第五話 異常ログ
仮登録試験当日の朝、早起きをしたイータは、珍しく髪まで整えて自転車に跨った。セオットが当然のように宿から飛び出してきて、自転車を引き出す。しかもイータより大きなリュックを背負っている。
「……どっか行くの?」
イータは恐る恐る聞いた。
「何言ってんだよ、お前を試験会場まで送るんだよ」
「ついて来んなよ。僕はお前の子供なのか……?」
恥ずかしくなって呟く。
「お前、土地勘もスマホも無くて、どうやって会場まで着くつもりだ?」
イータはポケットから、印刷された地図を取り出して広げてみせた。やけに縮尺の小さい地図に、赤で経路がなぞられている。
「お前、地図見ながらどこか出かけたことあるのかよ」
セオットはため息をついて、走り出した。
「ほら、いくぞ」
畑や草っ原、小さな町をいくつも越えていく。セオットは涼しい顔で景色を見ては何か話していたが、イータは呼吸が乱れ、ほとんど返事ができなかった。一人で出発したら、道に迷ったかもしれない。
三十分ほど走るたびに、セオットが休憩を促した。川のほとりの公園で一休みして水を飲んでいると、セオットが釘をさす。
「お前は多分、本気で問題を解かない方がいい。例題でやったみたいに、きちんとテンプレに従って解くんだぞ。システムの詰まりを解決しようとするな」
「うん……」
テンプレは、形だけなぞるようで、まどろっこしい気持ちがした。
徐々に背の高い建物が増え、空が狭くなっていった。車通りも増え、喧騒が増していき、イータは心拍数が上がった。
二時間ほど漕いで、試験会場のビルが建物の隙間から見え始めた。気温も上がり、全身も汗が滲み、イータの足は既にプルプルと震えていた。イータはパン屋の前で足を止めた。店に入ってコーンブレッドを二人分買おうとレジに向かうと、店員の姿がない。モニター画面と、"キャッシュレスオンリー"のプレートがあった。イータは財布を握りしめて固まった。
セオットが背後から手を伸ばし、モニターをピッピと操作して、スマホで決済を済ませた。
「これ、こないだのヨクサモデルのお礼な。あれは笑った。バージョンアップしたらまた見せてくれ」
イータは、自分がいざ外へ出れば急に時代に取り残されたような気がして、赤面した。
セオットがスマホで近くの公園を探し、そこで昼を食べることになった。既に十二時を回っていた。
公園は都市部の中にあって、広大な芝生に大きく育った広葉樹が生い茂っていた。犬の散歩をする人、キャッチボールする人、スケッチに励む人。多様な人が溢れていた。木陰に座り、イータが買ったコーンブレッドを一つセオットに渡すと、セオットはリュックからランチボックスを取り出した。
「母さんが作ってくれたライスボールも食べろよ」
イータはノルテの気遣いに感謝したが、あるなら言ってほしかったとも思った。口から心の声が漏れていたらしい。
「お前、先に言っとくと遠慮するじゃん」
食べ終わって、イータはそのまま芝生に仰向けに転がった。午前中のサイクリングで全身が疲れ切っていて、頭が回らない。いつの間にか、そのまま少し眠っていた。
「イータ。そろそろ時間だ」
セオットの声で目覚めて腕時計を見ると、試験まであと二十分となっていた。二人は会場へ向かい、自転車を止めて中に入った。
イータ・シファル。生年月日。レイタン居住。滞在先、ローヴェル宿。出生地、無し。受付で疲労で震える右手を左手で押さえながら、なんとか書き終えた。IDを持たない住民は、事前申し込みが難しいため、仮登録試験は当日受付で、用紙も手書きだった。撮影ブースで写真を撮られるイータを、セオットは不安げに見守っていた。
部屋に入るイータを見届け、セオットはしばらく街中の散策に出かけた。
試験時間は二時間。端末は会場に準備されており、画面に表示される指示に従って問題を解いていく。学科、実技、簡単な面接からなっており、学科は法規で少し引っ掛かるものの、難なく終えた。
続く実技では、例題に似た問題はモヤモヤしながらも、面倒な手順で期待される解答を置いていく。異常ログ読解の項目で、事前に練習していなかったログパターンが出題された。セオットの声が頭の隅をかすめたが、体力の限界で手順を踏む余裕がなかった。イータは層を跨いで見に行った。
試験後、順番に簡単な口頭確認があった。
硬いスーツ姿の眼鏡をかけた試験官は、イータの回答を見て困惑していた。
「なぜ、このような操作をしたのですか?」
「あそこの詰まりをバイパスするのが早かったので」
試験官が顔を画面に寄せ、唸っていたので、イータは緊張した。
何か間違っただろうか……。
イータが退出した後、試験官が画面をもう一度見て、監督者を呼ぶ。
「この操作、権限外では?」
「いや、模擬環境の層に一瞬触れてる。ここで何を走らせた?」
「受験者番号は?」
名前を確認する。
出生地なし/レイタン居住の文字が目に入った。
イータが会場を出ると、自転車を止めた所に、セオットが待っていた。
「おつかれ。うまくやれた?」
「……。例題でやったところは、できたと思う」
濁った回答に、セオットは嫌な予感がした。ともかくイータが疲れ切っていたので、昼の公園に戻って仮眠をとってから、ペースを落として帰途につく。途中で雨が降り出し、セオットはリュックからレインコートを二人分取り出した。
「お前のリュックほんと魔法のリュックだよな……」
「世の中には天気予報っていう魔法があるんだよ」
レインコートを着ながら、イータは呟いた。
「セオット、悪い。ありがとう」
足場の悪くなった道を慎重に進んだが、イータは結局転倒して袖口やズボンを濡らした。
宿に戻るなり、イータは着替えだけ済ませて泥のように眠った。
試験の結果が届くまでの二週間、イータはいつもの日常に戻っていた。
仮登録証が届いた。
ローヴェルの空気が、ようやく少し緩んだ。
その二日後――昼下がりにフロントにいたマーレは、見慣れないスーツ姿の男がタブレットを手に入ってくるのを見た。
「イータ・シファルさんはいらっしゃいますか」




