に痛い思いをするって分かっていたから」
砂浜に膝を立てて座っていたエヴァリーサはその中に顔を埋める。
「どうしたら、この人を楽に殺してあげられるだろうか。そんなことばかり考えていた」
「……」
「それなのに、アルベルトが迷い込んで私が“食事”しているところを見られたときはハッとした。昨日アルベルトの仲間を殺すところを見られたときに思った。――私は狂っている」
自嘲めいた笑みを浮かべエヴァリーサはぱっと立ち上がった。
「それでも構ってくれるアルベルトは残酷だ」
「なんで」
「外に連れ出してくれるって言ってくれたけど、毎日一人、人を殺してしまった私は、どれだけの人を殺してきたんだろうね。そんなのを島の外から連れ出したりしたら、どうなっちゃうんだろうね」
☆☆☆
何とかぎりぎり、贄を奉げられる時間を前に祠に戻ってこられたエヴァリーサは、鎖につながれて居ない自分が不安だった。ばれたら何されるか分からない。
隠すように足に敷布を敷いて待っていると、珍しく老人が現れた。今日は贄を連れていなかった。
どうしたのだろう。
エヴァリーサの不安をよそに、老人は笑った。それは今まで見てきた、よからぬことを考えているときの笑いだった。
「儀式をしよう。今度こそお前がわれらと同じになれる儀式を!」
「え、」
「今この島には、お前と同じ奴が沢山居る。その全てをお前にささげようではないか!」
今この島に居る“人類”とは、アルベルトがいっていた調査団のことではないだろうか。いや、きっとそうに違いない。
老人はしわがれた高笑いを響かせて祠から去っていく。
あまりもの絶望に、エヴァリーサの目の前が真っ暗になった。
☆☆☆
町の戻ってきたアルベルトは村の住人がなんとなくおかしいことに気がついた。
つい先日まで攻撃的ではなかった村の空気が、強い敵意に塗れていた。
不穏な空気から逃れるように宿に戻ると、誰も戻ってきていなかった。
「あれ?」
日はとっくに暮れている。土地勘が無いから早めに切り上げる予定だったのにいまだ誰も帰ってきていないというのはおかしい。
その後しばらくしても、誰も戻ってくる様子ではない。村の様子を窓から眺めて、迎えに行こうかどうか迷ったがあまりの村の殺気に出て行くのを躊躇わせた。
「どうしようか」
仲間に何かあったのではないだろうか。この村の人たちの殺気。襲われたのかもしれない。
夜もそろそろ日付が変わるころ。
やっぱり探しに行こうと決意したとき、大きな音を立てて部屋の扉が開いた。
入ってきたのは同じ護衛の獣人だ。しかしところどころ血に濡れていて、ほうほうの体で逃げてきたということは分かった。
アルベルトは今にも倒れそうな彼を支えると、「どうしたのですか」と事情を聞いた。
島の調査を終えて、日が暮れないうちに帰ろうとしたときに襲われたと彼は言った。抵抗もしたが多勢に無勢。しかも戦うことのできない“人類”を守りながらだ。防戦一方になり、もう一人の護衛の獣人は殺されたそうだ。
「……そんなことが」
自分が遊んでいる間にそんなことがあったのかとアルベルトは歯噛みする。
「この島から出たほうがいい!」
そう主張する彼に、アルベルトは問うた。
「調査団の皆さんは」
「生きてるよ! だけど全員捕らえられたっ。何でも『肋骨を食べる少女の儀式』とやらに使われるらしい!」
『肋骨を食べて生きる少女の儀式』というのはアルベルトの国でも昔からあるおとぎ話だ。まさかこんな小さな島まで広がっているのか。そう驚きつつも儀式、という単語を聞いて、エヴァリーサを真っ先に思い浮かべた。彼女のことだ。
「その儀式、心当たりあります! もしかしたら止められるかもしれない。脱出の船を用意して置いてください。おれ、がんばってみます」
実際、彼女に止められるかと聞かれたらそうでもない可能性のほうが高いのは分かっている。それでも少なからずとも関わっているのだから、と思って彼女の祠へ走り始めた。
☆☆☆
祠にたどり着くと、エヴァリーサは呆然としていた。我を失っている。
「エヴァリーサ!」
アルベルトが肩をゆすると、やっとエヴァリーサは彼を認識した。
「ねぇ。どうしよう、私明日」
「知ってる! どうしたら止められるっ? 方法を教えてくれ!」
叫ぶように訊ねると、エヴァリーサは首を振った。
「方法なんて無い。私なんかじゃ止められないから」
「じゃあ何か方法を――」
「――わたし」
とても冷たい声が、考えようと続けようとした言葉を遮る。
黙って彼女を見ると、強い光を湛えた瞳があった。
「もう人なんて食べたく無い」
「うん」
「殺したくも無い」
「うん」
「儀式もしたくない」
「うん」
「だから」
キッと睨みつけるように。
「とめることができないのなら――」