第9話|崩壊
崩壊は、目に見える破壊ではなく、目に見えない「数字」の蒸発から始まった。
――東雲会・本部会計室
「……入っていない」
金庫番を務める会計担当の幹部は、震える指でモニターをスクロールした。
主要な資金洗浄ルートからの入金が、今朝から完全に途絶えていた。昨夜まで数千万円単位で動いていた数字が、今は冷酷な「ゼロ」を示している。
「遅れているだけだろ。あっちの担当に連絡を入れろ」
背後で苛立つ会長の声に、幹部は力なく首を振った。
「繋がりません。電話も、秘匿チャットも、協力会社のフロントも。まるで……最初から存在しなかったかのように、すべてが『無』に帰っています」
背筋を冷たい汗が伝う。資金という名の血液が止まった組織は、ただの肉塊に過ぎない。
――都内・繁華街の裏通り
「親分、最近おかしくないですか」
若手構成員の問いに、中堅の幹部は答えられなかった。
昨夜から、自分たちが管理する風俗店や違法賭博場に、客が一人も来なくなった。それどころか、仕入れの酒屋も、清掃業者も、地元の商店街の人間も、彼らと目を合わせようとすらしない。
「取引先が、潮を引くように離れていってます。理由を聞いても『上からの指示だ』としか言わない。これじゃあ、商売になりませんよ」
幹部は、街の空気が自分たちを「異物」として排除し始めているのを肌で感じていた。
誰も口にはしない。だが、誰もが知っているのだ。
――この組織は、触れてはいけない「何か」を、踏み抜いたのだと。
――東雲会・緊急幹部会議
「裏切り者がいる。そうでなけりゃ、こんなに一斉に外堀を埋められるはずがねぇ!」
「警察のガサだろ? どこまで情報が漏れてるんだ!」
怒号が飛び交う会議室。だが、古参の幹部の一人だけが、深い溜息とともに呟いた。
「……例の件だ」
一瞬にして、部屋が静まり返る。エアコンの微かな動作音だけが、耳障りに響いた。
「“あの男”だ。寄せ場の老いぼれを消そうとした、あの時からすべてが狂い始めた」
「馬鹿な。ただの引退した元組長一人で、こんなことが起きるか!」
「名前を出すな!」
遮った声は、悲鳴に近かった。
「霧羽……その名を口にするだけで、この街の均衡は崩れる。あの方はな、引退しても『生きた法』なんだよ。あの方を敵に回した組織と付き合うことは、裏社会全体の敵になると同義だ。……俺たちは、数字でしか力の大きさを測れなかった。それが命取りだったんだ」
――公安局地下三階・内藤のデスク
「始まりましたね」
モニターに流れる、東雲会関連企業の倒産ニュースや、不審火の報告を眺めながら、佐久間が呟いた。
「霧羽は、昨日から一度もアパートを出ていません。コンビニに一度行ったきりです。彼は、何もしていません」
「分かっている」
内藤はコーヒーを啜り、眼鏡の奥の目を細めた。
「“何もしない”というのはな、最強の戦術なんだよ、佐久間」
「……どういう意味ですか?」
「霧羽という存在は、この国の裏側を支える巨大な礎だ。それを無理矢理引き抜こうとすれば、周囲の構造物が勝手に崩れ落ち、空いた穴を埋めようとする。山岸組、他の広域組織、そして我々公安……。各々が自分たちの秩序を守るために、霧羽に仇なす『不純物』を、自発的に排除し始めた。霧羽が指一本動かさずとも、世界が勝手に答えを出しているんだ」
内藤は報告書の束に、大きく「完結」の印を捺した。
――東雲会・会長室
深夜。
会長は、静まり返ったビルの一室で、一人で安酒を煽っていた。
かつて夢見た「効率的な暴力」による支配。それは、過去という名の重厚な歴史の前に、無惨に砕け散った。
携帯が震える。
「……捕まりました」
「誰が」
「三名。……いや、今また五名。別件の余罪、薬物、不法所持。芋蔓式です」
電話はそこで切れた。
会長はグラスを置き、窓の外に広がる東京の夜景を眺めた。
自分たちは、何者かに負けたのではない。
霧羽という「無」の深淵に、自分たちが勝手に足を踏み外し、墜落しただけなのだ。
「……遅すぎたか」
その夜、東雲会は解散届を出す間もなく、内部分裂と一斉検挙によって、地図から消滅した。
――翌朝・隅田川沿い
霧羽は、いつものように百十円の缶コーヒーを手に、ベンチに座っていた。
新聞は読まない。テレビも見ない。
だが、肌を刺す風の匂いが、昨日までの澱んだものから、少しだけ澄んだものに変わったことを感じていた。
「……終わったな」
誰に向けた言葉でもなく、霧羽はそう呟いた。
空になった缶をゴミ箱に捨て、ゆっくりと立ち上がる。
彼は、何もしていない。
ただの一度も、拳を握ることも、誰かを呪うこともなかった。
だが、彼が平穏を願い、そこに「居続ける」こと。それこそが、この街における最大の抑止力であった。
霧羽は再び、人の波に紛れていく。
背中の傷痕も、血塗られた過去も、すべてを作業着の下に隠して。
今日もまた、この街のどこかで、誰も知らない「平和」が保たれていた。




